月の輪通信 日々の想い
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2008年04月14日(月) 怒涛の春

知らぬ間に近所の桜はすっかり散ってしまい、葉桜の季節になっていた。
4年生に進級して、少し下校時間が遅くなったアプコを迎えに、坂道を歩いて下る。

アユコの中学卒業、入試、高校入学。
子どもたちの進級。
相次ぐ父さんの地方個展。
その留守中に、義父の転倒、入院。
慌しく怒涛のごとく過ぎていく春。
工房仕事の合間に見上げる空は日に日に明るく、高くなっていく。

遠くから私の姿を見つけて、カタカタとランドセルを鳴らしながら駆けてくるアプコ。
短いスカートからにゅっと出た足はすんなりと伸びて、若い小鹿のように跳ねてくる。ぺたぺたと音のする幼児の足取りをすっかり卒業して、タッタッと軽い足音が近づいてくる。
いつまでもちびっ子と思っていたのに、知らぬ間に少女に成長していく末っ子姫。。
慌しく見逃してしまった桜のように、いつの間にか失われていくアプコの幼さを惜しむ。

「おじいちゃんが入院したら、おばあちゃんは一人でさびしいよね。」
しょっちゅうおじいちゃんおばあちゃんに甘えて育ったアプコは、ひいばあちゃん亡き後なんとなくさびしくなった祖父母宅の老いを気遣う。
いつのまにか、その口ぶりは世話好きなアユコの物言いに似てきた。
いつまでも祖父母に甘える甘えん坊姫の仮面の下に、老いを労わる優しい心根が育ちつつあるのだろう。
有難いことだなぁと改めて思う。








2008年03月07日(金) 選択

アユコ、受験生。
万一に備えて受験した私立高校は合格した。
そして今日、第一志望である公立後期の出願初日。
友達の多くは受験する学校ごとに集まって願書提出に出かけていったが、アユコは一緒には行かなかった。
最後まで志望校を絞りきれなかったアユコは、他の受験生達の出願状況を見てから最終的な受験校を決め、締めきりぎりぎりに願書を提出するのだという。

危なげなく入れそうなA高校と、アユコの実力ではかなり背伸びの必要なB高校。
「電車の定期券を持って通える、街の学校がいいの」と、B高校を目標に頑張ってきたアユコだが、最終決定の時期になって倍率の高いB高校受験には不安が残る。担任の先生との懇談ではこれまで視野に入れていなかった別のC高校D高校も考えてみてはどうかといわれた。
出願まであと数日という時期になって、どうにも最後の決断が下せない。
悶々と考えあぐねる日々が続く。
仲のいい友達や先生、オニイや父さん母さん、いろんな人に「どうしたらいいと思う?」と聞いてみても、結局のところ決断するのはアユコ自身。
誰もその選択の末にやってくる結果を変わりに引き受けてくれるわけではない。
「自分の道を自分で選ぶ」
そんな難しい、人生最初の岐路にアユコは今立たされているのだなあと思う。

「そんなに苦しい思いをするのなら、比較的安全圏といわれているA高校でいいじゃないの。通学も近いし、落ち着いたいい学校だし。」
ついついわが子にとって危険の少ない安全な道を勧めてしまいそうになる愚かな母。
「うん、そうなんだけど。A高校もいやじゃないんだけど。」
と、涙をいっぱい浮かべてアユコは首を振る。
いつも一所懸命で生真面目なアユコ。
当初の目標のをあきらめて、楽に越せそうなハードルを余裕でまたぎ越す選択をする自分自身をどうしても許せないらしい。

頑固なヤツだなぁと呆れつつ、ン十年前、同じように高すぎるハードルに果敢に挑戦して撃沈し一年の浪人生生活を余儀なくされたどこかの頑固娘のことに想いが至る。
あの時父母は、撃沈確実の無謀な受験に臨む娘をどんな想いで送り出したのだろう。
若い頑固娘の頭の中は自分のことだけでいっぱいで、父や母のことを考える余裕はなかった。
「自分の道は自分で選ぶしかない」という現実に直面して、初めて自分の足で歩むことの怖さにただただ震える思いだった。
その背中に、黙ってわがままを通させてくれた父や母の暖かい見守りがあったことに気づいたのは、ずっとずっと大人になってからのことだったように思う。

