今、シアワセですか?


2002年09月26日(木)
夕刻、待ち合わせに向かうついで、
コンタクトのストックがなくなっていたので、
補充をする為にメガネ屋へ。
その帰り道、左眼のコンタクトが外れるというアクシデントに見舞われ・・・
左眼を抑えながら早足で歩いていた自分はさぞ奇異に映っただろう。(汗
何とかなったからよかったけど。。。

不意のアクシデントを乗り越えて、待ち合わせていた友達と会う。
彼女と会う時は、場所を変えながら本当に色々な事を話す。
近況から始まって、バイト・友達・将来・人生(?)等々・・・
ただ、今回は夏に彼女がミャンマー・ベトナムを旅してきたので、
その話題がメインに常にあったような感じ。

特に、ミャンマーにはNPO団体のスタディ・ツアーで、
都市部のみならず山村部(?)の状況まで目の当たりにして、
価値観や考え方等に大きな影響を受けてきた感じだった。
触れたことのない世界を旅するような貴重な経験をした彼女を、
自分は羨ましく思う。と、同時にそのような機会がなかった事、
ないし自分から触れようとしなかった事が勿体無いなぁ...と考えてしまった。

その話の中で「幸せ」ってどんなものか?みたいな話になった。
彼女が現地(電気も水道も未整備)のような場所で会ってきた人達や、
その人達の暮らし振りを見て、日本での自分の生活の中で感じる「幸せ」と
別種の「幸せ」を見いだして、「幸せ」が何か改めて考えたようだった。
そこで自分は「文化」が違えば「幸せ」も違うようなことをいったと思う。
(ここらへんアイマイ・・・間違ってたらメールください(汗)>友達殿)
ただ、帰宅して湯船につかりながら考えてみると、
その返事はなんか不正確なような・・と思ってしまった

確かに、自分が過ごしている文化・環境の中での「幸せ」は存在するけれど、
ただ、それは例えば電気や下水のない環境での「幸せ」の犠牲の下にあるもの。
そこでより便利な環境に移ってしまったら、以前の環境にはまず戻れない。
それは、犠牲となった「幸せ」は二度と取り戻せないことを意味している。
このような犠牲の下に得た「幸せ」は、真に「幸せ」といえるのだろうか?
どっちの「幸せ」に重きをおくか?は、人それぞれ違う答えが待っているんだろうと思う。
その答えって、相当な期間考えないと出てこないのかもしれない。
自分もまだ結論には程遠いと思うし・・・。



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