世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年05月31日(月) おたずね

昨日は、たまちゃんご一家、みやけのおっちゃん、はじめみなさんと、伊予の某所に「妙絹さま」をおたずねした。
昨年ご引退以来1年ぶり、お元気そうだった。
95歳になられる。
年来、おたずねしたい、お会いしたいといわれていた三宅のおっちゃんは、すごくうれしそうで、お別れして車に乗ったとたんの雨、「これは三宅のおっちゃんのうれし涙」状態だった。

帰り、杖大師と松山の不動霊場(19番?)に寄ってお参りした。
不動霊場では、お茶とお菓子までお接待していただいて、ゆっくりお参り。
こうなると、本番札所以外のお参りのすばらしさを改めて感じてしまう。

帰りは、南海フェリーに乗るやまざるさんに自宅前まで送っていただいた。
ありがとうございました。
そして、ユニークなお軸を見せていただいた。
完成したらどんなになるのかな。

今朝 うちに電話したら、昨日は父の熱が下がって、目が開いていた。
母が話しかけると、反応ありで、小康状態がきたという。
すごいなあ・・・しばらくは大丈夫だからね、ということだ。
願わくは、次の父の日に帰れますように・・・・



2004年05月28日(金) 田んぼが出現

仕事場の前の単なる空き地だと思っていたところが水田になった。
ありゃ、ありゃ×5
で、見事に蛙が鳴き出した。
どこからきたんだろ?
転居?か・・・共感呼ぶなあ。
いやまた、地中深くのシェルターか?
まるで、フセインのような。

イラクでまた犠牲が出た。(合掌)
悪霊ブッシュ、を神様は何とかしてほしい。



2004年05月27日(木) 田んぼの脇で あいさつ

今朝は、国道でお遍路さんに出会って、お接待をした。
今日で4日目、という60代の方だったが、お顔がさわやかでいい感じだった。
あさから、ありがとう、だった。
ところで、田んぼ脇の通勤道は散歩する人、犬を連れているいる人とすれ違う。
お互い知らない者同士だけど、会釈八尾は邦語材ますの言葉が自然にでる。
横浜では、朝早く歩いていて、散歩の人に「おはようございます」といって、たいてい不振な顔をされて終わりだったが、ここでは、それはない。これが何より・・である。

日中、友達(おのこ)より電話。
奥さんの実家のお寺山を継ぐと言って、修行(禅宗)に出たが、脱走して還俗・・という、話を聞いた。本人は明るくて大笑いだったけど、彼は自由が丘にマンションを持って仕事上でもそれなりの実績(市場調査系)を残していたんだけどそれを全部捨てての決断だったから・・意外や意外だった。
しかし、これって、人ごとではないよね、状態ではある。
そのうちにこちらにも遊びに来るというから、会って語り合いたいものである。



2004年05月26日(水) フツー人の底力

拉致被害者の家族会のみなさんのお話を聞いていると、日本のふつう人のモラル、意識、心のすばらしさを感じる。
曽我さんの対応もけなげだなあ、と思うし。
イラクで捕まって解放された方々(ジャーナリストといわれる人たちを含む)のお話を聞いても、やはり「まっとうな市民だぜ」と思っていたが。
要するに、この国は、上はだめだけど、底力は健在だということだろうか。

テレビの蓮池さんやご家族の方々のお話を見て思ったことだ。

父は、小康状態みたいだが、背中の荷物は変わらず。
なんだか、荷をほどいてしまったとたんに連絡が来そうで怖いから、登山練習のつもりででかいザックを背負っている。昨日は「毎日おへんろしているみたいな、荷物だね」といわれてしまった。(-_-;)




2004年05月25日(火) 蛙の大合唱、その後

日曜から、徐々にカエルの合唱の勢いが弱まったよう思う。
そろそろ、蛙の合唱ハイシーズンは終わりか、の期待を持った。
仕事場でそういうと、「たんに天気がいいからですよ、夕べなんか、少なくて寂しかったですよ」
はあああ・・・・・そういう人もいるのね。
彼は、うちから、20分(?)ほどのところに住んでいるようなので。

