世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年06月29日(火) UVカットの長手袋

先日、駅ビルでUVカットの長手袋を購入した。
というのも、たんぼ道を毎日歩いている私、何とか日差しよけをしなければ、と思ったからだ。
ベトナムに行ったときに、若い子(含む男)がバイクに乗るときにこぞってしていた長手袋が、この地にもあったのだ!
この地では、焼けることを「焦げる」というが、さすがではある。
しかしだ、私の手袋なんか比じゃない人を見た。
何と、車に乗っているにもかかわらず、まるで銀行強盗に行くかののような、黒マスク黒服面の日よけのいでたちの女性・・負けた。

長い夏が来つつある・・・いやはや・・これも楽しもう、かな。



2004年06月28日(月) 本日は休養日

土曜遅くに、熊野から無罪放免となった。
やれやれで、久方ぶりの我が家である。
さすがにお疲れ気味のわれ、である。

最後の伊勢路の八鬼山越えは、下りが悪路でもう降参状態。
江戸期は、伊勢路最大の難所で、狼は出るわ、追い剥ぎは出る和というのが納得の道だった。
ここでは、道筋に「世界遺産反対!名柄の住民を泣かすな」という立て看板などがあったが、やはり自由に植林や伐採の仕事ができなくなるということなのだろうか。尾鷲の隣、熊野市は世界遺産に向けて町全体が乗っていたが、尾鷲はほとんど全く・・・状態。
この温度差の訳が山にはいってわかった。

帰りのフェリーの中で、お遍路にいく方とお話しした。






2004年06月25日(金) 昨日もほぼ圏外

昨日は、熊野川町小口から7時10分発、800mただ登りの胴切坂経由越前峠、大雲取越えであった。越前峠、石倉峠、を越えて地蔵茶屋10時45分、まあまあかな。ここからはしばらくは川沿い林道を歩くが、なんと川向こうに「古道」(実は新道)ができていた。歩きにくそうなので、私はやめましたが。
世界遺産のためにここまでする乗って、逆に自然破壊よね。と複雑。
舟見茶屋までの登り、亡者に出会うという色川の辻に、男の人が立っていて一瞬引いた。深山で、こういうのはやっぱり、いくら私でも・・・・・しかし、生きているようなので「なにしているんですか」
「あ、役所のモノです、世界遺産になるに当たって古道を歩いていない職員の研修しているんですが・・・・」
ほうう・・・亡者ではなかった。
ここからの登りで、日本テレビの取材、語り部研修のグループ、と会った。研修のグループにホラ貝を持った女性行者さんがいたので、ほらを所望した。
「旅の安全を祈って」と吹いてくださった。
ありがとう。やっぱり熊野のお山には、ほらが似合う。
2時30分には、登り口について、楽勝。
あまりにも早いかなと思って、ちょうど、これまた研修中だった林業組合のおっさんたちとおしゃべりして3時半過ぎに青岸渡寺着。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝は、朝4時半おき、5寺おつとめ。
5寺50分から、高木副住さんから、熊野修験と、滝行のお話を伺った。
興味深いモノだった。
奥がけはあこがれだ、といったら、秋の峰入りに来ませんかといってくださった。
近露でお会いした宇江先生も、みんなサポートしてくれるしきなさい、といってくださったし・・・いいのだろうか、高所恐怖症の私がいっておじゃまにならないのだろうか・・・でもな、いきたいな・・・・

明日は、伊勢路の一番難所を歩いて帰る予定。
さすがに疲れ始めたわ、早く帰りたい。
それにしてもまた雨の中だわ、やれやれ。
父はまたやや持ち直した。
神仏に感謝。
できるだけ身体楽に天寿まっとうを、と祈る。




2004年06月23日(水) 熊野川町にて

昨晩は、携帯が入らない地域で「あら、日記アップだめね」と、心穏やかな夜であった。星がきれいで、同宿の姫路友人さまたちと感動した。

朝7時過ぎ発、私は本宮へ、友人たちは近露へ。
私は、小雲取越えだ。
それにしても、古道はトイレが整備された。
請川近辺、公共トイレがなかったのだが、登り口に、ぴかぴかのができていた。
和歌山県、世界遺産に向かって気合い十分だ。
まあ、四国遍路道は、無理だけど、古道はなる。
だって、一人で鬱蒼とした杉の森を歩くと、いったい自分はどこにいるのか、もしかして、出るところは、違う時代かもという気がしてくるから・・・・まさに、過去へ続く道、だ。
ちなみに、昨日のコースもそうだが、今日も、那智方向より進むより遙かに楽だった。
体力的に自信のない人は、滝尻からいいかもと思った。
ただ・・・・問題は、明日の大雲取だ。
800mをただ登るんだよね。
まあ・・がんばるべ。
体はほとんど疲れない。
例のごとく、元気になる、むしろ。
熊野の力をいただいている。
四国の道にも、これくらい山道が続いたらいいのにな。

