惜春別日乗
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2005年06月25日(土) 生きている、という気がしない

自ら「生きる」ということをしている実感がないのは子どもの頃からだ。ただ何となく「いる」自分はわかるのだが、なにかいつもはっきりとは「したい」ことがない。現状を受け入れるために自分を慣らすこと、がいつも一番先に来ている。

もちろん、ときどき「夢中になる」ことがらは出てくるし、そのことを「し続けること」に興奮を覚えたり、喜びを感じたりはしているわけだが、中断されたからといって別段怒ったりはしない。相手が望むことをする、そのことが今の自分を先導する。多分習慣付けられてしまった悪癖なのだろう。

今の自分を変えることが困難なのは、「自分を生かすこと」に消極的だからだ。急に今すぐ死のうとか、死にたいと思っているわけではない。ただ、自分の価値をあまり感じないというか、ネガティブに落ち込んで「自分は無価値である」と思っているわけではなく、「誰かに必要とされている」実感がないためである。生理的欲求でお腹が空いたら食べ物をとりあえず食べるし、なくなれば買い物にも行く。洗濯物がたまれば洗濯するし、眠らなければと眠剤を飲んで眠ったりもする。だけど、毎朝起きてから呆然とするのだ。「今日何をしたらいいんだろう」でも全く何もしたいと思えない。口が寂しいが何もないので水をとりあえず飲み、携帯をいじり、テレビをつけてみるが楽しめずすぐやめてしまう。布団の上で綿毛布を抱えて横になっているうちに、うつらうつらしている。

あきらかにこれではいけないのだが、今何をまずすべきなのか、全くわからない。思いついて体が動けばする、予定されたことや約束があれば、そのことに対して必要なことはできている。しかし自分自身のことについては全く皆目わからない。来年で送金が切れる、そのことへの危機感は「思い出せばつのる」のだが続かない。人々が「自分のために生きる」ことが当たり前にできるのは何故なんだろう?私は「生きる」ということの「目的」が今見えない。無目的に生存する努力をすることへ、「思考」が拒否している感じだ。考えるな、といろんな人から言われるのだが、考えずとも思考は心の底で己をコントロールする。動かないと私は生存できない、理性は答えを告げるけれど、機械的(動物的)に生きる(きわめて無意思で)事以外、今はできそうにない。これもうつと呼べるのだろうか。


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透雪 |MAILDusk of the Black HoleShine&Shadow