ゆうべ、左小指と右足裏の治療をしっかりした。 とことん、漿液を出して数回の消毒、その後依然ナースの知人からいただいた化膿止めのゲンタシン軟膏(有効期限切れなのがやや心配)をたっぷりとつけて、そっとガーゼでとめた。これとセットで、飲む抗生物質ももらったのだが、これはパス。とにかく今以上に腫れ上がらせないことが肝要なのだわ。 今朝は、汗を少しでもはじむようにオリーブオイルをつけ、足のマッサージ。
朝6時45分発、少しはきいたのか、昨日より痛みは和らいでいる。少なくとも刺すような痛みはなくなっている。 細川ガラシャがいたせいもあってか、宮津市内には、畳敷きの教会があるという。明治初期の様式を伝えているというので有名とか。観光案内所できいたのだが、昨日は眺めにいく元気がなかった。 今朝は、それを眺めて本ルートに乗った。まだ開いてなかったので中には入れなかったが、確かに外からでもステンドグラスの美しさがよくわかる。
さて今日のルート、峠と名の付くところが3カ所ある。まあしかし、このへんの山容を見ていると、そうきつくなはいだろうとおもう。
昨夕は信号待ちで、おじさんに道と宮津駅前にホテルはあるだろうか、ときいたら、うちに泊めてあげようか・・・ええ、あのでも・・・そうやわな、突然こんなんいわれても身の危険感じるわな、というおかしな会話をした。 善良そうな人だったが、あれにはすこしびっくりした。 あのおじさん、四国に生まれるべきだったね。
国道から山越えルートへ。 名無しプチ峠、宮津と舞鶴の境である坂戸峠、を越えた。 体重が明らかに減った。巡礼ダイエット成功。それもあって、坂が苦しくない、ってことなんだ。体がグレードアップしたんじゃないわよね、がくん。 今頃 気がつく あほさ かな。
八土地川に沿って下る道は人気がない。時々車が通るだけ。この府道宮津、舞鶴線は寂しい道だ。 やっと下りきっても座るところも休むところもトイレもない。とれあえずは休みた。なにしろ、宿を出て3時間近くゆっくりとザックをおろしていない。もう限界。足は何とか動いてくれるけど、やっぱりいたいし。 農作業用に架かっている橋の上に荷物を置いて座り込む。かんかん照りだが仕方ないもう、手も顔を真っ黒。まあ、巡礼、遍路の時は日焼け止めだけと決めているし、な。
靴も靴下も脱ぐ。 足が喜んでいる。 水を飲んで、トマトを一つ食べてボーーとしていたら、向こうから猫が2匹くるではないか。 1匹は、白と黒の斑、もう1匹は茶色鯖縞。どうやら、デートらしい。2匹して、ほんや ほやな、という感じで歩いてくる。 私は不動で待機。 先にぶちさんが私を見てじっと警戒したが、私は素知らぬ顔で、畑の向こうを見ていた。 そうしたら、やっぱりほや、ほんや、という感じで通りすぎていった。ぶちさんはメス、鯖縞がオスであった。あれは見たところ、鯖は年下だね。彼女の後ろについてく、ってかんじだったよ。 猫を観察していたら、あっという間に20分が過ぎていた。 靴を履いて、また歩く。 なんといっても、歩き始めの3分が痛い。足を引きずる。
次の滝尻峠に向かう前についにガソリンスタンドでトイレを貸してもらった。 国道に出たら、コンビニが、と、期待していたのだが、なさそうな。 今回の旅で初めてだ、ガソリンスタンドで借りるのは。 スタンドにいたおばさんが峠の付近、道はくねっているし、歩道はないし、ダンプはとおるしだから、気をつけて、と心配してくださった。ありがとうございます。 道はその通り。しかし、いつか奈良竹内峠はもっとすごかったしな。
昼になってめきめき暑くなる。こうなると1時間4キロなんて行かない、てれてれ歩きになって、足は痛いし。 途中、昔の旅人の水場にお地蔵さんと四阿。そこで昼食。 この後に西舞鶴と通過して、東舞鶴、となるのだが、距離的には大したことはないとわかっていてもだめ。あつい。 国道沿いの温度計が28度を指していた。 ほお・・・とため息だ。
市内の田辺には、江戸期の校門の中に近代的校舎、明倫小がたっていた。 おもしろかった。
最後の白鳥峠のトンネルの上後の道がなんと地道だった。毎日、必ず少しは地道があるわい。