3年続けてきているので、小口自然の家のマネージャーさんと仲良しになってしまった。今日は現在製作中の「彼の隠れ家」へつれていってもらった。
なんと、一枚岩の下に、家がある。
まるで、昔は行者山がおこもりしたようなところだ。
熊野は川の水がどこでも飲めるから、川の水を引き、電気も引き・・・五右衛門風呂に、いろり・・・豪勢な熊野らしい「男の遊び場」だった。

この宿は、昔の中学校、なんだか懐かしくて好きな宿だ。

本宮、これで4回歩きでおまいりさせていただいた。(大昔、バスにのってお参りしたことを入れると5回目)
スサノオさんをお祭りする本宮、スサノオさんは、出雲大社の大国主の曾おじいさん??いや、もっと遠いかな?でも、系図的には直径だったはず。で、金比羅さんは、大国主のにぎ御魂だったはずだし、なんだか、このところは国津神系にご縁が深い、というか、ホントに力があるお社ってスサノオさんがご祭神が多いような気がする。

沖縄は梅雨が明けたようだが、明日はどこまで持つか・・・晴れてね。
携帯がまたはいらんね。
私は、携帯がはいらんところが大好きだ。(笑)



2004年06月21日(月) 熊野にて

台風の中、紀伊田辺を一番のバスで出て、7時半から滝尻から歩いた。
雨は私にとっては、そう苦ではない。
まあ、問題は台風だということ、だ。
9時少し前に、高原熊野神社を参拝。
それなりに、きつい登りだったが、まあ、標準タイム。
問題はここからだった。
モノが飛んでいる。
やばい・・・・高原あたりは、昔からある集落で里だ。
瓦が飛んできて、直撃されたらアウトだ。
で、休憩所で模様眺め。
そこへ、おじいさんが一人やってきた。
ちょうど行いたいくつしのぎと、私も、おしゃべりタイムとなった。
外は大荒れだが、雨漏りのする休憩所は安全、話し相手もできたことだしであっという間の2時間が過ぎて、しかし、空はもっと悪くなって、どないする状態だ。
12時過ぎ、またもどってきたおじいさんが送っていく、歩きは危ない、ということで、地元人というじいさんの忠告をお聞きして近露まで送っていただいた。
ありがとうございました。
で、宿のおじさん、なんと2年前に泊まった私たちのことを覚えていた。
あの、あっちこっちからきとった、5人だったか6人の・・・・いえ、4人、愛知、神戸、横浜、松山からでした、と思いでばなしをした。
その後、紀州語り部であり熊野在住の作家宇江さんにお会いした。
今度、熊野修験行きましょう、という話になった。
このご縁もありがたくてどきどきだ。

あちこちから、心配電話をいただいて、破磐神社の宮司さんからもいただいた。
宮司さんが取ってくださった揖保公民館で私が話している写真に「なにか」写っていたとか・・・・「あなたも、お大師さんに使われていますね」
宮司さんがわざわざ電話をくださるなんて、ないことだ。
まさに、神様のお言葉だ。
しかし、そうか・・・徳島にふっと来てしまったのもそういうことか、と納得した。
しかし、きっと「使い」(たぶん、それは道をつけるということだと思う)のお仕事が終わったら、また新たな任務が待っているという気がしているのだが・・・・