でも、朝、帰りと、田植えの終わった田圃の中の道をぽこぽこ歩いて通うのはなんだかいい気分ではある。
満員電車の方々、ご苦労さんです。
今日は、歩き遍路さんに道であった。
背中に背負っていたジュースとおかきの小袋、お賽銭(10円10個)が入った私流のお接待袋を差し上げた。
先日まで、ジュースの代わりにヤクルトだったのだが、お遍路さんにお会いしないうちに賞味期限切れになったので、ジュース缶としたのだ。
重いので申し訳ないが、これだったら、そう簡単に正味期限切れにならないし。
お接待、気持ちばかりだが、させていただいて、なんだか うれしかった。




2004年05月23日(日) 家の中、やっと少し落ち着いたが・・・

この週末、少し時間があって、やっと少し、人の住む家らしくなった。
転居通知もやっと作ったし。
父の具合は、また、少し持ち直したようだが、肺炎が広がっているようで一気にだめになる可能性大なので、「黒服」を持ち歩いている。
昨年の今頃は、父が水やりができるように黒スグリの木を父の日プレゼントにしたのに・・あああだ。

昨日は、蛙の合唱に耐えかねて、田圃からとおい部屋で寝たら、安眠した。
少し、元気になった。

ところで、埒被害者のお子さんたち5人帰ってきたが。これからが大変だあ・・・で、後は・・・全く、腰抜け小泉、選挙ねらい、年金問題の逃げ。薄ぺっらいしたたかもんだが、それでも、きっと受けるんだよね、あれが。




2004年05月21日(金) 悪夢・・ですかね

昨夜は、父の夢を見て、「いかん、こんな夢を見ていたら、ホントに父親が死ぬ」とか夢で焦って、目覚めようとするのだがさめない・・という苦しい夢を見てしまった。

心臓が強いので持っているのだが、確実に父は「あっち」に渡ろうとしている。
若い頃は、死んだら「無」だと、思っていたが、今は事故の体験もあって、イヤそうではないと、「こっちとあっちはメビウスの輪」と確実にいえる、私は幸せかもしれない。

父は客観的にいって、自己中系の人だし、お酒のコントロールができなくて家族の受けはいい人ではない。
私も、全く・・と思うことは多かった。
しかし、彼の最大の美徳は「正直と公正」
だから、耕地整理事業の時に、この点を買われて(自分がおいしい蜜をすおうと思わない)みんなから、組合長に推薦された。
わたしは、この彼の良さを少しはもらっていると思うのだ。ありがとう、といいたい。
そして、わたしが、「情け嬉しや・・・」をだしたとき「がんばれ」と、お祝いをくれた。うれしかった、素直に。
今も、がんばれ、といわれた路線でやっている。がんばりたい、と思う。

今晩は、また昨夜のような夢を見るのはやだな、と思っていたら寝そびれた。
で、ワインとビールで、カエルの合唱を聴いている。
肺炎が広がって苦しい呼吸をしてるだろう父のことを考えながら・・・・



2004年05月20日(木) 落ち込むなあ・・

今朝母に起こされて、父の熱がまた下がらないという。
いよいよ、来るべき時が来たようなのだ。
私と親戚が行った土、日曜の具合が一番よかったらしい。
私は最後の最後になにやら微笑んでいる顔を見たし・・・
しかし、胸の中に悲しみが詰まっているのだが、それが盛り上がってくるようで来ない、だけど、詰まっている・・いわゆる涙の便秘だ。
こうやって、死に自分も近づいていくのだ・・という思いの一日だった。
気は当然、沈むなあ。



2004年05月19日(水) 酸素の濃さと歩き

朝から、堀尾さんにうちに来ていただき、朝食を差し上げた。
その後、カイラスのお話を聞いた。(インタビューです、はい)
なるほど、と思ったのは、不動真言を唱えつつ五体倒置をしたということ、はじめは奥さんや自分の家族、友人知人の顔を思い浮かべて、健康や幸せを祈念してしていたのだが、次第に疲労でそれすらもできずにただただ真言のみの世界に突入した、ということだ。
つまり、何かを想像するということも、かなりエネルギーが必要なことなのだな。

で、昨日の堀尾さん歩きってスゴイ・・多分60キロから出るだろう。
何しろ、鴨島の鴨の湯から冷田川沿いまでだもん。焼山越えを入れてだから。
で、理由を聞いたら、朝早く出るということ、あんまり休まないこと、それと、ふだん高地(カトマンズ)に暮らしているし、それ以外にもよく3000mのお山歩きをするので、薄い空気で肺を鍛えていて・・こういう平地では息が切れない、とのこと。この最後の呼吸の問題がやはり堀尾さんの驚異的な歩きを支えていると思う。
これが本日の発見でした。おしまい
堀尾さんは雨の中、旅だって行かれました。
ご無事満願を祈る。