東舞鶴駅で紹介してもらった、トップインというホテルに投宿。 4時、だ。後半、右足首の靱帯が伸びたところ、我が古傷まで痛みはじめた。 こまったなあ・・・・ でも、明日は松尾寺さんだ。がんばらねば。
2002年05月30日(木) |
★成相寺まで まめが怒っている!★ |
今日もいい天気だ。コーンフレークと、オレンジジュース、サラダ、パン、コーヒーの朝食をいただいて、リフレかやの里を出た。 このへんはまさに丹後縮緬の里、らしい。 昔は雪がたくさん降ったとか、この施設はとんとんの収支だとかの話を給仕をしてくださったおじさんとした。
国道を横切り、町中の旧道を目指して急ぐ。 この宿に泊まるために、たぶん、昨日今日併せて3キロはゆうに余分に歩いているね。 急いでいると、車が止まって「ドコいくんや?」 「成相山、徒歩巡礼」 「歩いてか、まだだいぶんあるで。いけるんかいな」 「はい、地図持ってますから」 おじさん、えらいなあ、気をつけてや・・と通り過ぎた。 べつにえらくはない。趣味みたいなもんだから。 さっきのおじさん、少し行った先に止まっていて、「今日はな、朝からあついやろ、夕立くるかもしれんしな」とまたまた声をかけてくれた。 はい、ありがとう。確かにあつい。歩き始めていくらもたたないのに汗が流れる。
加悦町の町中は通学途中の中学生や小学性でにぎわっている。 小学生の集団登校に試しに「おはよう!」といったら、シーン。ジトンと私を見上げる。お・は・よ・う、もう一度いうと、何とはなしに、おはようございます・・・こいつなんだあ?の気配。ははは、このごろ、こういう感じを楽しんだりしている。 町中には古い立派なお寺や神社、縮緬織りの織機の音。 つづく野田川町も同様の気配だ。 それにしてもあつい。なんか、湿度が高いのだ。
岩滝町には行って休む場所もなし、ついに国道沿いの安全地帯に座り込んだ。左足のまめは痛い。昨日、「ミズ出し」をしたはずなのだが、また膨れてきて怒っている気配。さらには水分不足で力が出ない。足はともかく、水は補給しないと、なのだ。 私が水を飲んでいたら、ゆうくりとじい様がちかづいてきて、じっと、とながめる。 「なにしてるんや」ものすごく小さな声。 80歳近いか? 「巡礼、成相山に行きます」「バスか」「歩き」「ええ、、、、」といってしばらくしてから、あそこや、とじいさまは山の方向を指した。 「ロープウエーがあるで」「歩きますわ」じいさま、ためいきをついて「国分寺の跡のとこから登るわ、足が、丈夫なんやな」 はい。「散歩ですか」 じいさま、首を振る。よくわからん・・・・年寄りにありがちちな会話の形。 ここにくるまでこう手合いの会話はずいぶんしてきた。それも、おじじさんと。おばばは、こういう近づき方はしない。
旧道で看板を読んでいると、今度は今日はどっからきたんや、とまたまた自転車に乗ったおっちゃんかた声がかかる。 「加悦町」 「この道なあ、案内するわ・・このへんで迷っている人がおったら教えるんや」 「別に迷っていません、看板を読んでいたんです。地図、持っていますから」 急に地図?と興味を示すので、お寺の方、松尾寺さんのですよ、といったら、「ありの会」しっているか、わし、松尾寺さんが徒歩巡礼や遍路に行くときに車の運転するんや」 へええ。奇遇だ。 それからは、歩きながら、遍路や巡礼の話が弾んだ。 松尾寺さんに行ったら、ワシがよろしくゆうとったといっておいてな。 はい。
成相山への登坂コースに入る前に、ドライブインがあったので、足の手入れと大休憩をかねて休んだ。とにかく、左足の小指まめ、右足の裏の傷(熊野での雨降りに皮がむけたモノ)が痛い。 とりあえずはまたしても水分補給。500ミリのポカリと、200ミリくらいの アイスコーヒーがあっというまにはいった。たこ焼きで昼食も取る。 その後、に靴下を脱いで足の風通し、まめの水抜き。夕べしたのだが不十分だったのか? とにかく、今回は足が恥ずかしいくらいに傷んでいる。 「足のきれいな人は全部歩き通せる人や」 という遍路宿の主人の言葉、思い出す。今回は失格だ。 30分、たっぷりと休んだ。
