股・戯れ言


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日記在庫整理 その1

日記在庫整理 その1

思うところあって、某所に書いていた日記の一部をこっちに貼りなおします。何個かまとめて貼り直すでよ。

■うたは  2008年05月23日20:44
歌ってる人間だけのものでもなく、聞いてもらいたい人間のためにあるのでもない。聞いてくれる人間のためにあるのでもない。
うたの聞こえるところにいる人間のためにもあるし、聞こえないところにいる人間のためにもある。


聞いてもらいたい人間のために、うたは歌われる。
聞いてくれる人間のために、うたは歌われる。
歌いたいという気持ちがあるから、うたは歌われる。
聞こえることを許容してくれる人間のために、うたは歌われる。
聞いたことのない人間のために、うたは歌われる。
皆が幸せになるために、うたは歌われる。


歌いたくない時もあるだろう。
今は歌いたくなければ、歌わなければいい。
歌いたくなったら、また歌えばいい。
聞きたくない時もあるだろう。
今は聞きたくなければ、聞かなければいい。
聞きたくなったら、その時聞けばいい。
それらすべての人間が幸せになるために、うたはある。
うたはなくならない。
うたはただ、そこにあるだけ

■ストップ!自傷行為くん  2008年05月26日16:37
っつてもまーリストカットも自分で首絞めなんかもしてないんですけど。
あ、フィンガーカットは2回くらいしたな。事故だけど。


リストカットみたいなもんだけが自傷行為なのではなく、
生ぬるく生きていくことが自傷行為なのだと思った。
自分の思うことを無理矢理こさえてみたり、
自分の意にそぐわぬことをがんばったり、
「こんなはずじゃないのに」と思いながら生きていくことも自傷行為だ。
自分を傷つけながら、何かを得ようとする(人間だけでなく、物や生活や快感なども含む)のはすべて自傷行為だ。


そんなことしないでも
人間だからいっぱい傷つく。
いっぱい痛いと感じる。
痛みを痛みとして感じていくことが、大事なのだな。
痛みを「痛くない」「しょうがない」「これがないと生きていけない」「でもスッとする/気持ちいい」などと置き換えてしまうのが
自傷行為なのかな。


というわけでわたくし最大の自傷行為を、もう辞めようかと思いまして
本日はこんなことが痛かったのですという話をしてきました。
ありのままに思うことを伝えたら、わかってもらえましたよ。
わかってもらえなくても、辞めるんだけどさ。
まーすぐには辞められないのだけど、
腹は決まったのでもう大丈夫。
もう自分を傷つけないで済む。
これからいっぱいいっぱい傷つくだろうけどね〜

■地名しりとり  2008年05月31日12:04

今を遡ること5、6年前まで、とあるご縁で、わしは名古屋によう通ってました。
その頃のことは覚えていることもあるし、忘れてしまったこともたくさんある。

いろいろあったが、あまりよくない思い出が最後にドカンとあったので、長いこと名古屋は自分にとって嫌な街であった。できれば二度と行きたくない街であった。


が、どういうわけか仕事の都合で年に一、二回は必ず名古屋に来ている。
仕事だからしょうがないと言えども、どこかで縁のあった土地なんだろう。
そうそう、名古屋行かなくなってから東京で知り合った友人が名古屋の出身だったりしたしね。


そしてまた、仕事で名古屋に来ているわけですが、
わしにとってはこのタイミングで名古屋出張てのも、なんか縁があるんだろーなーと思えるわけです。


で、昨晩は前の日記にも書いた通り大好きなねえさんと呑んだ。ずっと知り合いだったが、初めて話すことがたくさんあった。今まで自分で拒否して、逃げ回ってたことについても言及した。
ねえさんが「ここまで話したことなかったねえ!今日は酒がまずくて嬉しいよ!」と言ってくれて、私も酒がまずくて嬉しかった。
感じることと思うことは、ずれてもいいんだな。いつも一緒でなくてもいいのか。


ホテル戻ってテレビ見てたら「地名しりとり伝説」がやっていて、えらくたまげた。
地名しりとりは、私が名古屋に通ってたころ、オンタイムで楽しみにしていた番組なのでした。街の人と「行ったことある地名」をしりとりし、岐阜・愛知・三重の地名がでるまで続く、というやつ。ワッキーが言われた土地まで行かなきゃいけない→その土地の人とまたしりとりして、言われた土地まで行く、というルールの番組で、
愛知、岐阜はすぐに出たのだけど、三重の地名だけがどうしても出ない。
三重の地名を求めて、北海道行ったり、鹿児島行ったり、福岡行ったり、松山行ったりする(飛行機移動はNG)のでした。


オンタイムで見ていた当時は、すげーな、大変そうだな、いろんなとこ飛ばされてんな、と思いつつ、いいなー旅と憧れてました。
あと、もし自分がしりとり当たっても、三重って長島スパーランドしか行ったことないなと思っておった。

その後、自分が地名しりとりのように全国に飛ぶようになるとは思ってもなかった。
いやー大変だった。
でもいいもんだったよ。旅できてよかったなーと今でも思える。今のほうがより思える。


そして、今の私は桑名にも四日市にも亀山にも行ったのだから、三重の地名言えるぞい。


過去に生きているわけではない。過去に戻ることなんてできんからな。
過去を自分の血肉にして、今を生きていくんだなー。今にとどまるのでもなく、明日を生きてくんだなー。そうやって今まで生きてきた。
これからも生きてゆくのだなー。


地名しりとりは、三重にたどり着くことが目的だけど、どうやって着くのかという過程に重点を置いた番組であった。
どこに行くことも無駄ではない番組だった。


こないだ友人が「みんな結果がどうなるかに注目するけど、過程も同じくらい大事だと思う」と言っていたが、ああ、そうなんだよな、と地名しりとり見ながら実感した。
テレビ番組に改めて教わるなんて!思ってもみなかった!


