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2005年03月02日(水)
「お気に入り」じゃない場合の解説

『戀戀(れんれん)シネマ』(佐々木恭子著・集英社文庫)より。

(フジテレビアナウンサー・佐々木恭子さんが、尊敬する映画・文芸評論家の川本三郎さんに会ったときの会話の一部)

【文章から滲み出る人柄と実際の印象がホントに変わらない方だなぁと思うと嬉しくなって、私も段々図々しくなってきた。「すみません、率直なところ、あんまりお気に入りじゃない場合の解説ってどうしてらっしゃいます?」と聞いてみた。「わっはっは。僕は、自分の好きなものしか語りたくありませんねぇ」(ごもっとも!)とおっしゃった後で、「僕はね、映画って何より物語に感動したいんです。自分の人生とふと重なり合って泣ければ、あぁ、この映画に出会えて幸せだなぁって素直に思いますよ。だから、本当に好きな場合は目一杯物語について語りたいし、そうでなければ、好きなシーンとか好きな台詞とか、具体的なディテールについて書くし、それもなければ、役者さんにフォーカス当てて、過去の作品なども踏まえて書きますねぇ」と心得を教えてくださった。そして、こうも付け加えた。「淀川さんも、確かそんなこと言ってたなぁ。台詞とか役者のことしか話してないときは、それしか話すことがないときだって」。
 これには深く納得した。「面白くない」とか「よくわからない」と言い捨てることは簡単。誰が話しても変わらない客観情報だけを取り上げるのも簡単。でも、それではやっぱり愛がない。100けなすより、1いいところを見つけるほうがいい。「ここだけはよかった」。そう思うほうが、観る甲斐もあるというものだ。逆立ちしたって私は今のところ映画なんてとても作れないし、自分にできないことを形にすること自体、それはスゴイことだもの。】

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 確かに、映画とか音楽・本・ゲームなどの評論を仕事にしている人にだってそれぞれの好みもあるでしょうし、誰がみてもこの作品は…と絶句してしまうようなシロモノだってあるはずですから、内心「これをレビューするのは嫌だなあ…」というようなケースは、けっこうあるんでしょうね。好きなものだけについて書くというわけには、なかなかいかないはずで。
 そういう場合に、本音を書ければ苦労しないのかもしれないけれど、実際には業界内のつきあいもあるだろうし、広告の問題などもあって、「100%本音でメッタ斬り!」というふうには、できないことも多いようです。とはいえ、やっぱり、そのレビュアーの語り口から、その作品に対する「本心」というのは、読者にはなんとなく伝わってくるものだし、書いている側も、おそらく「差別化」をしているんだろうなあ、と思ってはいたのです。
 読者側からすれば、ここで語られている川本さんの「心得」は、川本さんが物語について語っているときは「面白いと感じていたのだな」ということがわかりますし、逆に、出演者の過去の作品にばかり言及しているときには、「ああ、つまんなかったんだなあ」ということを読み取れます。そんな予備知識がなくても、そういう「熱意」みたいなのは、行間から滲み出てくるものなのかもしれませんし、いくらなんでも文中で他の映画の話ばっかりしていれば、気づきそうなものではありますが。
 正直、酷い映画の感想を「出演している役者の過去の作品」まで持ち出してきて褒めるという行為が、一般の観客にとってプラスなのかマイナスなのかはよくわかりませんし、そこには「けなせない事情」という奴も存在しているんでしょうけど、それでも、やっぱり「批評には愛がなくては」というのは、正論だと思うのです。日常生活でも常にお世辞ばかり言っていたり、他人の悪口ばかり言っている人の言葉が信頼できないように、こういうものには、ある種のバランス感覚と「対象を愛する気持ち」が必要です。
 僕のような素人にとっては、「お前はプロ野球選手より野球がヘタなんだから、プレーについてゴチャゴチャ言うな!」とか言われるのも、それはそれで腹が立ちますけどね。そりゃあ、テレビの前でゴチャゴチャくらいは言うさ。黙って観ているのも、寂しいから。
 それにしても、最近は映画にしても本にしても音楽にしても、あるいは食べ物でさえも、実際に自分の眼に触れたり口に入れたりする前に「評価」が定まっていることが多いような気がして、それはそれでちょっと寂しく感じることもあるのです。「ハズレ」を掴みたくないのはやまやまなんだけど、「ハズレ」を掴んだことがない人間に、本当の「当たり」がわかっているのだろうか?とかね。まあ、そのためにわざわざハズレを掴みに行くには人生は短すぎるし、選択肢も増えすぎてしまっているのも事実なんですが。