しかし、今日も不思議なご縁で、いろいろな人に出会い、助けられた、ありがたい一日だった。



2004年06月20日(日) 海は大荒れ

金曜の早朝にうちを出て、兵庫へ。
公民館で、お遍路の話をして、聞きに来てくださった宮司さんと破磐神社さんへ。宮司さん、ありがとうございました。
宮司さんとお話をしているさなかに、田舎から着信が入っていて気がつかなくて。
なんと、なんと、父の容態が急変、医師はこの数日・・・といったという。
で、帰るか、姫路からだったら、新幹線を乗り継いだら夕方には帰ると思ったのだが、友人にあって、まあお茶を飲んでからでも遅くはない、ということでお茶していたら、また電話。
弟が、今している治療の結果が出るのは明日午後だから、まあ、帰ってくるのは待てと。
土曜は、大勢のみなさんと、破磐神社さんへ正式参拝の日。
なんだか、破磐の神様が明日の正式参拝に出ても大丈夫とのメッセージをくださったような気がした。
翌日は、書写山へお参りして、観音様といつものお不動さまに父のことをよくよくお願いした。
夕方、弟より電話で、またしばらくは大丈夫そうだ・・とのことだった。
いつも感じるのだが、お不動さん、よくお願いを聞いてくださる。
観音様もありがとうございました。
書写からの下り道で、登ったみなさんと見事な彩雲が出て感動。
「お願いが聞き届けられるんじゃないの」とみなさんがいってくださったのだが、その通りになった。
天地神仏に感謝。

今日は、雨模様の中を大辺路を馬転坂、長井坂と歩いた。
だんだん空はあがって結局雨具を脱いでウオーク。
ホントは、枯木灘が美しいのだが、眺めはあいにくだった。
しかし、おおかたは自然林で気持ちよかった。
坂も、長さもほどよいし、大阪や名古屋からストレス解消に最適のコースかも、と思ったことだ。

メール受信の状況がよくない。
送信はできるんだけど・・・・
そんなわけで、メールをくださっているみなさん、お返事がよくできません、お許しを。
それから、父の心配で心ここにあらず、いろいろな忘れ物をしている。
まずはお杖・・・・新幹線ホームで電話がかかってきてそれを待っているうちに新幹線が来て、で、乗ったら忘れて。トホホだ。
友人のうちのどっかにインドの聖者アマチに祝福していただいたネックレスは忘れるし。
これ、ホントに不思議・・・確かに首にしていたはずなのに、朝になかった。
出てこないような気がする・・・・。





2004年06月16日(水) 笛や太鼓

夕方、いつものたんぼ道で、風に乗って笛や太鼓の音が聞こえてきた。
蛙の合唱よりいい感じだ。もちろん!
あとで、地域ニュースで知ったことだが、もう阿波踊りのお囃子やなんたらの練習が始まっているのだという。
へえーーー
楽しみだな。



2004年06月14日(月) 秋のような・・・

金曜夜、大阪からの夜行で帰郷してきた。
父は、今使用中の抗生剤のききめがよいらしくて、熱が下がり目が開くようになった。
土曜の朝イチ、病院に行って「わかる?」と話しかけたら、酸素吸入器の中でかすかに「わかる」といった。
ほおおお・・・・
すごい!
次の日、日曜は、爪切りを持っていって爪切りをした。
少し、手をひっぱったら「痛い」ともいった。
ほおおおおおおおおお・・・・・
すごい×3
5月半ばから後半、医者は会わす人には会わせてくれ・・・といったのに、すごいことだ。
ただ、弟は「今の薬が効いているときだけだと医者はいったぞ、直るわけじゃないな」とシビアにいう。
確かに、ふたつの病気を背負って、未だに管をを何本もつけられて、車椅子に座ってご飯を自分で食べるは、月より遠い世界かもしれない。
それでも、しばらくは帰らなくても良さそうでほっとした。
ただ、母親は疲れていたけど。

またまた夜行で帰ってきた。
いくら寝台で横になれるとはいえ、疲れるわ。
ホントに遠い。
ヨーロッパは、ドイツまでだったら、13時間ほどでいく。
まあ、時間的には、そんな感じになっている。
帰ると、戻るのがいやになる・・・・・

ところで、梅雨の晴れ間、まるで、北欧の初夏のような気配。
この空気感は、6月のイルクーツク・・・ああ、旅に出たいねえ。



2004年06月10日(木) おたまじゃくし

カエルの合唱がやまないわけを、今日、通勤路で田んぼの中をのぞき込んで、理解。
いや・・・おたまがたくさん、それも、足が生えてかえるになりかけのヤツ。
次から次へと、合唱団が生まれてきているというわけだ。