今日で5月は終わりですが、この一ヶ月はいろんなことがあった。いろんなことを考えた。いろんなことを振り返り、いろんなことを認め、赦し、なにより自分と和解することにした。
これからどんなことがあるかわからないが、もう大丈夫。胸張っていきますよ。

名古屋にはいろいろとお世話になりました。また来るかわからんけど、きっとずっと縁のある土地だ。
名古屋だけじゃない。今まで行ったすべての土地に、同じような気持ちだ。すべての土地で知り合った人々に。遠くにいる大事な友人に。



はて、東京帰ろうかな。
コメダでモーニングも食ったしね。


■北海道へ帰る戦友  2008年06月21日19:43

昨日は会社で仲良かった友達が北海道に帰るんで、その送別会に行ってきた。


会社の人だから友達じゃなくて同僚てのが正しいんだろうけど、わしにとっては友達なんだよなー。5年の付き合いで、同じ部署にいたこともあるけど、仕事全然関わらなかったし。
関わらなかったけどよう飲んだ。ようくっちゃべってた。
品川駅の構内にあるバーで帰りがてら「一杯だけ飲もうぜ!」と言って2〜4時間飲んだりしたなー。なつかしや。


この友達は、大変にいい加減で、大変に人生に悩んでいながら、大変に適当で、そういう具合が心地よい奴だ。(ちなみに大変なイケメンでもある)
わしも彼も、会社にいながら仕事そのものが好きではなく、かといってこの先どうしていいかわからずで、遠いぼんやりとした希望(わしは文章を書きたいということで、彼はいずれ北海道に帰りたいということだった)を話しあったり、ぐたぐたと音楽フェス行った話したり(好きな音楽全然ちがうからかえって気を使わず話せるのだった)、お互いのプライベート事情ダメ出ししあったりしておった。
仕事のストレスで彼は体を壊した(結構な重病)こともあった。
遅れてわしも体を壊したけどな。

彼は、ほんとにほんとに戦友だと思う。男女とかくだらなすぎるほどの。
結婚式行った時も本当に心から祝福したもんだ。(奥さんのオッパイ触って怒られたけど)

あと関係ないが、わしは北海道の人とも結構縁深いのだな。ザ・端っこ好き。
大学ん時のめちゃくちゃ仲良かった友達も北海道の出身だしね。北見のな。(今思えば、東京生まれ東京育ちのわしが初めて仲良くなった東京以外の人間だ)
その友達も30過ぎたら北海道に帰りたいと言っていた。北海道男子はそういうもんなのかな。


話は戻るけど、会社の友達と今年に入ってから会わない時期が続いた。
たまに会った時、彼は北海道に帰ることを真剣に悩んでおった。わしも本当に辞めるか辞めないかまだ悩んでたところだった。
わしが辞めると決意し、今度会った時に話そうと思っていたら、向こうからメールが来て6月末で北海道帰ることにしたわー、と書いてあった。

同じ時期に決断を下したのは、偶然ではないと思うのだよな。
やっぱり戦友だと思ったわい。

で、昨日の送別会は一次会はそんなに話さなかったんだけど、会う人会う人に友達が「シノも辞めるんだって」と言ってたのが印象的だった。主賓であることにたいする照れ隠しにわしのこと持ち出すなよ!と心底思う。


一次会終了後、帰ろうとしてたら友達直々にシノ、もっと飲もうぜ!誘ってきたので少人数で二次会。いやー俺らほんと長いこと頑張ってきたなー、と話す。まあどうでもいいことばかり話してたけど。
そんななかで
やりたいことがあって、でも不安があっても、失敗するのが怖くても、やろうと思った時にやっていいんだよな。失敗してもいい。戻ってきてもいい。何も間違っちゃいない。ただし、今やらないことを後悔するのは自分だけなんだよなー

と話して、友達がおまえいいこというなーワハハと笑ってたのがよかった。


つーわけで盛り上がって終電になってしまい、おまけに電車が信号トラブルで遅れてて散々な帰路だったが、まあ満足だ。



友よ、次の戦場でもお互い真剣に、そして適当に戦っていこうぜい。
ライジングは行かないけど北海道行くから、トリトン(千歳のほうにもあるらしい)連れてってくれ



長くなったんで次に続く

2009年04月20日(月)

おまえのつまらない人生は順調か

あちゃこちゃ忙しくやっている間に2月が終わろうとしている!

いや、忙しいといっても「24時間勤務」「一週間出張」とかはないんですけどね。どうやら考える時間に異常なエネルギーを使っているらしい。って、それは会社員だった時とあまり変わらないんだけど。


話はいきなり変わりますが、先日、二村さんが出演なすったTBSラジオの「ライフ」という番組を聴きました。
http://www.tbsradio.jp/life/2009/02/2009222part_1.html
↑ここからポッドキャストで聴けます。いや、是非聴いてください!頼むから!

