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2006年10月13日(金)
癒されるのは実は受刑者の方なのだ。

「できればムカつかずに生きたい」(田口ランディ著・新潮文庫)より。

(田口さんが、ある大学で「特別講師」として学生たちに話をしたとき感じたこと)

【教室に入っていくと、生徒さんたちはもうそろって席に着いていた。
 50〜60人くらいいたかな。私は教壇に立つのが嫌だったので、教卓の前に椅子を出してそこに座った。みんなに見下ろされる格好になる。
 学生たちを見て「わあっ」って感じたのは、お花畑みたいなインパクトだった。
 若い子ってそこにいるだけでパッションなんだって思った。私はふだんはオジサンを相手にしゃべる事が多いのだけど、オジサンはいるだけで空気が淀んでるのに、20歳前後の子たちの周りの空気は透明でキラキラしていた。
 きっとキルリアン写真で見たら、彼らのエネルギーはビンビン輝いて放出されてるんだろうなあと思った。存在してるだけで輝いてるのに、なんで元気がないなんて思われてるんだろうって不思議だった。
「こんにちは」と頭を下げて、自己紹介をした。ありきたりな事だ。
 子供がいて主婦をやって、その合間にインターネットをしてて、それで本を書いている事。そしたらK先生が「ランディさんの18歳の頃はどんなことを考えていたんですか?」って話を振ってくれた。

「私の18歳の頃は、なぜ自分が自己表現できないのか、そのことをずっと苦しんでいました」

 そういう言葉がなんとなく口から出てきた。
 そうだったのだ。私は自分が演劇や映画、そういう文化的な事に関わりたいと思いながら、いつもその周辺をウロウロしていた。ミーハーで無能な少女、口ばっかりの頭でっかち女、それが私だった。
 自分では何もできず、果敢に自己を表現している男の人たちの側にいて、それを手伝うことでかろうじて自分を満足させてた。
 だけど、いつも思っていた。なぜ自分には「表現したい」という衝動が噴出してこないのか。こんなにも表現したいと願っているのに、表現がわき上がってこないのか。突き動かされるような衝動が起こらないのか。人の後ばかり歩いているのか、なぜこんなに自信がないのか、なぜ何をしたいのかわからないのか……。
 非常に長い、個人的な話だったのに、話の途中で席を立つ人も、携帯を鳴らす人も、無駄話をする人も、一人もいなかった。とてつもなく真剣に話を聞いてもらった。申し訳ないくらいだ。こんな私の話を何だってみんな頷きながら聞いてくれるんだろうって泣けてきた。
 話を終えて感じたのは深い優しさと共感だった。これまで私の青春なんかに誰ひとり共感してくれる人はいないと思ってた。だけれども、目の前にいる私のことを知りもしない子たちが、人生でもっとも劣等性だった頃の私を受け止めてくれてたのだ。
 若い子たちの感応力の凄さに圧倒された。彼らは他人の話に深く共鳴できる感度のいい心を持っている。共鳴する力をもっているのだ。たぶんそれが若い精神の力なんだろう。
 それにしても……。誰かに黙って自分の話に共感してもらうことの、なんという癒し。びっくりした。ここに座って、励まされたのは私の方だ。彼らは私のカウンセラーに等しい。長いこと自分の心の中にわだかまっていたコンプレックスを、彼らにぶちまけ、そして吸い取ってもらったような気がする。
 私はもうあっけにとられて、そして何度も力説してしまった。「みんなは、大人の世代にはない力をもってる、それは感応する力だ。豊かな時代に生まれた世代にのみ与えられるすごい能力だ。森羅万象に自分の心を共鳴させることのできる力です」
 そうだ。食うに困らない戦争のない国に生まれたことで得られる能力だ。闘いの多い時代には他人に感応していたら殺されてしまうもの。
「でも、世界にはあまりにも悲惨な事が多いからその力にブラインドを降ろしてるのかもしれない。だから無感動だと言われてしまうのかもしれない。本当は感応力がずば抜けているから自分を守るために感じないようにさせてるだけなんだと思うよ」
 言葉を受け取ると教室の空気がぱーんって張りつめてブルブル震える感じがする。彼らが言葉に呼応するとそうなる。彼らがうれしいとき空気が花開くようにほころぶ。いろんな変化が一瞬に起こる。20歳ってこうなのか〜と、もう若くもない私は感激しながらその空気を味わった。

 米国では受刑者が学校を講演して歩いて、ドラッグや暴力の恐ろしさを体験を元に語るプロジェクトがあるという。当初それは青少年の非行防止のために企画された。
 ところが不思議な結果が出た。癒されるのは実は受刑者の方なのだ。若者に語った受刑者はみな非常に高い割合で更正していく。子供たちの魂は語る者を癒す力を持っているらしい。たぶん彼らは「罪」を犯したという過去に囚われず、純粋に目の前にいる「人間」に共鳴するんだろう。】

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 僕も年に何回か、学生たちの前で「講義」をすることがあるのですが、僕の場合は田口さんが書かれているような「癒し」の効果は得られませんでした。まあ、内容も難しかったしなあ…なんて自分を慰めていたのですが、これを読んでいると、逆に「話をしていて拒絶される(教室は私語だらけとか、居眠りしているヤツばっかりとか)」というのは、とても精神的ダメージが大きいのだな、ということがわかったような気がします。やっぱり、どんな話でも真剣に聞いてくれるわけではないし、僕の講義には準備も情熱も不足していたよなあ、と反省しています。
 この話を読んでいて僕がいちばん感じたのは、「自分の話、とくに自分にとってのコンプレックスや辛かった話を誰かに聞いてもらう」というのは、聞いている側よりも、むしろ「話している側にとっての癒し」になるのだなあ、ということでした。僕は、「どうせ人というのは他人のことはわからないし、話してよかったと思うようなアイディアが出たこともないから」と、あまり他人に悩み相談をすることもなく人生を過ごしてきたのですが、良いアイディアを教えてもらうことではなくて、「黙って聞いて、受け入れてもらうこと」によって、人は救われることはあるのだ、ということなのですよね。田口さんは「若い子」の話をしておられますが、そういう「共鳴する力」というのは、けっして若者たちにだけあるのではないはずです。

 「どうしてこんなお金にも名声にも結びつかない文章をずっと書いているのだろう?」って、悩むことがときどきあります。でも、そう思いつつも今まで続けてこられたのは、たぶん、こうしてここに僕が考えているさまざまなことを「静かに受け入れて読んでくれる人」がいるからなのですよね。そして、その「自分の言葉を受け入れてくれている人がいる」という事実は、雑誌で紹介されたり、感想メールを送られたりするような、目に見える「賞賛」や「実利」以上に、僕を癒してくれているのだと思います。僕はドラッグや暴力には縁がない普通の人間なんですけど、それでも「語ること」によって、かなり救われているし、なかなか現実に適応できない自分を、なんとか日常に立ち向かわせていくためのエネルギーを得ているような気がします。自分のコンプレックスというのは、身近な人にはかえって語りにくいものですし。
 それにしても、今の世の中って、「聞きたい」人に比べて、「語りたい」人があまりにも多すぎますよね。「なんでリアクションが無いんだ!」なんて不機嫌になってしまう人もいますけど、実は「黙って聞いてくれる人がいる」というのは、この上なく贅沢なことなのかもしれません。