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2006年03月10日(金)
村上春樹の生原稿を「流出」させた男

日刊スポーツの記事より。

【作家村上春樹さんの自筆原稿が本人に無断で流出し、古書店やインターネットで高値で売りに出ていることが10日までに分かった。同日発売の月刊誌「文芸春秋」4月号に村上さん本人が経緯を寄稿した。
 16ページにおよぶ村上さんの寄稿「ある編集者の生と死」によると、流出した原稿は複数あり、インターネットのオークションにかけられたり古書店で売られたりしている。例えばフィッツジェラルド作「氷の宮殿」の翻訳は、400字詰め原稿用紙73枚で100万円を超す値段で古書店に出ていたという。
 寄稿によると、これらの原稿は村上さんが、中央公論社(現中央公論新社)の編集者に直接渡した。編集者は退社後、2003年に亡くなった。
 村上さんは「生原稿の所有権は基本的に作家にある」とし、「流出したまま行方不明になっている僕の自筆原稿はまだ大量にある。それらが不正に持ち出された一種の盗品であり、金銭を得るために売却されたものであることをここで明確にしておきたい」と書いている。
 中央公論新社は「村上氏にはご迷惑をおかけし、申し訳ないと思っております」とコメントしている。】

以下は、「文藝春秋」2006年4月号に村上春樹さんが寄稿された「ある編集者の生と死―安原顯氏のこと」の一部です。

【安原顯氏が小説を書いていたことを知ったのは、かなりあとになってからだ。彼はいくつかの筆名で、あるいはときには実名で小説を書いて、それを文学賞に応募したり、あるいは小さな雑誌に発表したりしていた。自分が担当している作家たちにも自作を見せてまわって、感想を求めていたらしい。正直言って、とくに面白い小説ではなかった。毒にも薬にもならない、というと言い過ぎかもしれないが、安原顯という人間性がまったくにじみ出ていない小説だった。どうしてこれほど興味深い人間が、どうしてこれほど興味をかき立てられない小説を書かなくてはならないのだろうと、首をひねったことを記憶している。いちばんの問題は、自分が本当に何を書きたいのか本人にもよく見えていなかったというところにあるのだろうが、いずれにせよ、これだけの派手なキャラクターを持った人ならもっともっと面白い、もっと生き生きとした物語が書けていいはずなのにとは思った。しかし人間性と創作というのは、往々にして少し離れた地点で成立しているものなのだろう。
 知る限りにおいては、彼の小説が賞を取ることはなかったし、広く一般の読者の注目を引くこともなかった。そのことは安原さんの心を深く傷つけたようだった。僕も何度か彼の作品を読まされて、そのたびに当たり障りのない感想を述べていた。悪いことはひとことも言わなかったと思う。良い部分だけを取り上げて、そこを集中して熱心に褒めた。もちろんどんな作品にも必ず良いところはあるから、それは決してむずかしいことではない。とはいえ彼も熟練したプロの編集者だから、こちらのほめ方にもうひとつ気合が入っていないことくらいは簡単に察する。それで何度か僕に対して腹を立てたことがあった。この人らしいといえばそれまでだが、彼が僕に求めていたのは批評ではなく、感想でもなく、熱烈な無条件の承認であり、応援だったのだ。
「あのな、あの****(高名な批評家)でさえ、この作品を絶賛してくれたんだぞ。素晴らしい、見事だといってくれたんだぞ。なんでお前(ごとき)がもっときちんと褒められないんだよ?」と面と向かって難詰されたこともある。こうなるとまるで子供のむずかりみたいだが、本人はそれだけ必死なんだなという切実な印象は持った。とにかく笑いごとではまったくなかった。安原さんがその人生を通じて本当に求めていたのは小説家になることだったのだろうと今でも思っている。編集者として多くの作家の作品を扱ってきて、「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ。】

