|
|
2005年06月19日(日) ■ |
|
ぼくは、春菊のおかげで、<氷>という字が書けなくなった。 |
|
「業界の濃い人」(いしかわじゅん著・角川文庫)より。
(内田春菊さんの回の一部です。春菊さんがクラブ歌手をやっていたころの話。当時は、歌手としての仕事のほかに「ホステスのような仕事」もやらされていたそうです。)
【ぼくは、春菊のおかげで、<氷>という字が書けなくなった。 まあもちろん、全然書けないというわけではないが、書く時、これで正しいのかどうか、一瞬ためらってからでないと書けなくなってしまったのだ。
(中略)
春菊のいたクラブでは、客がリクエストをできるシステムを採っていた。客の希望する歌を、専属クラブ歌手がその場で歌うという、かつての藤山寛美率いる『松竹新喜劇』みたいなことをやっていたのだった。
(中略)
ある夜、ホステスが一枚のリクエストカードを、ステージにいる春菊に持ってきた。彼女のテーブルのお客さんがリクエストしてきたものを、そのホステスが鉛筆でメモして持ってきたのである。 それを見た春菊は、首を捻った。 そこには、<永雨>と書いてあった。 「つまり、<氷雨>のことなんです」 春菊は困った顔で俯いた。 『氷雨』というのは、当時、大ヒットしていた歌謡曲である。何人もの競作になって、どれもかなりの売れゆきを示したと記憶している。 わっはっは、<永雨>かあ、とぼくは大笑いし、それから、ふと不安になった。俺って、<氷>って字書けたっけ……。 もちろん、書けるに決まっている。 生まれてからそれまでに、ぼくは永という字を、おそらく百万回は書いている。そのうち一度だって、ぼくは<氷>と<永>を混同したことなどない。<氷>という字を書かせたら、その正確性において、漫画界でぼくの見右に出るものはいない。<氷>は<水>に<、>が左肩だ。<永>は<水>に<、>が頭の上だ。こんな小学生でも書けるような字を、ぼくが間違えるわけがないのだ。 しかし、この時、ぼくは一度、<氷>と<永>に関して、不安を持ってしまったのだ。昨日まで、なんの疑いも持たずにできていたことが、案外と混同しやすく困難だったのかもしれない、と思ってしまったのだ。ぼくはこの時点で、常識というものの危うさに、既に気づいてしまったのだ。 もう駄目である。 これ以降、ぼくは<氷>という字を書くたびになんだか不安になり、一度別の紙に書いてみて、自分が<氷>という字を書いていないことを確かめてからでないと、本番に移れなくなってしまったのであった。】
〜〜〜〜〜〜〜
僕はこれを読んで、「ああ、そういうのってある!」と大きく頷いてしまいました。そうなんですよね、あんまり考えずにやっているときは、とくに問題なくこなせていることでも、何かのきっかけでふと意識するようになると、急に不安になってしまうのです。僕にとっては、車の運転とかがそうだし、「床屋に行く」ということもそうだなあ。だって、剃刀を当てられている状況なんて、もし床屋さんが突然殺人鬼に変貌すれば、僕はまったく無力なわけですから。それは「妄想」なのかもしれませんが、そういうのって、一度気になりはじめたら、打ち消すのはなかなか難しい。 いしかわさんは、ここで<氷>と<永>のことを書かれているのですが、確かに、<氷>と<永>というのは、「<、>の位置は近いけれど、意味も違うし、間違えるわけない」と僕も思います。というか、そんなのを間違えるなんて、これを読むまで、考えてもみませんでした。 でも、一度これを読むと、次からはちょっと気になってしまいそうです。 だいたい、ただでさえ最近はパソコンを使って文章を作成することが多く、うろ覚えのままでも表示された候補の中から選べばいいので、漢字に対する詳細な知識は失われつつあるのに…… そういえば、僕は「博」という字が苦手です。この字の右側の「専」の右上に<、>を打つべきかどうか、なぜかいつも不安になり、悩んでしまうんですよね。<氷>と<永>に比べれば、もともと「悩ましい字」だとは思っているのですが、でも、この字を手書きで書かなければならなくなるたびに、「この間も『博多』で悩んだよなあ…」ということは思い出すのですが、肝心の「右上の<、>が必要かどうか」には、やっぱり自信が持てないのです。 いやほんと、自分でも情けないのですけれど、一度気になってしまうと、どうしようもなくなるんだよねえ。
これを読んだあなたも、もしかしたら、<氷>と<永>に、自信が無くなってしまうかも……
|
|