わしの家は都内なのになぜか雑音ザーザーで、かなり聴き辛かったがなんとか最後まで聴きましたよ。
テーマは「草食系男子」。要するにおしゃれで内向的ギターバンドなんかが好きで、それなりにモテそうなのに、あくまで「無害」のスタンスに留まり続ける男性について、男性の方々がいろいろ討論されてました。
「自分からは女性を誘わない」「常に受身の姿勢」という点に、女性たちが怒っている!、肉食系男子(ガンガン女誘ってヤリまくる男たち)は女という「肉」を自分から狩りに行き、食っているわけだが、草食系男子たちの食う「草」って何?という話題が中心で、
最後の最後、どなたかが

「草とは、自己愛だと思います。草食系男子は傷つくことが怖いのです」

と言っておりました。


二村さんが

「セックスや恋というのは、自分じゃない誰か、他者と関わることであって、他者と関わることで自分というのは変容していくものなのだ」

と言ってて、それはまさにその通りだと思います。
私がセックスや恋をして傷ついたりするのは、「自分じゃない誰かから変容をもたらされる」ことにまつわる痛みなのですから。
で、傷つく、痛む、というと、じゃあそんな行為するなよ、という意見があるわけだけど、それでもするのは何故か。
その人になら、傷つけられてもいい、という思いがあるからだ。
あと、傷ついても、得られるもの(それは経験でもあり、愛おしさでもあり、己の弱さや脆さを知ることでもあり、結果的には強さだったりもする)があるからだ。変化を恐れていては、前に進むことができないからだ。
だから、痛みなんて受けて当たり前、と思っている。
苦しむこともしょうがないのだ。


とは言ったものの、私がかつて恋愛の渦中にあったとき、「なんで私ばかりこんなに苦しい思いをするのか」「なんで私はこんなにやきもきさせられたりするのに、あなたは涼しい顔をしているのか。ひょうひょうとしているのか」と、恋愛の対象の方につらさをぶちまけた事がありました。
そしたらその人はひょうひょうと「俺のことが好きだからじゃないの」と言ったわけで、ああ、その通りだよ、そんなことわかってらあ!となったわけですが、
その後どうなったかというと「あんたのせいで自分が自分じゃなくなるのが辛い」と言われ(ああ!その時わしも「好きだからでしょ」と軽く言えるスキルがあればよかったのに!)、最後は切り捨てられました。
理由はいろいろ思いつくし、それは自分のためだったのか、私のためだったのか、そんなことはもうわからない。
前まではホワイ何故に!?と四六時中考え続けて、頭も身も押しつぶされてましたが(未だに一日二時間くらい考えてるが)、おそらく「他者による変容」にまつわることが、この出来事の中心にあると思っています。

もちろんスタンスによって、その変容をどう捉えるか、というのがあるので、断定はできないのだけど、「こいつのせいで」というのもあるだろうし「自分のせいで」というのもあることだろう。それは対象者だけでなく、私にもある。当時、私は己の実像をちゃんと見つめていなかった。自分なんてどうでもいい、と思っている部分が大いにあった。
そんな私が頼りなく、また、痛々しく見えたことだろう。また、こんな痛々しい女に変容させられる自分がみじめにも思えたことだろう。そして、この女を変容することが自分にはできないとも思ったのだろう。すべて推測だけど。もっとほかにもあるだろうけど。
とにかく、「このままでは何もない」「ノーフューチャー」という烙印だけが、残った。
そして私は文字通り、未来のないどん底に落ちた。


が、どんなに未来がない、という場所に残されても、朝は来るし夜も来るわけで、来る日も来る日も自分に対する失望と疑問、悲しみ、後悔に明け暮れておっても腹は減るし眠くなったりするのである。
その場に留まり続けているわけにはいかないのであった。というわけで、私は己を見つめた。穿り返せるだけ穿り返した。そして脆弱な自分と、自分にないがしろにされていた自分を発見した。(じゃなくて、今まで見ないようにしていたけれど、やっと直視したのだった)
で、会社を辞めた。文章を書き始めた。雇われながらバーのママをやっている、現在に至る。
当たり前だけど、未来はあった。
自分を真正面から見つめるという行為、そして、相手を責めたり、切り捨てることなく想うという行為を通して、少しだけ寛容な自分に変容したと自負しております。少なくとも当時の私とは違う。


変わったのは自分だが、変わることのきっかけとなったのは恋愛対象という「他者」のおかげだ。感謝の念が絶えません。
かつての私であれば、憎んだり切り捨てることで、その負のパワーを燃料とし、前に進んでいたことだろう。(もっと正確に言うと、負のパワーを持つことで、前に進んだのではなくその場に留まり続けたのだけど)
いや、それまでの恋愛は、他者なき恋愛だったのかもしれん。肉体では関わっていたし、精神的にもちょっとは関わっていたかもしれないが、心の内側に他者を取り込んでいなかったのだろう。
そういえば昔「俺の体を使ってオナニーしないでくれ!」と怒られたことがあったが、まさにそういう感じだった気がする。恋ではなく自己愛オナニーだったのだろう。そして、それがセックスに変わることを恐れて、自分から取りやめたりしていたのだろう。


恋やセックスで得られるのは、快楽だけじゃない。むしろ、快楽の後にやってくるこういう苦しみというか試練のほうが、ずっと多い気がする。
それを「自分を阻害する害悪」として、切り捨てるのもよかろう。つらかったら止めてもいいのだ。誰もそれは責めやしないよ。あなた自身が決めることだから。あなたが決めてもいいんだよ。他人に決めてもらうことなんかない。

でも恋やセックスをして、それに伴う苦しみや試練も受けた後に、得られるものも必ずある。たぶん、そこで得られるのが「愛」なんじゃなかろうか。
そうか、愛というのは他者からもたらされるものなのね。そして愛は脱皮をするものなのだ。(最初は親から、そして次に他者から)
だから愛というものは「見返りを求めないもの」と言ったりするのでしょう。