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 この「村上春樹自筆原稿流出事件」を今朝ヤフーのヘッドラインで読んだときには、率直なところ、「ああ、またこういうニュースか…」としか思いませんでした。作家の昔の原稿流出なんていうのはそんなに珍しい話ではないですし、以前には漫画でも同じような事件もありましたし。流出した「氷の宮殿」の翻訳が73枚で100万円を超えていたということや、18時の全国ネットのニュースで最初から2番目に取り上げられたということに対して、「さすがは村上春樹」と、感心してしまったくらいだったのです。
 でも、この文藝春秋に村上さんが寄稿された文章を読んでみると、そこに書かれていたのは、ある編集者と作家の愛憎入り混じった物語でした。村上さんの原稿を無断で自宅に持ち帰った、安原顯(あきら)さんという編集者は、村上さんの「数少ない友人のひとり」だったのです。
 村上さんは作家デビューされる前に千駄ヶ谷でジャズを流す店を経営されていて、安原さんはその店の客のひとりでした。その頃の安原さんは、カウンターのなかで立ち働いているバーテンダーが、のちの日本を代表する作家だとは、夢にも思っていなかったに違いありません。そして、「風の歌を聴け」で村上さんがデビューしてからしばらくは、「サラリーマン的ではない編集者」と「文壇が苦手な小説家」は、「異分子同士」の連帯感があったようです。ただし、仕事の上では、「作家をコントロールしたがる」安原さんは村上さんの好みのタイプの編集者ではなかったようで、一緒に長編の仕事をしたことはなかったそうなのですが、それでも、当時は誰も知らなかった海外作家を村上さんが翻訳したものを雑誌に掲載してくれたりして、村上さんは、現在でも安原さんに対する感謝の念は持っている、とも書かれているのですが。
 しかしながら、ある日を境に(「その日」や「そのきっかけ」は、村上さんもわからないと書かれていました)、安原さんは壮絶な「村上春樹バッシング」を始めます。そして、それ以降、2人は絶縁関係となりました。

 上に引用させていただいた文章は、村上さんが「小説家・安原顯」について書かれている部分なのですが、僕は正直、これを読んで、安原さんという人の心境を考えると、この人を「裏切り者!」と言い切れないような、やりばのない哀しみを感じるのです。一方の当事者である村上さんが書かれた文章なので、100%の事実とはいえないのかもしれません。でも、自分が大手出版社の編集者だったときに空気のようにバーテンダーをやっていた男が、あっという間に国民的な作家になっていき、自分は置いてきぼりにされてしまっているというやるせなさが、この安原さんの言動から伝わってくるのです。この「自分の才能を信じたくてしかたなかった男」に対する、村上さんの【「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ。】という言葉は、もしかしたら、泉下の故人にとっては、原稿流出なんて比べ物にならないくらい強力な「しっぺ返し」なのかもしれません。この「紙一重」が、永遠に届かない差であることは、村上さんにも、安原さんにもわかっていたはずなのです。
 そう、安原さんには、「作家としての決定的な何か」が足りなかった、ということなのでしょうし、それをこんなふうに「文藝春秋」に書かれるなんて、本人が読んでいたら、すごい屈辱を感じていたことでしょう。
 でも、それを目の前の「天才」の前で認めたくない安原さんの気持ちは、「神の座」に到底届かない僕にもよくわかります。「アマデウス」のモーツァルトとサリエリのように、安原さんにも「才能」がそれなりにあったからこそ、かえってその「圧倒的な差」を自覚せざるをえなかったのかもしれません。

 安原さんは3年前に亡くなられているのですが、亡くなられる前から出版社に無断で自宅へ持ち帰っていたさまざまな作家の生原稿を、古書店で「処分」していたそうです。彼が作家の生原稿を売り払っていたのは、それを自分の「財産」だと疑うことがなかったからなのか、高く売れる事を知ってお金に目がくらんだためだったのか、作家たちへのなんらかの「復讐」であったのか、それは僕にはわかりません。村上さんも「わからない」と書かれています。むしろ「金に困って」だったらまだマシだ、とすら思っておられるのではないかなあ、と僕には感じられます。
 多くのメディアでは、「人気作家の原稿流出事件」として扱われていますが、おそらく、村上さんにとって「流出」してしまったものは、自分の生原稿だけではないのでしょうね。本当に、人の心ってやるせない。