No._ _ _ _ _ _ _ _ _ Date 2008年01月27日(日) |
境界例の中の、私の原風景 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 前回日記からの流れでは、唐突な、テーマの変わりようかな? でも、深層心理を辿っていくと、そうでもないかもしれない。 って、まぁ前置きは置いといて…。 とりとめのない話になるのを覚悟して、思いつくままに書いていきます。 久しぶりに、 境界例と自己愛の障害からの回復 http://homepage1.nifty.com/eggs/index.html というサイトを、ざーっと読み返しました。 こちらのサイトには過去、よーくお世話になりました。 というのも、私は5年前まで、しっかり「境界例」でしたので。 それまでは、とても生き難くかった。 自分から告白し、両思いになった1時間後、物凄い恐怖に襲われて、すぐ電話して頼み込んで別れてもらう。 女らしい仕草・化粧・恋愛を、親に「いやらしい」と一括されるのが恐怖。 目上の者への絶対服従。 家族内で滅茶苦茶に怒られた後、相手をあんなに怒らせる苦しませる私は存在しないほうが皆が幸せなのだ…と思い、手首を切ることを繰り返す。 自分の気持ちを、親族へ伝えることは「反抗」。 好意を持ってくれる相手を「気持ち悪い」と思ってしまう。 慰めてくれる相手にしがみつき、交際を始める。 彼氏へ求める理不尽な要求。 見捨てられる不安からくるヒステリー。 昼間の「良い子」を演じる私。 反動からくる「悪い子」の私。 技術の伴わないスピード運転。 好きで交際始めたのに、すぐに別れることを考える自分…もって半年。 (1ヶ月だけ好きだが、5ヶ月間別れる方法を模索し実行) 一つでも(常識的な範囲で)拒否されると、相手を呆れてしまい、無価値に思い、相手を100%敵だと思ってしまう。 異性が途絶えることがない。 しかし、同一の相手と3年近く続いたセックスフレンド。 「優しい子ね、素直だね」 と言われて褒められる。 しかし、同じ年の従姉妹や同年代の親族達が バイト・友人と旅行・泊りがけの遊び・活動・等、自分が思うように過ごしていることに、強烈に嫉妬し、そして怒り、悲しんだ。 けど、「物分りの良く、不満を言わない私」じゃなければ愛されないと分かっていた私は、そういった感情を出さないで日中を過ごす。 夜になり、鬱憤を晴らすように、夜な夜な外出した。 昼間、自分の感情を思うように出せない分、 夜には、こっそり窓から抜け出して、自分の思うように振舞った。 常に男性が切れることは無かった。 彼氏が出来ても、存在は親族に知らせることはしなかった。 「男と女が会えばすることは一つであり、男の優しさはお前を可愛いからではなく、やりたいがための全ての行動だからだ」 という主張を譲らないのは知っていたから、話さなかった。 離婚して出て行った母との思い出を探す。 オルガン教室へ通っていた私。 当時、私は小学校1年生。 教室には、とても上手な女の子がいた。 そのかわり、私はなかなか上手に弾くことができないでした。 帰宅後、母は私に特訓をさせた。 「なんで間違うの?」 「あの子はあんなに上手なのに、あなたは…」 「できるまで、ご飯はおあずけ」 「またちがう!」 「なんでできないの?」 厳しい母の口調に、やる気のなくなった私は、もう練習やだ…と言った。そうしたら 「自分がオルガン教室やりたいって言ったじゃないの!」 お腹が減っていた私は、母の許しを得て、もそもそ晩御飯を食べた。 この日を境に、あんなに好きだった教室は苦痛でしかなくなりました。 そして、上手に弾く女の子を褒める母だったので、それからは彼女のことを嫉妬と、怒りの塊で睨み付けていた自分を覚えてます。 私のお母さんに気に入られて憎い、という気持ちがありました。 今考えると、小学校1年生の女の子に、こんな気持ちを芽生えさせる母ってなんなんだ?と、愕然とします。。 母と買い物か何かに出かけたのでしょうか? 二人で手をつないで歩いていました。 当時、私は幼稚園生だったと記憶しています。 私が何かワガママを言ったのでしょうか、母が私の手を振り払い どんどん母の背中が小さくなっていきました。 とても寂しく、悲しくなった私はワンワン泣きじゃくりながら追いかけ、 恐る恐る、母と手を繋ぎたい一心で、手を繋ごうと手を伸ばしました。 少し手が触った途端、母が 「そんな子は嫌いです」と睨みつけ、 更に早歩きで遠ざかっていきました。 私は走って追いつき、更に手を繋ごうと手を伸ばしました。母は 「ちゃんと謝らなきゃ、手は繋がないわよ」と言うので、 私は無我夢中で、泣きじゃくり嗚咽しながら 「もう、しま、せん、ごめんなさい、もう、いわないから、てを、つないで、おねがい」 と頼みました。 母はイヤイヤに、私と手を繋いでくれました。 