快楽や気持ちよさだけでも生きていける。他者と関わらなくても生きていける。
でも、その先をどれほど身をもって知っているかが、人間のおもしろさや、奥深さにつながっていくのじゃないのかな。そこに留まるのか、傷ついてでもその先に向かうのか、それを決めるのもあなた次第だ。
何を選んだって構わない。愛を知る相手が、誰だって構わないのだ。
あなたの人生が、あなたの思うとおり順調に進むことだけを切に祈る。心から祈る。


ただ、私には、自分で決めた以上はその道をちゃんと進めよ、誰のせいにもするんじゃねえぞう、引き返したりするんじゃねえぞう、と思ってしまう部分がまだあるのだった。そこはまだ、心が寛容ではないところだよなー。
引き返してもいいとも思うけどね。ほんと、何やってもいいんだよ。私の思うことは私という「他者」のものであって、あなたが思うことが、あなた自身の人生の指標なのだから。こんな意見、聞かんでもいい。(でもラジオは是非聴いてくれ)


2009年02月27日(金)

跳んだあとと見るまえの手紙

2週間くらい日記を書いておりませんでしたが、ぼちぼち生きております。
何やってたのかというと、まあ、相も変わらずちまちま文章書いたり、バイトしたりで、「交通事故に遭った!」とか「大恋愛していた!」とか「日記に絶望した!」とかいうような充実した日々を送っていたわけではございません。
空虚っちゃあ空虚だけど、それなりに前進しつつもありますよ。

と、呑気に書いておりますが、
今、テレビでディスコ番組(DA PUMPの番組だけど)がやっててそっちに釘付けでございます。
この2週間は岡林信康とディスコ音楽ばかり聴いておりました。どんな振れ幅だ。岡林信康は後述するとして、ディスコ音楽ってどのあたりかというと、いわゆるディスコクラシックばっかです。アースでシェリルリンでヒートウェーブでエモーションズだよ。あ、あとアイズレーブラザーズ!去年の年の瀬に新宿コマ劇内にあった「ニューヨークニューヨーク」の跡地で飲んだのだけど、この二週間の間にこそあそこに行きたかったわ。そして映画「DISCO」もちゃんと見に行っておけばよかったわー。悔やまれる!
http://www.disco-movie.jp/

まあ、実際んとこはディスコ定番よりもケニー・ドープのディスコ音楽mix盤とかケニー・ドープ選出ディスコ音楽集ばかり聴いておるのだがな。


と、まあ、ディスコ音楽のことばかり最初に書いたけど
重要なのは岡林信康だ!
2年ほど前、岡林信康が笑っていいとものテレホンショッキングに登場する!というのを会社の休憩室で知り、ものすごくショッキング
でございました。(実際にテレホンショッキング出演したのを見たのか見てないのかは、なぜか覚えていない)
当時は当時でいろんなモヤモヤうじうじ抱えていて、考えに考えて、ある日
「考えたり恐れていてもしょうがねえ!見る前に跳べ!だ!」
と腹を決めた時に偶然、岡林信康がテレビに出るのを知ったのだった。
んで、わしも見るまえに跳んだ。
跳んだことにより1年数ヶ月の未来が開けたのだった。



で、また、行き詰まった時。私自身は愚かなことにその行き詰まりに気付いていなくて(いや、気付いていたのかもしれん。目を向けないようにしていたのだ)、私自身のことを私以上に考えてくれている人がぼーんと放り投げてくれた。飛ばされたというわけだ。
その人の放り投げというか足蹴(それは恨みでもなんでもなく、愛のある足蹴だったと思っております)があって、わしはまた跳んだ。
跳んだことで、また未来が開けた。
今もその未来は続行中だ。それがかけがえのない現在だ。



その新しい踏ん切り(ようするに決意ですね、自分で跳ぶということは)からまだ7ヶ月くらいか。
今、私は別に行き詰まっているわけではない。自分で選んだ道を歩んでいるからな。その責任もすべて引き受ける覚悟もある。実際引き受けておるし。
でも気持ち的には行き詰まることが何度もあった。いや、ずっと気持ちは行き詰まっているのかもしれないな。行き詰まってもしょうがない道を選んだのだから、いいのだよ。気持ちだけでは前に進めない状況だって自覚しているしな。
でも、気持ちの行き詰まりが苦しかったりもする。あまりの苦しさゆえに、こんな気持ちはすっぱり投げ捨ててしまったほうがいいのかもしれない、とも思う。自分ではない人間のことを勝手に考えて恐れて気を遣って、あきらめます、なんて言ったこともあったが、全然投げ出せなかった。
友人に「それはあなたが、すべてを自分で決めないと気が済まないからじゃないの」と指摘された。きっとその通りなのだろう。だったらさっさと自分で投げ捨てると決めちまえ。そんな気持ち殺しちまえ。
何度も何度もそれは考えた。
でもな。「でも」なんて言葉使いたくないけど。
私の望むものは、「自分で決めること」ではないのだ。
私の望むことは、私を超えたところにあるものに近づくことだ。寄り添うことだ。私の体、意識の外にある世界というか人と、触れ合うことなんだよ。
あ、こうやって書くとやっぱり行き詰まっているね。


そんな矢先の岡林信康、ミュージックフェア出演(1月31日OA)。
仕事の関係で「チューリップのアップリケ」しか聴けなかったのだけど、このタイミングで岡林信康を見たことに何かの意味を感じる。全然なんでもないかもしれないけど。信じたり、見るまえに跳んだ者にしか奇跡は起こらんからね。
そうだ、このミュージックフェア見る前に、ちょうど「ラブソング」「セレナーデ」の紙ジャケ買ったのにも何か意味があるんだきっと!
しかし「セレナーデ」はシティポップスでいいアルバムだよ。当時はいろいろ叩かれたアルバムらしいですけどね。



テレホンショッキングに岡林信康が出た頃、わしは手紙に「私はあきらめません」という決意を書いた。
その手紙のことをふと思い出す。あの時の、眩しいくらいの自分の決意を思い出す。
それを思い出せたことだけでも、いいのだ。そんな小さなことだけでも岡林信康を今見た意味はあるよ。
ああ、そうだ。あれはバレンタインくらいの出来事だった。そうか、今年もバレンタインがやってくるのだなあ。ああ、カウンターバー用のチョコというか焼き菓子というかを作らんと!


