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2005年02月12日(土) ■ |
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愚かしくも切実極まりない「帰属意識」 |
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「ばらっちからカモメール」(鴨志田穣=文・西原理恵子=絵・ゲッツ板谷=あほうりずむ、スターツ出版)より。
【はっきりした肩書きか……。 一つだけあった。 「あのね、たった一つだけあったよ。有限会社とりあたま。専務取締役だよ俺は。そっか。俺って若専務だったんだ。何だか大神源太みたいでいいじゃない。 「そうですか、それしかないんですか。判りました。その方向で検討してみます」 その青年編集者は心なしかさみしそうな声で電話を切った。 肩書きなんぞいらん! 大見えを切ってやってきては、何かのついでに誰かに、何々の……と言われてきていた。 知らない間に自民党員にされているようなものである。 旧ソ連で共産党員を産み出すのはたやすい事であったと、何かの本で読んだ。 広い大地で、人も少ない。 何でもいいから何かに属していたい。 人として当たり前の感情であろう。 自分は何にも属していきたくない。 どうしても、と言われるならば、「家族」だけである。 川を遡るオスシャケだって必死の顔色で自分の遺伝子を残そうとしている。】
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どちらかというと、僕は自分を「何かに属する」のを苦手としている人間だと認識していますし、特定の政治的信条や宗教にどっぷりとハマって、他者を排斥している人たちに対して、「どうして、そんな怪しげなものを信じられるんだ?」と半ば疑問、半ば軽蔑の感情を抱いていました。 少なくとも、自分が「大人」になるまでは。
でも、今あらためて考えると、実は、宗教や政治的思想にハマってしまう人々は、「バカだからそういうイデオロギーに騙されている」のではなくて、「ハマってしまいたくなる理由」を抱えている場合も多いのだ、と思えてくるのです。
ここに鴨志田さんが書かれている「旧ソ連で共産党員を産み出すのがたやすかったわけ」を読むと、「宗教とか政治思想とかを客観的に評価できる状態というのは、ものすごく幸福なことなのかもしれないな」という気がしますから。 昔、「マルチ商法」に騙されたお年寄りが、インタビューでこんなことを仰っていました。 「ひとり暮らしで淋しくて、あの人(マルチ商法の勧誘員)が、親身に話を聞いてくれたのがものすごく嬉しかったので、おかしいな、と薄々感じながらも、契約してしまったんです」と。 人間をある集団に所属させるものは、その「正しい理念」ではなくて、「孤独感から逃れたいという願望」なのかもしれません。 「騙されている」という以前に、「なんでもいいから、仲間が欲しい」という切実な気持ち。 それにつけこむのは、確かに酷いことではあるのですが、その一方で、「そうでもしないと、埋められない孤独」というのは、まだまだこの世界に存在しているし、どんなに「理性」が進歩したとしても、この「孤独感」があるかぎり、人は「狂信者」になる可能性を持っているのでしょう。
そもそも「何にも属さないという信条」というのも、「無宗教という宗教」みたいなものなのかもしれませんしね。
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