このところ、遍路道でお遍路さんは見かけない。
ただ、道筋(国道11号)に「南無大師遍照金剛」の布きれが下がっていて、ほおお・・お通りになっているんだな、分かる。

それにしても、あっという間に6月になった。
この調子だと、1年、2年はあっという間か・・な。



2004年06月09日(水) 再び 死 について

★うらやましい死★
先日、といってもだいぶ前になるが、ヒマラヤの登ったあとに心不全で亡くなった人がいた。
あれは超がつくハッピー。
私もこんな死に方、いいなと思った。
エベレストBCあたりでなくなると、あそこで荼毘に付すのであろうか。
ヘリで運ぶにしても、ナムチェバザール(それこそ、エベレストヴユーホテル)あたりまでおろさないとだめだし。
あの「エベレストの永遠」の地で、煙になれたら、天に近いし・・・それはすばらしいよね。

昨年の今頃、南熊野奥駆け道で、力尽きて遭難した人の慰霊を見たが、あんな死に方も案外幸せだろうと思う。


父は、抗生物質を取り替えることで生きながらえさせられているらしい。
医師は「心臓が強いから」というらしい。
祖母(父の母)も、心臓が強かったが、自宅療養だったので、倒れて10日で
逝った。自宅ならば、そんなところなのだろうが・・・しかし、病院は・・・・


人は自由だ。
死に方も最後まで自由を手にした状態で死に逝くのが幸せなのだ、と思う。

「死を待つ人の家」
以前は、ちょこっとなまなましい・・・と引くところがあった。
しかし、今は思う
自然の死(召される死・定命が尽きての死)を待つことができるとは何と幸せな、と。



2004年06月08日(火) 田んぼの稲は成長中

毎日、眺める通勤歩行の田んぼの稲がぐんと大きくなった。
「梅雨は恵みの雨」を感じる。

同僚のカメラマンくんは、今日もふとんから出られず。
いい人なんだけど、虚弱だなあ。彼は土日は「勘弁してください」と、歩かなかったんだけどね・・・・彼は今「英語力」をつけるのに必死だが、まずは体力だと思うけどなあ。
彼に、まずは持久力(自給力?)と体力だよ、というのだが・・・「知」「金」「色」の方に意欲満々、熱烈歓迎。まあ、男の花も盛りの30代で当然ではあるが、足元を見ていない、という気がする。

夕方、駅まで行ったついでに「そごう」で入手したお弁当とおかずを差し入れにいった。
生存確認をして、「明日は出られると思います」の言葉を聞いて、安心して帰ってきた。

ふっと、思い立って、今度の週末少し早い「父の日」で帰ることにした。
大阪からの夜行寝台がとれてよかった。
昔からの友人が「JAL」と「ANA」の優待券を送って下さったが、これはまた先にいって使用することにした。
心配してくださる人がたくさんいる。
ありがたいことだ。
お金も大事だが、健康と友人、これもまたすごく大事。
でも、お金で人間関係も買う、買えるといったのは橋田壽賀子さんだが、かわいそうな気がするなあ。

田んぼの稲から、えらいところまで話題が飛んでしまったのでした。失礼、ごめん。



2004年06月07日(月) やや お疲れ

昨日の疲れをやや引きずりながらお仕事だ。
同僚のSさんはダウン。(彼はよわ〜〜いのだ、白魚のような手をしている)
朝は、kさん親子が職場まで来てくれてお名残を惜しんだ。
我が家の「ゲロゲロハウスノート」にも、また来るね、と書いてくれていたし、あな、うれしやな。

雨で、むしむし、部屋の湿度も70%以上だ。
初めてクーラーで除湿を入れた。
軟弱ではあるが、文明の利器(?)は気持ちよい。
夜は、おっ久しぶりに10時から眼が開かなくなった。



2004年06月06日(日) 昨日からお遍路

昨日朝から、お遍路である。
今治のkさん母娘さんとともに。
朝5時起きで、弁当作り、お天気が怪しいが、昨日の夕方に100円雨具を交ってきて用意周到、「お天気保険」をかけたので、何とか持った。
本日最後の切幡寺の石段はけっこうしんどかった。
たまちゃんとお父さんが持ってきてくださった、アイスのおいしかったこと、生き返った。
ありがとうございました。

うちに、4時前に帰ってきて、シャワーを浴びたり、ゆっくりくつろいだりした。
夕食はカレー。金曜の夜に夜なべしてつくっておいたカレーが好評。よしよし。
kさんから、聖者アマチさんの「抱きしめイベントIN東京」のお話を聞いて、感動した。