12寺10分、成相寺登坂へ。 車道でもあるが、車は少ない。1・7キロ。 よれよれ、まめの傷みに舌打ちしながらのぼる。 道中、温泉(冷泉)、水場3カ所、要するに水の豊富な山、なのだな。 これも観音霊場の特徴だ。 あと150メートル、の看板が出てきてからがきつかった。見上げるような急坂。 それにどう見ても200から300近くはあるよ。 入り口にいたおじさんに、あの看板、おかしい、だまされる、きつかった、といったら、ワシたちも、あれはおかしいと思うとる、という。 しばらくおじさんたちと話した。 私が、山門からはいる、といったら、山門は帰るときにいやでもくぐる、200メートルもさがらんならんしやめとき、観音さん、そんなに厳しいこといわはらへんで、だとさ。助言に従った。 彼らによれは、日本人は車に乗ってからだめになった、本堂まで200メートルときいただけでお参りもせんと戻るわ、といっていた。
由緒といかにも古い観音霊場という感じ。 120キロの道のりを超えてきた寺の気配に満足した。
笠松公園で、恒例の天橋立またのぞきをしてソフトクリームを食べて、下山。
お次は天橋立歩きだ。 約3・5キロのルート。車は通れない松並木の歩道になっている。 足が痛くなかったら、もっと楽しめるんだろうに・・・。 宮津近くに、磯清水という、海の中なのに清水がわいているという井戸があった。そのお水のうまいこと。ボトルに詰めていると一人のおじさん登場。 そばの橋立神社に岩笛の奉納をするという。 きかせていただいた。 おじさんはたくさん「神様」の話をして、名詞までくれた。 帰ったら、手紙をおくれ、ということだった。 はい・・・
後はひたすら宮津へ。
5時すぎに、港近くの旅館組合の案内所で宿を紹介してもらって投宿。 夕食は、この沖合でとれた鰯寿司。おいしかった。 まめのことが心配。明日は大丈夫?か。
2002年05月29日(水) |
★京都府 加悦(かや)町まで★ |
今日のメインは峠越え3つだ。 何しろ、あの鬼の大江山のそばを通過する予定。
7時半朝食のところ、私のために6時50分、さらには上夜久野の駅まで、お送りくださるという。 ありがたや。 水が昨日からとてもおいしいと感じていたのだが、お茶もうまい。 甘いのだ。雪解け水が大量にはいるとこういう味になる。 そういうと、朝食の支度をしてくれた女性が「そうですか、でも確かに私ら京都に行くとあそこの町の水は飲めません」 彼女は、私のお杖を見て、ああ、懐かしい、いつも春先に小豆島の88カ所に行くんですよ、という。 この町にも石仏、88カ所というのがある。
上夜久野発7時27分、昨日歩き止めた梁瀬駅前発、7時35分。 駅前で自転車を預かっているおばちゃんに昨日も会いましたね、おはようございますといったら、どこまで行くの、ときく。成相山、といったら、今日につく? 「つきませんよ、加悦に泊まります」 「加悦まで歩くの、気をつけてな、」 このへんの町に来てからこういう感じの立ち話をよくする。
歩き始めたものの、どうもスピードが出ない。今朝方降った雨が上がってあつくなってきているせいもあるが、疲れだ。久しぶりに、膝上の筋肉がすこし痛い。 滅多にないことだ。 ぼやぼや、よたよた、ほとんど時速3キロ状態で進む。
それにしても、昨日は正解だった、と思う。 ほとんど、緩い登りで、夜久野までたっぷり1時間かかった。昨夕、さらに歩きを続行していたらどれだけきつかったか。時間どうりにもつけなかっただろうし。 夜久野の入り口には茶堂という建物がある。昔、このあたりを通る巡礼にお茶や宿のお世話をしたところだという。
夜久野から、いよいよ山に向かう。じくじく、という感じで登りになる。 静かな山間の村、だが、道が立派なわりに人がいない。なんとでっかい蛇が石垣の間をうろうろするくらい静かなんだわ。私は息が止まったけど。
11時半過ぎ、最初の峠、小坂峠峠越え、越えると、また兵庫県にはいる。但東町だ。 次ぎに舗装された旧道系の道をドンドコあがる。なんか、熊野で体がグレードアップしたのか、坂が嫌いだったのに、むしろ、好きよ状態で力が出てしまう。これって何なんだろう。四国を通しでまわったときも、坂は苦手だった。