2004年05月18日(火) 堀尾さん

今日は、朝から、たまちゃんとお母さんが発送のお手伝いに来てくださった。
ありがたかった。
たまちゃんのおかげでなごみましたし・・・ね、たまちゃん。

夕方、作園の今頃、聖山カイラスを外国辞意としてはじめて五体倒置巡礼した堀尾さんが遍路さんでおいでになるというので待ち合わせた。
昨年もそうだが、今年も、大峰奥駆けをして即お遍路・・スゴイ体力である。
昼過ぎに、焼山越えをして井戸寺に向かっているという電話、それだけでもええ?!なのに、なおかつ、徳島市内を抜けて・・という脚力ただモノではない、やはり。
夕方7時過ぎに、再会。
いまばりで出られるのをお送りしたのが10日、1週間しかたっていないのに・・・野宿であるが、実にお元気、気が体に充満している。
お宿をお接待して、明朝の朝ご飯を差し上げる約束をした。



2004年05月17日(月) 帰宅

こちらに帰ってくる途中、大雨と洪水で、徐行、夜行「北国」は遅れてしまった。23分ほどの延着で、高速バスに乗り遅れて1時間待ち、徳島着も、当然1時間遅れ。遠いところに引っ越したんだ、と改めて思う。
いったん、帰省するとこの遠さにかえるのがいやんなるわさ。(笑・・老化だ)
で、すぐに仕事場に。夕方まで仕事しました。
このところ、やはり疲れだろうか、眼の下のクマが消えない。

それにしても、新潟は肌寒く、徳島蒸し暑し。
違いは著しい。



2004年05月16日(日) 微笑み

午後から、川崎大師に住む親戚が父の見舞いに来てくれた。
で、何と、川崎大師十年に一度のご開帳で配られる「赤札」を貰ってしまった。母と父、そして私の分と、3枚いただいた。コレだけしかなかったら、ココの家族分ないけどごめんねということで。
川崎大師ご開帳情報を、原稿で書いたが、しかし、もう遠いし縁がなかったな、と思っていたのに・・・・・ありがたいことだ。
なんだか、お大師さんから励ましをいただいたような気がする。
お大師さん、ありがとうです。

ところで、その川崎大師、凄い混雑のようだ。
赤札は朝は確実にいただけるらしいのだが、後は不定期でその確実の時間にいただこうという人であふれかえって行列だとか。
親戚のパパが朝の散歩に行ってはお参りしてもらってきているらしい。
大師信仰の凄さよ、と思ってしまう。
振り返ってみれば、私の小学校の教育実習って、親戚のうちに居候して大師小学校でしたんだし、まああの頃から縁があったんだよね、お大師さんに。
大師小学校なんていうの、ほかにないと思う。

で、はるばる川崎から来てくれたママ(父のいとこ)と、母、弟の二人の子供と一緒に病院へ。
今日は、解熱の点滴はなかったが、額に触ると少し熱がある様子。しかし、目は開いていた。ママがくれた赤札と、私のお守りの破磐神社さんの竹炭守りを枕頭に下げて、捨てられると悪いので「娘の身代わり」と裏に書いておいて来た。で、みんなでかわるがわる話しかけると、血圧が動くんだよね、あ、解っているみたい、とコチラも解った。
30分ほどいて、最後に「苦しくないように毎日祈っているよ、ばあちゃん(父の母親)があっちから迎えに来てくれるまで頑張って生きんとダメだネエ、また来るよ」といったら、最後、微笑んでいるようだった。
よかった。
四国にはいけなかったが、振り返れば、秩父を初めとして、伊勢、豊川稲荷、箱根、伊豆など父と母を連れて色々といったし、数年前には家族総勢で猪苗代湖に1泊したし、思い出は沢山ある。
人はこうやって、年を取るんだと思う。と今感じている。
今日、なにやら微笑んでいる父の顔とさよならできてよかった、とおもっている。



