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2005年05月28日(土)
「表現の授業」の必要性

「週刊アスキー・2005.6.7号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(第三舞台(現在10年間の活動停止中)の主宰であり、劇作家・演出家、そのほかにエッセイやラジオのパーソナリティなど多彩な活動をされている、鴻上尚史さんと進藤晶子さんとの対談の一部です。)

【進藤:”鴻上演劇研究所”の活動もされていますが、具体的にどのようなことをなさっているんですか。

鴻上:いわゆる発声と身体のレッスンみたいなことです。僕が1年間イギリスに留学していたとき、向こうの演劇人たちは、わりと小学校や中学校に出向いていたんです。

進藤:演劇の授業をされるの?

鴻上:というより、”表現の授業”です。たとえばシェイクスピアを読むというよりは、シェイクスピアを通して表現がうまくできるようにと、声の遣い方であるとか、身体を使って遊んでみるとかを実践させるの。

進藤:まあ、楽しそう。

鴻上:イギリスでそんなことを耳にしたから、いつまでもヤサグレててはいかん!と思いまして。ちょっとは社会に恩返ししなきゃなと。それで、お呼びがかかったら、ワークショップをやるようになりました。

進藤:どれぐらいのペースで活動してらっしゃるんですか。

鴻上:今ちょっと忙しくて、数ヶ月に1回くらいかな。でもマジメな話、”表現”の授業は、”音楽”や”図工”と同じように学校のカリキュラムに組み込むべきです。つまり、自分の声や身体を使って、人とコミュニケートすることを教える授業をですね。

進藤:いいですね。

鴻上:大人に教えることもあるんだけど、単純な言い方をすると、表現が豊かになるってことは、異性にモテるようになるってことなんですよ。

進藤:いろんなアピールの仕方が身に付くわけですか(笑)。

鴻上:口説き方はもちろん。いろんな表現の仕方を身に付けておけば、ビジネストークにも使えるし。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「日本人」としてこの国で生まれ育った僕としては、こういう芝居ががったような「意識的な自己演出」というのに、抵抗を感じてしまうのも事実です。やっぱり、そんなことしなくても、「暗黙の諒解」で成り立っている社会とか、「言わぬが花」なんていう関係のほうが、居心地がいいような気がするし。
 しかしながら、この対談の中で、イギリスの子供たちは”表現の授業”を受けている、なんて話を読むと、日本の政治家が一般的に「外交下手」なんて揶揄されるのも仕方がないのかな、とも思います。小泉総理は比較的そういうことを意識している人なのでしょうが、相手は幼少の頃からですからねえ。
 それにしても、こういう「自分をうまく演出して、他人とうまくやっていく」というのは、社会生活を送っていく上では、とても重要なことなんですよね。「外面ばっかり飾っても、内面が醜ければダメだ」という人は多いけれど、周りを見回してみれば、「外面だけが良いように見える人」のほうが、「本当はいいやつなんだけど…」という人より職場や地域で評価されていたりするし、日頃「人間は中身」なんて言っている人のほうが、逆に「外面だけが良い人」を見抜けていなかったりもするのです。
 みんな、自分で思っているほど「中身」なんてわかっていない。
 そういえば、同僚の医者に、とにかく女性に対してマメな(要するに、手当たり次第に口説いている)人がいて、仲間内では「本当にもう…」という感じだったのですが、この先生が、外来では冗談ばかり言っているのにすごく人気があって、患者さんウケがよかったのです。それとは対照的に、ものすごくマジメで患者さん思いなんだけど、つい患者さんにお説教してしまう先生は人気がいまひとつで、僕は内心、そういう「テクニック」みたいなのって、接客業には大事なのかなあ、などと半分あきれつつ考え込んでいたものでした。
 極端な話、外面だけしか見せる必要がない状況なら、「中身」がいくら良くても「外面」が悪ければ誤解を受けるだけなんですよね。いやもちろん、中身が外面に滲み出る、ということはあるんですけど。
 まあ、どうせ中身が同じなら、良い印象を与えられるほうがいいに決まっているのだし。