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2006年07月06日(木) ■ |
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誤解されている『ボーイズ・ビー・アンビシャス!』 |
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「日本語必笑講座」(清水義範著・講談社文庫)より。
【さて、ここから今回私がしようとしている話に入ります。古くから伝わる名言や、故事というのは、時としてその意味が誤って伝えられてたりすることがある。初めに誤訳があったり、伝えられるうちに意味が逆転したりする例だ。 で、この『少年よ大志を抱け』というのも、どうもそのクチじゃないのか、という説があるんだそうです。クラーク博士は『ボーイズ・ビー・アンビシャス!』と言ったわけだが、そのことばをおごそかに、名言の口調で言ったわけではないらしい。別れを惜しんだ生徒たちが、涙を浮かべたりしてメソメソしているので、はっぱをかけるように言ったというのだ。 『ボーイズ! ビー・アンビシャス!』と。つまり、『男の子だろ、しっかりせんかい』というような意味だったんじゃないかと、その説では言うわけです。 それが本当だとしたらとても面白い。何気ない元気づけのことばが名言となって残り、おごそかに『少年よ大志を抱け』となってしまうんだから。 それから、これも有名なことばに『ナポリを見て死ね』というのがある。死ぬまでに一度はナポリを見ておけ、それほど美しいところだ、という意味に理解されていて、『日光見ずして結構と言うな』という言い方と似たようなものだな、と思われている。 ところがあれが、誤訳らしいんです。あれは本当は、『ナポリを見て、次にモリを見よ』という言葉だそうで。モリというのは、ナポリ郊外の小さな町で、今はナポリ市に含まれているんだとか。そのMORIを、イタリアのナポリ地方の方言のMORI(死、という意味)と間違えて訳して、『ナポリを見て、次に死ね』となったんだそうだ。 本当かしら、と思うような説だが、信頼できる本にそう書いてあった。これもなんだか面白い。 では次の話。私が小学生の時に使っていた国語の教科書には、扉ページの裏にこんな名言が書いてあった。 『人生は短し、芸術は長し』 子供ながらに、名言だなあ、と思った。人の生涯はほんの短いものだが、芸術は人が死んでも永遠に残るものである、という意味だと解し、先生もそれで正しいと教えてくれたのだ。 ところが、そうでもないらしいのだ。普通にはその言葉は、セネカの『人生の短さについて』という文章の中にある『アルス・ロンガ・ヴィタ・ブレビス』ということばの訳だとされている。そして、セネカの言いたかったことは、今我々が解釈するようなことだったらしい。 ところが、それは実は、セネカより前に、医学の祖ヒポクラテスによって言われたもので、セネカのはそこからの引用なのだ。そしてヒポクラテスの言うアルスは、医術などの技術のことだった。 つまり、『技術を十分に学ぶには大いに時間がかかり、なのに人生は短い(だから、務めはげまなければ)』ということをヒポクラテスは言ったのである。どちらかというと、『少年老い易く、学成り難し』のような意味だったわけだ。 『帝王切開』というのは、帝王のシーザーがその方法で生まれたので、そう呼ぶんだときいている人が多いであろう。ところがそれは間違いらしい。英語でもシーザー式手術、と言うし、ドイツ語でもカエサル式手術というふうに呼んでいるのだが、もうその段階で誤訳があったんだそうだ。そのやり方をラテン語で『セクティオ・カエサレア』というのだが、このカエサレアは、シーザーのことではなく「カエスラ(切る)」から来ている。つまり、切る方式、ということばだったのを、誤ってシーザー方式と訳してしまったのだそうである。 ことばというものは伝えられるうちにいろいろと誤解も生んでいくもので、それも楽しい。】
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いま、「名言」として語り継がれているものの多くは、発言者にとっては、「何気ない一言」だったのかもしれません。もちろん、『ボーイズ・ビー・アンビシャス』がどういうような状況で発せられたのかは、リアルタイムで現場にいた人しか知らないことですし、ましてや、その言葉にどういう意味が隠されていたかなんて、クラーク博士本人にしかわからないに違いありません。当時の日本人の英語の翻訳力は、まだまだそんな手馴れたものではなかったでしょうから、「めそめそすんなよ!」というような軽い励ましの言葉が、「少年よ大志を抱け」と大仰に訳されてしまって、「歴史的名言」として残ってしまった可能性は十分にあると思います。 しかし、考えてみれば、「若者よ、大きな夢を持て!」なんていうのは、当時のアメリカ人にとっては、そんなに珍しい考えでもなんでもなくて、それこそ、日本という国が変わっていく時代に新しい技術を学んでいた若者たちに対して、このクラーク博士という人が言ったからこそ、「名言」になったという面もありますよね。 もちろん、この清水さんが取り上げられている話のほうが「歴史的真実」だったかどうかというのは、僕にはわかりません。でもきっと、たいした言葉じゃないのに、発言者の個性で補完されたり、誤訳・誤解されたことによって、「名言」となった言葉というのは、この世界にはたくさんあるのだと思います。 前者で言えば、チャーチルの遺言とされている、「もうあきあきした」なんていうのも、チャーチルというキャラクターと、彼の言葉を日本語に翻訳した人のウイットがあればこそ、「名言」として遺っているわけで、死ぬ間際になれば、誰だって「疲れた…」「もういいよ」くらいのことは言いそうではあるのです。後者で言えば、『ナポリを見て死ね』なんて、『ナポリを見て、次にモリを見よ』だったら、単なる観光ガイドの一節でしかありません。たぶん、原文を書いた人は、こんなありふれた文が、「名言化」してしまうなんて、思いもよらなかったのではないでしょうか。 人間っていうのは、他人の言葉を事実より遥かに深く受け止めてしまうということが、往々にしてあるみたいです。そして、誤解や誤訳が、さらに「名言化」を推進させるのです。
そういえば、僕は、『人間は考える葦である』という言葉を「人間は『考えることができる』ということができるという点が、唯一ほかの生物よりも優れているのだ」とずっと解釈していたのですが、星新一さんが書かれたものによると、「葦はいずれ枯れるのを知らないでいるが、人間はそれを知っていることがちがう」という意味なのだそうです。わかっているようで、聞き手というのは、けっこう自分勝手にいろいろと解釈してしまうものだし、言葉というのは、発した人の思い通りには、なかなかうまく受け取ってもらえないというのが「歴史的事実」なのかもしれません。
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