小坂峠を下ったお寺の山門で小雨が降ってきたので雨宿り。ついでにお昼。トイレもドアが開いていたのでお借りした。山奥なのに水洗のきれいなトイレだった。一応断ろうと声をかけたのだが留守らしい。仕方ないので、せめてお参りをしてお賽銭を、と思ったのだがそれを入れる箱もない。仕方ないので、灯籠のそばに小銭を奉納?した。 石段をおりはじめたら、くるまが帰ってきた。お寺の人らしい。トイレをお借りしたことなどを話してお礼を言った。
さあ、第二の峠は神懸峠、向かう方向は「大江」だ。 あの雨はどこへやら、日差しがきつくなってきた。 神懸峠はきつかった。 足は、しかし、よく動いてくれる。 坂でむしろ調子が出てきた感じ。私のもっとも嫌いなのが登りだったのにほんとにどうしたんでしょうねえ。
おりきらないうちに、道を左にとって山道だ。地道に近い。寂しい道、寂しすぎる。ご法号だの、お経だのを読みながら歩いた。 やっぱり蛇、がいた。道の真ん中に、崩れたト音記号のように不動状態。ぐっと迂回してそそくさとすぎた。 あああ・・・・
国道に出たら、荷物を引きずったおじさんに注目されて、(なぜか人気のない国道をこの人、よたよた歩いていた)少し怖かったので、休んでやり過ごして、最後の与謝峠越えにかかった。 新国の上を行く旧国だ。もちろん人気はない。あのおじさんはなんとごう音の国道トンネルに入っていったぞ。 出たらまた会いそうな予感がしたが、仕方がない。
道はあれていてやっぱりすごく寂しい。今日はこんなのばっかり、だ。 降りるとお助け水があったが、車が止まっていて男性の姿が見えたのでなんだか気持ち悪くて、これまた一口だけごちそうになってそそくさと進んだ。
やっぱりトンネルを出たら、あのへんなおじさんも出て来たところ。これはもうゆっくりやすんで、やり過ごすしかない。 国道の休憩所に行ってトイレ休憩をたっぷり取った。そこにいた地元の人が大江山や、今日の宿、「かや里」の位置をいろいろと教えてくれた。
リフレ かやの里着 5時50分。ここはハーブ風呂が売りだ。 2回も入った。 ハーブと渡りがにのスパゲッテイが夕食。おししかった。お風呂はききすぎて、なんと鼻血がでてしまったよ・・・。 なかなかよろしい宿。 2回もお風呂にはいったので、日記のアップが大幅遅れ。もう22時40分、寝ないとね。 明日は、成相山到達、予定。 120キロを歩いたことになる。
2002年05月28日(火) |
★成相山120キロまでの道程 夜久野町だ!★ |
宿発6時50分、いい天気だ。7時4分の電車で鶴居駅に戻り、そこから出る。 今日の道は国道312号に沿って登り、あの銀の生野町を通過し、和田山、京都府下の夜久野まで、のルートだ。道的には難しくない。問題は距離だ。長い。まともに夜久野までいったら、45キロ近いだろう。 できれば、山東町に宿があればいいのだが、なさそう・・昨日ネットにつないで調べたが・・役所のページになかった。一応電話してはみるが・・・。
距離を稼ぐために、直線ルートの国道を歩きたいのだが、歩道がないと、やはり怖いし、なによりあの車の音で神経が疲れきる。 疲れたら旧道や脇道に入り、歩道があったら国道一直線としよう。
駅で待っていたら、駅の案内に柳田国男の生家まで2キロという掲示があった。あの柳田先生って、福崎の生まれだったのね。 こういうことって、よくある。茨木市の西国筋に中学生の川端康成が住んでいたなんてことも、きいたし。
コースタイム。生野峠を越えて、着11時。 川近くのベンチで早いお昼。パン、ミカン、大量のミネラルウオーター。要するに、あまり食べたくない。日陰でお水だけが飲みたいのだ。とにかくあつい、照り返しがすごいのだから。 生野はかつての繁栄を感じる裕福そうな家並み。しかし、今は山深い静かな町。 朝来町に入る・・・1時。出る。3時55分。 疲れると、お杖を平地でもつき始める私だが、このへんからの私はまさにそれ。30キロラインを超えたはずだが、しかしまだまだ距離は残る。 しんどーい。汗で、足のまめ皮がはげてそれがぴりぴりするのだ。