2004年05月15日(土) 病院で

父に管が何本もついていることは聞いて承知していたが、それでも、なんだか、やたらに触ったら計器に異常をきたすんじゃないか心配になる。
幸い、今日の午前、熱はかなり下がっていて、目があいていた。
わかる? といったら、こくんと頷いた。
もっと楽になるといいね、命があるうちはがんばるしかないねえ・・といったら、それにもかすかに頷いたような・・・・・
こんな父にあえてよかった。
島四国で「父が楽になりますように」と88箇所、お願いして歩いたが、熱が下がったという点では聞き届けてもらえたのだろうかね。
ああ・・・・・でも、つい先日よりさらに・・ではある、生かす医学の凄さを見た。
でも、見ている方はつらいし(もちろん、本人も・・だろう)、わたし自身は、こういう形での入院を拒否したいと感じた。死病にかかったときは、トルコとか、アジアのどっかの国とか、医療技術が発達途上にある国に逃亡して死のうと、放浪して死にたい・・つい、午後の昼寝タイムに考え詰めてしまった。

父の隣の方は、2月に脳卒中で倒れた方らしくて、母の話だと、一度も目を書けたところを見たことがないという。髪が黒々として、50代後半片60代前半の感じだ。人事ではない印象。

人間は犬に食われるほど自由だ、といったのは藤原新也。
でも、どんどん 人間の死が見えなくなっていく、というか、不自然の死しか見えない。
世間ではうつ病の人が増大しているときく。実際、周囲にもいるし・・こういった状況は、死が見えない、ということ関係していはしないか。



2004年05月14日(金) 院内感染

父の具合の急変は、直接的原因はいわゆる院内感染だ。
3月半ばに私が帰ったとき、かぜでもないのに急に熱が出て下がらないといっていて、次の日は下がって・・・・ということがあったが、その頃からだったと思う。
で、4月末には、一日ごとに悪化した。
ちょうど連休になっていて、医師の対応も遅れたようだった。
不運といえば不運だ。
今もっているのは、ひとえに心臓が強いからだという説明があったようだ。
5月には、車椅子に座ってスプーンを持ってご飯を食べられるようにしてお返ししますと、リハビリの先生が言ったようだが、今はむなしい。
まあ、昨年11月入院しなかったら・・とか、色々と考えるが。
原因不明の熱が出てまた引っ込んでという段階で、手を打ってくれたら、と考えるが・・・まあ、病院に殺される時代というのを実感する。
あす、あさってと病院に行って、命ある父にお別れをしてこようと思う。

それにしても、ここまで帰ることの遠いことよ。
あちこち痛いという母のことや、もろもろの家庭事情を考えると、いつかは帰還したいなあ、と思ってしまう。
引っ越したばかりだが、父の急変はそう遠くに行くなよといわれているよな気持ちになる。

新聞で、このごろ、臨終に際して号泣する家族が少なくなった、みんな何かほっとしたような顔つきになると書いてあった。
かぞくから、父についている管の数々の話を聞くと、ホッとのところで、頷いてしまうのだ。



2004年05月12日(水) やっと、PCを立ち上げたのだ

夜、やっと、自分とこのパソコンを立ち上げた。
しかし、ADSLが実に不安定。
なんか、設定が悪いのか、それとも、地域の問題なのか・・・
ヤンなるほど、よく切れるのだ・・・
これおかしいぞ、と悩む。
わたしがいない間に、住まいの前にある田んぼが耕されて、水田になった。
カエルがよく鳴く。
安眠妨害のこの頃。



2004年05月08日(土) 島四国2日目

今日もいい天気だ。
朝食を食べて、6時40分発。
朝食で隣のテーブルにいた女性グループは、横須賀からの人たち。
そのうちのおひとりが、ラジオを聴いていてくださっていて感謝。今日の宿も同じだとわかった。

さて、昨日の打ち終わりが81番なので、82番から打ち始める。
今日は土曜で学校が休みなので、小学生がはんこ押しをしてくれた。
またしても、昨日同道した、明応さんのお知り合いのYさん(お坊さん)と一緒になった。今日は、19番までなので、番号的には、少ないが、距離は出る感じ。しかし、島四国の場合、歩いても2キロから3キロ止まり、だいたい、500メートルくらいに札所がある。
3日で88カ所をお参りするんだから、まあ大変は大変。
だから、お賽銭を入れて、手を合わせて、はんこを押してもらって、お接待をもらって終わりという人が多い。
どこのお堂も地区の人がお接待をしている。
本四国と違うところは、いただくと、お賽銭を幾ばくか(5円、10円の世界)を入れる、というところだ。

