|
|
2006年05月10日(水) ■ |
|
「急須のフタ」と日本人 |
|
「ゴハンの丸かじり」(東海林さだお著・文春文庫)より。
【いよいよ急須の出番です。 急須のフタを取ってお茶っ葉を入れる。 ジャーポットをブシュブシュ押して急須にお茶をそそぐ。 1分待つ。 2、3回軽くゆすって湯呑みにお茶をそそぐ。 このとき油断をすると急須のフタが転げ落ちる。 親指でフタを押さえつつそそげばいいのだが、たまに不精して、今回ぐらいは多分落ちないだろう、なんて思っているときに限って転げ落ちる。 いえ、わたしは56年生きている主婦ですが、ただの一度も急須のフタを転げ落としたことはありません、という人がいたら申し出なさい。 全日本急須のフタ協会から表彰されるはずです。 それにしても、急須のフタってずいぶん無責任だと思いませんか。 ただ乗っかっているだけ。 もう少し自助努力というか、転げ落ちまいとする努力とか、そういう考えがあってもいいような気がする。 考えてみると、急須のフタはいかにも日本人的な考え方で作られていることがわかる。 契約社会ではなく、日本人同士、言わず語らずのうちに成立する黙契の製品・ つまり、急須のフタは、使い手が手で押さえてくれるものと安心しきっているわけです。 安心されちゃどうしようもないな。 手で押さえないこっちが悪い。 製造者責任なんてことを言い出す社会では、こういう製品は多分許されないだとうな。 急須のフタに紙が貼ってあって、「警告 この製品のフタはしばしば転げ落ちることがあります」なんて書かなければならなくなる。 先刻承知だって、こっちは。】
〜〜〜〜〜〜〜
僕はこれを読みながら、アメリカで売られている急須には、本当にこの手の「警告」がついていたり、ものすごく分厚い「取り扱い説明書」がついているのではないかなあ、などと考えていました。そもそも、急須を使う機会そのものが無いのかもしれませんが。 しかし、あらためてそう言われてみると、あの急須というのは非常に不思議な製品ではあります。そもそも、どうしてああいう形になったのでしょうか。必要以上に重いものが多いような気がするし、確かに、あのフタを落としたことが無い人というのはそんなにいないはずです。このくらい傾けても大丈夫だよね、とか甘く見ているときにかぎって、フタがごろんと転がり落ちてしまって運が悪ければ割れてしまったりもするのです。あのフタが割れてしまったら、急須としては使えないですしねえ。
現在の技術であれば、もっと丈夫で軽くてフタが落ちない急須というのも作れるはずなのではないかと思います。いや、あのくらいフタが開けやすくて、片手で操作できるくらいでなければダメなのかもしれませんが(片手にヤカンを持ちながらお湯を注いだりもするわけですから)、それでも、あのフタの不安定さによる危険性を考えれば、「ちょっと開けるのがめんどくさい代わりに、わざわざ手で押さえなくても、フタが転がらない急須」がもっと普及してもいいような気がするのですけど。 そういう点においては、急須という道具ひとつをとってみても、日本人の「伝統へのこだわり」というのは、意外と根強いものなのかもしれませんね。
|
|