2009年02月13日(金)

きみと歩いた青春、あんたと歩く性春

昨晩NHKでやってた「NHKスペシャル 女と男」を途中から見ていたのだけど、今、男性というのは滅亡の危機にさらされているらしいね。
正確に言うと男性ではなく、精子の生命力が低下しているらしい。人間の精子は他者の精子と競争したりすることがないのが原因だそうです。
えーそれ人間の精子だけ?他のほ乳類はどうよ?というと、
たとえばチンパンジーだと「乱婚」といって、複数のオスがメスに射精し、一番強い精子が卵子に届く、というのが当たり前なんで、精子の生命力がグングン進化していくのだそうだ。

なんかチンパンジーってAVみたいな生殖行為なんだな。
精子滅亡の危機は由々しき事態だが、人間にそのような生殖行為形態がなくてよかったわい。連続中出し当たり前!みたいな世の中はつらすぎる。子孫を残す、種としての進化を優先する、という意味ではいいのかもしれないが、精神がガンガン傷つきそう。
先日、二村ヒトシ監督が、自身の新作「ギブス」を説明する時に
「これはまあ、ヤツザキのようなセックスをすることで傷つく女性のAVですよ!」
と言っておって、即座に「そんなことないよ!」と反論したけれど、セックスが自分にとって悦びと哀しみが背中合わせの行為であるという事実は否めない。ううむ。ひとりの人間とセックスしていても心を痛めたり、どうしようもなさやむなしさに苦しんだりするのだから、不特定多数と「自分のため以外に」(ここがいちばん重要)しなければいけなくなったら、どうなってしまうんでしょ。わからんのー。
「ギブス」についてはまた別の機会に書くとして。

そういえば、セックスという言葉は知らないうちに市民権を得たよなー。
テレビで普通に聞くようになった単語だけど、わしがハタチになる前まではそんなことなかったと思う。「セックス・アンド・ザ・シティ」の威力はすげえなあ。子供がいる人たちはこのタイトルについて尋ねられた時、なんて答えているんでしょうか。


話が二重に逸れた。
そんでまあ、前回の日記に続いて太田裕美ベストアルバムの話になるんですが、その中に「きみと歩いた青春」が入っておりました。
これもふぁるさんからイイ曲と教えられた曲なのだけど
この曲の一番最後の言葉にグサグサやられる。

「君はなぜ、男に生まれてこなかったのか」

これはわしが28年間思っていたことですよ。
なんで私は男に生まれてこなかったのかなあー、女なんていいことひとつもありゃしない。と、思ってました。特に仕事していた時はこう思うことばかりだった。あと、前述のような、セックスをして哀しい気分になったりする時に、こんな風に精神が弱い(すがりたい、次もあるという確証が欲しい、など)のは、自分が女であるからなのだ!と思っておりました。
まあ、それは性別とは関係ないことだと今はわかりましたけどね。
去年の11月終わりくらいにビヨンセの「IF I WERE A BOY」について書きましたが、その時はもう、この「ああ、男に生まれてたらよかったのに!」というのを超えた時だから、もうそういうことも書いていないのだけど。


しかし、最近思うのだけど、「さみしい」「ひとりつらい」という感情に耐えられない精神というのは、実は男性的な精神なんじゃないかなー。
女性的な精神は、実は「ひとりにも耐えられる」精神なのだと思う。べつにひとりであることだけが問題なのではなく、たとえば「貧乏に耐えられない」でも「寒さに耐えられない」でも構わない。逆境に立たされた時に、不安に押しつぶされてしまうのは、男性的な精神。命さえあればどこからでも這い上がってってやるぜえ!自分でなんでも産み出してやるぜええ!ってのは女性的な精神だと思うのですよ。
別に「女性的な精神」「男性的な精神」てのは、精神の性別であって、男性にも女性にも宿るものだと思うのですけどね。
だから、女性でも耐えられなくて死んでしまう人もいるし、男性でも耐えられる人もおると思う。


で、最近の女性(自分含む)には、さみしさやつらさに耐えきれない、男性的な精神が宿っていることが多い気がする。


わしは、幼少の頃から母親に「自分で生活できるようにならないといけない。そのためには勉強して、良い学校に入らないとダメ」というようなことを言われてきました。きっと、このように言われてきた女性はいっぱいいると思うよ。良い学校に行け、とは言われないまでも、「自分で生きていく力をつけなさい」とか「手に職を持ちなさい」とか。
オスカルではないが、ある意味、「男(と同等)になるように」育てられているわけですよ。学校行っても特に男女の差はない教育受けて、男になるように、女性は育てられていくのだよな。家庭科と技術くらいの差はあるけどさ。
で、そうやって育っていくうちに、男性的な精神性も勝手に身に付けてしまうのだと思う。いや、実際わしはそんな感じでした。
でも、完全な男性にはなれないのだよな。
なる必要もないし、当たり前のことなのだけど、「完全な男性ではない」ということでいつまでたっても劣等感持ってしまったり。
「男のようになりなさい」「ならなければいけない」って呪いをかけられるのは簡単だけど、解くのはなかなか難しいことだ。王子様のキスなんかじゃ解けやしない。それがきっかけになるかもしれないが、結局は自分で自分を解放しないと解けないのだ。