母が、私の何に対して怒り、こういう態度をしたのか、当時は勿論、今も分かりません。 原風景 私は、幼い頃から絵を描くのが好きでした。 漫画好きも高じて、高校入学あたりから、隣の席の子から誘われて サークルに入り、月刊誌を発行するようになりました。 1年生の頃は、思春期もあり内にこもるようになり、対人関係は皆無に等しく。 漫画だけで、数人の友人と繋がっていただけでした。 そんな中でも、ずっと暖めていた作品があったので、楽しい作品が書けて、私のファンという人もいてくれました。 2年生になり、、。内に向いていた自分の心が開けていき、友人は一気に広がりました。 そしてまた、原稿依頼がきました。前世の悲恋を現世で成就させる人魚の漫画を1本書き上げました。 構想が次から次へと浮かび上がり、ネームが出来るたびに、隣の席だった子に見てもらい批評してもらっていました。 この時、私のネタは、自分の中から湧き上がる気持ちを具体化したネームばかりでした。 そんなある日、彼女は率直に批評してくれました。 「雅紀の描く漫画って、ストーリーって、物悲しい雰囲気がいつもあるね」と。 その言葉を聞いた瞬間、ハッとしました。 考えても考えても、描いても描いても、幸せで楽しいストーリーが私の中から沸いてこなかったことに、悩んでいたからです。 幸せで楽しくて、ホンワカした物語を描きたくて、そして描いていくうちに…嫌気が差してくるのです。 しっくりこないのでした。 そのかわり、好きだった者同士が死に別れして悲しんで終わったり、、 片思いで終わったり、残酷だったり、好き合ってるのに片方の我慢で成り立つ幸せ…それらを描いているときの方が、しっくりくるのでした。 けど、漫画は自己満足じゃぁダメだよね。 漫画はエンターテイメントだから皆が幸せになる話を描きたい。 しかし、そう思っているのに、物悲しい物語しか思いつかない私は、悩んでいたのでした。 そんな中、彼女にそう指摘され「ああ、やっぱり感づかれてしまった」とへこみました。 そしてなぜか、見透かされた事に対して「なんで彼女にそんなことわかったの?!ふざけるな!」と、怒りに震えました。 彼女と普通に接することができるまでに1ヶ月かかりました。 (会うと突っかかってしまいそうで、ある程度治まるまで無視してました) 彼女は悪くないんだ、ただ単に、漫画の批評をしてくれたに過ぎないんだ。 これは私の逆恨み!これは私の心の問題なのよ! と、自分に言い聞かせました。 漫画家になりたいと考えていた私は、自分には何が描けるのだろうか?と知りたくなり、 真っ白い原稿用紙を前に置き、自問自答するように、丁寧に線を描き始めました。 大きくて真っ赤な夕日。 見えるのは、身の丈に近いほど伸びた草が生えている、見渡す限りの野原。 ひと段落、描き終えました。 さて、この野原には、何があるかな? 誰かいるかな? 風がソヨソヨと吹き抜けた一コマを付け足した。 アーン アーン 泣き声を書き足す。 子供の泣き声だな…、ポロポロ落ちる涙を描く。 真っ赤な顔で、寂しそうな顔をして泣いている幼い子供を描く。 何に泣いているんだろうか? 何かを探しているみたいだ。 草をかきわけて、歩き回る幼子を描く。 この子は、とても心臓をドキドキさせて不安いっぱいで歩き回る。 野原は、草がとても高くて小さい子供には見渡せない。 一歩踏み出し、草をかきわける度に、何がでてくるのか怖くてたまらない様子だ。 けど、日が暮れる前に「お母さん」を探し出さないと、もっと怖いことになりそうで、必死に子供は捜しまわっていた。 狼?野生の動物の鳴き声が聞こえる。 足音が近づいているような気がする。 食べられてしまいそうな恐怖と不安にかられた。 一歩踏み出すにも時間がかかっていた子供が、「お母さん」と助けを呼びながら走り出した。 心臓も、もっとドキドキと打っていく。 ああ!! 急に開けた場所に飛び出した子供は、叫んだ。 母親が、血の中で倒れて死んでいた。 子供は泣いて泣いて、泣いた。 さて、ここまで描いて、自分でツッコミを入れた。 終わりが想像つかないぞ・・・っと。。 たぶん、この子供は、お母さんがいない中でも、周りの心優しい人達に育まれ、時には理不尽な人に嫌な思いをされつつも、たくましく生きていく…んだろうなぁ?そうあって欲しい。 そうは思うけれど、優しい人たちって、具体的にどんな? 理不尽な人は、想像できる・・・ けど、その中で主人公がどうやって立ち振る舞い、読み手に感動を与えるような生き様を描き出すのかを、私には全く想像ができなかった。 そこで、私は気づいた。 私には漫画は描けない。 描きたい!と思って心に従い描いた漫画のこの数ページ。 これが私の今の本質だ。 これから先の物語は、私の理想・憧れだ。 理想と憧れを描けたら素敵だろうな…。 けど、それら人間関係の物語を、私は、苦痛に感じているみたいだ。 そんなワケあるか?!!と、突っぱねる自分がある。 なぜだろう?