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2006年11月28日(火) ■ |
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ゲーム制作者残酷物語(『G.O.D.』の場合) |
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「ユリイカ」2006年6月号(青土社)の「特集・任天堂/Nintendo〜遊びの哲学」より。
(鴻上尚史さんと八谷和彦さんの対談「僕らが任天堂に教わったこと」の一部です)
【八谷和彦:それで本題に入ると、今日はぜひ『G.O.D.』についてお話をうかがいたいと思っていたんです。
鴻上尚史:いきなりイタイところを突いてきますね(笑)。
八谷:と言いながらも、実は僕は『G.O.D.』はやっていないんですが。ただ、鴻上さんの『SPA!』の連載『ドンキホーテのピアス』でも、その大変さはよく書かれていたし、すごく気になっていたんです。 あれは結局何年に出たんですか?
鴻上:あれを出したのは……スーファミ版が'96年で、プレステ版が'98年ですね。
八谷:制作期間もすごく長かったんですよね?
鴻上:5年ですよ! 最初にみんなが集まって「ゲーム出して、ひと山当てるぞ!」と大盛り上がりしたのが'91年で、当時は劇団も10年目くらいになって、お客さんも入ってくれるようになったけど、年間新作を2本作るのがしんどくて。ゲーム1本ヒットさせたら、3年くらい芝居やらなくてもいいんじゃないかと(笑)。それはいまも思ってるんですけれど。
八谷:一山当てるにしても、ゲーム制作って時間がかかりすぎるんですよね。
鴻上:本当にそう。その時間を考えると、簡単に「ひと山」なんて大間違いだった(笑)。その当時、若いプログラマーなんかとも話したんだけれども、RPG1本作るのに5年かかってしまうから、まず日本でRPGを作れるソフトハウスは10個以下になるだろうと。しかも5年に1本だから、スタッフだって25歳から40歳までの働き盛りの間にたった3本しか作れない。これでは経験も蓄積されないだろうし、ゲーム業界の将来を心配しましたよ。
八谷:その長い制作期間には、ずいぶんいろんなことがあったと思うのですが……。
鴻上:そう、結局僕らアイデア・サイドとプログラマー・サイドの間に、あるべき架け橋がなかったんですよね。それはいまも続く普遍的な問題なのかもしれない。だから、プログラマーさんが3日徹夜して作ったどんなに素晴らしいプログラムであっても、グラフィック=見た目がダメだったら、それはダメなんですよね……。
八谷:それはそうですね。
鴻上:そこで企画者の意図を、どう上手く翻訳して伝えるか、これができていない。この話をゲーム業界の人に言うとびっくりさせるんですけれども、4年半の間に6回くらい、容量変更があったんですよ。最初に考えていたのよりも、プログラム容量が10倍もオーバーしているとある日、突然言われ、それがやがて、5倍だと言われて、やがて3倍に、2倍になって、これなら行けるかと思ったら、また3倍になって……というのがあって、本当に「いい加減にしろ!」というようなことが何度もあった(笑)。堀井雄二さんが芝居を観に来てくれたときにその話をしたら絶句されてましたね(笑)。
八谷:でもきっと、熱狂の時代だったんでしょうね。
鴻上:そうですね。'80年代前半くらいに、NHKだったと思うんですが、「未来のクリエーターたち」みたいな番組があって、僕と堀井さんが呼ばれて、堀井さんがそこで「こんなの作ったんですよ」と披露していたのが『ポートピア連続殺人事件』だった。そして「いまこんなの作ってます」と見せられたのが『ドラクエ1』のデモ版で、ちょっとプレイしたんですよ。そこで「これは面白いですね。当たるといいですね」というような話をしたのをハッキリ覚えています。みんな「これから何が起こるんだろう?」って感じだったんでしょうね。
八谷:鴻上さんは『G.O.D.』で「もう懲りた」という感じですか? ゲームはもうお作りにならない?
鴻上:いや、懲りました(笑)。当時のめちゃくちゃなスケジュール……一番、激しい時は、夜10時から朝10時までゲーム制作の仕事して、仮眠をとって、昼の1時から夜の9時まで稽古して、この繰り返しを5年やって、やっと1本ですからね。RPGを1本も作ったことのないソフトハウスに発注して、1本も作ったことのないゲーム作家が乗り込んできたんですから、5年かかって当たり前なんですよ……後からいろんな人にいろんなことを言われました。
八谷:それで、売れてる期間はほんの1週間だったりするんですよね(笑)。】
参考リンク:『G.O.D.』(イマジニア)
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僕は実際にこの『G.O.D.』というゲームで遊んだことはないのですが、このゲーム、思い返してみれば、監修・鴻上尚史、キャラデザイン・江川達也、音楽・デーモン小暮閣下という豪華メンバーが手がけており、制作発表時にはけっこう話題になっていたのですよね。結局、「そういえば、本当に発売されていたんだなあ……」というのが、今の率直な感想なのですけど。
それにしても、ここで鴻上さんが語られている「ゲーム制作哀史」を読むと、僕たち「ファミコン世代」が華やかな職業として憧れた「ゲームをつくる仕事」というのは、けっして甘いものではないのだなあ、と痛感させられます。僕も中学生の頃は、友達と「ゲームを作って一攫千金!」なんて話していたものなのですが。 RPGを作り慣れているメーカーであれば、この『G.O.D.』のように「制作期間5年」にはならないのかもしれませんけど、少なくとも1本のゲーム、とくに膨大なデータを必要とするRPGなどを作る場合には、数年間は必要だというのは間違いないでしょう。そして、「ゲームをつくる人」の「賞味期限」は、そんなに長くはない。シナリオライターやグラフィックを描く人はさておき、ハードには代替わりもありますし、時代によって主流となるゲーム機も替わってきますから、プログラマーの「全盛期」は、一般企業の社員と比べれば、けっして長くはないはずです。こんなふうに「5年に1本」だったら、たしかに、15年かけて3本、3年に1本だとしても15年間に5本しか作れないわけで、「人気ゲームのスタッフロールに名を連ねられる」というのは、ごく一部のゲーム制作者のみに与えられた「栄誉」なのです。 八谷さんは、この対談のなかで、こんなことも仰っておられます。
【ゲームの人に話を聞くと2年3年は当たり前じゃないですか。人生で一番働ける時間を費やして、しかもリリースされないことまであるなんて……。】
どんなに優秀なプログラマーであっても、ゲームデザインやグラフィックが悪ければそのゲームは売れないだろうし(逆に、ゲームデザインは素晴らしくても処理速度が遅かったり操作性に問題があって売れない可能性もあります)、制作したハードそのものが全然売れなかったり、新機種に切り替わってしまったりすれば、せっかく作ったゲームが「お蔵入り」なんてことも十分に考えられる世界ではあるのです。ゲーム制作会社そのものでさえ、倒産や統廃合を繰り返してきています。ゲーム制作者というのは、ある意味、オリンピック選手と同じくらい、あるいはそれ以上に「日頃の努力が報われるチャンスが少ない職業」なのかもしれません。最近、「監修」などの「アドバイザー的なもの」を別にすれば、昔ほど「有名人が手がけたゲーム」を見なくなったのは、こういう「ワリに合わないビジネス」であるというのが認知されたからなのかな。 それでもやっぱり、「自分の手でゲームをつくってみたい!」という人は、これからもたくさん出てくるのでしょう。「ひと山」は、なかなか難しくても、昔みたいに「そんなわけのわからないものを作っている会社、いつ潰れるかわからないだろ!」なんて親から猛反対されることもないだろうし。
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