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2005年10月31日(月) ■ |
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「あきらめるな」と言う人々への手紙 |
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「ありがとう。」(鷺沢萠著・角川文庫)より。
【人はよく「あきらめるな」と言う。 「あきらめずに自分を信じろ」とも言う。 「人を疑うな、信じろ」などとも言う。 たぶんそこには「あきらめない」ことや「自分を信じる」ことや「人を信じる」ことは簡単なことではないから、苦しいことだから、たやすいことではないから、という前提があって、そういう難しいことだからこそ、やる価値があるのだ、というような考え方があるのだと思う。 それに「あきらめない」とか「信じる」ということばは、文句なしに美しい。少なくとも「敗北主義」や「不信」よりは、よほど耳にやさしいことばだろう。 けれど私は思う。 「あきらめない」ことはほんとうにそんなに難しいことだろうか。「信じる」ことはほんとうにそんなに苦しいことだろうか。 私は思うのだ。「あきらめる」ことは、実は「あきらめない」ことよりずっと辛いことなのではないか、と。「信じずにいる」のも「信じる」よりずっと苦しく難しいことなのではないか、と。「あきらめる」や「信じない」選択は、その逆の選択の、何倍もの苦渋を強いられるのではないか、と。 たしかに「あきらめる」ことや「信じない」ことは、ことばとしてはあまりキレイではない。けれど、「あきらめないことにしたから」、「信じることにしたから」と、真綿のように白く美しいことばの中にぬくぬくと埋まっているのは、それの何倍もたやすいことだ。 最後まであきらめるな、あきらめさえしなければ必ず望みは叶うものだ、というようなことを本気で口にする人は、きっと、奥歯を噛みしめて、額に血管を浮かばせながら、それでも「あきらめる」を選択するしかなかった、信じたいのに、信じられればそれほど楽なことはないのに、それでも「信じない」を選択するしかなかった、そういう経験のない人なのではないかと思う。その是非を問おうというのではない。あきらめずにいた結果その対象が手に入れば、信じた結果それが報われれば、それほど喜ばしいことはないのだから。
もう一度言おう。 「あきらめない」ことは、さして難しいことではない。さして難しくないことをするときに、殊更に胸を張って、声高に主張する必要はない。 世の中にはどうやってもあきらめる他ないことがたくさんある。山ほどある。厭になるくらいある。 そうしたことごとの瓦礫の山の上に途方に暮れて立ち尽くしながら、血をしたたらせて「あきらめた」経験が一度でもあれば、「あきらめない」をただキレイなことばとして受けとめることもないはずだ。 「あきらめるな」は他人に向かって言うことばではない。自分に向かって、黙ったまま言うことばだ。】
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この鷺沢さんの文章、僕の心には、とても強く響いてきました。誰かに「がんばれ」と言われたときに感じる、なんだか言葉にできない「違和感」みたいなものの正体はこれだったのか、というのを、あらためて思い知らされた気分です。 もちろん、誰かを励ますというのは、けっして悪いことではないのだというのはよくわかります。「あきらめるな」「信じろ」と言うほうだって、そういう言葉しか、かけようもない状況というのが厳然として存在するのは事実なのだし、それでも何かしてあげたい、という気持ちを、一概に否定することはできないでしょうから。 世界には、そういう「あきらめなかった人々」が、最後に報われる話が溢れているようなのですが、その一方で、そういうエピソードが人々の心に感動を与えるのは、それが「奇跡」だからでもあるんですよね。誰でも報われるのなら、そんなの、わざわざテレビで取り上げられたりしません。もちろん、奇跡というのは起こることもあるけれど、自分の目の前で簡単に起こるようなことは、「奇跡」ではないのです。 確かに、「信じる」というのは美しいことだし、「あきらめない」ことは正しいのだと思います。ただ、そういう「正しい人たち」というのは、結局、その正しさに溺れてしまって、そこで思考停止してしまっていることが、少なくないのです。だって、「あきらめないで最後まで頑張ったから」「信じぬいたから」というのは、それだけで、立派な「言いわけ」になりますからね。「正しいことをしたのだから、結果はダメでもしょうがないんだよ」って。 本当は、その「信じるということの美しさ」に、依存して、現実に眼をそむけているだけなのだとしても。 「あきらめない」っていうのは、そんなに立派なことなのか? 他人に対して、偉そうに説教できるようなことなのか?
鷺沢さんが自分の命を絶ってしまったのは、あまりに、いろんなことが見えすぎてしまったからなのだろうか……
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