泡とガラス玉


2006年05月16日(火)      トキヲコエテ


音楽家がいました。
月夜の晩に屋根の上でバイオリンを弾いておりました。

音色は夜を流れて
眠れない絵描きの窓を叩きました
その窓を開けた絵描きは割れた筆を取り、
音に導かれるまま、粗末な紙に悲しく美しい絵を描きました


やがて月日は流れ
絵描きは死にました
独り身だった彼女の家は廃墟となり家の壁は蔦で生い茂りました。
部屋の中には美しい蜘蛛の糸がいくつも掛かり、
誰も近づくものはいませんでした

ある日
旅をしていた詩人が廃墟の前で立ち止まると
吸い込まれるかのように中へと入ってゆくのでした。
小さな部屋には古い机が一つきり。
重い引き出しを開けるとそこには絵描きの遺したたった一枚の絵が入っておりました。
それはそれは、悲しく美しい、あの月の晩の絵だったのでした。


詩人は震える手に持ったその絵を食い入るように見つめると
この世の美しさと悲しみのすべてが
胸の内に注ぎ込まれてゆくのを感じました。
詩人は晩になるまで詩を書いたのでした。


さらに幾年が過ぎ、詩人の元へある若い音楽家がやってきました。
その詩をどうか譲ってください。私は愛する絵描きのためにセレナーデを弾いてやりたい。それにはあなたのその詩が必要なのです。と言うのでした。
年老いた詩人は、人生最高の傑作であったあの詩を若い音楽家に託しました。





音楽家は美しさと悲しみのすべてを音楽に変えました。
永遠に結ばれることのできない愛する絵描きに届くよう、街でいちばん高い屋根に登りました。
夜の風と月光に音を乗せ、
眠れない絵描きのために音楽家はバイオリンを弾き続けるのでした。


永遠にこない朝を知りながら


その弦が切れるまで




いつまでも。





いつまでも。



彼はバイオリンを弾き続けています


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