ホントにこのところ休みなしでしごとしている気がするので、ややお疲れ気味だが、楽しい2日間であった。
それにしても、今までのんびり暮らしていた「つけ」を、この数ヶ月で払わされている気がする。
元々怠け者でのんびり系だから、こういうのいつまで続くのかな。(と、心配)
父の具合は、悪くなったり、やや小康を保ったり、要するに抗生物質を取り替えることで持っているような状態らしい。
遠いのが、やはりつらいよな。
母の時は、そばにいてちょくちょく行ってやりたいと思う。
今のところは、元気だけど・・・・来たばかりのお四国だが、引け時という言うことも考えねば、と反省しきりのこのごろだ。
それで、反省すると、気分は落ち込み気味になるのだ。




2004年06月03日(木) 子どもとインターネット

少学生の60%、13から19歳の90%以上が、日常的にインターネットを使っているという。
そんな中でおきた佐世保の事件。
12歳の女子というのは、生理が始まる時期(あるいは始まったばかり)で、ホントに不安定な時期だ。
私も経験がある。
5,6年と担任していて、5年生の時にものすごくいい子だった子が万引きをしたり、友だちとしょっちゅうもめたり・・・まるで悪魔が憑いたようになったことが時々あった。
後から、それをふり返れば「初潮の直前」
体が落ち着くと、また元のいい子に戻った・・・
考えてみれば、体が子供から大人に劇的に変わる時期だし、それが行動に及ぼす影響は当然ある。

二人の女子、悪口を書かれた子、書いた子・・りょうほうともそんな時期であったのではないか。
今回のような、大それたことになったのは、問題がインターネット上、大人(先生も含む)の目の届かないところでおきていて、気がつけなかった。
兆候をつかめなかったのか・・とかマスコミは言っているが、この年頃の女の子は「自己演出」がうまい。だまされるよ。
それから、給食準備時間の管理の問題を言う人もいるが、子供にとって、給食準備の20分は、当番以外は「やれやれ」の息抜き時間だ。
そこまで、管理徹底したら、別の事件が起きるだろう。

世が世ならば、こんな大それたことにならなくてもすんだろうものを・・・
やるせない。



2004年06月02日(水) 満月の夜はカエルもうたう?

昨夜は、カエルの合唱、激し。
いやはやであった。
もしかして、満月の夜は、カエルも明るすぎて、不眠。
で、恋を語るのであろうか???

満月のせいか、子供の事件も多い。
(狼男も満月だ)
佐世保の事件、昨年に続き、きくのも読むのもつらい・・・



2004年06月01日(火) 夕べは善根宿

昨夜は、mohejiげろげろハウス 初めての善根宿をさせていただきました。
若い女性。
明日も歩くんだし、寝なくていいの?といったのだが、大丈夫です、というので12時近くまで話していた。
というか、彼女がすごくたくさん語った。
明日が誕生日、というので、前祝いにワインを少し飲んだのが口をすべらかにしたのかもしれないが。
彼女は、事情があって、宍喰から歩き始めてじきに結願するのだ。
高知を歩いているころは、自分はもうだめかもしれない、と思っていたけど、今は大丈夫な気がする、という言葉を聞いて、なんだか私もホッとした。
4月頭くらいから歩いてすでに2ヶ月hどの旅、すごくたくさんのことを考え、感じ、思い・・の旅だったようだ。

転居にあたって、家探しの時に積和不動産とシティハウジングという不動産紹介会社にすごく不愉快な思いをさせられたのだが、そして、遍路道から遠い部屋がだめになったのだが、あらかじめ遍路道にごく近い今の所に住むようになってかな・・と感じたりしている。

この地にいつまでいるか、分からないが、こんな形でいろいろな出会いがあればいいと思う。

この前に、朝食を差し上げた堀尾さん、野宿だとちゃんとしたご飯を食べるのがうれしいと、ふつうのみそ汁や卵焼きがありがたがって下さったのだが、彼女も、温かいみそ汁やほうれん草のおひたしを喜んでくれてお遍路さんのこの味覚を私はいいなと思う。これが「人元(間じゃなくて)」ってかんじ。



 < 過去  INDEX  未来 >


moheji.s [MAIL]

My追加