さて、82番を7時に打ち始めて、海沿いの道を歩いて、止まりという村から、山に向かう。といっても、村中のくねくねした家の軒下を通るような道を上るのだが。83,4,5番はそんなわけで、歩かないと行けない。
昨日もこんなところが結構あった。
86番へは、峠を越えていく。
ぐんぐん登って、道の向こうに海が見えてくる、島だなあ。
86番には、ウミガメのお堂、お接待のちらし寿司がすごくおいしかった。
87番を打って降りてくると、道ばたでうどんを食う群。
お接待のテントが出ている。
おいしいですよ、と声をかけられたが、そんなには食べられない。
88番は、本四国では結願の寺だが、ここでは海縁の小さなお堂だ。
このお堂の前で、久万町のウオークグループと会った。
さらに歩く。
大島サークルロードを歩いても、車はすごく少ないので気持ちいい。
自転車のおばちゃん2人にあった。
今治からの方。
なんと、いただいたお接待を入れる箱をつけている。
「夕方にはいっぱいになるんですかね」
といったら、笑ってごまかされたが・・・一人の人は、ミカンのお接待を大量に集めているようだ。
いろいろな人がいるねえ。
2番、3番をつなぐ道は昔ながらの遍路道で感じがよかった。
今日は昼近く、10番近くというが、無理っぽくなってきた。
4番で聞かれるままに、一人で歩いているといったら、お昼のおにぎりと天ぷらをいただいた。ありがとう。
いろいろなお接待が、背中にたまってきていて重いのだが、でもあまりにおいしそうなのでいただいてしまった。
昼近く、ものすごくあつくなってきた。
山がちの島の構造上、札所は必ず小高い丘の上にあったりして、結構これがきついのだわ。

島四国の難所といわれているのが9番札所、せり割りさんといわれていて、岩の割れ目に入っていってお参りする場所になる。
確かにきついとこだが、なんと私はここで道間違い、お不動さんにもっと歩けといわれたような・・・的なところまで行ってしまってさんざんだった。

昼から、宿が19番案ので、いやはや大汗かいてとばした。
お経をはしょるわけにはいかないので、歩きをがんばるしかない。

で、やれやれで、5時5分前に、予定の19番札所へ。
一日が終わりましたわ。
明日は雨とか、小降りに願いたいモノだが。

思うに、島四国、別にご縁日でなくても、まわって、十分いい感じだと思った。
人気のない普段顔の札所で、ぼんやり風に吹かれる感じっていいと思うねえ。
ご縁日で、納経して・・・という気ぜわしさ、なしでのんびり、がこれまた味わいかな。
というのが2日目の感想です。



2004年05月06日(木) 伊予大島へ

今治から、フェリーで伊予大島へわたった。
本当は、島なみ海道を、歩いてもよかったのだが、やはり、古式風に船でわたりたかった。
明日から、大島は遍路縁日だ。
で、2泊3日で島のお遍路道を歩く。
朝、霊場会の事務局になっているお寺へ納経帳を求めるためとお話を聞くために行った。
「歩かないと、大島四国の良さはわかりません」
とご住職さん。
でも、橋が架かってから、車が飛躍的に増えて、人の流れが変わったとか。
うーむ時代だねえ。
中学生が、島四国の準備手伝いにくるというので、私もついでに、中学生に混じって、幟を立てたりのお手伝いをしてきた。

お寺から、5キロあまりを足慣らしで歩いた。
気持ちよかった。
鳥の声がやたらに聞こえるのどかな島、港近くの道の駅に、野宿遍路さんの姿。どう見ても、本四国から、橋を歩いてきた、四国の空の下がねぐら系の2人だ。
道の駅に、真っ赤にうれたミニトマトを売っていたので、自分の分とお二人の分を買ってお接待。優しいそうな方々で、お札を・・といわれたが辞退した。
私も明日からまわります、またどこかでお会いするかもですね、と話して失礼した。

今日もいいお天気。
明日からもいいお天気であることを祈る・・・・



2004年05月05日(水) 繁多寺から

10時にホテルを出て、月岡さんや辰濃さん白井さんたちと繁多寺へ向かった。
行く車の中で「情け嬉しや お遍路ワールド」を読みましたよ、いい文だと思いましたよ、と辰濃さんがいってくださって「天声人語」の執筆者にありがたいお言葉をいただいて「ふるえちゃいます」状態だった。

打ち合わせや、リハーサルをして1時5分より本番。
2時台に少しコメントをといわれていた私だが、拘束はみなさんと一緒。出ない時間は、しっかり聞いてお勉強させていただいた。
たまちゃんが来てくれた、ありがとうございました。
(たまちゃんへ ぶどう饅頭は、白井さんたちと、久万へいらした辰濃さんと月岡さん、そして、今治の私の友人へおみやげしたよ、たまちゃん。
今治の友人から、たまちゃんへタイの子どもたちが一生懸命作った袋を預かりました。)