私が会社辞めて一番よかったことは、「男性にならなきゃいけない」「私はいつまでも足りない/およばない存在だ」という考えから自分を解放できたことだと思っております。
だから、今つらいとか、さみしいとかに、なんとか耐えられているのだと思う。まだまだ訓練不足で発狂しそうになることもあるけれど。この先いいことなんかなんもないのかもしれない、と思うこともあるけれど。
でも、大丈夫だ。
今は男に生まれてこなくてよかった!と思っているくらいだよ。
太田裕美の「きみと歩いた青春」歌詞最後の一行に対するアンサーとして、やしきたかじんの「あんた」歌詞最後の一行

「女でよかった あんたに出逢えたからね」

を腹にしっかり抱えているからね。


なんか私は、29歳にして女になったような気がしますよ。
今まではどっちでもなかった気がする。どっかの哲学者が「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったらしいが、それホントなんだよ、という感じ。
自分で自分の中の男性を滅亡させたのだな。いや、男性的な部分もまだ十分あるけれどさ。あー、もともとあった女性的な部分に主権を移したって事か。

ちなみに前述のNHKスペシャルの中で、「クマノミはオスがメスに性転換し、メスがオスに性転換したりする」というのも言ってたのだけど、私は28まで、クマノミのようなもんだったのかもしれないね。あんなに可愛らしいもんではないけれど。
まあ、声の低さゆえ、未だに「オカマ?」「男ですか?」などと間違われたりしてますけどね。
生粋の女でございます。むしろ、女盛りだっつうの。
2009年01月22日(木)

不幸以上しあわせ未満

前にわたくしのカラオケ講師・ふぁる姐さんから太田裕美の「しあわせ未満」という曲を教えて頂いたことがあったのだけど、
最近、太田裕美ベストアルバムを入手したので改めて聴いてみましたわ。

!!!

「ハタチ前」という歌い出しですが、三十路前のわたくしの心臓を全面的にえぐる曲でした。前にふぁるちゃんがカラオケで歌っているのをきいた時もそう思ったのだけど。
まあ、前に聴いた時よりも冷静だし客観性獲得しておるので、歌詞の男の独白には何度か「異議あり!」と思ってしまうのですけどね。
僕に逢わなきゃ、君だって違った人生、とありますが、まあ、この女の子(おそらく20代前半か)は自分でその人生を選んだのだよ、あなたのせいではないのよ、とかな。しあわせにはなれない道を選んだことが、彼女のしあわせなのよー、とかな。
いや、ちょっと違うか。しあわせになれない道を選んだことは、彼女のしあわせではないな。満足というか、納得いく答えというか。そんなとこか。
一般に言われるような幸せ(金持ち、愛される、喧嘩なし、など)は得られないかもしれないけれど、不幸ではないのだからそういう選択をしてもかまわないと思うのだった。


で、まあ三十路前のわたくしにとっての「しあわせ」について考えてみる。
三十路前の一般女性にとって「しあわせ」とは、イコール結婚である。
結婚は幸せの象徴だ。結婚する女性は幸せの絶頂だ。幸せな恋愛をして、幸せな結婚をするものだ。王子様のような旦那様に愛されて、これ以上の幸せはない。


というようなことは、

現実には存在しない!

ということを三十路前の女性はわかっておるのだけど。
幸せな恋愛と幸せな結婚は地続きではない。
恋愛で得られる幸福感と結婚で得られる幸福感は、ごはんとおやつくらい別物だ。アメリカ西海岸と東海岸くらいの別物だ。朝青龍と白鵬くらい別物だ。
と、それがイコールなわけないことをわかっているのに
それでも「恋愛の延長線上の結婚」というものを追い求めちゃうんだよな。
追い求めさせられるというか。
実在しない生き物を狩りに行くようなむなしさ満点である。
ツチノコなんかいねーよ、と思いながらも、「でも同級生の○○は見つけたらしい」「両親は見つけたらしい」という情報を得て、「あれ、もしかしたら私にも見つかるのかしら」などと思ってしまってるだけだよなー。離婚した人からの情報で「ほら、やっぱいねえじゃん」とわかるのに。
ああ、「恋愛の延長線上の結婚」て裸のツチノコだよな〜。
幻だとわかってても「私も見つけた!」って言いたいんだよな。くそー。


去年、鈴木亜紀さんのライブを見た時に、なんという曲なのかわからないのだけど
「恋は生きるためにするというけれど 私は恋で死にたい」
というようなことを歌っておられました。死ぬ気で恋してるだったかな。どちらか忘れてしまったが、これを聴いてハッとしたものだ。そうだよ!その通りですよ!と思ったのです。
恋愛は、死ぬくらいの覚悟でするものなんだよなー。
それに対して、結婚というのは、それこそ生きる、いや、生活していくためにするものなのだと思う。


で、ハタチ前、「しあわせ未満」の中に出てくるヒロインにとっては、死ぬ気でやってる恋愛こそが満足感の得られるもの=しあわせ(便宜上こう言わせて頂く)なのだけど、
三十路前、わしのような女性にとっては、生活していくためにする結婚こそが、安定感を得られるもの=しあわせなのだろう。一般には。
満足感よりも安定感。
年齢と共にしあわせ価値観が変わっていくものなのだろう。
けど。
けども!
おれ、全然価値観スライドしねえ。
安定よりも、生きるためよりも、恋愛で死ぬのは本望だといまだ思っているよ。TOO HEART、恋して死にたい続行中だ。いまだ「時枝ユウジ!」だ。


