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2004年03月20日(土) ■ |
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憎むべき、そして愛すべきリーダー、いかりや長介 |
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「だめだこりゃ」(いかりや長介著・新潮文庫)より。
【私は長男で、上に相談に乗ってくれるきょうだいはいなかった。なぜかわからないけれど、いつも私が何かを決定しなけらばならない立場に立たされてきた。静岡でのバンドのときもそうだった。ジミー時田のところにいたときも、リーダーではなかったのに、そういう立場になってしまった。外部との交渉係・渉外担当。何かの決定役はいつも私だった。ドリフターズでも、オーナーの桜井氏がフェードアウトして、結局、責任者みたいになった。】
【ドリフを始めたときは、誰一人として、まさかドリフの名前を墓場にまで持っていくことになるとはおもわなかったはずだ。 すべては成り行きだった。偶然だった。 誰一人、ずば抜けた才能を持つメンバーはいなかった。他人を蹴落としてまで芸能界で生き抜いていこう、という根性の持ち主もいなかった。テレビに出始めた頃に「クレイジーキャッツみたいになろう」とおもったくらいで、確固たる目標すらなかった。 ドリフターという言葉を英語の辞書でひけば、流れ者とか漂流物と書いてある。私たちは名前通り、漂流物のように潮の流れるままに流されてきたのだとおもう。】
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今日、いかりや長介さんの訃報を聞きました。 1969年に始まった「8時だョ!全員集合」を観て育った、1971年生まれの僕にとっては、親の世代にとって、長嶋さんが太陽であったように、ドリフターズは太陽だったのです。もっとも、この太陽は、子供にとっては「今週もバカなことやってるなあ!」なんて笑わせてくれる、尊敬、というより共感の対象だったのですが。
ドリフターズのなかで、いかりや長介という人は、ある意味異質な存在だったような気がします。5人(僕は荒井注さんがメンバーだった時代の記憶がほとんどありませんから、荒井さんが脱退して、志村けんさんが加わってからの5人とさせてください)のなかで、いつもいかりやさんは、学校の先生だったり、会社の課長だったり、部隊の隊長だったりと、リーダー役を務めていたのです。 そして、「いつも偉そうにみんなをガミガミ怒っているダミ声のオジサン」に、他の普段はイジメられている4人のメンバーがいかに反撃するかというのが、ドリフのコントの見せ場だった記憶があります。子供にとっては、いかりやさんは、いわば学校の先生や親のような「権力の象徴」のような存在だったわけです。 ですから、いかりやさんがコントのなかで他のメンバーにやりこめられる姿は、当時の僕には、とてもとても爽快なものでした。
逆に考えれば、いかりやさんはそういう「イジメ役」をドリフターズのなかで一身に担って、狂言回しに徹してきたとも言えるのでしょう。そして、この「偉そうなオジサン」が、ドリフがやっていた「面白いこと」の大部分を脚本家として一生懸命考えており、金銭と名声を得てバラバラになろうするドリフターズのなかで、口うるさいまでの情熱で他のメンバーを引っ張ってきたという事実を僕が知ったのは、つい最近のことです。
独善的で、口うるさくて、礼儀にこだわり、妥協を知らず、自分に厳しく、おせっかいやき。 「全員集合」での彼は、子供の僕には、むしろ憎たらしいほどの存在だったのですが、今から考えると、「いかりや長介」というのは、僕たちにとっての「父親像」とか「リーダー像」のひとつの典型例であり、ある意味理想だったのかもしれません。
自分は難しい顔をしながら、他人を笑わせることに命を削った男。 享年72歳。けっして「若すぎる死」ではないかもしれない。それでも、まだまだこれからの人だったような気がするのです。
またひとり「昭和の愛すべき頑固おやじ」が、この世を去りました。 さよなら、長さん。 さよなら、僕たちのドリフターズ。
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