恒例の塾の笹飾り。 昨年は、亡き弟が高い枝先からとるのを手伝ってくれた。 ほら、いくらでも持っていけや・・なんて。 もっとも、その竹はうちのではなくて、前のうちのもの、でも内の屋敷にはいってきている奴で。 今年はひとりで取りつつ、去年のことを思い出して、涙が出てきた。 で、桃をスーパーで見かけたんで持っていって供えたら、母と義妹が「桃、大好きだった・・食べさせてやりたかった」とため息。 5月に桃はネエ・・・でも、こんなに早く他界するんだったら、お取りよせでも、買いに走りまわるんでもなんでもやったけど。 こんなふうにあらゆることで思い出しつつ、1年が過ぎていくんだろうな、やるせない。
マイケルジャクソン氏、心臓蘇生のために肋骨が折れていたとか。さらに、蘇生の注射跡がいくつも。 また、生前は、よかれといろいろな薬。(セオリーどおりに) 弟も、医師が良かれと思ったセオリーどおりの治療で心臓が止まった。 セオリーで命を落とす、人はそれぞれ違うから・・・セオリーなんてナンセンスなんだろう、つまりは。 母が直感的にいった「原爆落とされたのと同じ、死ぬしかなかった」という判断が正しい。 抗がん剤の副作用はまさに放射能と同じだ。 造血力の著しい低下、ないしは停止。 抗がん剤憎し。 てか、標準治療の抗がん剤、止めるべし。 うちの弟の量で生き延びる(延命)する人もいようが、死ぬ人もいる。 医師は、それこそ、その人にあった量を処方すべし。
| 2009年06月29日(月) |
マラソン、佐々木七恵さん他界 |
佐々木七恵さん、53歳、ガン死。 これまたお若い。 人事には思えない。 増田明美さんが昨11月にシンポジウムであっておられるとか。 弟と同じような状況かな・・弟も昨11月はガンとはいえ、まだ「元気」だった。 ご冥福を祈る。
佐藤愛子さんと例のオーラの泉の江原さん対談の「あの世の話}(文春文庫)を読んだ。 とっても読みやすし。 亡くなると、抜け出た「魂」は直後はまさに自分の「体」を見ているんだそう。 別のなんかで読んだのだが、ドイツで、臨終直前の人の体重をはかって亡くなった直後の体重と比較したんだそう。 で、死ぬと生前より体重が35グラムくらい減るんだそう。 (事例多数、だいたい三十五グラムから四十グラム減るという) 確かに、私も小鳥を手の中で看取ったことがある。 死んだとき、「軽くなった」と感じたけれど。 人の魂の重さは、三十五グラム?
そして、その後はとりあえずは「眠る」状態。 それはまさにお葬式までの期間ですな。 で、やがて目覚めて(目覚めさせられて)「自分の死」を徐々に死んだこと、受け入れていく。 だとすると、納棺の後にごく局地的に雷がなって大雨が降った現象を、私が直感的に「あ、イサオが目を覚まして、これは違うと騒いでいる」と感じたのはだいたいそのとおり? で、死後の世界を信じていた人はそのような世界へ(ヨーロッパではサマーランドというらしい)「無」となると思っていた人は、闇の世界へ。 江原さんは何度も「想念」です、すべてはということを何度もいっている。
で、49日までは、やはりうろうろしているんだそうな。 でも、だれの夢にも出てこないな、弟は、サマーランドはええとこらしいから(想念)居心地いいのかな。 彼岸(あの世)では、肉体を去って帰ってきたものを「誕生」として迎えるという。
この世は魂の修行の場だという考え方。 弟は、この世に愛しい者や大事なものをぜんぶ残していくという修行をして去ったなあ、と思う。 お盆やお彼岸に「ご先祖霊」が帰ってくる、を生前に信じていた人はあちらから、この時期は帰ってくるんだとか。 弟は信じていたと思う。
佐藤愛子さん、霊だのあの世だのにはまったく関係ない人だと思っていたけれど、五十歳のときから「霊」に悩まされていて、江原さんとはもうずいぶん昔からの知り合いらしい。 ふーん。 「私の遺言」という本にその顛末が書いてあるらしいので、セブンイレブンで頼んだ。 このところ、手軽に頼めるんでアマゾンよりセブンイレブンの愛用者だ。
弟が戦っていたときはガンの本、今は彼岸の本。 弟は、本やネットに書いてあることなんて経験に比べれば・・とまずは本、と知識に頼る私を胡散臭そうに見ていたが。 私はやっぱり「本が命」だな。 今度は「あの世本なのかよ」と苦笑いしていそうだな、弟。
もう弟がいなくなって、5週だ。 今朝も、お寺様が経をよみに来てくださった。
家族にとっては、去るものは日々に疎くならない・・・なあ。 これからも多分・・・ だから、松本サリン事件のご遺族の方々の思いは痛いほどわかる。 時が止まっている。 スーパーマンじゃないが、何とか逆戻しはできんのかと思ってしまう。 自分が事故に遭って手足不自由が続いたとき、「不自由」の意味がリアルにわかった、と思った。 今回は、喪失の意味がリアルにわかった。 出口のない悲しみの意味も。 年をとるって、しみじみと悲しいことだ。 弟が生前、最後の正月にお寺で「生きる」ってなんですか、とお坊さんに聞いてそうだけど、私も聞きたい。
ただ、淡々と日々をやり過ごす。 今日も、夏休み教室の準備をした。 夏が来て去り、秋が来て去り、どんどんと寂しくなる。 まっとうに生きていきたいものだが。
| 2009年06月27日(土) |
マイケルは50歳か・・・・ |
マイケル・ジャクソン、50歳急死。 いろいろと読むと、彼は蘇生を試みられている。 でも、我が弟の場合は、それもなしで・・・あまりにひどいというか・・ねえ。 それでも人生50年、若いなあ。 冥福を祈ろう。
昨日は弟が生前ゆうパックに頼んでいたさくらんぼ(佐藤錦)が届いた。 本人にお供えして、みなでしゅくしゅくと食した。 完熟でとてもおいしかったが、なんともいいがたい気持ちだ。 お供えなんかじゃなくて、食べたかったろうにねえ、と思うと胸が熱くなる。
昨夕は末弟の認定確認でケアマネが訪問。 末弟本人も入れて長々と面接。 今後のことをいろいろと、わが身のことも踏まえて考えねばと思う。 それは先日書いた「死に支度」とも関わる。 人は一人で生まれて一人で死ぬ。 弟がいたからこその実家との絆。 今後は細く細く、ぼちぼち長くの関わりがいいのだろうと。
朝5時過ぎには起きて、一時間半をかけて実家の掃除。 暑い日だが、気分は例のごとくぱっとしない。 眠たい。 何にもしたくはないが、塾のほう、個人指導を受けたいという方が見えた。 ありがたし。
そうじ、姪などは泊まりに来ていても絶対にしない。 甥もかたづけができないし。 まるで、どっかのご大家のじょうちゃん、ぼっちゃんだ。 そういう育て方をしたのは、亡き弟にももちろん責任はある。 彼は言うくらいならと自分でみんなやっていたようだから。 義妹に、私が来なくなったらお掃除ヘルパーさんに週に2回くらい来てもらうといいかも、と提案している。 まあ、母がかわいそうなんで、できるだけボランティアでいくだが。 しかしほめられもせず、けなされもせず。 「雨ニモマケズ」 を胸の中でくり返しつつの「そうじ修行」だ。 宮沢賢治の詩の偉大さよ。
| 2009年06月25日(木) |
ちょっとしたことで・・・・ |
甥が先日のおよばれ(姪の嫁ぎ先)で食べたもので「ノロウイルス」にやられたらしい。 あちらのおうちのご家族の一人もやられた、と電話が来て判明。 そう重たくはないのでやれやれだが、今朝せめてごみだしは行ってきてほしいと、義妹に頼んでも・・・彼、返事のみで出てこない。 ま、義妹も「○○君、起きて、ごみお願いね」なんて 自分の30歳になる息子に「君」ずけって・・・私は違和感・・なんですが・・もちろんいわない。 甥は毎晩遅くまでパソコン三昧の癖が取れないようなのだ。(唯一の楽しみ、と義妹もなにも言わないみたい) それとノロの相乗効果? 私も下から呼ぶが、やっぱり効果ない。 で、ふだんはフットワークの軽くない義妹が自分で車で出しにいった。 ほっとくと、高齢の母がとっとと出しにいく。 そして、狭い村世間で何かといわれるんだよねえ・・・「○○さんが亡くなったら年よりの母親がごみを出す」と。私が出しにいっても、いう人はいうしね。 すでにいわれているしね。 ま、それがいやだったのだろうが。 こういうこと1つとっても、弟がいないって、えらいことなんだ。 それと、米作りにおいて高齢母のほうが経験値的にはすごいわけだけど、甥の動きが情けないらしくて、あれこれいう。 母がいうのは無理からぬところがある。 だって、とりあえず亡き弟のすべてを今年は引き継いだわけで、要するに自営業だ。経営者だ。 小規模経営者って、アルバイトさんが帰っても少しはあれこれ働くの普通だし(高齢母がこれをいう)、少なくとも二ヶ月先まで考えながら動かないといけないはずなんだわ。 比べるのは悪いが亡き弟はそれが自然とできた。 気が回った、それは自分の仕事を好きだったからだろう。 でも甥は違う。 彼はパソコンの前が好き、オタク。 だから、アルバイトさんが帰る5時過ぎに自分もさっさと仕事止めて部屋にこもるし、母がいうような先々の仕事の段取りまでは考えていないもよう。 これはずっと感じていたけど、ごみだし問題でやれやれ・・こりゃだめだわと。 彼は彼なりにがんばってはいる。 でも、父親とはキャラが違う。 今朝、憎まれ口を義妹にたたいてきた。 「あの子は、自営業無理っぽいよね、自営って数ヶ月先までよまないといけないのに、それがなかなか。今年は父の仕事の継続もあるからしょうがないとしても、この先はサラリーマンに戻ったほうがあっているし、幸せかもしれない。人の田んぼは来年はみんなお返しして、自分のだって管理できなかったら売ってしまって整理って言う方法もある、そういうことをいってやって、楽になれる。合わないことをしているって苦痛だからね」 義妹も、つくづくとかわいそうだ・・・弟が生きていたら、身体不自由でつらいとは思うが、おんぶに抱っこで「気楽な奥さん」をしていられたのに。 よくうちに遊びにくるやや皮肉屋の方が、外で仕事をしている弟を尻目に部屋でクロスワードパズルをやってお茶を飲んでいる義妹を見て昔いっていた。 「○○子さん(義妹)はいいネエ、このまま苦労なしで○○さん(弟)に守られて年とれたらこれほど結構なことはない、幸せだわ」 でもま、弟はそれでもいいと思っていたわけだし。 しかし、そうは問屋がおろさなかった。 神様は彼女にこの年になって「修行」を課した。 義妹はもともとからだが弱い、今はよくやっているが。 今まで弟のいうようにしてきて、この一人で動かないといけない厳しい修行・・だからかわいそう・・・神様お手柔らかにといいたい。 でもま、意外と鈍感なところがあるし、娘だの友達にそれなりに愚痴(私なんかもうるさい義姉といわれているはず)を言っているようなんでいいのかな、と。
日常の些細なことに、弟の不在の不調和がどっと噴出す。 神様は厳しいなあ。 我が実家は終りかもしれん、とも、私は思っている。 まあ、それがこの世の栄枯盛衰ってものではあるし、蒔いた種が刈り取られる1つの形なのかもしれない。 悲しいけれど、それはそれでしかたない・・・ 月命日にこんなことを書くのは切ないのだが、これまたリアルな現実なのだ。 きれいごとではすまされない。
自分の感情を突き詰めていくと、そのある部分に腹立ちがある。 ガンへの、病院への、担当医への、まっしぐらに抗がん剤で戦った弟への、助けてやれなかったふがいない姉である自分への、運命の神様への・・・まだまだあるけど・・・ 理不尽だと思っても、「腹立ち」があるのだ。 まだ「いて当たり前だった弟の死」を受け入れていないせいだろう。
今日もいい天気だ。 弟の写真を見ると泣ける。
そうそう、昨夜友人より電話。 たくさんなぐさめのことばをもらったけど(カサ、ありがと)、その中に質問が。 「白菊会ってなに?」 「検体の会の名前」 「へえ・・・なんだか、宗教団体かと思った」 こんな会話です。
| 2009年06月23日(火) |
死の準備のほうが簡単だ |
力が出ないねえ。 最低限のことをして、息をして食べて・・・ これじゃだめなんだけどね。 今まで、思い通りにならないこと、悲しいこと、つらいことごまんとあったけど、これは今までの中で最大の悲しみ、喪失感みたい。 こんな真っ黒い泥沼にずぶずぶはまっていくよな感じって今まで体験なかった。 弟の最後・・・教えてくれたこと・・・毎日毎日生き切るしかないんだよ、ということ。 出来ていないなあ・・・生きる気がうせている。 とりあえず、一番簡単なことは自分の死の準備をすることだろう。 かたずける、今までとっておいたものを捨て切る。 遺言を書く。 近々、白菊会に入ろうと思う。 更に、末弟のことも、母や私がいなくなって、どういうことになっていくのか、今の施設の担当者や福祉の方々と談合しておきたい。 弟は生きる気満々、なにも言い残さずに、ふっと息を止めてしまった。 彼の始末はしてくれる人がいる。 しかし、私はだれもあとを見てくれる人がいない。 明日死んでもいいように、身の始末をきちんとしておかないと、と思う。 生きることを考えるより、死の準備をするほうが簡単だ、といったのはだれだったか。 これ、真理だなあ。 そういう意味では、弟は、戦って生きたい!のほうをえらんだのだし、はるかに難易度の高い世界を生きたわけだ。 弟よ、君はえらかったよ。 私がガンになったら、余命を聞こう。 抗がん剤は、もちろんしない。 私にはガンと戦う理由は何もない。 余命のうちに死の準備を万端整えて、みんなに挨拶をして、あちらのことを書いたものをたくさん読んで、逝く練習をしておだやかにあちらに逝きたいと思う。 痛みが来たら、モルヒネ。 できるだけ、痛くないように逝きたい。 チベット仏教の瞑想は、魂を肉体からするりとぬくトレーニングだという。 これは「自殺」ではない、もちろん。 天寿を迎えるとき瞑想によって練習してきたようにやればいいということらしい。 こんな本ばっかり読んでいる。
まじめな梅雨空である。 お日さんが出ないと,ますます元気がなくなる。 出たら出たで、あそこで仕事してんじゃないか・・・なんて妄想力でつらくなる。 今日は姪の結婚一周年。 去年の今ごろは梅雨の晴れ間、「花嫁の父」をしていた弟だった。 それが1年でいなくなるなんて・・・なあ。 今晩は、甥と義妹は姪の嫁ぎ先へ夕食招待らしい。 末弟は、今晩は1泊ショートステイ。 母は、ひとりで夕ご飯を食べる。 これまたかわいそう・・・ なんでこんなことになったかな・・と答えの出ないことを考えてなにもできない。
25日がじきにくる。 1ヶ月だ。 はやい・・・
| 2009年06月21日(日) |
この世とあの世は相似形 |
このところ、「心霊研究」なんてHPをよく読む。 こういうのって、意外とイギリスが伝統的に盛ん。 コナン・ドイルあたりも、たしか結構真剣にやってはず。 本を読んだことをがある。 あと,シェークスピアを日本に一番最初に紹介した、英文学者、浅井和三郎?氏だったかも,イギリスとのかね合いかどうかは知らないが,日本においてはこういった系統の元祖だったはず。 もともと興味と関心があってみると本などは読んでいたわけだけれど。 そんなこんなでたどり着いたのが「シルバーバーチー」関係。 この世とあの世はけっこう似ているらしい・・・ うそかホントかは知らないが,あの世からの交信,書いてあることを読んで「弟」はいまどこに?的なことをかんがえている。 宮沢賢治が,妹トシを失って,彼女と交信する旅に出ている。 今、真に宮沢賢治の思いがわかる気がする。
| 2009年06月20日(土) |
1つの当たり前の気づき |
ある方からいわれた。 ご家族も悲しくて悔しいでしょうが、結局、自分が守りたかった家族を守れずに逝かれた弟さんが一番残念無念なのではないですか。 だから、止めても抗がん剤で闘った、過ぎるくらいに、戦った。 最後まで守ろうという思いが、そこに見えますよ。
そう、まったく。 その通り。 私が「転移ということは、もう治らないんだから、仲良くガンと付き合って大きくしないということが大事なんだよ」といっても、もう1つ聞き入れていなかった弟。 要するに、自分は守るものがあるのだから、克服して長生きしないと、と思ってだから、抗がん剤を信じたってことなんだ。 私は現実を直視するのは勇気がいる、と思ってみていたんだけれど、そうではなかった、こういう簡単なことに気がついて泣けた。 でも、「仲良く付き合う」ということをもっと早くに考えてくれたら、造血力を殺さずにすんだ」と思うと悔しいが。 でも、弟が一番つらかった、というシンプルなことに気づかせていただいたことに感謝している愚か者の姉なり。
蒸し暑い日。 ますますなにもする気になれないのだ。
昨夜、ためしてガッテンで、うつ病をやっていた。 項目チェック、いくつか当てはまる・・・ ま、当然といえば当然だけど。 今日のような梅雨空だと、これまた心下向きだ。 毎月、手書きで書いて近隣の図書館や児童館に「親と子の国語だより」を配っているのだが、なぜか車の運転しつつ涙がこぼれて止まらなかった。 亡くなった病院を見たくないので、今まで使っていた道を変更して遠回りしている。 母はどこからでも見えるT央病院、壊してやりたいなんて過激なことをいう。 あの7階の部屋から、イサオはどんな思いで田んぼをみていたかと思うと、切なくて涙が出るともいう。 私は、病院の脇を通るとまだいそうな気がする・・最後の息が苦しそうだった顔を思い出す。 それはまるでムンクの叫びのような顔。 それが苦しくて、痛くて道を変えている。 ムンクは好きだったけれど、なんだか嫌いになりそう。 ムンクもたくさんの家族を見取った人だから、その無明から生まれたのがあの絵かななどと、今までと違う見方もできるが。
臓器移植法案、A案だとか。 0歳からで、家族の同意があればできるんだとか。 しかし、交通遺族の会は反対している。 脳死の後に来る心停止までの時間が家族の別れの時間、自分の子や親がいなくなるのに少しでも折り合いをつける時間として貴重なんだという。 わかる、とってもわかる。 その時間がうちはなかった。 本人も生きる気満々、わたしたちも残り時間は少ないだろうが、初孫の顔くらいは見られるだろうと思っていた。 ただ母の至言「血液がだめになったと聞いて、そりゃ、原爆病とおんなじだ、こりゃだめだなと思った」 確かに、原爆病だ。 抗がん剤=原爆。 そうだ、まったくだ。
輸血が必要となって入院になったとき,病院から弟が電話がして来た。 忘れもしない4月2日のことだ。 「ああ,私の手から離れた」と瞬間思った。 食事や,体を温めてやさしい方法でガンと付き合うの世界ではなくなったと感じたのだ。 そして,亡くなるまでの間,彼の血液数値が安定することはなかった。 4月末,1週間ほど,よいときがあったろうか。 しかし,その後また輸血頼みの日々だった。 要するに,彼の造血幹細胞は,彼の造血力は抗がん剤でほぼ完全に機能しなくなったわけだ。 骨転移もあろうが,それまでは骨転移があってもそう異常をきたさずに生きていたのだから,やはり抗がん剤の殺傷力がすごかったということだ。 抗がん剤開発の経緯は毒薬から始まった。 抗がん剤は「毒」なのである。 お高い自由診療の免疫治療のクリニックの患者さんは,ガンになった医師および関係者が多いと聞く。 抗がん剤の怖さというか,効いても最初の3ヶ月,その後はむしろ発ガン増ガンに効いたりする・・を知っているので自分たちは使わないというわけだ。 まあ,転移すれば,抗がん剤しかないのだから,医師としても無力感だろう。 それはわかる、でもさ,自分らが使わない抗がん剤を患者には使っているって。 これって。
抗がん剤は,いわゆる骨髄抑制(造血力,免疫力の低下)は必発だ。 こんなのいいわけない。 血の流れ、これは命の基本だ。 ガン(除く白血病)になっても,抗がん剤をやらない限り弟のような血液状況にはならないはず。 つまり,結論を言えば,抗がん剤はやらない・・・ほうがいい。 やるにしても数ヶ月。 しかし,ここで止めるって,難しいだろうな。 だって,止めたら無治療になるもん。 恐ろしくてできないだろう。 だとしたら,最初からやらないほうがいいかも。 体の基本を強くする漢方薬あたりを飲みながら,死出の旅路の準備をしたほうがいいのかも。 みんな1度は死ぬのだから・・・ もしも,抗がん剤をやるとしたら,副作用が出ない程度の量でガンと仲良くして大きくならないようにする。 しかし,地方にはこういうことをしてくれるお医者さんはいない。 でも,なんで患者が抗がん剤の量を決められないの? これ、おかしい。 この当たりが一番の問題だろう。
弟はずっと貧血だった。 でも,その少ない血を,ビワやこんにゃく湿布や足湯,呼吸法,食べ物などで効率的?に循環させて体を動かしていた。 しかし,血管が切れて血液が漏れ出して,病院に入り,そのすべてができなくなった。 つまり血流が一気に悪くなったわけだ。 血液を回す,血も水だ。 水は流れないと滞る,腐る。 弟の急死,このあたりで納得できる。 抗がん剤はやらないほうがいい。 アンチ抗がん剤主義者、という言葉をどっかで読んだ気がするが,私はそれになった。 相変わらず弟のこと,その急死についての意味について考え続けているしつこいもへじである。 胸の穴はふさがらない。
| 2009年06月16日(火) |
いい天気だとつらいな・・・ |
昨日も今日も,梅雨とは思えないいい天気だ。 これがつらい。 うちの窓から実家の方角を見る。 山際だ。 その周辺に我が家の田んぼがある。 いまどきなら、この晴天のしたに水回りをしたり,溝きりをして水切りをしたり・・・そんな仕事をしてうまい米をつくぞーと意気込んでいる弟の姿があったはずなのだ。 想像力ありすぎ・・がつらい思いをよんでいるとは思うけど,でも考えてしまう。 いない,ホントにいない,いないんだよね。 なんてことを考えて,青空をひっくり返ってみていたら,午前中になんと眠ってしまった。 ああ・・・いい気なもんだ。 まあいいさ。
今朝も,母や義妹とご飯食べつつ,去年の今ごろは,娘の結婚式の準備や嬉しさで喜んでいて,父の日は私が作っていったビーフシチュウを,甥やアルバイトさんとうまいって食べてくれていた。 ガンのガの字も無かった。 でもま,すでにこのときはガンは転移をしていたわけだけど。 ああ・・・それが1年後にはいないんだもん。 無常。 私も荷物整理をして「死に支度」をし始める時期なんだろう。 弟がそれを教えてくれた。 明日なんてわからない。
昨日,姪が夢を見たって。 弟はわたしと姉弟げんかをしていたって。 確かにね,入院した4月,抗がん剤問題でよくけんかをした。 激しく言い争いもした。 でも,5月はしなかったもんね。 抗がん剤を止めたしね。 遅かったけどね。 でもま,わたしは遠慮会釈なく言い争いをする相手を完全に失った。 考えてみれば,それ、弟しかいなかったよね。 弟だって,奥さんは病気になってから守らねばならない存在となり,彼女も従順に従っていたようだし。 けんか相手としては小うるさい姉が最良だったろうさ。 姪の夢でけんかしてたって,弟はまだこの世で私とけんかをしたかったのだろうかねえ。
レスラーの三沢さん47歳リング上死す。 これまた現役バリバリの死。 おかわいそうに・・・ 死ぬまでわかんないけど,やっぱり間違いなく寿命というのはあるわね。 私たちは「なぞ」を生きているんだ。
| 2009年06月14日(日) |
五十代、六人海難事故 |
昨日,新潟の海でプレジャーボート2台の転覆事故があった。 のっていたのは,五十代がそれぞれ3人ずつ。 実家で母と義妹と人事ではない・・家族はいかばかりの思いか・・と話し合った。 大物を釣ってくる,と出かけていったに違いない。 それが・・亡くなって戻るとは。 新聞によると,80歳のお母さんが遺体の身元確認に出かけたり。別の亡くなった方は昨年奥さんを無くして,娘さんと2人きり,その娘さんが今年結婚するのを待ってたという話もあり。 胸に迫る。 人事ではない。 悲しみや戸惑いがよーくわかる。 義妹は,元気で行ったのが,亡くなって戻るんだからうち以上といっていたけど,うちだって本人は元気で退院のつもりだったんだから似たようなもんだ。
この世はやはり「苦」ばかりなり・・。 この世に生まれた限り,1度はみんな行くのだけれど,そのときまでわからぬ悲しい存在な我ら。 無常,無常。 ご冥福を祈ろう。
ポーッとしていると楽かな。 なんて思ってみても、できない。 あれこれ、先々のことを考えると・・・・ 弟と半分ずつ背負うと決めていたものをどうするか。 なるようにしかならんのだろうな。 日々、ただやり過ごすことだけを考えて生きていったらいいのかな。 私らしくないけど。 夜に実家へ帰るときは病院が見えない道を回り道している。 見えると、これがつらいんだ・・まだいるんじゃないかなんて気がして。 生き地獄から這い上がりたい・・・な。
昨夜、実家へ泊まりにったのは塾が終わった8時ころ。 玄関を入ると、義妹が言った。 「おねえさん、ちょっときて、きて、蛍がいるがよ。」 もう一度外に出て彼女に付いていくと、確かにはかなげな光を点滅させて数匹がふわりふわりと飛んでいる。 らく(ちび犬)の散歩に来たら、とんでいたから・・・いなかったらどうしようと思っていたけど。 子どものころはいて当たり前だった蛍。 夕食がすむと、祖母につれられて竹箒と袋をもって、蛍取りにいった。 もちろん亡き弟も。 そんな思いで話をしながら、二人で蛍を鑑賞した。 「ネエ、お義姉さん、この辺は自然が豊かなんだよねえ。」 「そうだよね、カワニナがいないと蛍も出てこないから」
弟が入院したのは、まだ桜が咲かない時期だった。 で、桜の時期、私が寺宝温泉の近くの桜をは「花盗人」して、病室に運んだ。そうしたら外の桜と同じように咲き、花を散らした。 走りのさくらんぼ(アメリカンチェリー)も食べたよね。 亡くなる数日前、メロンを買ってきてくれという電話でスーパーに行ったら今年初めてのアメリカンチェリーが出ていて、早速買ってもっていった、数個食べたんだわ。 スーパーで、さくらんぼを見るとそんなことも思い出して切ない。
ふっと思いついて、写真の箱をひっくり返した。 出てきた出てきた、弟が京都の私の下宿に友達と遊びにきてあちこち訪れた写真。 私が引っ越すときに手伝いにきてくれて、下宿友達たちととった楽しい写真。 長男が生まれて歩き始めたころに海にいってとった写真。 このころはまだ私も実家や弟と近かったんだわ、心理的距離が。 だけど、お互いに自立して30代、40代とはなれた。 そして、価値観も大いにちがった。 でもま、地震後、弟が背負うものを少しでも私が肩代わりできたら、と思って戻ってきた。 戻ってこなかったら、こんなにも悲しまなくてよかったのかな・・・ それはそれで、離れていてなにもできなかったと後悔するだろうなあ・・・ いずれにしても、もっとなにかやってあげられなかったか、どうして弟の命、守れなかったかとさまざま考えて手も体の動かなくなる。
昔の写真を見ると、人生は一瞬、確かに苦しいことのほうが多いなあ。 なんのために人は生まれて死ぬのかなと考えこんでしまう。 むなしい、生きることは・・つまりは死ぬのだから。 ありきたりだけど、1日1日を生き切るしかないのだろう。
「この年になると出口のない悲しみがあるとしみじみ思う」 学生時代の友人からもらったメールにあった1文だ。 ホントにそう思う。 「日にち薬は効かない」 とも書いてあった。 多分、そう・・・思う。
人間って、えらそうにしているけど、その辺をはいずっている毛虫ほどの存在だよ。 だって、自分がどこからきて、いつどこに去るのかもわからずに生きているんだから。
| 2009年06月08日(月) |
寿命がある、ということ |
昨日は、日曜日、いろいろな方がお参りに見えてくださってにぎやかだったらしい。 私は自分のうちでそうじをして、夕方になって実家に戻ったのだが。 で、そのうちの一人に、母と同年で、もう多分五十年来の友人の方が見えたとか。昔結核で片肺がないといういうこの方、実は、5月はじめから半ば、弟と同じ病院の下の階で、あと一週間くらいが山、いつ亡くなってもいい状態で入院されていたんだとか。 看護師が交代でつき、身内もつき・・・でも見事生還。 母いわく、顔がつやつやして元気そうになっていた、と。 一言、寿命があったんだねえ。 担当医に5月末くらいまで入院していたら退院できるとかイージーな見とおしを聞かされていた弟は、その言葉をうのみにして、だれかれにそう言っていたらしいが、亡くなって戻った。 母に言った。 神様が、寿命あると、尽きるとはこういう違いなんだと教えてくださっているんだね。 それでも、昨夜は母と義妹にビワ温灸をしたのだが、母がうめくようにいった。 「イサオ、なんで死んだや・・なんでだや」 義妹の心の内だっておんなじだろう。 この「地獄」はいつまで続くのだろうか。
関係ないようだが、せめてもの救いは日脚が伸びていることだ。 これが9月とか10月の日がドンドン短くなるときだと、自殺でもしたくなっただろう。 生きる、、死ぬ・・頭ではそれなりにわかっていたことを今体に染み込ませるというか、もう一度深く身体的に考える。 こういうことが必要なんだろう。
たまちゃんから、電話をいただいた。 たまちゃんとお父さんとお話した。 たまちゃんあいしているよ、ありがとう。 といったら、あ、まけた・・・って。 ごめん、勝ってしまったよ。 「日にち薬だって人はいいますが・・・」 お父さん「いや、なかなかそうはいきません・・・出かけると、あそこでこうだった、足摺はいっしょに泊まりにいった・・とか思い出すんですよ」 ああ・・わかる、わかる。 日にち薬は、多分十年以上すぎて少しは効くのかもしれない。 私も、塾の部屋にあるテレビ1つ取っても、思い出すもん。 準備しているとき一緒に買いに行ってくれて、でっかいのがいいぞって。 テレビなんて・・という感じで、コンパクトサイズを買おうとしていた私に、大きい物好きの弟が言ったもんだ。 おかげさまで、授業に使う時はみやすくて助かっている。 思い出すんだ、テレビを見ただけで。 涙があふれんるんだわ。 なんで・・なんで・・と。 無常。 朝に紅顔ありとても ひとたび無常の風吹けば・・・ 死はいともかんたんに人にやってくる。 まさに1回の生を生き、出会いは一期一会。
多分、今の私の気持ちを一番よく理解してくださっているたまちゃんご御一家、そしていまだにお兄ちゃんの死に日にち薬が効いていなくて、苦しんでいっらしゃる・・・・切ないなあ。 なんでこんな思いをしなくてはならないのかなあ。 でも、一番思いが通じてわかってもらった気がする、ありがとうございました。
ずっと拝見している低容量の抗がん剤で末期ガンの人をふつうの何倍も延命させている梅澤充ドクターが先日、ブログで言われていた。 人の命や死は、癌のある無しに関係なく神様のもとにあると思う。神様には抵抗できませんって。 たくさんのガン患者と日夜関わり、たくさんのガン患者たちを見送ってこられた彼にして出てくるこのことばの重み。 説得力がある。
先日書いた医師とけんかして抗がん剤をやめて「俺はじきに死ぬんだ、だから好きなだけ酒を飲む」といってのんだくれている弟と同期の男性。 最近おうちが火事になった。 深夜、全焼。 奥様とおじいちゃんは命からがらお逃げになった。 で、ご本人が行方不明なので心配していたら「飲んでご帰還」 いわく「飲んで帰ったら、家が燃えてなくなっていた」 以上友人に火事見舞いの�笋鬚靴燭蕕�いた話。 つまり、この方は、火事までも逃れたわけ、お酒のおかげで。 運強し。 母にこの話をしたら、あきれて笑っていた「その人はまだ寿命がある。この世で酒が飲みたりんのだな」 義妹も「強運だね、それに引換え、あのインフルで大阪行くのもいけなかったお父さんは・・・運がなかったねえ」 姪と意外と飲んだくれて好きなことをしていてガンが消えているかもね。 なんてことまで話し合った。 非常識な発想転換だし。 彼のことは知っていけど。 亡き弟にはできんことだろう。
やっと、3階の自室のひっちらかっている部屋を少しきれいにした。 2階の塾部屋も雑巾がけが2ヶ月近くできていない。 しなくちゃ、と思いつつ。 朝5時おきで、でっかい実家(弟の遺産、高齢の母親も妻も、甥もそうじが苦手なのに、あんな大きな家どうする、我が弟よ)の掃除をしてくると、なんだか気がぬけてぼんやりとしかできないんだよね…。 明日は、早朝に、町内の公園の草むしりだ。 やっぱり、5時おきでこないとなあ。
| 2009年06月05日(金) |
いて当たり前だった弟 |
こちらに帰ってきて週に3回は末弟の入浴介助で実家に通った。 「よう、元気か」とか「頼むな」とか「ほら、どこどこに行って来たから土産」とかお互いそんな話しかしなかったけど、まあ顔を合わせていた。 いて当たり前だった弟だった。 それがいないって、こういうことなのか。 寂しい、つらい、こう書きながら涙が出てくる。 考えてみれば2つ違いで、54年間いて当たり前だった弟だったのだ。 それが先に消えた。 私は1996年に交通事故で九死に一生を得た。 あのときに、私が死んでいたら、弟が同じような思いをしたわけだ・・・ 弟がするより私がしたほうがよかったのかな。
昨日、見えた弟夫婦と長い付き合いのある女性の友人が弟が夢に出てきたといわれたそうな。 息子の働きぶりを空から見たいから、だれかヘリを頼んでくれないか、といったそうな。 いかにもだ。 笑った。 おまえはもう飛べるんだよ、どこからでも見られるんだよ。 そう、話しかけた。 話しかける写真がとってもいい笑顔でみんな救われている。
先週の今ごろは、先週はまだ生きて私と話していたのに・・・と思って泣いていたが、今日は、先週の今日は葬式だったと・・・・もうお骨になっていた・・・と。 日の過ぎるのは早い。 やはり、ただ涙が出るよ。 でも、塾の保護者の方々から、思いがけない励ましやお心をいただいて、恐縮しつつ、がんばらなくちゃな、と思ったりもしていて。 いい天気だ、でも悲しい。
今日も朝9時過ぎに帰ってきて、ごみを出して、ぼんやりしていたら、12時になった。 またまたなんにもしていないわ。 これじゃだめ、と思いつつ、実家でピンとはっている糸が我が家に帰ると切れる。 ただ悲しくてぼんやり。 このうちにも弟に運んでもらったものとか、一緒に買いに言ってもらったものとかあるんだよね・・・あれこれ考える。 これじゃだめだ、情けない・・と思いつつ。 さあ、塾だけはちゃんとやるよ。 準備をはじめよう。
| 2009年06月02日(火) |
いいお天気だとかなしい |
昨日、今日とすばらしい天気だ。 いいお天気だと、働き者の弟はよく動いていた。 まあ、時々、消防団の会議(彼は市の副団長だった)とかってピーカンで出かけていて母の小言のもとになっていたけど。 いいお天気を見ると、弟がこの空に下でもはや肉体を持たないということが迫ってくる。 涙が出る。 私がいちばん好きな季節に逝ってしまった。 いちばん好きな季節がいちばん悲しい季節になってしまったじゃないかと。
実家では、朝5時に起きて義妹としばし写真の前で語らう。 そして彼女は食事のしたく、私はうちの中のそうじ、たくさんある花の水やりなどなどをする。 実家は、しっかり掃除をすると、1階だけでも小一時間かかる。 母も義妹も甥もそうじはあんまり得意ではない。 おいおい、そうじをする人がろくにいないのに、広すぎる家を残していったね、我が弟よ。
で、自分のうちに帰ると、腑抜けたようにひっくり返って窓から見える青空を眺めている。 情けないけど、する気が起きないのだから。 ただ、塾だけはやらないといけないのでそれは準備万端しっかりとやっているが。 苦痛だが、手を抜くとこんな小さな塾はあっという間につぶれるから。 心をこめて子どもに接する、これが我が塾の原点だから。 口コミ紹介で見える方が言われる「何々さんが、しっかりと指導してくれるっていわれてました。」 この言葉に応えて行かないと。
| 2009年06月01日(月) |
抗がん剤の怖さ・・抗がん剤はちょこっとだけがいい |
しばらく、夜には実家に泊まりに行くことにした。 掃除と、供花がまだたくさん飾ってあってそれの世話が義妹と母にはできない。 そうじは、まだ弔問の方が来るので欠かせない。 それを、早朝すできるのはわたしだけ・・かな。 甥は忙しいし。 姪は、婚家へ帰るし。
でも自分のうちの掃除ができていない。 する気が起きないんだよね、気力がわかない。
末期ガンでビワにおいでになっていた方、本日�筺� 抗がん剤を止めて、確かに息をしておいでになる。 ガンワクチンのことをききたいと・・・しかし、わたしから聞くより東大に電話してください。 しばらく無理です、ビワもやめることにしました。 友達に聞いた弟と同期の末期ガンの方、日赤で医師とけんかして抗がん剤を止めて、お酒を飲んで「お元気」のようす。 味噌先生にきいた、抗がん剤も放射線もやらない肺がんの方も「お元気」。 抗がん剤を止めた、つかわない人は「末期」といわれながらもしぶとくサバイバルしておいでになる。 それなのに、うちの弟は、思いっきりドクターのお勧めのままに抗がん剤をして逝った。 *お金があって抗がん剤がいくらでもできる人(抗がん剤は高いのです) *個室に入ってお任せの人 *医師の勧めに素直に従う人 だれかのブログで、「ガンで死ぬ人」は上のような人だと読んだ。 弟は全部当てはまった。 そしてその通りになった。 逆に生き延びる人は *お金がなくていつまでも高額の抗がん剤の費用を払えない人 *団体病室で、どうやったら生き延びることができるか主体的に調べ本を読んでそれを実行する人 *医師のいうことを疑ってみて検証する人 それと これは数年前にガンで亡くなった絵門ゆう子さん(NHKのアナウンサー池田裕子さん)がかいてらしたのだが *どこかで発想の転換、非常識な方向へ自分で考えていく人 わたしは弟に抗がん剤は怖いよ、どっかで止めないとね、といっていたのだが、おまえは抗がん剤を悪者すると取り合ってもらえなかった。 だって「毒薬」のレッテルの薬がいいわけない。 しかし最強であることも事実なので、使っても数回・・・にしてほしかった。 それを彼は5回もした。 そして、5回で体の堰が切れた。 一気に血液数値が異常になって、出血がとまらなくなった。 彼がきめた治療方針とはいえ、無念だ。 わたしはこれを言い続けたい。 抗がん剤は3ヶ月くらいできかなくなる・・いわゆる標準治療といわれる抗がん剤療法(化学療法)。 ただし、超低容量の抗がん剤なら弟のような形にはならない。 ガンは消えないが、大きくはならずもっと生き延びることができる。 無念である。 こんなことがまだ頭の中をぐるぐる回っている。 もともと考え方はわたしと多いに違った弟だ。 仕方なかったといえばそうなのだが、さらに、彼は彼の納得した治療を受けた結果なのだが、でも、せめて姪の子ども【初孫】を抱かせてやりたかった。 彼の早すぎた死は、抗がん剤のせいである。 断定できる。 抗がん剤はやらないほうが場合によっては長生きできる、それは確かだと、わかった。
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