こんな調子だから、私はチャンスを自分で潰しているのだろう。
友人が「恋と陰毛はどこにでも落ちているもんだ」と言っていたが、そういうのに目を向けてねえしな。その中には結婚に繋がる恋というのも落ちているかもしれないけれど、そんなものはどうでもよい。
いや、言い方違うな。目を向けられなかった。
いらんぜよ、と自分で拒否した。


でもそれも自分の選択なのだ。
たくさんたくさん考えて考え抜いた末の、選択なのだ。
いわゆる「しあわせ」にはならなくたって構わない。
私は、自分で選べたことが幸せというか、自分が納得いくことなのだと引き受けているしね。
なによりも、私は、自分の選択で自分は不幸にはならないとわかっているのだ。
まあ、そういうわけでこれからもしあわせ未満な人生は続いていく・・・


友人に
「お前、女なのに移行期間つーか予備品配備とかしないのか。自分で自分を窮地に追いつめてくのかーアホだなー」
と感心されましたわ。
アホで結構。それも自分で選んだ道!





2009年01月21日(水)

客観視獲得訓練日記 その1

ちょっと前の日記に「M-1見てて、私の守備範囲GUY(ダジャレ)なのにモンスターエンジンの片割れの人が気になってしょーがない」というようなことを書きましたが、
先日、カウンターバー切り盛り時に「いやーホントは笑い飯西田が大好きなんですが、最近モンスターエンジンの人に自分でも思いがけず動揺しちゃってるんですよ。好きな系統が変わってきたみたいなんですよ。はっはー」という話をしたら、
女性のお客さんに
「どっちも系統一緒じゃないですか。ああいうタイプが好きなんですね」
と指摘されました。
えええ!?
一緒のタイプか!?
その方曰く、「なんか変わってるというか、暗いというか。雰囲気が一緒ですよ」とのこと。
わしは一見無口っぽい人のほうに惹かれがちだが、そこなの?


また、別の友人に「ヤツザキの好きになる男は系統がすべて一緒」と言われたのだけど、わしはそれは「顔が濃い」という共通点だけだと思ってました。
え!違ったの?
「変わってる」「暗い」「何考えてるんだかよくわからない」(自分で付け加えてみた)ってのが共通項だったの?


いや、思い返してみるとそうだったりする部分もあるのだった。
全部ではないけれど。


で、その後たまたま、モンスターエンジンのこのyoutube見た。

http://jp.youtube.com/watch?v=6bF5t3LjrxY
http://jp.youtube.com/watch?v=_NSNKpES4-4&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=9uRbTGWXu6Y&feature=related

いや、わしは手を上げられたりしたことないけどね。


これ見てて思ったけど、ちょっと見方を変えてみると
モンスターエンジンの彼女の人とわしが、同じ系統なのかもしれん、と思いましたよ。
男を怒鳴らせる女。
「帰れ!」と言わしめる女。
あーなんか遠い遠い昔、「こんなに俺を怒らせたのはお前が初めてだ」と鬼の形相で言われたのを思い出した。
・・・・。
何も言えなくて・・・2009冬。


「何考えてるんだかわからない」ってのもあれですが、「考えてることがわかりすぎてイライラさせられる」ってのもよくないのだな。
今年はほどよくミステリアスな女になりたいと思います。



2009年01月19日(月)

初ライブは、ジャクチョンなのだ!

前回の日記で宣言したとおり、今度は2009年初ライブに行った感想を書きたいと思います。
ライブ!と言っても、実はロックでもジャズでも無論ヒップホップでもなく

説法ライブ

なのですよ。
そうです、私が2009年の最初に行ったライブは、瀬戸内寂聴さんのライブでございました。


まーわしが瀬戸内寂聴さんの本読むようになったのは、ここでも書いたとおり、11月になんとなく古本屋で買った「ひとりでも生きられる」という本を買ったのがきっかけでございました。
過去ログ読み返したらそれ以上のことを何も書いていないが、実はこの本を買ったのはハローワーク出頭の日だったのだよな。ハローワークの近くにブックオフがありまして、ハローワーク帰りになんとなく立ち寄ったのですよ。
で、100円コーナーをただだらだら見ていたときに、この本が目に付いて即購入したのだった。そのときは、まさかこのように寂聴ライブに足を運ぶことになるなんて、思いもよらなかった。
でも、今思い返せば、本に呼ばれたのだと思うのですよ。
そのときの私は、自分の意志で仕事をやめたものの、これからどうなるんだ、ホントにこれでよかったのか、という不安でいっぱいだったし(ハローワークに行かなければならない、というのも気が重い事柄であった)、今よりももっとずっと「私の何がいけなかったのか」「何でこんな風になってしまったんだ」と毎日毎日四六時中考えていて、考えすぎて頭や心が押しつぶされそうになっていたのだよな。ま、そのへんは過去ログにいやというほど書いてありますが。(今でも読み返すが、このへんのことをちゃんと書いておいてよかったなあ、と思える)
そんなときにこの本に出会い、「自分の思うことはなんでもやっていいのだ」という言葉にどれだけ励まされたことか。「期待なんかしなくていい、自分が思うことが大事なのだ」ということにどれだけ自分の非を気づかされたことか。救われたのかどうかは、わからない。でも、確実に、寂聴先生の言葉に、私の心のある部分は支えてもらったのだった。


その後、私が、自分の思いをどのように受け入れたかについては、これまた過去ログに書いてあるわけですが。
あまりにも感銘を受けて、「寂聴さんに会いたい!」と友人に話したりもしていたなー。京都まで行かないとダメよ、と言われて京都かー、と考えたりもしたもんだ。


