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2006年03月13日(月) ■ |
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ありきたりなことが真面目に行われている生活 |
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「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン」(リリー・フランキー著・扶桑社)より。
【オカンに起こされ、目を醒ますとすぐ隣のキッチンから、味噌汁の匂いとぬか漬けの香りがしている。オカンの少ない荷物の中にはオカンの唯一の宝物であるぬか漬けの壺が当然のように入っていて、到着したその瞬間から、毎日かき混ぜられ、その日その日の野菜が漬けられていた。 自堕落の生活の染み付いていたボクは、どんなに重要な用事があっても寝覚めが悪く、遅刻、すっぽかしを繰り返していたのだけれど、このオカンの作る朝食と、ボクが起きる時間に合わせて漬けられたぬか漬けの威力には不思議と目が醒めたものだった。 風呂が沸かしてある。洗濯物が畳んである。部屋が掃除してある。キッチンからはいつも食べ物の匂いがたちこめている。 湯気と明かりのある生活。今までと正反対の暮らし。あの頃、あれだけ仕事に集中できたのは、あの生活があったからなのだと思う。 ありきたりなことが真面目に行われているからこそ、人間のエネルギーは作り出されるのだろう。】
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リリー・フランキーさんの大ベストセラー「東京タワー」の一部です。大きな病気をされたあと息子であるリリーさんと一緒に暮らすために東京に出てきたオカン(=リリーさんのお母さん)の同居生活。【年老いた母親と30を過ぎた独身の息子が古い雑居ビルの小部屋ではにかみながら暮らしている様子】なんて、リリーさんは、ちょっと照れながら書いておられますが。 僕は結局、大人になってからは自分の母親とずっと2人で同居する機会はありませんでしたし、結婚経験もないので、こういう生活の実体験はありません。正直、自分が20代半ばくらいにこの文章を読んだとしたら、「ふん、無頼を気取っていたリリーさんも、なんだかマイホーム主義になっちまってつまんないねえ」なんて、心の中で嫌味のひとつも投げつけていたような気もします。 でも、30代半ば、独身である僕は、この文章に深く頷いてしまうのです。ああ、本当にその通りだ……と。 20代いっぱいくらいまでは、仕事漬けで、寝食を忘れ、コンビニ弁当と牛丼チェーンとほかほか亭のローテーションでも、そんなに不満はなかったのですよ。きちんと太陽の下に干されたふかふかの布団で寝なくても、部屋が散らかっていても、まあ、そんなものなのだよね、僕は仕事が大変なんだからしょうがないさ、と。 しかしながら、最近、日常生活が乱れていると、人間というのはどんどん消耗していくものだなあ、とつくづく思うのです。いや、食事ひとつにしても、「また今日もいつもの弁当か牛丼かラーメンか…」とか考えるだけでも、なんだかもう、ご飯食べなくていいかな…とかいう投げやりな気持ちにすらなるのです。いわゆる「クリエイター系」には、無頼な生活を公言している人もいらっしゃいますが、普通の人間が普通の仕事をするためには、「ありきたりのことが真面目に行われていること」というのは、とてもとても大事なことなんですよね。僕が子供の頃に当たり前だと思っていた、ご飯の時間になったらご飯が出てくる生活、いつも新しい下着が用意されている生活というのは、本当は、ものすごく貴重なもので、周りの人々の献身的な努力によって維持されていたものだったのです。それを失ってしまって、自堕落な生活に耐えられなくなってきたこの年齢になって、あらためて僕はそれを痛感しています。 いやまあ、自分できちんとやれ、と言われれば、返す言葉がないのですけど……
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