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2005年07月24日(日) ■ |
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小さな生き物たちへの恐怖 |
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「ゆっくりさよならをとなえる」(川上弘美著・新潮文庫)より。
【新聞を読んでいたら、セミが怖くてしかたないという女性の投書を見つけた。「たかがセミと分かっているのですが、怖くて涙が出ます」おある。あっ、と声を出してしまった。私も、怖いのである。投書の女性はセミを恐れていらっしゃるようだが、私が怖いのは蝶だ。 虫全般を怖がる人は多い。蜘蛛、毛虫、芋虫、ゴキブリ。それらを見て「きゃあ」と叫んでも、さほど奇妙に思われることはない。ところが可憐な蝶がずっと向こうの方を飛んでいるのを見たとたんに「ぐげ(きゃあ、という澄んだ声の出る余裕はない)」という声を発し、そのまま石像のように固まってしまう、もしも蝶がこちらに来そうな気配を見せたなら、しゃがみこんで頭をかかえ身を小さくして「私はここに存在しない者です、蝶よ私に気づかず去れよかし」とひたすら念じる、そういう私に対して、人が大いに困惑するのである。 そりゃあ困惑するだろう。いかにも恐ろしいものを怖がるのはいい。しかしちっとも恐ろしくないものを怖がるその心もちを、人は理解できないに違いない。】
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川上弘美さんの「蝶恐怖症の話」です。このあとの文章で、川上さんは、自分が蝶を怖がる理由を「自然の中にあるべきものが不自然の環境にある、その違和感のせいではないのか」と分析されています。自然の中にいる蝶に対しては、恐怖感はわかないそうなので。 そういえば、僕も最近すっかり虫が苦手になってしまったのです。幼稚園とか小学生のころは、普通に素手で虫を捕まえたり、家で飼ったりもしていたのですが、いつのまにか、遠目で見るくらいならさておき、触るなんてとんでもない!というふうになってしまって。そりゃあ、蛇みたいに、自分の命にかかわるような危害を与えられる可能性がある生き物が怖いんだったらわかるのですが、アリとかカナブンのおかげで命を落とすなんてことはありえない話です。でも、そういう昆虫たちも、なんだかすごく苦手なんですよね…… その「理由」というのは、僕自身にはよくわからない面が大きいのですが、最近思いあたるのは、「虫」という存在が、非常に「儚い」もので、自分より弱い存在だからかなあ、ということです。例えば、僕は蚊も大嫌いですが、あんまり怖いとは思いません。むしろ、発見したらなんとか撃退しようと、鼻息が荒くなるくらいなのに。 先日、こんなことがありました。アパートで眠っていると、ブンブンと電灯の周りを虫が飛び交っていたのです。うーん、気になるなあ、眠れないなあ…という憂鬱な気分だったのですが、何かの拍子に、その虫は、ぽとり、と僕の布団の傍に落ちてきました。そして僕は、その虫を捕まえて近くに転がっていたビンに入れて外に放り出そうとしたのですが、捕まえた拍子に、その虫は潰れてしまいました。 なんだか、こういうのって、「罪の意識」をものすごく感じてしまうんですよね… 虫にとっては「明るい電灯の周りを飛ぶ」というのは、「本能的にやっていること」であって、誰かに危害を加えようとしているわけではないのに(それは、蚊の吸血だってそうなんだろうけど、あれは「刺されると痒い」という意味で、一種の「勝負」だと言えなくもないですから)、結果的には「人間にとって、ほんのちょっと迷惑」という理由だけで命を落としてしまうという場合だってあるはずです。僕が知らないところで、靴や車のタイヤでたくさんの生き物を殺してきたんだろうなあ、なんて考え始めると、ものすごく反省するほどではなくても、心がチクチクと痛みます。 そうやって生きていくのが人間、なんだろうけどさ。
年をとるとどんどん「生き物」が苦手になっていくのは、なぜなのでしょう?自分の「強さ」が申し訳なくなるのか、それとも「弱さ」を投影してしまうからなのだろうか……
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