そんな調子であったところに、説法ライブである。
11月に初めて本読んで、1月はじめにライブがあることを知るとは!
前からそうだが、私にはこういう「タイミングいいな!」ということがよくある。それを私は、単に運がいいと思っていたのだけど、寂聴さんがおっしゃるには、それは、
「自分では決められない、おおいなる力のおかげ」
なんだそうだ。
それを、キリスト教だったらキリスト様の思し召しというし、仏教だったら仏の思し召しというわけである。
石垣島のナミィおばあが「ウティングトゥ、カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」という言葉を使っていましたが、それもきっと一緒だね。
もちろん、ただの偶然、神だの仏だのは存在しねえよ!と思うことも可能だし、神とか仏とか気持ち悪い、と嫌悪感を感じる人も多いだろうけど、
私はなんとなく、信じてみるのも悪くないな、と思っております。
自分の力が及ばない、宇宙の神秘とか、そういうものに導かれるというのが、あってもいいと思うのだよね。自分がそういう風に思うのなら、それでいいのだ。ただ、勧誘とか押し付けとかしなければいいだけの話だ。
実際は自分で「この本を買おう」「このライブに行ってみよう」と選んでいるのかもしれないが、私は自分が、ずっと辛抱強く、耐えて耐えて、考えに考え抜いてここまでやってきたことに対するご褒美が、このタイミングでこのライブに来れたということなんじゃないかなーと今は思っているのですよ。



と、先にライブ内容をちらりと書いてしまいましたが、会場の赤坂ブリッツは満員。そして「新しい10代のための説法」というタイトルがついていたにも関わらず、会場の7割以上は50〜70代の女性が占めておりました。
あまりにも10代がいなさすぎて、会場入った途端にちと笑ってしまったわ。
わしも今年三十路であるから、ちょっと肩身狭いなーなどと思っていたけど、心配無用でありましたよ。むしろ堂々とさせてもらっていたわい。
寂聴さんは86歳なのに90分間立ちっぱなし、話しっぱなし。
すばらしいことよのう。
話の内容は、著作品で繰り返し述べられているような、
「期待はしないで、愛を与えてみるといいわ。いつか、予想を超えたところで自分に還ってくるもんだから」
とか
「幸せというのは、自分が満たされるだけのことではないの。自分が存在することで、誰かが助かってる、ということでもあるのよ」
とか
「私は人に教えられたことを疑いもせずに信じてたけど、戦争があって、ああ、こういうこともあるんだから自分が触れたものだけを信じていこうと決めたのよ。だから、自分がしたいと思ったことは全部やるの。あなたたちも誰にどう思われるかなんて気にしなくていいから、本当にしたいことをどんどんやっていきなさい」
とか
「他人を変えることはできないの。でも自分は変えられるのよ」
とかの話が多かったですが、声でこの言葉を聴くのは、また全然違うのだね。改めて、ああ、そうか!やっぱりそうなんだ!という気持ちにさせられる。
ライブという形式であれど、相手の声を聞く、というのは双方通行のコミュニケーションだからなのだろうね。
人間は誰かと関わりたいものだけれど、「話をする(話を聞く、喋る)」ということが、一番、人と繋がっているという安心感を得られるコミュニケーションなのだと思った。
事実、質疑応答で感極まって泣いてしまう女の子多数。わしも思わず貰い泣きすること多数。
みんな、会話がしたいのだな、と思う。
聞いてもらいたいのだ。声をかけてもらいたいのだ。
ただ、それだけのことをしたいだけなのに、私たちはなんでこんなにも相手が思うことを気にしたりするのだろう。嫌われるかもしれない、拒絶されるかもしれない、ということばかりに気をかけて、何も言えなくなってしまったりするのだろう。


寂聴さんに「私の話を聞いてほしい」と手を上げる女の子たちがたくさんいたのは(いや、質問した/しないに関わらず、あの会場にいたすべての人間がそうだったと思う)、この人は私を受け入れてくれる、という信頼があったからだ。それは、寂聴さんがまず最初に、自分のすべてを話していたからこそ持てた信頼なのだろう。
そういう信頼を、どうしてより近い人間と結べないのだろうか。
私などは、自分に欠陥があるからそうなんではないかとばかり思っていたのだけど、欠陥があろうとなかろうと、そんなことは関係ないのだと思う。
肝心なことは、「どんな欠陥があろうとも、あなたそのものすべてを受け入れる」という姿勢だろう。
その姿勢があったからこそ、みな、安心して自分を委ねられたのだ。
寂聴さんはそれをまず、最初に示されていた。
自分がどんな人間であるかわかっており、その自分をすべて受け入れている、という形で。


私が一番欲しいのは、「人を信じる心」なのだけど、
やはり、自分がどういう人間なのか理解し、その自分をすべて受け入れているということができていないと、そこにはきっとたどり着かないのだろうなあ。
そのうえで、他人を断罪しないこと。否定しないこと。
それは、今日明日で獲得できるものではない。
時間はかかるが、じっくりゆっくりやっていくしかないんだなー。
まあ、それはもうしょうがないけどね。
じっくり耐えて、ゆっくり実践できていけば(ただし、決して逃げないこと。あきらめないこと)、いつかまた、神様か仏様から、ボーナスポイントがもらえたりするのだろう。


ちなみに一番印象深かった言葉は、
「あなたの運命は、あなたが決めるのよ!」
という言葉でした。
会社辞めたり、苦難の時間を送ることになったりしたけど、私はそれを自分で決めたのだ。自分がそうしたかったから、そっちを選んだのだ。
これでいいのだ。



あ、最後だけなぜか赤塚不二男ちっくになってしまったなー。

2009年01月16日(金)

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