まといもちさんからNHKへメールをいただいた、ありがとうございました。

夕方、今治へ。
清正の湯の高いほう(子どもは入場禁止なので、静か)を、友人がお接待してくださって、すごくリラックスした。やれやれでした。
ありがとうございました。
折からの満月、竹林の中の露天風呂から見る月は、まるで中秋の月のような光。すごかった。



2004年05月04日(火) 松山にて

9時40分、徳島発の高速バスにて、松山へ。
市駅に、友人が待っていてくれたので一緒にお昼を食べて、へんろみち保存会の宮崎さんにお会いしに行った。今月は奥様の命日月だし、お花を持って。そして「祝!新遍路地図完成」である。
いつも、アポなしの急襲だが、今回もおられてお話しできた。
1時間ほどいろいろなお話ができて楽しかった。

夕方は、明日のことについて、アナウンサーの方を交えての打ち合わせだった。
久しぶりに、月岡さんにあえた。
元気そうで、ますますきれいになっていた。
辰濃和男氏、優しくていい感じ、白井貴子さんは、才気煥発でお話が楽しい。
という感じ。
明日はいいお天気みたいだし、私は私の役割をこなしましょ、と思います、です。



2004年05月03日(月) ショックだあ

母から電話で、父の発熱がさらにあがって39度以上になって、老人介護施設から胸違いの病棟に移ったという知らせ。
医師は、もう回復の見込みはない・・・といったらしい。
昨日は、もう行っても目も開けなかったし・・・・理性は納得できるのだが、なにも手に着かず、ボワンとしていた。
昨年11月半ばまでは、チョースローリーでも、歩いてデイサービースに行っていたのに。落下するがごとくの悪化がにわかにというか感情的に受け入れられない。
医師は、父のように、パーキンソンとアルツハイマーのように、2つ合併していると、一気に悪くなることはあることだといったらしいが。
三枝子がお父さんが亡くなられた時「独りの大人になった気がする」という手紙をくれたが。今、やっと、その意味が身体で分かるような・・・・
医師は熱の原因は連休明けに調べますが・・・無理な延命はやめましょう的ことをいったらしい。
それには異議はない。
あのまま熱が続けば、肺炎になるだろう、と思う。
もちろん、体だって参るし・・・・。
3月に、わかる?またくるよ、ああ、という会話をしたのが最後になるというのか・・・。



2004年05月02日(日) 今年の新潟の桜

近所の蒼紫神社に、花見ちょうちんが無様にともっている。
というのも、例年、新潟の連休、まだ桜が散り果ての手前くらいで残っているんだわ。蒼紫神社は桜の名所だし、例年状態でちょうちんが撤去されていないのだというわけ。
田舎の家族が言うには、今年入学式に桜が咲いてた・・・とか。
おかしい。
そう思う。
私が子供の頃、桜は4月の末に見に行くモンだった。
4月の頭に桜って、関東の話
地球規模でおかしいけど、身近でこんないおかしい。
地震でもないといいが・・と不安になる。

今夜いいお月様だ。
満月だ。
出釈迦寺では、おこもりの日。
いつか、私もさせていただきたいもんだわ。



2004年05月01日(土) 新潟も快晴

いい天気が続いている。
熱の下がらない父のところに行ったが・・・・しかし・・・依然として下がらず。
また、なんと事態は一昨日より良くない。
10日も37,8度の発熱なら、まあ健康体の人も参るが・・そういう意味では仕方ないが・・・それにしても・・・。
80歳過ぎの父の姉を同行したが、分からなかった。彼女もがっかりしていた。

昼から昔の病院後に出来た大きなスパーマーケットに行った。
田舎の病院、昔街中にあったものが広いスペースを求めてみんな郊外に移転してしまった。
そのスーパー、
ほとんど、アメリカのスーパーのような。
おおきいね・・と感心したら、もっと大きいもの、レジが50個以上も並んでいるものが、郊外にあるという。

ここ、なあああんでもあるし、品揃えが豊富で安い。
元が、魚屋さんなので、魚が新鮮。
手巻きすしの材料を買いに行ったのだが、なかなかだった。
田舎に住むのも、いいかの、と思ってしまった。



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