これから、山東町、夜久野町は、山越えとなる。どこで、本日の歩行終わりとするか、考えなければ、だ。 夜久野は等高線がかなり詰んでいるところを上がった町だ。きついよね。この疲れでは。明日もあるし、よし、梁瀬まで出たら、電車としよう。明日、またそこまで戻って歩こう。梁瀬駅まででも40キロはあるだろう。 ということで、山東町着。5時45分。 この町に宿があれば最高なのだが、お昼に電話して確認、なかった。昨日も、市川になかったし、どうもうまくいかない。
梁瀬町で、中学生と小学生の親切に感動した。 そもそも、今日はたくさんの人から巡礼、えらいね、歩いてかい、気をつけてや・・といった声かけをいただいたが、この町の子どもの親切が一番うれしかった。
町はずれで道を聞いた中学生の女子二人組、私が教えたようにくるか、先に行って自転車で待っていてくれた。こなかったら、探しに行ってまたおしえるつもりだったいう。 のんびり話しながら歩いた。その後は、少学5年生の子が、駅はうちの近くですから、私と一緒に行きましょ、と道案内。 なんか、都会の子と違う心の優雅さと優しさを感じた。
さらに、電車は1時間に1本。出たばかりなので宿の夜久野荘に電話したら、迎えに来てくれた。 これもありがたかった。 夜久野荘は温泉。2回入った。足が喜んでるが、明日は歩けるかな・・・
2002年05月27日(月) |
★書写山 圓教寺から正念場ルートへ★ |
今日もよく晴れている。5時10分起床。 6時7分発の播担線に乗って野里まで。そこから歩きのルートに乗って歩く。 体が軽い。やはり昨日半日休みで遊んで楽をしたおかげだ。 昨日の車観音さんご夫婦に感謝。
書写山は、西の比叡といわれているお寺で、下からはロープウエイがついている大寺だ。もちろん、私は歩くが。 ロープウエイが見えてきた。 見上げるばかりのお山だ。やれやれ、観音様、またまた登山させてくださるんですね。 登山口はすぐに見つかった。岩山だ。登るほどに景色がよくなる。かつては女人堂があって女は禁制だったお山。男性的で力を感じる。 ところが、山陽自動車道が通っているところに来たら下から不気味な音がする。こんな霊山に穴をあけてしまっていいのか?
登り始めて40分あまり、無事に下から望んだロープウエイ駅に着いた。 しかしここはまだ、入り口にもなっていない。 さらに歩くこと、10分あまり、やっと登山口(東坂)から、18丁のしるべ石が山門に立っていて到着となった。 お寺は舞台造り、なかなかだ。 新緑の紅葉が美しい。
白衣をつけて身支度をしてお参りだ。しばらく(3泊4日・・120キロ)はお寺がない。 それにしても気持ちのいいお寺、しばらくいたい感じがする。 ここは、やっぱり霊山だあ。 こんなとこに穴あけた山陽自動車道、いいことないぞう。
ゆっくりしたいが、時間が・・お寺に着いてから、あっという間に1時間がすぎている。 今度は置塩坂を降りる。 やはり山道だ。今度は見晴らしはきかないが、杉林、竹林の中歩きで涼しい。 こういう地道大好き。疲れないもんね。 樹相が雑木に変わったとき、携帯が鳴り始めた。 熊野を共に歩いたS氏だ。 彼も西国を歩く希望があって、仕事の休みを利用してまわる予定らしい。 今日は、休みなので、同行3人(観音様と3人連れ)の申し出があったのだ。 神戸在住の彼にとっては、かなりのところが日帰りで歩けるという。 土地勘もあるし、うらやましい限りだ。
夢前役場で合流するという。そこでお昼だろうから、と彼はいうが・・行ける? まあ、がんばろう。 携帯を切ったとたんに、前から人の声がしてくる。見れば女性二人が登ってくる。 「まだだいぶんありますか」 「ええ」 とまあ、話が始まって、こちらから登ると、入山料がいらないし、いいかもと私がいったら、私らいつも払っているし、いいやんな、と二人は笑う。 地元の方らしい。 杖を見て一人の人が、歩いてはるんですか、ときく。はい西国を・・へえ、いいですね、いつか四国を歩きたいと思うているんです・・という話でまたまた話がはずんだ。 書写山は霊山ですよ、パワーがあると思いますよといったら、私らも好きでよくくるんですよと二人。そして、とっておきのパワー神社を教えていただいてレーズンクラッカーもいただいた。感謝、でした。 この間15分から20分。おやおや、1キロから1キロ半は歩ける時間を山道で、出会った人と楽しくおしゃべりをしていたということなんだ。 名残惜しくお別れした。