父母が小1の夏に別れて、親戚達に見守られつつ育ってきた私なのだから、恩や優しさには敏感なのに。 なのに、それを、物語として自分を投影して描くことは、自分にウソをつかせているように感じてしまいそうだった。 今、私が、描けるストーリーは、ただ、これだけだ。 母の死に直面し泣き続けている子供がいる。 ただ、そこまでだ。。 そして私は、泣いた。 さめざめと、泣く程に、もっともっとと、涙が溢れてきた。 私の唯一の、周りから賞賛をもらっていた漫画。 しかしそれは、サークルという小さい枠の中だけの話だったことに気づいたし、 漫画家になることは、自分には苦しすぎると実感した時だった。 そして、私は、その日から漫画を描くことは、辞めた。 それから約10年後。 長続きしない人間関係を悩み、 自分の苦しさをどう処理していいのか分からず、 同じような男女の過ちを繰り返し、成長できない私の前に、あるひとりの男性が現れた。 初っ端から、彼との関係を求めるあまり、道を間違えてしまった私に気づき、初めて、 「しまった!!」と、激しく後悔した。 色々あった。 けど、彼は、いつも変わらない態度で接してくれたし、私は彼に憧れた。 憧れと、恋愛を、ごちゃまぜにした私だったけれども キチンとした、恥じない自分でありたいと強く思えれた。 生まれて初めて、 裏も表も無い自分でありたいし、そういう自分を見てもらいたいと強く思っていた。 いろいろと模索した。 そんな中、前記したサイトに出逢った。 症状を読むと、丸っきり私だった・・・。 そして、サイト主催者の書く、彼の原風景を読んだ時のこと。 高校2年生の時に描いた「野原で泣く子供」を思い出しました。 私は、知らず知らず、原風景を描く方法で、描いてたのか…。と。 あれは、私自身だったんだね、 泣いてたのは私だったんだね、 草が高すぎて世界を見れなかったんだね、 草が開けて見つけた、死んでいた母…それが私の世界全てだったんだね。 そこでただただ泣くしか方法を見つけられなかった私だったんだね。 私の深層心理、本当に全てが入っていた絵でした。 原風景2 小さい頃から見ていた夢がありました。 小学校低学年あたりは、一緒におしゃべりできたその子は普通の服装でした。 中学年あたりに夢で見たときは、夏なのにハイネックに長ズボンでした。 私は、「変なの」と言いました。 高学年の時には、その子は、異様に重ね着をしていて、とても動き辛そうでした。「どうしてそんなに着るの?」と訊ねたら「これでいいの」と言いました。 中学生になり、その子は、首の周りにグルグル包帯を巻いていました。 怪我でもしたんだろうな、と、私は彼女を見ない振りをしました。 高校生になった頃には、帽子をかぶり、厚着に厚着を重ね、身体中に包帯を巻きつけて、私の目の前に立っていました。 目も、顔中ふさがっているので、どこを見ているのかも分かりませんでした。 私は、彼女が薄気味悪いし気持ち悪いので、彼女から離れていこうとしたら、彼女が少し動きました。けど、厚着と包帯のお陰で、ピクリとしか動けません。 何か喋っていましたが、口は包帯で幾重にも塞がれているので、聞こえませんでした。 私は彼女がいる部屋から出て行きました。 そして、自分を模索し分析し、ある程度落ち着いてきた頃、 高校生以来、久しぶりに、彼女が夢に出てきました。 彼女は、同じ教室に立ち尽くしていました。 厚着と包帯のせいで、座ることもできず、ただただ長年立ち尽くしていたようでした。 服も包帯も汚れて埃まみれで汚くなっていました。 私は部屋の入り口に立っていました。 急に、彼女に謝らなきゃいけない!そう思い、いてもたってもいられなくなり 彼女に抱きつき「ごめんね、忘れててごめんね、愛してるよ」と、告げました。 彼女は、私に少しよりかかり、身体の力が抜けるのを感じました。 夢から覚めた私は、ぐるぐる巻きの彼女のことを考えました。 彼女は、私自身でした。 身を守るために、厚着に厚着を重ねていた私でした。 次第に、防御であった服が、自分自身を縛っていき、思うように動けなくなっていきました。 周りからの罵詈雑言、外気の冷たさから心を守る為に、手から足から、頭のてっぺんまで、包帯でぐるぐる巻きにして守っていた、私自身だったのだと気づきました。 私は、自分自身の身体に腕を回し、彼女を抱きしめたように自分を抱きしめて、何度も謝りました。 「もう大丈夫だよ、何があっても、もう私は、私を見捨てないからね」と何度も言って抱きしめ、泣き続けました。 気がついたら眠っていました。 けど、目が覚めたときには、「私には、私がいてくれる」と実感していました。 包帯グルグル厚着の彼女が、全て脱いで、私になったように感じていました。 これを、原風景と言うのかは分かりませんが、 このとき、私は生まれたような気がして、とても幸せを感じていました。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - |