いい天気。 ファミリーオはすごく景色のいいとkろなんで朝の散歩。 切り立った海岸で、佐渡金山で見たのと同じ石を見つけて、中に金か銀がキラキラ光っているのを発見。 小石をひろうてきましたわ。
8時50分、佐渡版画村美術館へ。 明治期の木造、裁判所だったとか。風情があった。 佐渡は版画がさかんで、あちこちに飾ってある。 プロから趣味の一までいろいろな作品を楽しんで、カレンダーと干支コースターを買ってきた。散財。でも、干支コースターはおもしろいデザイインでついつい買ってしまった。 その後、相川ワイドブルーとかいう公営日帰り温泉に入って港へ。 12時40分のフェリーで新潟へ。 船の中で、国体の開会式のようすをテレビで見たが、天皇さん働いておられました。お年なのにねえ。ガンなのにねえ。やっぱり、働き盛りの皇太子はなにしとんねんと、私は見ながら思いました。
昨晩遅くに、松山の友人Tさん来訪。 朝から、2人で佐渡に向かった。 夏のバーゲンセールであたった佐渡1泊の旅が9月いっぱいだったので、マアじゃあ来るんだったらいっしょに行きましょうか、いうことで。 Tさん、去年から今年、いろいとと大変なことがあったのでまあ気分転換しにきた感じかな。
よい天気。 新潟からフェリー乗船、1等船室で寝ていたら佐渡着。12時少し前。 取れたてぶりのづけ丼を食べておけさAコースという定期観光バス乗車。 佐渡のまんなかは標高1100メートルほどある。 そこへ、航空自衛隊の防衛道路をドンドコ登る。 ガイドさん曰く「防衛専用道路を観光バスが走っているって、ここだけだと思います」航空自衛隊基地の脇を通るときには「ここに何人の人がいて、どういう仕事をしていて、中がどうなっているのか佐渡の人はなんにも知りません、なんだかミサイルもあるって話ですが」 こんな事をシャランという、すごく変わった中年のガイドさんに、Tさんと「すごく変わっているよ」「恐いこと、しれーというよねえ」 もう一つビックリしたのは、ドライバーとガイドさんは、掛け合いで、佐渡おけさを歌ったり民謡歌ったりすること。 ドライバーが、唄をうたうんかい・・・佐渡は交通量が少ないから警察からお目こぼししてもらっているって話だけどウーム。ビックリ。でも2人ともじょうずだったが。 佐渡金山も、江戸時代の気の遠くなるような小判鋳造作業と、真に迫る坑道内の動く人形に驚きましたワイ。 そんなこんなで夕方。 ファミリーオ相川泊。 夕暮れがきれいだった。
私、佐渡ははじめて体験。 なんだかのんびりしていていい感じだわ。。
2006年09月28日(木) |
秋の花、いくつ知ってますか |
玄関においてあるプランターでコスモスが咲いた。 靴箱の上には鶏頭の花も飾ってある。 子どもたち、秋の花を知らない。 コスモスくらいね。 菊、キキョウ、オミナエシ、フジバカマ、ハギ・・・知りません。 食べものも聞くと、メロンとかキュウリとかいう。 梨とか、ぶどうとかっていうと、夏から食べているっていうし。 こんな地方都市の子どもも季節感が希薄化している。 都会はどうなんだろうか。 日本語と日本文化は、季節感の上に成り立っているといってもいいのに。 こうなると、瀕死の日本語だわ。 昨今、思うことである。
まじめな秋が来た。 もう、タオルケットも半袖もおわりかな。
美しい日本になるようにって・・川端康成でもあるまいに。 政治家の言葉としては、あやしくてアブナイ。 特攻隊員も、美しい日本人の姿だったし・・・ 集団自決も、美しい行為として奨励されたし・・・ 己を殺して、集団につかえ、疲労死するのも美しい日本人の形だったし・・・ 「美しい」ということばが政治に使われる時って、ろくな時じゃない。 まったく「美しい」ということばを汚すぜぃ。 同質の者がそろった今度の内閣って、恐いと思う。 全員、靖国参拝します!!って顔ぶれだわ。 おそるおそるでも異論を唱えそうな人がいない。 来年の参議院選でぶっつぶれてほしいけど・・・どうなるかねえ。 総理の奥さんは、砒素ミルク事件を起こした森永の社長のお嬢さんなのだよね。 雅子さまのお亡くなりになったじいちゃんが社長として水俣病に冷酷に関わっていたように、いやな感じ。世情では、さばけた奥様になっているようだが。 どちらの事件もたくさんの人達が悲惨な亡くなり方をして、今も後遺症に苦しんでいる人人が大勢いる。 親族が殺人をすると、身内は肩をすぼめて下を向いて生きていく、あるいは自殺をしてしまう人さえいるのにねえ。 砒素ミルクだって、水俣病だって、「殺人」だとわたしは思うけど。 (こういうのって、いけずかも知れないけど、忘れてはいけないことだと思っている。わたしら忘れやすい日本人!だもん)
とにかく、政治家が「美しい」っていうときはアブナイですよ、みなさん、気をつけませう。
雨があがったら、一気に足が進んだ感じで寒い。 半袖で、今朝は震えた。
玉男さんが亡くなった。 文楽人形遣い。人間国宝。 昔、歌舞伎・文楽、現代芝居、クラシックコンサート・・・等々にはまっていたことがある。 一つ、選べといわれれば、文楽だ。 チョーがつくほど好きだった、というか今もだけど。 吉田玉男さん、立役人形遣い。(男人形) 例えば、曽根崎心中でお初を吉田簑助さんが遣い徳兵衛を玉男さんを遣ったら、絶対に見に行っていた。 更にキリバ語りを越路太夫さん(故人)、太棹三味線が燕三さん(故人)だったりしたら、もうヨダレが出る豪華メンバーだった。 みんな鬼籍に入って、残るは我が愛しの簑助さんのみとなられまいたか。 ウーン、わらわもお歳を召しまいたわ。 平成一年?だったかの越路太夫さんの引退公演は、東京の国立劇場満員御礼だった。 演目は、桜丸切腹の段。 白太夫が玉男さんの人形だった。 太棹は、燕三さん。 桜の木が折れて、やはり息子の桜丸は切腹するしかないのか・・と父の白太夫が嘆く越路太夫さんの語り、もう泣けました。わたしだけじゃない、客席からしくしくというかすかな泣き声がひびきました。 もう名演だった・・・ 人形と、語りと、太棹が名人で、性根が入るとお客は泣くんです。 たかだか人形がだけど、じつは歌舞伎よりリアルというか、思いが純粋化されて濃い。歌舞伎と文楽は演目が重なっているけど、世話物といわれるいわゆる心中ものはわたしは断然文楽で見るのが好き。 玉男さんの人形はすごいんだけど、だれがうごかしてんのって風情で玉男さん、遣うんだよね。 対して、簑助さんは、もう人形にずぶずぶで力いっぱい一体化している。 簑助さんの女形、人形の後ろぶりがホントに美しくて悲しくて、わたしの場合、簑助さんの舞台を見ることは涙腺の掃除だった。 燕三さんの太棹の音は「典雅」に尽きた。 同じ音をほかの三味線弾きが弾いても、典雅にはならないのに・・・不思議だった。 わたし、文楽の語りが好きで、実は越路太夫さんの語りテープを持っている。 NHK出版のもの。あのテープの太棹は大半燕三さんだった気もするが。 ガッコの先生していたころ、日曜日の朝、越路太夫さんのテープ聞いてボヤリンとするのが好きだったなあ。 どこにしまったかな・・・まさか捨てていないと思うけど、探してみよう。 テープ聞きつつ、文楽の舞台写真を見つつ、あれこれ思い出に浸るのもいいかも。 玉男さんご逝去で、文楽の歴史が一つコンマが打たれた気がする。 玉男さんの人形、大好きでした、ご冥福をお祈りします。
そうそう、丹波哲朗さんも亡くなったねえ。 ホントに大霊界にっ逝ってしまわれた。 合掌。 お彼岸のころになくなるのって、ホントに寿命。で、死に方としてはいわゆる「上品」(じょうほん)で、極楽に確かにいけるのだ、と聞いているが。 多分、ホントにそうなんだよね。
愛媛の地震、さっき夕刊で知った。 震度四、大きい。 お見舞い申し上げます。 この頃、この辺りも中越地震の余震が震度1とか2である。 揺れるんでわかる・・しつこいヤツだ、中越地震のナマズオヤジ。
埼玉県川口市の事故、ひどいなあ・・・ 生き残った子どもたちも、事故のPTSDで悲惨な思いをすると思う。 ホントにかわいそうに・・・ 狭い裏道で、園児があるいているのが目に入ったら脇見運転なんてできるもんじゃないでしょ。徹底的に徐行して進行すべきだ。 ドライバーの人格を疑う。 「車は人格が走っている」ってわたしは思うんだわ。 ふだんから人の迷惑とか考えて気配り心配りする人は、なかなか事故は起こさない思うんだけど。 もちろん、わたしも毎日のように運転しているから人のことはいえない。他人事ではない。十分に気をつけねば。 わたしは基本的に10キロ以上の速度オーバーはすまいと思っているので、田舎の40キロとか30キロの制限のところではけっこうゆっくり走りになる。だって、いつどこから、認知症のお年寄りがふらりとでてくるかわからないし・・・すごく恐い・・とくに夕方や夜は。 すると、苛ついて、町はずれの追い越し車線に入ったとたんに、ブィーンと多分60キロ以上でぬき去っていく車があったりする。でもね、結局先の国道入り口の信号でつかまっていて、わたしといっしょになるのよね。わたし、腹の中で「バーカ、せまい日本、そんなに急いでどうするんだ?」と毒づいている。 車がさして走らなかったころからのせまい田舎道を、50キロ以上で飛ばして行く人もいるが、想像力がないと思う。だって、どこのうちもたいていお年寄りをかかえている、そういう人がいつでてくるか、わかんないのよ。そうかんがえたら、とばせるわけないと思うけどな。
いずれにしても、かわいそうで仕方がない事故だ・・・
今日は最終日。 2時からの「蟻の兵隊」をみてきた。 東京でも快調に上映されている映画で、会場前列ができた。 ジャンルとしてはノンフィクション。 監督さんが来て講演もあったのだが、彼はこれはフィクションだ、ぼくらが回して編集した時点でノンは取れる、ということらしいけど。
奥山和一(83歳?)というもと日本兵。 終戦後、軍よりの命令で、他の兵士2600人と共に中国山西省にに残留して国民党軍兵士として戦った。 その後捕虜となり、昭和29年に故郷の新潟県中条町に帰還。しかし、何と県庁で「自分がs21年に現地除隊となっていて、戦っていたのは自分の意志だったと書類処理がされていた」という事実だった。 だれが現地除隊などをするものか、命令で残った戦った、ということで裁判をしていた。 池谷監督は、「終戦後、2600名もの日本兵が中国に居残って戦っていて、それが、傭兵扱いされて裁判になっていることすら知らなかった」という点で映画を撮ろうと決意した、と。 中国へ旅する中で、初年兵教育で中国人を刺し殺したことを語る。 日本兵に輪姦された女性が語る。彼女がいう。 「あなたをみれば、悪い人でないことはわかる、殺すのもやらされたんだ、家族に自分のことを語りなさい」 とにかく書ききれない・・・深い思いがわいてくる映画だった。 戦争はそのときだけではない、1度行くとその人を一生つかみ取る・・ということ。人を殺すという体験はまさにそれ。 「War is worst」
戦争で亡くなった方々への慰霊のことばとして「過ちは繰り返しません」というのがあるけど、ちがう過ちをしそうになっているこの国。 憲法を改正するといっている安倍次期総理さんにも見ていただきたい映画でありました。 そもそも、この前の東京都の裁判の勝訴って「君が代日の丸の強制は思想信条の自由を侵す」ってあたりまえでしょう。こんな事が裁判になって、勝訴って、もうこの国は、大政翼賛会か治安維持法かって所まで今や来ている気がするんだが・・・
みなさん、ぜひ近くで上映会などがあったら、「蟻の兵隊」を見にいって下さいね。
長岡アジア映画祭、今日でおしまい。 来年は、通し券持っていきたいモンだわ。
2006年09月23日(土) |
ものすごくいい天気!だ |
お彼岸の中日、ウソみたいにいい天気。 末弟を連れて墓参り。 その後、チビ犬も連れて宮路さまへお散歩で、神社カフェでコーヒーを飲んできた。
今日は、実家からもらってきた新米を食べたかおりがいいね、新米は。 ごちそうさま。 今秋のうちの米は不作のようだ。 全然だめだ、収量がない、と弟が嘆いていた。 7月までの寒さがやっぱりひびいたみたい。 母曰く、土用が暑くないとやっぱりだめらな。だそうな。
ビンラディンが8月に腸チフスで死んだだっていう噂がネットで流れているようだけど、ホント?? でも、ジハード(=聖戦=テロ・・ホントのイスラムはちがうっていうけど・・)の戦士は次々と生まれてくるし。今さら、彼がいようがいまいが、世界のこの状況は変わらないだろう。 困ったことだが。
何と、4時間半にも渡る映画を見てきた。 インターバルを入れて、1時半に始まった映画がはねたのは6時半過ぎであった。 外は真っ暗。 題名は、ルート181。 ノンフィクションである。 パレスチナ人とユダヤ人の監督2人が、国連決議181で引かれた幻の国境線(下のメモを参照)をたどるロードムービーだ。 日本人的には、チョーマイナーなんだけど、中東の火種といわれるイスラエルの映画に興味があった。 時間もさることながら、疲れるだろうな・・と覚悟をしていったが、マジに予想以上に疲れた。 結論をいうと、パレスチナ人とイスラエル人(といっておこう、なぜなら、ユダヤ人以外の移民も多いからだ)の共生は多分無理・・ということ。 地球最後の日まで争っているだろう。 シャロンが「朝目が覚めたら、ガザ(パレスチナ人自治区)が海に沈んでいたら問題は一気に解決するのに、といったそうだが、いっそ、イスラエル全部が沈んでみんながお魚さんに変身しちゃったらいいだわ、とさえ映画を見つつおもった。 ユダヤ人のパレスチナへの帰還運動、かなり前からあったようだけど、問題は、ユダヤ人国家をつくること(シオニズム)を隠して土地を安い値段でパレスチナ人から買い続けて、そこを入植地にしていったことだろう。実に計画的。これって、やっぱりヒキョーだよね。 1947年以前は、それなりに隣人として穏やかに暮らしていたユダヤ人とパレスチナ人だったが、イスラエルの独立以降は、一気にパレスチナ人が迫害される方へ振り子が振れた。 軍による多数のパレスチナ人虐殺が行われたようだ。そして村が破壊された。そこが入植地になった。 まさに血で洗った土地に入ったわけだわ。 ナチスに虐殺されたユダヤ人たちがどうして今度はその愚をアラブ人にする?って思いながら、見たけどそれはわたしが日本人だからだろう・・・。 追い出しきれないアラブ人たちが今ももちろん、イスラエルの地には残る。 彼らは子だくさんだから、すぐに増える。その割合を21%に押さえようとして、あのせまい国に、まさにアメリカのように移民を受け入れ続けている、イスラエルは。映画のシーンでは、エチオピアからの移民がうつっていた。 モロッコ、東欧、ロシア、イラク、この辺からイスラエルに「帰ってきた」人が多いのが意外だった。とくにモロッコからって人が多かったわ。 で、モロッコから40年だったか50年前に移ってきた人がいう。「帰れるもんなら帰りたい」だんなはモロッコ、お母さんはチュニジアから来た夫婦のお母さんはいう。「息子をレバノンとの戦争でなくした。わたしはチュニジアに帰れるモンなら帰りたい。この国には、何でもあるけど、なにもない。人生を気軽に楽しめない。シリア、レバノン、ガザ、テロ・・・人生を楽しめない」 ウーン。 言葉もない。 そうそう、イスラエルで働いている人って、中国人、タイ人、ルーマニア人が多いのだ。低賃金で雇えるから。しかし、みんないう「アラブ人のほうがよく働くんだよ、雇いたいけど、今は無理だね」みたいなことを。 ホントにホントに・・・地殻変動でも起きて、イスラエルは海に沈んでもうみんなお魚になれ!
ムカシの友人で、モスレムって国があるの?って訊ねたお方があったけど、こういう認識の平和ボケ日本人には、ぜひとも機会があったら見るべきかなあ・・(自分もふくめて)・・お勧めと思ったが、でも疲れた。 ワインでも飲んで、少し眠って気分を変えよう。夜中に活動を再開しよう。 秋の夜長は考えごとするのにとてもいいから・・・。
///////////////////////////// *メモ 国連決議181号について
1947年11月29日、パレスチナの分割を規定する重大な「国連決議181号」が採択された。 この決議では、パレスチナはアラブ領、ユダヤ領、国連統治領の3つに分割され、3大宗教の聖地エルサレムはどの勢力にも属さない国際管理都市に指定された。が、この決議はアラブ人達の猛反発を呼ぶ。 国連が決定したパレスチナの分割案はユダヤ人に極めて有利な土地配分になっていたからである。 1946年の統計によると、パレスチナの総面積約2万6千平方キロに占めるユダヤ人所有地の割合は10%に過ぎなかったにもかかわらず、国連の分割案ではパレスチナ全土の過半数である約1万4千平方キロをユダヤ人に分け与え、かつその中には東地中海沿岸の肥沃な農耕地が数多く含まれていた。 第二次世界大戦の戦勝国の寄り合いで所帯ある「国連」に、パレスチナのユダヤ人に対する事実上の領土割譲を一方的に決められ、パレスチナで最も豊な領土を移民でしかも少数派であるユダヤ人に空渡す理由などは考えられず、アラブの指導者達は国連決議第181号を機に態度を硬化させ、11月29日をアラブ人にとっての「服喪と圧制の日」と制定、パレスチナ各地で反ユダヤの武装闘争を大々的に再開したのである。 この日よりアラブ人勢力とユダヤ人勢力双方のテロが続く。 (コンバットチャンネルサイトより引用)
2006年09月21日(木) |
教育基本本の改正って・・・ |
じきに安倍総理が誕生するのね。 お父さんの晋太郎氏ののぞみだったからねえ。 晋太郎氏、亡くなる前に、奥さんと歌舞伎座へ来ていたのを見たけど、すでにやつれていて、それとは対照的に奥さんはぎらぎらとエネルギーがでていて元気そうで、やっぱり妖怪岸信介の娘はちがうわ、亭主のエネルギーをすいとったのかと思ったほど。ほどなく晋太郎氏はなくなった。 気になるのは、教育基本法や憲法改正を声高にいっていること。絶対に改正ではなくて、改悪に決まっているからねえ・・・。右翼だもんな。
ベネズエラの大統領が国連かどっかで、ブッシュは悪魔だという演説をしたそうな。 おお・・よくぞいってくれた! まさにその通り。いいんじゃないの。
タイでクーデター。 タクシン首相が悪いよ。 不正をしすぎた。 政治家って、基本的に不正をする生きものみたいだけど、彼の場合、やりすぎ。 プミポン国王も彼にいろいろと忠告したようだけど、無視だったそうな。 国民に絶対的信頼と人気がある国王さんがいるから、けっこう平和的なクーデターではあるけれど、これ、プミポンさんがいなかったら、やばい。 タイは、プミポンさんのもとで平和を維持し、治安良好であの辺アジア勝ち組の1番になったわけだけど、プミポンさんも70代でご高齢。 南部は、イスラム、テロが勃発しそうだし。 タイは国王ご存命のうちに旅した方がよいだろう。 私もまだ行っていないところあるし、もう一度だけでも行きたいもんだ、とおもうが。 タイ人は平和的な人たちだけど、あの優しい笑顔が逆にふれると、カンボジアのキリングフィールドが待っているかもと・・と思う。 カンボジア人も笑顔がすてきな人たちって定評があったのにあの殺し合いだもん。 中国人が殺し合っても、わたしは驚かない。彼らのタフさや怖さを見ている、しかし、彼らは納めどころを知っている。 穏やかで温厚な人が怒ると恐いって、いうのがタイやカンボジアの国民性にもピッタリとくる。ベトナムもその口かな。
バチカンの法王さんも、地雷をふんだ。 モスレムの地雷。 スエーデンの新聞だったかの風刺漫画であれだけヨーロッパがゆれたのに、バカだなあ。と思う。 だいたい、開祖への冒涜以前にイスラムの男たちって、ムハンマド(マホメット)って名前圧倒的に多いんだ。エジプトはカイロの街角のアイスクリーム屋で、名前の話をしてら、ムハンマドだらけだった。きっと自分が侮辱されるようにも思うんだと思う。
今日は彼岸の入り。 早起きして、黒ゴマきな粉の白玉だんごをつくってお供えして実家にも届けた。 だから、やけに眠い・・トホホ・・ さあ、じきにお子さまが来る。 ネットはぷちんします、です。
2006年09月19日(火) |
長岡アジア映画祭2 水没の前に |
「水没の前に」は、中国の三峡ダムのの完成によって、町の大方が水没する奉節(フォンジエ)の町の表情を描いたドキュメンタリー映画。山形ドキュメンタリー映画祭で受賞した作品だ。 1997年4月下旬から5月、約2週間ほどこの三峡ダムで水没する町々をうろついた。 返還される前の香港から広州へ船で入り、広州から重慶へ飛んだ。 この重慶から、中国人民船にのってゆらゆら途中下車しながら上海まで旅をした。 2週間ああまり。 ものすごくおもしろい旅だった。
重慶の何と「砂浜埠頭」(マジに太古のままの砂浜のさきにある船着き場であった)なる地点から、ちっこい人民船にのって・・・でっかい外国人用の観光船を横目で見て、ね。 フォンジエも、もちろん、下りて泊まった。 なにしろ、あの李白の詩にうたわれた町で、三国志の白帝城があってあの、ショカツコウメイが星を観たという観星台があるんだもん。 船から下りてどろどろの階段を上って、大きな城門をくぐるとごみごみとしたしかし活気のある通り。 その通り、映画の最初では97年にわたしが見たまま健在だった。 しかし、立ち退きが進み、どんどん町ちはこわされていく。 立ち退き料がもらえないで(92年以降に造った建物は違法としてもらえない!)途方に暮れる人々、少額でうちが買えないで居座る人々、もっともっととゴネゴネする人々、壊されたコンクリートから屑鉄を拾って商売をする人々。 まさに混沌、カオス。 しかし、どんどん発破がかけられて町は破壊されていく・・・ イヤー、日本では考えられない移転光景が繰り広げられていた。 わたし、旅したときに思ったんだよね。 町のあちこちに、ダムができたら水位はここまで来ると、とペンキ書きしてあるのに、どうしてみんなこんなふうに普通にくらしていられるんだろ、あと何年もなにのに・・・心配や不安はないのかな、と。 豊都なんて、町のはずれの小高い丘に登る途中に水位はここまでってあって、それって町が全部水没するんじゃんと唖然としたんだけど。 一度、ホテルのフロントの女の子に聞いたら、みんな移住するから大丈夫って笑っていたけど・・・それがこれか! 映画のそこここで繰り広げられる言い争い、何でも商売化してしまうタフさ、全然お上を信じていないのだが計算が先に立ちすぎて最後まで戦えないで気弱さ、こすからさ等々・・・私の知っている大好きで大嫌いで、でもそのタフさに惹かれてしまう中国がまさにそこにあった。 みなさんシンとしてみているんだけど(正しいです)、わたしは思わずあちこちでくすくす、ひゃー中国人!ってヤジ飛ばしていました。
それにしても長江下流は上海である。 三峡ダムでつくられる電気は、要するに大都会用のもの。 で、その恩恵でますます太るのは都市部の人たちだ。ダムで沈むいわゆる辺境(田舎)の人たちは、そのために犠牲を強いられる。理不尽で、保証うすいひどいやり方で。これって、日本にもある構図。 小泉がつくった構図。 田舎は滅び、都会は栄えるってヤツね。 あるいは、弱い者は負け組で強い者は勝ち組ってやつね。 小泉は都会の人だし、中国でもはじめにダムありきで推進しているのはエリートで、ね。まあ、三峡ダム構想は確か、建国の父孫文がうち立てたものだし、当然「ありき!!問答無用」は当然といえば当然。
97年、三峡ダム予定地(イーチャン・漢字では宜宣?だったかな)より上流は確かにすでに政府からは捨てられているという印象であった。 その分だけ、中国を席巻していた拝金主義の気配がうすくて、中国人が本来持つ情の濃さが残っていて、わたしとしては旅が楽しかった。 ハートウオーミーはことも多々あった。 (でもフョンジエでは、ホテルの女従業員に、タクシー台をたしか5元ほどぼられましただ、くそ!) あの旅で見た町や、すれちがった人のその後がこうであったかって・・・ 最後のシーン発破をかけたあと、まるで爆弾を落とされたかのような風景の中、せっせと屑鉄を拾う人たちの姿。(まるでフィリピンの煙のでないスモーキーマウンテンみたい)その人たちめあてに酒を売って歩く男たち。 イヤー、タフです、ご立派です、めげない人たちとただうなっているうちに、エンドマークがでたのでありました。 なんだか、意余って言葉足らずのボケボケした日記となりましたが、ワタシ的には、この最後のシーンで力もらいました。 ここ1ヶ月あまり考え続けていることがあって、1ヶ月前には抽象的だったことがやや具体的になってきてはいるんだけど、それはまだプランにならなくて、ウンウン苦しんでいてわたしって頭悪いわ、といやんなり始めてきてきていたんだけど、イヤー負けられませんでと思った次第。 要するに持続して黙考できないわたしの弱さというか老化というか、甘えというかそういうモノを反省させられたドキュメンタリであった。 ホントに強い中国人民。
また涼しくなった、というかやっぱりもう長袖ですね、夕方は。
暑い。 朝から、また夏がもどってきた。 台風のフェーン現象だ。 でも、汗だくで、敬老の日プレゼントということで五目稲荷を50個近く作成。(もちろん、母が全部食べるわけではない、実家の家族や稲刈りアルバイターさんもいるし) 花とカードを添えて、お昼に届けた。やれやれ。 午後からは「長岡アジア映画祭」の1本を見に行った。 タイトルは、「漁師と妻」(ドイツ)なんだけど、内容は山古志の鯉や小千谷が出てくる。で、この鯉がナレーターになって、けっこうドイツ的シュール漂う映画。 ギュンターグラスの「ブリキの太鼓」とかヴィム・ベンダースの映画を思い出してしまった。 以前山古志で、けっこうヨーロッパから鯉のバイヤーが来るとはきいていたけど、まあホントなのね、だった。 そう秀でた映画とはおもえなかったが、地震直前のこわれる前の山古志の景色があちこちにでてきて、なつかしかった。 2004年の地震前10月に撮影されたらしい。 この映画祭は、11回目を数える。 すごいなと思う。 定着しているじゃん。 映画の質も、吟味されている。 東京の国際交流基金が行うアジア映画祭にも負けぬほど。 リリックホールという、バブルのころにつくったりっぱなホールがあるんだけど、それをちゃんと利用しているのもよし、だ。 わたしが高校生の頃、長岡、文化果てた地でした。 いまや、いまや。 すばらしい・・・と思いました。 見たい映画がたくさんあるし、通し券5000円を買って通いたいと思ったけど、まあそれもならずで、2300円3回券と、900円の1回券を買って、4回は行こうということにしました。
昨日の新聞に 500ミリリットルの缶ビール片手に市道を走行中、見た警察官に逮捕される、という記事。63歳の上越市の男性。 ただあきれて、驚いて、こういう人は免許剥奪したほうがいいと思った、だってまたやるもん。「すこしくらいなら」というのが身にみついているんだよ。まったく。 例の植草一秀センセの痴漢事件。 これもあきれ果てた・・・これはもう病気だし、もっとすごい性犯罪しそうだし、なんとかするべきだよね。
昨日はホントに久しぶりにゆっくり在宅した土曜日。 ドクダミ茶をきざんで、日差しが弱くて温度が足りなくてだめかも知れないけど、乾姜をつくるべく生姜刻みををした。 さらには、週一回、携帯メルマガを出すべく登録もした。 タイトルは「コルクボードで親子の国語」 我がもへじ塾では、玄関に1枚、部屋の中に1枚、コルクボードがある。 季節の言葉や名句などを毎月はって、月4回くる子どもたちの目に自然にこれらがふれるようにしてある。 今、玄関の掲示板は、月の名称(新月、三日月、上弦の月、満月、下弦の月、有明月)と形がはってある。 部屋の掲示板には、稲刈りの手順と言葉、ものの数え方(豆腐は1パックじゃないよ、1丁だよんみたいな)、それから「名月をとってくれろと泣く子かな 一茶」の句。 この、家庭バージョンを提案しようというわけ。 *用意するもの ホームセンターなどに売っているコルクがはってあるボード。 紙、止めるピン、マジックペン で、紙にかいてはる素材を配信するんですね。 来週辺りからボチボチと配信したい。 これだったら、まあ、自分がふだんやっていることで、続きそうだし。 星の数ほどあるメルマガだけど、子どもの日本語危機にわたしなりにできることからはじめたいのだわ。 これは、夏にやりたかった仕事ミッションの一つだ。
あの日のように、今日も秋晴れ快晴のうつくしい日だった。 お寺で、読経。家族と父の姉たち2人と参列。 うちに帰ってきてささやかな食事会。 デモマ、弟は、稲刈りの超多忙で、女たちだけでしたようだが。 (わたしも食事は失敬) それにしても、父はまったくわたしの夢にはでてこない。 病院から遺体で帰ってきた日、夜中中、お線香番していて朝方弟と交替した。 それで、私は仮眠を取ったんだけど、そのときはまだいましたね。 うろうろしていました。それは、はっきりわかりましたわ。 だって、夢うつつの夢(変ないい方ですが)にでてきて、寝ているわたしを踏んづけて部屋を歩き回っていましたから。 でも、このところは、まったく気配もない。 お盆の時もあんまり感じなかったし。 多分、彼岸で最後には飲めなくなったお酒を思う存分飲んで「おらは酔っぱらっただ」ってのんびり暮らしているんじゃなかろうか。 わたしも今朝は、父の写真にお酒を備えて、「ほら、朝っぱらから、お酒だよ、いいでしょ」と声をかけましたが、実家の仏壇にも清酒がなみなみとつがれたコップがお供えされていました。 これをのみにもでてこないってことは、彼岸の極楽のお酒ってよっぽどおいしいんでしょうねえ。
わたしも末弟の通院日で、お寺から帰るとすぐに着替えて、末弟を連れて病院へ。 ただ今現在、彼は治験モニター、国内では認可されていない新薬を5月から服用している。通院日は、治験コーデネーターが待機しているので変更できないのだ。 この薬、よく効いている。 担当医も、効いているねこれ、というし、ショートステイにいっている園の担当の女性も「みんなで、今飲んでいる新薬ってすごい効き目」って噂しているといっていた。 末弟がこの薬に巡りあえたのも父の御霊のおかげ???
21台衝突、4人死亡。 ひどいねえ。 毎週事故が起きているところらしいが。 だいたい、中央道って、かなり無理して(効率重視)つけた道らしいから、どうしてもこういうゆるい下りに続いて急カーブなんて場所があちこちできる。
昨日の記事。 酒気帯びだと、自動的に車の運転ができない。 日産が開発中。 すごくいい、はやく実用化してほしい。 国もこういう車を作ることを法制化するとか。 このところ、あまりにも破廉恥で悲しい飲酒運転事故が続きすぎた。 とくに、九州・福岡の事故なんて、交通事故被害者であるわたしには断じて許せない事故だった。
今半袖なんだけど、寒い。 やっぱり長袖だね、もう。 季節が移っていく。
夏が終わって、干しておいたドクダミはしっかと乾いていたのに、このところの雨でしなりとしてきている。 はやくお茶にしなくちゃ。 で、去年つくった、生姜の乾燥バージョン、しないうちに夏が終わったよ。 生姜の皮をむいて、おおざっぱな千切りにして、きれいな紙の上で、カンカン日当たりのいいところで干す。そうすると、乾姜(漢方薬です)ができる。生姜fanの私としては、これすごく便利にしていた。ラーメンにちらっと入れる、うどんにちらっと入れる、酢の物にちらっと入れる・・・等々。 これから、やってみるかな。 実家の低温貯蔵庫に入れてある枇杷酒や枇杷蜜ももう大丈夫のはずだけどねえ、みてない。 昨年、アゲハの幼虫に丸裸にされたスダチの幼木は、実家の庭先で生き返った。ちゃんとまた新芽がでてきた。うちではだめだったのに、すぐそこが山だし自然のエネルギーがちがうんだ、きっと。でもま、実がなるまでには時間がまだまだかかりそうだ。それでも、生き返ったことが奇跡だ。
とにかく、ドクダミ茶、来週までにはつくらねば。 季節がうつろっている・・つくづくと感じます。
一気に長袖の世界に突入だ。 寒い。
秋篠宮さんとこの皇子さん、おしるしが高野槇とはねえ。 なんだか、思わず高野山を思い出してしまった。 小辺路を、グさんと歩いたときに道に迷って入り込んだ山でみた高野槙の姿忘れられないなあ。 何百年生きたのかシランが、決してまっすぐじゃなかった。 すごく芸術的な曲がり方していて、モヤリンとした「気」をだしているのがはっきりと見えたもんねえ。 タフであることは確かな木だ。 ほやほやの皇子さん、あの木のすごさにまけんなよ。
ベトナムのホイアンで、日本橋の土台が見つかったそうな。 なつかしい・・・ 何度も修復されたらしいけど、眼鏡橋状態の木の橋で屋根があって、橋のまん中にお堂が付いているんだわ。 ホイアン、ベトナムで格別に好きだった。 町の雰囲気、昼寝。 ああ、またしても旅心をくすぐられた・・・わ。
5月から始めたダイエット、5キロ痩せた。 しかし、あと5キロ痩せないと認めてくれないでしょう、と知人からいわれた。 夜は、キュウリ(コチュジャン味噌付き)とビール以外は口にいれないダイエットだったんだけど、寒くなってビールを積極的に飲む気がしなくなったら、食欲がでてきて、今日は何と衝動的に菓子パンをたべてしまったわ・・・いかん。 食欲の秋だ。 しかし! 明日から、また心を入れ替えて、夜はカロリーのあるものは口にしない誓いを守ろう。 朝はあらゆる栄養をとるつもりでものすごくたっぷり、昼はボチボチ、夜は限りなく200キロカロリー以下を目指して。 桑茶、枇杷茶、杜仲茶、ギムネバ茶は欠かさずに。(ミックスで煎じる) という基本で12月までがんばろう。 あと3キロは年内で落としたい。
2001年の今日。 あれから、世界が変わったヨ、確かに。 わたしは、12日から、ヨーロッパに行く準備の真っ最中。 で、つけっぱなしだったテレビから、久米さんが叫んだ「信じられない映像がはいってきました、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに飛行機が衝突したようです!」 見た映像に、わたしはウソ、まるで映画じゃないのよ。 独り言を入っていた・・・ やがてテロとわかって・・・次の日の成田はアメリカのヒコーキがとんできていなくて、なんだか閑散。 乗り継いだ、フランクフルトも、ついたオランダでも空港は閑散としていた。 アメリカのヒコーキが飛ばないということのすごさを知った。 忘れられない。 やがてアフガニスタン攻撃を始めたブッシュ。 めげずに、アブナイといわれつつ、イスラム圏のトルコやエジプトを旅したわたし。今思えば、あの頃、トルコでテロが起きるとは考えられなかったし(今はやばい)エジプトのカイロも平穏そのものだった。 いいとき旅をしたのかも知れない。 世界はどんどん悪くなっていくという気がする。 テロで亡くなった方々に合掌の日です、みなさん。 これいじょう、世界が悪くなりませんように。 それにしても、あの9/11テロの情報は、あらかじめ大統領、および側近はつかんでいたが、わざと見逃した、イスラム圏(産油国)に戦争をしかけるネタとして。といううわさは根強い。 多分、正解だろう。
またまた一気に涼しくなりましただ。
2006年09月10日(日) |
Japanese CooL |
夕方、ビール片手にナニゲにつけたテレビ、やっていたのがフランスのジャパンフェステバルの会場での「Japanese CooL」のデスカッション。 鴻上尚史さんが司会をしていてときどき日本在住の外国人集めてやっている番組がおフランスまで行ってやっていたというわけ。 以前みたときは、何とあのとび職のズボン、ニッカボッカが受けていたり、オムライスがCOOLだったり、温水便座シートがイチオシだったり、女高生の制服が受けまくりだったりとにかくすごくおもしろくて。 今回も、軍足とかいまやもう見かけないルーズソックスとか、コスプレとかがCOOL。 でなにより、このパリの会場で受けているのは、マンガだ。 マンガがフランスで大人気の理由。 ●人にならわなくていい。 ●本が安い。 ●マンガの主人公が物語の中で成長していくのに共感・同化できる。 なるほど。 マンガがヨーロッパでは、もうずいぶん前から、マンガ、として知られている。そして、どこの国でテレビをつけても、日本のマンガをやっている。 それにしても、フランス人の企画による、いわゆるコミマ(コミックマーケット)的ジャポマがあることにビックリしたというか、ほうほう、えっ・・・であっと今に1時間半を見てしまった。
つけても思うのは、日本人のオタク度の高さだ。 わたしは「日本人総オタク遺伝子所有者」と考えている。 おフランス人が賞賛するシンプルで美しい、便利で美的といった台詞って、要するにオタク度の高さがさせる進化だ。 無印良品ってヨーロッパで今や大受けなんだけど、あのシンプルさや、重ね家具や紙などを使った備品などのライトさは、要するにオタク性がないと発想できないだろう。 このせまい国の人間の生き延びる道は、このオタク度の高さで真似できない商品開発をしてそのユニークでさ需要を掘り起こすことだろう。 マイクロソフトのような全地球的ヒットは生まれないだろうけど、オタクはしかしどこの国にもいるし、地道に小ヒットのユニークさで受け続けることができる・・だね。 細部にこだわり、自分しかできな異世界にこだわり、そうしてオタク度をまして行こうではないか。 なんてね。 しかし、その基本は日本語だねえ、今それが危機だわね・・どうする・・ ちなみに在フランスの日本人の間では、日本人じゃない人たちが経営しているなんかどこか少しおかしい日本料理屋のご飯を「なんちゃって日本料理」というらしい。そうか。 わたしもあちこちで「なんちゃって日本料理」を食べてきたわ。 ああ、この前に引き続きヨーロッパに行きたいなあ。
今日は、午後からすごい雷雨。 実家のチビ犬が震え上がってハウスからでてこなかった。 犬ってどうして雷がキラいなんだろ? でべそってことでもなにのにねえ。 夜になって、雷がいって、少し涼しくなった。
18切符があと1回のこっている。 7時24分発、飯山線回り長野行きで出発。 飯山線は一度乗ってみたかったローカル線、十日町で長岡から乗っていった1両が野沢温泉行きになった。電車は当然単線、千曲川(だと思うが)沿いをゆるゆる進む。緑がしたたる景色、なんだかいやされーる。途中の越後河渡駅から、60代とおぼしき、男女8人組がのってきた。 異色だ。ひなびた無人駅からのるというのも解せないし。 彼らの話にダンボ耳を澄ますと、18切符を使っての旅で、駅近くの公営施設に泊まったらしい。何と、女性3人は、男5人18切符組に2日前から合流しての行き当たりばったり旅らしい。 女3人が、あたしら計画ないし、アンタさん達といっしょさせて下さいといったらしい。 ホオ・・・・これってナンパじゃんよ。 難波のおばちゃんたち、やるもんだ。タイ辺りで買ったとおぼしきキラキラヒスイやルビーの指輪、ラメ入りの衣装。とにかく、地元人とテッチャンしかのっていない電車、周囲から浮いていたが元気なお方たちでした。 野沢温泉で、長野行きの乗り換えて11時8分着。 善光寺までバス。 西国を結願したときもきたし、近年2度目。 しっかとお参りして、納経所へ。でフッとみれば、お軸表装のチラシが目に飛び込んできた。 あ! 実は持ってくる予定ではなかったのだが、長の年月わたしと旅したお軸もいっしょにお礼参りと思ってで思いついて持参したのだ。 そうか、そうか、こういうコトか、と思ってさっそく一気にここ、善光寺で表装してもらおうと思って受付へ。 表装、どこに頼もうか、と迷っていたんだけど、考えみれば、ここが一番この軸にふさわしいと思う。
12時44分の小諸行き。 上田から別所温泉へ。 ここにある北向き観音さんをお参りした。 これで、両参りだ。 帰り、駅近くの町民センターの温泉220円也で汗を流す。 晴れ晴れした気持だった。
長野から、5時28分発の信越線直江津行き。 これまた山合いを走るスイッチバックありの路線。 暮れなずむ景色がホントに美しかった。 とくに、妙高高原駅でみた妙高山のりんとした姿。 来年辺り登りに行こうかな。 電車で、ビールと長野名物のおやきで乾杯でした。
帰宅9時10分、いや部屋の中が夏のように暑いのでビックリした。 いつものように、土曜定番チャングムをみて就寝。
1995年4月、四国歩き遍路から始まったわたしの巡礼旅。 一応、これで一区切りだろう。 四国には1泊でも歩ける限りは歩きにかせていただきますというのが、わたしの初遍路終了後の誓願だし、これはやり続けるだろうが・・・・しかし、四国は遠い。今の生活状況だと、1泊か2泊ってとこでしょうね。 まあ、わたしの人生におけるお寺ミッション一応の区切りに乾杯。 来年からは神社を毎年いくつかずつお参りしたい。 わたしは神社のすがすがしさがお寺の気配より好きみたいというか、体に合っているように思う。
2006年09月08日(金) |
ウィーンアカデミー名品展 |
今日は爽やかな残暑であった。 10月からまた末弟の自立支援関係の書類が変わるので、役所にそれを出したあとに県立近代美術館へ行った。 ウーン。 なつかしかった。 ヨーロッパの美術館のにおいがした。 絵からは「おお、肉食紅毛人の絵じゃ」の気配が大いにした。 けっこう、えらそうに並んでいる絵たちであったが、ヨーロッパの国立系の美術館ではひとけのないようなところに並べ立てられているものばかり。ヨーロッパ絵画史の流れの中で位置づけられる形での展示になっていることがおおい。そんな地味系の絵たちなのに、晴れがましい展示。絵たちにとっては、うれしいであろうねえ。このあと、三重とか和歌山だったかな、ドサ回りにでる絵たちであった。 ただ、輝くばかりのマリアテレジアの絵が実に印象的。 これは技法とというより、マリアテレジアの存在感だろう。 それにしても、ああヨーロッパにいきたいね・・・ ウィーン(ヨーロッパ風にはビエナ)ビデオが流れていて、シュテイファン大聖堂とか、シェーンブルグ宮殿とか・・・ただただなつかしかった。 ウイーンは食べ物もワインもうまくて、わたしの大好きなモーツアルトが聴けて、これまたわたしの大好きなブリューゲルの絵がたくさんあって、自然史博物館には、これまたわたしの大好きな1日みていても飽きないほどの鉱物コレクション。これは、マリアテレジアのだんなさんのコレクションで、テレジアが鉱物の好きなダンナさんにことあるごとにプレゼントしたものなのだ。 いつかきっとまた行こう!
稲刈りがあちこちで始まった。 車を走らせていると、みのった稲のかおりがする。 秋だ・・・マジに。
徳山の高専生、亡くなっていた。 彼女を絞め殺したあとすぐに・・・・ 思うに、これって時間差はあるけど、一種無理心中的な気するんだけど。 そうではないのかな・・・それにしても、どちらのご両親もおかわいそうに。
昼間のど真ん中、ついつい、映画を見てしまった。 お昼を食べたあとホンのちょこっとニュースをみようとしてテレビをつけたのが運の尽き。 映画の中身は、アメリカで行われたスペシャルオリンピックスに行ったゲン君とジュン君を追ったドキュメンタリー。 ゲン君は、ダウン症で19歳。ジュン君は自閉症で17歳。英語のエの字もわからぬまま、ふつうのしかし善良なアメリカ人ホストファミリーの家に滞在する。 映画の視点は、ホストファミリーのキャサリンの視点で、あずかる不安や、言葉が通じないぎくしゃく感。みながら実に共感。言葉が通じても、とくに自閉のお子さんとのコミュニケーションはすごくむずかしい。それは教師経験でわかっている。 しかし、キャサリンは、毎晩電気を消しながら、「グッドナイト」と二人にいい続ける。 そしてある晩、ジュンがいうんだな「グッドナイト」 キャサリンは泣いていた。 わかるよ。 ただ言い続ける、ただやり続ける・・そしてある日、人はあ!?と変わるんだよね。あきらめたら終わり。 で、キャサリンの夫でマークと共に4人で旅をした時、インスタントカメラでゲンは写真をとる。キャサリンに何と英語で指示をして何枚も取る。 一言もしゃべれなかったダウン症の彼・・・が。 ジュンは、高校のクラスへ。ゲンは職業訓練センターへ。 何のてらいもなくアメリカは受け付けるんですね、言葉の通じない彼らを。 この辺がアメリカの偉大なところかなあ・・ ゲンはそこでのテストに合格してホテルでタオルたたみ仕事までするようになり、ジュンは、学校でみんなのためのドアボーイまでするようになり・・・ ・・・この辺り、まさにアメリカ的なのだがよきアメリカ的チャンス・・・・ でも、このチャンスにはにかみながらも、応えていく彼ら2人の姿がすてきなんだわ。 ゲンが初めて働きに行くに、キャサリンは、彼のために映画スタッフから教えてもらって、おにぎりをつくっていた。これ、だよね。 数ヶ月の間にすっかり変わって成長した2人、といっていだろう。 でもやがて別れが・・・自閉症のジュンは高校の門の前から立ち去れないで泣く。 ゲンは、ドアのかげで涙を流す。 ゲンはけっこう英語のコミュニケーションもできるようになっていた・・・ キャサリイとマークがよくいう台詞「機会があれば、変わる」っていう意味のこと。アメリカ的なせりふではあるけれど、この2人のようすを見るとこの言葉に説得力がある。 障害者のたくさんの可能性、か。 この点でやはり、日本はだめだなあ。 行政も、障害者の会も、身内もその機会をつぶしているのかも知れない・・とさえ思う。
とにかくすることたくさんあるでしょ、と自分と自問自答しながら、つい最後までみてしまった1時間41分。 数年前の作品のようだが、みなさんも見る機会があったら見て下さいね。 魅力的な映画でした。
2006年09月06日(水) |
はい、やっぱり男の子でした |
紀子妃殿下、いや朝早くからオペをなさったもんですなあ。 おめでとう、無事に産まれた男の子。 宮内庁病院ではなくて、愛育病院なのは(皇室典範改正後)天皇の外戚になりたいオワ・パパが暗躍して、もしかの流産になったら困るのでらしい、とまるでここは平安時代か、大奥かということ書いた掲示板もあったし。 まあよかった、よかったわ。 さりげなく「紀子さんは、入院中は公務ができなくて申し訳ない。」といわれていたと書いているネットの記事もあって、ああこれ書いた人はアンチマサコさんかいなとおもったりして。 あるいはまた、臍帯血の利用を申し出るなどという記事も「好感系」で、「皇后」さんの適格者は紀子さんかもと思う人は多いだろうね、自然の流れで。 下々はいろいろといいますなあ。
マサコサマ、少し肩の荷が下りたかな。 それにしても、あれだけニコニコと帰国したマサコサマ、皇室恒例の昭和天皇だったかの御陵への報告はおさぼりだし、もちろん公務はメド立たずとか。 何で?と思うのはわたしだけだろうか。 あちこちにあることないこと書いてある記事を総合すると、皇室伝来の神事をすると必ず気分が悪くなるお方らしい。 で、もしかして、マサコサマには、窒素(彼女のじいちゃんが社長をしていた)の水銀中毒で狂い死にした人たちの怨霊がついておるんじゃなかろうか、だから、神聖な儀式をすると気分が悪くなるという説もあって。 そういえばあの頃「呪殺」ということばを書いて、窒素をのろい倒していた宗派があったような気がするが。
などと書いている私も、一般民衆でありまして、まあ世間が明るくなるんだったら、皇室に子ども産まれるのいいんじゃないと思うのであります。 ホントの皇室好きの期待は実はサーヤらしい。 あのお嬢ちゃんにいつ子どもが生まれるのかなって。
今日は久しぶりの雨である。 きっちりと秋が来ている。 朝晩、タオルケットでは寒い。
2006年09月05日(火) |
新潟でも 母親を殺したい!? |
うつるようだよ、親を殺したいって気持は・・・ 窓を閉めにくる母を待ち伏せしてバットでなぐった中学生。 それにしても、母は まどくらい どうして自分でしめさせないの? 勉強しているかどうかの監視だったのか? だとしたら、人一倍 自立に 身も心も向かっている年代に とっては うざいよねえ。 それにしても いいたい。
親を殺したくなったら 家出しろ! 家に放火したくなったら 家出しろ!! 兄弟をなぐりたくなったら 家出しろ! お年玉の一部を常に家出資金としてポケットに入れておけ。 なに2,3万円もあれば、いいだろう。 4,5日好きなところをぶらついたら、警察に保護されろ。 ないしは補導されろ。 そうしていうんだ。 「家に放火した気持だったんで、アブナイと思って家出している」 「ウザイ母親 殺しそうだったからやばいと思って、家出した」 「出来のいい兄弟に むかついてなぐりそうだったし とりあえず家出した」 家出は旅だから、きっといい意味でいろいろとわかるはずだ。 自分のうちの毒ガスも抜けるはずだ。 どうして まっとうな大人が それを子どもに教えないんだろう・・・か。
今日は秋っぽい雨がふった。 追記 夏休みをしていた携帯サイト「日本語1日1語」を再開しました。 PCで、「日本語1日1語」と入れて検索をかけると出てきます。
2006年09月04日(月) |
もう9月の3日ですがな |
朝晩は実に涼しい。 さすがに日中、暑かったが。 山古志支所が現地で仕事を再開した。 で、札束を敷き詰めてつくったような道もできたらしいが。 帰る人はやはり減った。 それはしかたあるまい。 病気になった人は、病院が近い、市内がいいだろしねえ。 わたしの今月は、夏の仕事ミッションの一つも成果が上げられなかったのでそれをがんばりたい、と思う。
坂東順礼日記アップ終了。 実は今回はリアルタイムでかこうとモバイルを持っていったのだが、日記サイトのパスワードが消えていて自分サイトにアクセスできなくて残念だったのであります。 朝晩寒いくらいだ。 秋が来ているよ、そこまで。 それでも夜はビールがうまいが。
昨日は、掃除と手間暇かかるキーマカレー制作で午前から午後が終わった。 カレーとグリーンサラダと、豆乳ブルーベリーゼリーはわたしが1週間いなかったときに家族が交代で玄関の植木の水やりにきてくれた御礼。 キーマカレーはとても評判がいいのだ。 (まあ、時間かけるし、おいしいのは当たり前だけど) 夕食として家に宅配した。 親しき仲にも礼儀あり。
今日は早起きで、十日町から松代、要するに新潟のチベットエリアである大芸術祭へ。 おもしろかった。 それと共にこの壮大な計画に感動してきた。 今帰ったばかりでさすがに疲れました。 その内においおいと解説をしたい。 この夏のわたしのミッション ●オカモトタローの永遠の神話を見ること ●新潟ねむの木学園の子どもたちの展覧会を見ること ●大地の芸術祭に行くこと ●近代美術館で行われているウイーンの名品展を見ること・・・これはまだ ●坂東順礼の結願とお礼参り・・・お礼参りがまだ とまあ、おおむね遂行だね。 しかし、仕事方面のミッションは全然だめ!! これって問題よ。 猛省。 でも涼しくなったし、自分に「気合いだ!」とかつ入れながらがんばる。 ということを素直に書けるのも、今日の芸術祭でパワーをもらってきたせいかな。
でも、つかれたわ。 さて今夜はチャングムまで起きていられるかねえ・・・
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