夢前川沿いに歩く道。時計は10時45分。役場までは9キロ近くある。昼、無理だよ。 まあ平らだし、せかせか歩いていたら、携帯がまたなった。 「今、バスで追い越したから、次のバス停で待っている」とS氏。 「今のバスに乗っていたのね」 「そう、いるかなと思ってい見ていたんだけど、姿が見えたから」 これでせかせかとあるかなくてすむ。 川面をわたる風は涼しいのだが、やっぱりあついし、急ぎ足は疲れます・・・。
夢前から、山ごえで福崎、市川と越していく。 藪の道では、S氏に蛇よけになってもらった。どうも、あの長モノいかん・・・。
仕事のこと、四国の道のこと、阪神大震災のとき会社にいて助かったことなどを話す。 一人で、ぼちぼち歩くのもいいが、話し相手がいるのもたまにはいい。 ありがとうどざいましたね、S氏。
夕立があったので途中で30分ばかりも雨宿り。鶴居の駅前に着いたのは、5時20分、電車は5時25分。ちょうどよかった。 この市川町は宿がない。 福崎駅まで電車。駅近くの宿に泊まって明日またここから出る。
福崎駅前で、きょろきょろしながら歩いていたら、後ろからはじを歩け!とどなられた。びっくりして振り向いて「すみません」と謝ったら、「四つも目をつけといてどこ向いてあるいとんじゃ」と毒づかれた。わあー、こんなこといわれたの初めてだ、またびっくり。四つも目を、というのは私が眼鏡をかけているということなんだろう。 この町って田舎なのにのんびりしていないのね。
明日からは、距離と足と、宿の確保が大変だ。
2002年05月26日(日) |
★一乗寺から姫路へ★ |
ホテル発6時10分。夕べは、足の火照りと、窓を閉めたら、やたらとたばこのにおいがして目が覚めてばかり。体調はよくない。 パンと甘夏、お茶の朝食で出た。日曜のせいか、車の数は少ない。 ぼてぼてと歩く。何となくからだが重たい感じ。 外で仕事をしておられる方に挨拶をすると「どこまでいくん?法華山か?」といわれる。清水寺は御嵩山だし、このへんの人は山号で寺を呼び慣わしてるようだ。
地図を眺めると、ため池がやたらに多い。 川も多いが、ため池はそれ以上だ。 ふつうの道を歩いていてなにが困るといって、休み場がないことだ。今日はセオリー通りに1時間ごとに休みを入れたいと思うが座るところがないのが困る。
一乗寺まで後2キロという感じのところでやすんでいると、後少しですよ、とバス待ちのおばさんから声がかかった。 はい、でも少し休んでから・・・なにしろ、観音さんは必ず最後に山登りさせてくださいますから・・というと笑われた。 ホントにそうなんだもん。 もしかして、その心は、御利益は楽して付いてくるものではないんだよ、ってことか? まあしかし、一乗寺はさしたることもない登り。楽勝。11時40分着。
確か、ここの本堂は舞台づくりで有名だった?はずだが、今は修理中とかで、ご本尊もしたに安置されていた。 国宝の三重塔はさすがに古さびていて立派だ。 ここで、ドイツ人4人組としばし語らいの時間。 一人の女性がすごく上手な日本語を話す。 きくと、神戸に10年近くもすんでいた人、今はニュルンベルグだという。ロマンチック街道ですね、いきました、大昔、といったら、小学生の時?といわれてしまった。そんなことないよ、ジョークだったの? 彼女は、日本語だけじゃやなくて、英語はもちろん、イタリア語、スペイン語、などいろいろと話す人らしい。 通貨がユーロになった感想を聞いたら、物価が少し高くなったといっていた。わかる、アムステルダムの友だちもそれを心配していたっけ。 今週の木曜に帰るのだという。「残り少ない時間、いい旅を」と、わかれた。