先日、ふらりと出かけたデパ地下の出店で、懐かしいあんパンを見かけた。
大学近くの小さなパン屋でよく買っていた小ぶりのあんパン。懐かしい想いで、思わず買って帰った。
予想通り撃沈した1年目の受験発表の折、私はそのパン屋の側の公衆電話から「やっぱりだめだったよ。」と、母に不合格を知らせた。
パン屋の店先からは、トレーに山積みされた焼きたてのあんパンの香りが香ばしく流れてきた。
「きっと来年こそは、晴れてこの学校に合格してあのあんパンを買ってやる」と、溢れる涙をゴシゴシとぬぐったことを覚えている。
買って帰ったあんパンを前に、そんな思い出をアユコに語った。

受験生を前に、不合格の思い出のパンとは縁起でもない。
けれどもそれは、
「自分の道は自分で選ぶしかない」
「選んだ末に訪れる結果は自分で引き受けるしかない」ということを私が学んだ日のほろ苦い思い出の味だ。
素朴なあんぱんのほのかな甘みは、苦渋の選択の期限が迫るアプコに何を教えてくれるのだろう。
「がんばれ、頑張れ」とただただ祈る気持ちでアユコの選択を見守る。
まだもうしばらく、悶々と悩みうろたえる日々が続きそうだ。


2008年02月20日(水) 暖かい手

深夜、突然に目覚めた。
嫌な夢を見たような気もするけど、思い出せない。
息詰まるような不安な思いに駆られて、眠れなくなった。

傍らには、早朝の窯詰めに備えて仮眠をとる父さんの規則正しい寝息。
明日は和歌山の展示会の搬入。
工房では、ぎりぎり滑り込みで持ち込む作品をまだ焼いている。
窯は夜昼問わず、フル回転。
その合間を縫って、父さんは家で短時間の仮眠を取る。
分刻みのタイマーを仕掛けて、目覚めればすぐに工房へ戻っていく。
その繰り返し。

何が苦しいというわけでもない。
それなのに時々熱病のように湧いてくる漠然とした不安。
黒く圧し掛かる想いを一人では抱えかねて、眠っている父さんの側に添う。
静かな寝息を聴きながら、胸の上に置かれた父さんの手にそっと触れてみた。
眠っているはずの父さんの手がゆっくりと動いて、遠慮がちに触れた私の手を暖かく包んだ。
「しまった、起こしてしまったか」とも思ったけれど、規則正しい寝息のリズムはそのままで目覚めたような気配はない。

疲れ果てて熟睡しているときでさえ、私はこの人に守られているのだな。
眠っている父さんの暖かな手を通して、私の中に静かな力が満ちてくる。
怯むことはない。
この人がそばに居る限り、多分明日も大丈夫。
満たされた思いで父さんの寝息の数を数えながら、いつの間にか私も眠りに落ちた。

それだけのお話。


2008年02月18日(月) 落ち着かない椅子

次の展示会に向けて急ピッチの仕事が続く。
作業台、乾燥室、窯場と慌しく行き来しながら最後の追い込み仕事に励む父さんの傍らで、数物のお皿の釉薬掛けを続ける。

私が仕事をするのは、相変わらずひいばあちゃんの作業場。ひいばあちゃんが使っていらした道具類や前掛けもまだそのまんま。うっすらと埃をかぶって作業台の一部のように溶け込んで鎮座している。
ほんの数年前までひいばあちゃんは、ここでキイキイと鳴る古い作業椅子に座り、来る日も来る日も土をひねり、黙々と釉薬掛けをしておられた。
その同じ椅子に腰掛け、見習い職人はたどたどしく刷毛を動かす。
刷毛にたっぷりと白い釉薬を含ませ、栗茶のかかった素焼きの生地を撫でる。見る間に染み透っていく釉薬を乾ききらぬうちに手早く円を描く。

この場所はもう、ひいばあちゃんの作業場ではなくなってしまったのだなぁと改めて思う。
生前は、ふいに思い出したように作業場へ降りてきて土をひねっていかれるひいばあちゃんを迎えるために、何となく借り物の落ち着かない気分で腰掛けていた作業椅子。
ひいばあちゃんがおられなくなった今、もうこの場所は紛れもなく私の仕事場。これから先何年も、この場所で私は釉薬をあわせ、父さんの背中を見ながら釉掛けの仕事をしていくのだろう。

「仕事は楽しい。
夜、寝るときに『明日はどんなものを作ろうか』『明日は何の仕事をしようか』と考えるのが、何より楽しい。」
97歳の春、ひいばあちゃんは入院中のベッドの上でこんなことを話してくれた。生涯職人としての気概を失わなかった偉大な先人であるひいばあちゃんを想う。
私には、この人の席に座る資格が本当にあるのだろうか。
私に与えられたこの椅子は、まだ今一つ、落ち着かない。


2008年02月13日(水) ラブラブ

バレンタインデーが近い。
数日前からアプコが
「ねぇ、おかあさん、今年はチョコレート、作りたいんだけど」
とうるさい。
いつもは近くのスーパーやお菓子屋で可愛い包装済みのチョコを買って来て父さんやオニイたちに配る程度が定例なのだけれど。
今年は、お葬式やら父さんの個展やら何かと忙しかったし、いつも指揮を執ってくれるアユコも受験生ということでバレンタインは自粛するらしい。
何となく気乗りがしなくて、ズルズルとおざなりに聞き流していたのだけれど。

「あのね、チョコ、作って、あげよっかなって思ってる子がいるの」
え?え?
何ですと?
「クラスの女の子達、結構みんな男の子にチョコあげるみたい。Tちゃんなんか2,3人で集まって男の子の家まで直接持っていくんだってよ。」
はぁ。
近頃の3年生はおませですな。
で、アプコは誰にあげたいの?
「んー。名前は言わない。その子、あたしのこと好きやねんて。まわりの人がみんなそういうねん。」
ふむふむ、噂のカップルというわけですな。
それで?アプコもその子のこと好きなん?
「いっつもよくしゃべってるし、おもしろい子やねん。」
それって、ラブラブ?
「う〜ん、違う。友だち。」

「ねえねえ、ラブラブと友だちはどこが違うの?」
だんだん楽しくなってきた母が、アプコに食い下がる。
「いっつも一緒に居るのがラブラブ。時々お話しするのが友だち。」
「あら、そう。じゃ、遠く離れて住む遠距離恋愛はラブラブじゃないの?」
「あ、そっか。」
考え込むアプコ。
「わかった!おしゃべりしてて、ドキドキするのがラブラブ。普通に喋って楽しいのが友だち!」
「ほう、ずいぶん考えたね。ドキドキか。いいねぇ。」
と、感心していたら
「あ、でもね、ラブラブでも、結婚したら普通に喋ってもドキドキしなくなるんだよ。」
と慌てて付け足すアプコ。
「あらそう?そうなの?
おかあさんは結婚してるけど、まだ時々お父さんにドキドキするんだけどな。」
といったら、アプコ、キャッキャと笑って止まらなくなった。

「ラブラブ」だとか「ドキドキ」だとか、そういう言葉を口にするだけで嬉しくなっちゃうお年頃。
バレンタインのチョコレートも、3年生の女の子達にとっては楽しい遊びの延長なのだろう。
ラブラブと友だちの境界も、彼女らなりのものさしでちゃんと振り分けているらしいところがなんとも可愛い。

「ねぇ、アプコ。
今年はやっぱり手作りチョコはやめておこうよ。
アプコが初めて作る手作りチョコは、やっぱり初めてラブラブのドキドキになった男の子にあげたいじゃん。
そう思わん?」

うふふ、手作りチョコ回避の決定打。
首尾よく成功。


2008年02月05日(火) どこへ行くの?

アプコは、大きな声を出してワァワァと泣いた。
アユコは、アプコの肩を抱いてしゃくりあげていた。
その後ろでゲンは唇をへの字に結び、宙空を見上げていた。
部活から全速力で自転車を飛ばして帰ってきたオニイは、人のいないところで眼鏡をはずし、拳で頬をぬぐっていた。
ひいばあちゃんが逝ってしまった。

子ども達にとってひいばあちゃんは、居間のドアを開けるといつもTVの前に座っていて、顔を見ると「やぁ、きたきた!」と喜んで到来物のお菓子を勧めてくれる優しい存在だった。
そして窯元という仕事を意識し始めているオニイにとっては、偉大なる先代夫人、生涯変わらず職人仕事を極めた尊敬すべき先人だった。
ただ眠っているかのように横たわっている穏やかなひいばあちゃんが、もう物言わぬ、遠い存在になってしまったということを、このとき子ども達は本当に実感として理解していたのだろうか。

通夜、告別式があわただしく過ぎていった。
ひいばあちゃんのお線香番を代わる代わる務め、おじいちゃんおばあちゃんのそばに付き添い、子ども達はそれぞれに自分達の役割をよく果たしくれた。知らぬ間に怒涛のように進んでいく葬儀の流れの中で、ひいばあちゃんとの別れの悲しさとは別に、何となく新しいイベントに臨む様な独特の高揚感が漏れていた気がする。
棺にちんまりと収まったひいばあちゃんを見て、弔問の人たちは「きれいなお顔をなさって・・・」と口々におっしゃってくださったけれど、ひいばあちゃんはまるでついさっきふいと居眠ってしまわれたばかりのようで、子ども達は誰もドライアイスで冷たくなったお顔に手を触れようとはしなかった。

告別式を終え、火葬場へゆく。
読経のあと、エレベーターの扉のような火葬炉の中へひいばあちゃんの棺は消えた。
「ねぇ、おかあさん、ひいばあちゃんはどこへいくの?」
葬儀場へいったん帰るマイクロバスの中で、アプコが小声で私に聞いた。
天国?極楽?あの世?黄泉の国?そんな答えがあれこれグルグル私の頭をよぎったけれど、アプコが求めていた答えはそういう類のものではなかった。
火葬に立ち会ったことのないアプコは、ひいばあちゃんの棺を扉の向こうにすでに埋葬してきたものかと思ったらしい。いつもお墓参りに行くお墓に入れるはずなのに、何故ひいばあちゃんの棺を置いてみんなが帰ってきてしまうのかがよく判らなかったのだろう。
言葉を選び選び、埋葬までの流れを説明してやった。
そういえばアプコ以外のほかの子たちも、何度かお葬式には出たことがあるものの、お骨上げの場には立ち会ったことがなかったかもしれない。

扉の向こうから引き出された台の上には、もうひいばあちゃんは居なかった。
「ここが手。ここが足。そしてここがお顔です。この部分が喉仏ですね。」
真っ白な紙細工のように燃え尽きたひいばあちゃんのお骨。
はじめて見る火葬後の姿に心を衝かれたか、子ども達は何となく後ずさって、お骨に集まる大人たちに席を譲った。

アプコは、お骨を拾うお箸をなかなか持ちたがらなかった。
アユコがアプコと一緒に手を添えて、ひいばあちゃんの手指のお骨を拾った。
オニイも口数が少なくなり、宙を見上げていた。
一人ゲンだけが私の側に寄って来て
「こんなこと、言っちゃいけないかも知れないけど、人間も『モノ』だったんだよね。」といった。

そだね。
確かに、「ヒト」も「モノ」なんだよね。
父さんも母さんも、君も兄弟達も、最後はこんな風に真っ白な「モノ」になるんだ。
でも、その「モノ」が、笑ったり悲しかったり苦しんだりするって言うのが不思議だね。
人間のモノじゃない部分は、いったいどこに行くんだろうね。

そんなことを話していたら、アプコがぎゅっと私の手を握った。
「おかあさん」
潤んだ目で見上げたきり、後の言葉が続かない。
暖かいアプコの手。
「モノ」だけど「モノ」じゃない、生きているアプコの手。

「ひいばあちゃんはどこへいくの?」
ごめん、アプコ。
お母さんにはわからない。



2008年02月02日(土) 臨終

父さんは一日個展会場へ。
義兄は、京都のお茶会へ。
義父母とともに、ひいばあちゃんに付き添う。

朝早く、点滴のためにやってきた訪問看護の人が、
「血圧が非常に低い。手首では脈が取れない」と言われた。
呼びかけにも反応しないし、ずっと眠っておられるよう。点滴もなかなか入らなくて、長い時間かかった。
今日明日あたりが山場かもと言われた。

義兄や父さん、主治医の先生や訪問看護センターなど、あちこちに連絡を取りながら、交替でひいばあちゃんのそばにつく。
義父母も危急の事態に何となくそわそわとうろたえ始めた。
看護士さんから直接伝え聞いたこともよく理解しておられなかったり、何度も聞き返したりなさることが増えた。
私がしっかりして、ひいばあちゃんの最後を看取らなければと思うと、急に薄ら寒く怖くなってきた。

昼、訪問看護センターから電話。
「もし、呼吸が止まったら、救急車は呼ばないでセンターか主治医に電話してください。
呼吸の止まった時間を、見ておいてください。」
とシビアなお話。

小さく口を開けてただ眠っているひいばあちゃんの傍らで、お義母さんと静かに思い出話をしていた。
「あ、とまった?」と、二人同時に気がついて、ひいばあちゃんの口元に手を当てたら、もう呼吸をしておられなかった。
午後1時40分。
ご臨終だった。

「電話しなくちゃ」と部屋を出たとたん、電話がなった。
主治医の先生だった。
容態が気になってかけてきてくださったようだが、「たった今、呼吸が止まりました」と告げるとすぐに駆けつけてきてくださった。
先生が臨終を確認してくださり、死亡診断書の手配をしてくださった。
訪問看護の看護士さんに電話して、ひいばあちゃんの清拭をお願いする。

先生の車を見送ったら、わっと涙が溢れた。
でも、もう少し、泣いていられない。
玄関の外で涙をゴシゴシ拭いて、義兄や父さんに連絡を取った。


夕方、義兄が帰ってきて、義姉や義妹もやってきた。
臨終のショックも落ち着いて、義父が最後の瞬間のことを何度も話していた。気持ちが高ぶって、喋り続けずに居られないのだろう。
義母も少し落ち着くと、いつもよりハイテンションでパタパタと走り回っている。
葬儀屋がやってきて、にわかに家の中があわただしくなった。
ひいばあちゃんが、私の手の中からふわっと消えていなくなってしまわれた。


2008年01月30日(水) こんなことしたかて

ひいばあちゃんの病状、相変わらずよくない。
ほとんど召し上がらない。
お茶も一口二口しか召し上がらない。
数日前から、訪問看護の看護士さんが毎日来てくださることになって、血圧や脈拍を診て、着替えをさせ、点滴をして行ってくれる。
何も召し上がっておられないのにひいばあちゃんは、着替えを嫌がって手を払ったり、点滴の腕をもどかしそうに振り上げたりするだけの力が残っているらしい。
「いややぁ」とか、「しんどい」とか、子どものように訴えたりなさることもある。

今日、看護士さんと義母がお下の着替えをさせていたら、ひいばあちゃんが突然大きな声ではっきりとおっしゃった。
「こんなこと、したかて、もう、なんもならへん!痛いだけや。」
そのはっきりした言葉の意味に、看護士さんと義母の手が一瞬はたと止まった。
胸を衝かれる言葉だった。

