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2006年01月31日(火) ■ |
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なぜ、「空気を読めない」のか? |
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「おとなの小論文教室。」(山田ズーニー著・河出書房新社)より。
【この前、ちょっとうまく行かないことがあり。 「どうもいまく行かなかったな、しばらく距離を置こう」 と考えた。とたんに、自分が自分にツッコンだ。 また、距離? 「しばらく距離」ばっかりとってるんじゃないの? 私。 「しばらく距離を置く」、人間関係がうまく行かないときの得策のように言われているけれど、ほんとに距離を置くことがいいことなんだろうか? その間、閉ざされてしまう想いとか、それで、薄れていってしまうものとか、そもそもなんのために距離を置いたのかさえ、忘れてしまうこと、とか。 なんか、縮こまっているなあ。 ニュースなどでは、「相手の気持ちを考えない」若者の犯罪とか、「相手との距離をわきまえない」ストーカーとかが、目立つから、話題にされる。 だから、もっと相手の気持ちを考えよう! と、ここで、言うべきなのかもしれない。 でも、学生とか、実際、私が接してきた若い人には、そういう「ずけっ」とした人が思いあたらない。 むしろ、家族や友人にまで、とても気をつかう、優しい、いい子が多い。 何かひとつ、私に頼むにしても、私に負担にならないように、メールには、絵文字でちゃかしながらも、「忙しいのに、ほんとにごめんなさい」とか、「ありがとう」が何度も、何度も、書いてある。 そんなに気をつかわなくていいのにと思う。 むしろ、相手の気持ちは考えすぎ、距離は取りすぎている。 その方が問題ではないだろうか? このところ、自分のまわりで起きたすれ違いを考えてみると、相手の気持ちを考えない、というよりは、むしろ、相手の気持ちとか、相手がどう思うかとか、お互い、考えすぎて起こっているように思う。 ふたをあけて、話してみると、 「こうしないと、あなたがいやがるだろうと思って、わざわざ、こうしたのに」 「私だって。あなたにとって、いいだろうと、配慮して、気をつかって、あえて、こっちを選んだのに」 という感じで。 一見、自分のことを考えていないように見える相手も、実は、かなり自分に気をつかってくれていることに驚く。自分も、気がつけば、相当、人に気をつかって生きている。生きていることに、はっとする。 ただ、お互いの気づかいが、それぞれ自分にしてほしいと望んでいることとズレている。だから、お互いのことを考えていないかのような錯覚が起こる。 お互いのことを考えすぎて、それで動きづらくなったり、本来の方向からズレてしまったり。 自分も相手も、息苦しくなっている。】
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この文章を読んで、僕は自分も「距離を置きすぎてしまう人間」だよなあ、とあらためて思い知らされたような気がします。でも、相手を傷つけまいとして距離を置いているつもりでも、本当は、自分が傷つくのがイヤだっただけなのかもしれません。今から考えれば、たとえ気が利いたことが言えなかったとしても、あのときに、一声かけておけばよかった、と思うことって、たくさんあるんですよね。その場では、「簡単に『がんばれ』なんて声をかけても、相手にプレッシャーがかかるだけだし…」なんて自分に言い聞かせていたけれど、たとえその言葉がその場では相手にうまく伝わらなかったとしても、やっぱり、言っておいたほうが良かったのではないか、とか。 でも、そういうのって、僕だけではないのだということが、この本を読んでよくわかりました。現実というのは、お互いに相手のことを気遣っているつもりなのにもかかわらず、「うまく伝わらない」ことばかりなのかもしれません。 そして、「自分がしたいこと」の前に「相手の考え」を読もうとばかりしていて、延々と膠着状態のまま時間だけが流れていきます。ああ、相手の気持ちがわかれば、もっとうまく対応できるのに、と嘆きながら。 そんなの、いつまで経っても「わかる」わけないのにね。
ネット上には、「空気を読めない人々」が、たくさんいます。僕はそういう人たちに対して、「この人たちは、どうして相手のことを考えずに、そんなことを求めてもいない女性のサイトにストーカーのようなメールを送るのだろう?」とか、「どうしてこの人は、自分の自慢ばっかりするのだろう?」とか、ずっと考えていたのです。あるいは、僕自身も、そんなふうに誰かに思われている可能性は十分にあるのですけど。 でも、こういう「空気を読めない人々」というのは、裏を返せば、「コミュニケーション不全」なのですよね。そして、僕の今までの経験を思い出すと、現代の人間関係というのは、お互いに「踏み込まない」から、相手との「距離感」というのが、非常につかみにくいのです。逆に、一昔前なら踏み込みすぎで「無礼者!」と叱咤されるような行動をとったとしても、それも「個性」だからということで、お咎め無しになったりしますし。 要するに「危険な距離」を体験したこともないから、「どこまでが安全」なのかも、わからないんですよね。 もし、何の予備知識もないままに、お葬式に初めて参列した子どもが悪戯をしていたとしたら、「どうして空気が読めないんだ!」と、怒ることが妥当でしょうか?
「空気を読む」ためは、もちろん素質もあるんだろうけど、やはり経験が必要なのです。でも、そういう経験を積む機会が現実にほとんど無いのに、ネット上で、いきなり「空気を読める」わけがありません。そもそも「空気」とう目に見えない存在に喩えられるようなものを「読む」というのが、そんなに簡単なことのわけがないのだし。 本当は、ネット上の「空気を読めない人々」に対しては、mixiの相手の目に触れないところで「あいつバカw」とか書くよりも、その場のコメント欄などで、「お前のその発言は無礼だ」とか、「管理人は、そんな発言を望んでいない」と、明確に教えてあげるほうが親切なのかもしれません。「空気を読めない人」というのは、実際は、空気の存在そのものを認識できていないのですから、「なぜ、空気を読めないんだ!」なんて言われても、伝わるわけがありません。お互いに理解しあおうと思うなら、摩擦を恐れて距離を置いてばかりでは、どうしようもないのです。
まあ、それをわざわざ「ネットだけの付き合いの相手」に「教える」なんて、「そんな義理なんて無い」のも事実なのですけどね……
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