「そうかなぁ、なんもならへんのかなぁ。」
看護士さんは、ひいばあちゃんの言葉を優しく受け流して手早く着替えを終えられた。
100歳を超えたひいばあちゃんに、もうそれほど命のエネルギーが残っていないことは、家族にも看護士さんにもよく判っている。
それだけに、「一日でも長く」とひいばあちゃんの細い腕に毎朝点滴の針を刺す心境は複雑だ。
このまま何もせず、静かに命の火を消していかれるのを見守って差し上げるべきなのではないかという疑問が付きまとう。
でも、家族は皆、一日でも、一時間でも、一分でも、お別れの刻は先送りにしたいのだ。
そう思う気持ちは、遺されるもののエゴなんだろうか。
「こんなことしたかて、なんもならへん」ことなのだろうか。

辛い看取りの時間が今日もゆっくりと過ぎた。


2008年01月26日(土) 老衰

ひいばあちゃんの具合が悪い。
寝間から起きてこられなくなり、食事も取られない。
吸い口で少しづつお茶を飲ませる。
プリンを一口二口召し上がる。
あとは、「しんどい」といって、うつらうつらしておられる。

老衰なのだ。

点滴や注射も、年寄りには負担になるのだそうだ。
主治医の先生も、「このままゆっくりさせてあげなさい。」といわれる。

義父はそれでも、一日でも命を永らえて欲しいと、無理をしてでも何か食べさせたいと、躍起になっている。
イライラして、自分をおさえられなくなっている。

たまたま義兄が東京へ出張。
いつもひいばあちゃんの介護や通院の決断を下している義兄が居ないので、その役割が個展前の父さんに負いかぶさる。
出来るだけ仕事に専念させてあげたいのだけれど。

人が枯れ落ちていく瞬間に立ち会っているのだろうと思う。
辛い。


2008年01月19日(土) 老いの終幕

寒い朝。
デイサービスに出かけるひいばあちゃんの身支度を手伝うために出動。
食事を終えたひいばあちゃんのお下の着替えを済ませ、髪を結う。

昨年末、100歳の誕生日を迎えたひいばあちゃん。
お正月のお膳もご機嫌よく召し上がって、新しい年を迎えたのだけれど、ここ数日何となく調子が落ちた。
最初は、「寒い寒い」といってお着替えを嫌がることからはじまり、だんだんにちょっとした移動も大儀そうになさるようになった。
寝床まで行き着く前に床にごろんと転がって眠ってしまわれることもある。大きな声で呼びかけても、かろうじて首を振って返事をなさるばかりで、お声を聞く事が少なくなった。
テレビの前に座っていてもうつらうつらと居眠りしていることが多くなり、食事もほんの一口二口しか召し上がらないことも増えた。
心配した義父が、口当たりのよいプリンやお茶を勧めて、かろうじて食事を終える。
今日、かかりつけのお医者様の口から、「老衰」という言葉がはじめて漏れたという。

あちらの扉、こちらの小窓と一つ一つを閉じていくように、静かに生の営みを閉じていかれるように見えるひいばあちゃん。
それでも目覚めれば、部屋から食事の席までは自分の足で歩いておいでになるし、介助もなしに自分でお箸を持ってご飯を召し上がることもできる。
「もう、ごはん、おわり?」と書いた筆談の文字を目で追って、黙ってうんと頷いたりなさる。
食べて眠って排泄をするという最低限の機能を最後まで残しながら、このまま少しずつ家族や外界と繋がる間口を狭めて、老いの終幕へと進んでいかれるのだろう。
「待って、もう少し」と引き止めておきたい気持ちと、
穏やかに歩んでいかれる道の先をじっと見守っていて差し上げたい気持ちと。
複雑な思いで日々を送っている。

ひいばあちゃんの手先、足先は冷たい。
100年生きたひいばあちゃんの心臓は、もう体の隅々まで温かい血液を配るだけの力を持っていないのだろう。
それでも、今取り替えたばかりのパンツ型紙おむつはぼってりと重く暖かい。
それはひいばあちゃんが、100年と三十何日めかの今日という朝を、確かに生きて迎えられたということの確かな証。
奇蹟のような重みと暖かさを、いつまでもこの手に記憶させておきたいと思う。


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