一乗寺は、ご住職さんのお考えで、自販機が近辺に一つもいてない。カンやボトルの投げ捨てで、境内を汚されたくないのだという。代わりにお寺直営の休憩所がある。そこで、無料の冷たいお水と温かいお茶が振る舞われていた。 自販機の冷たい飲み物を期待していたのだが、こういうのも見識だろう。 いいと思う。 休憩所の女性が、歩いている、といったら、興味をもって地図を見せてという。 見せると、ああ書写山は裏からのぼるんやね、という。そんなこといわれても、わからない。ただ、ロープウエイはつかわない、山からは夢前の方に抜けるといったら、そんな道があるのかという。 あるようですよ。 偉いわ、とその人がお煎餅をくださった。 お昼のおにぎりや甘夏を食べていたら、今度はすごくきれいな初老の女性が「よろしかったら、車にのっていかへん?私らは書写山にいくのんよ」 はい・・・・うーん・・・・ お山まで行くと、どうしても夢前まで抜けないといけない。宿がない。今日の体の疲れをかんがえれば、ゆとりを持って姫路まで出て、明日じっくりと登りたい・・・・気がする。 お山の下から登りたいのだ、やっぱり。 自分の足で登れる幸せ、なんだから。 しかし、お断りするのも何か・・・もしかして、観音様が少しお休み・・と思っておられるのかもしれない・・・、ということで姫路まで乗せていただいて、今日は半日姫路でお休みをとることにした。
大阪からというお二人、のせてくださったご夫婦は上品な感じ、60代後半といったところか。 「大学生ですか」とご主人がまじめか顔をしていわれたのにはうれしいをとおりこして、びっくり。 化粧をしてにないせいか、連日の汗で体が若返った? うそお??
ナビを設定して10分あまり、あっという間に姫路の市街地に着いてしまった。これが私が午後の半日をかけて歩こうとしていた距離なんだ。
「車観音様でした、ありがとうございました、お気をつけて」 とおわかれした。 駅前の宿着、1時50分。 少し休んで姫路城見学。 城郭建築の技術に感服。感動。
というわけで、今日は姫路の休日でした。 観音様がくださった半日休暇の気がする・・西国のお接待だった。 お車のお二人は「男の人だったらのせへんよ、こわいもんなあ」といっておられ た。いつかの「永久」(とわ)の女将さんも、歯切れのいい関東の言葉を話すから、よその人とわかったけど女の人だったから泊めたんよ、男は怖いわ、決まった人しか泊めんといっていたっけ。 昔は、女の一人はだめだったが、このごろは男の一人が受難の時代なのか?
とにかく半日のリフレッシュ。体がらくになった。 明日からは、120キロの長丁場が始まる。
2002年05月25日(土) |
★清水寺から社町まで ★ |
またまたピーカンの空。いいのか、こんなに晴れて、という感じだ。 朝、6時40分発。ホテルの受付の人は、コーヒーか紅茶だけでもめしあがっては、といってくれたが忙しい気分だし、すでに部屋でお茶を入れて飲んだので断っ て出る。少し遅いくらいだし。プラザホテル三田、感じのいいホテルだった。
きょうの道は国道176、141、372,沿いと考えるとわかりいい。 まずは、176号、歩道完備。距離を稼ぐために国道を歩く。バス停にいたおばさんが、どこまで歩くん、清水さん?それはそれは、、あそこまでだいぶんあるで、がんばってや、といわれた。はいありがとう、といって別れる。
この近く、中山観音さんから始まって花山院さん、清水寺さん、法華山の一乗寺と、札所が近いせいか中高年の方が親しげに話しかけてくれる。 今日は田植え日和らしくて、あちこちでしろかきをしたり、田植機が動いたりしている。休日農業なんだろう。 広野駅をすぎたあたりで苗を分けているおばあちゃんにおはようございます、といったら、あるいとるの?偉いな、御利益あるで、といわれた。 御利益は別に期待してませんよ・・といったら、そうはいってもついてまわるて、とおばあさんはひとりでうなずく。 そうなんですかねえ・・・。 私はまわらせてもらっているだけでいいんだけどな。
予定的には、清水寺、2時発、と考えているんだが。あつくなったとたんにペースが落ちる。三田からは確実に20キロあまりの距離。 右足のまめが今日も痛い。だけど、自己管理ができなかった自分を反省すべき。歩きの初心者じゃないんだから、ね。恥ずかしい・・・
三田から今田町。丹波焼きの産地だ。窯元がたくさんあった。
今田町、近くの屋根付きバス停で休むが、なんと目の前が酒屋さん。 アサヒスーパードライの自販機がでんと目前だ。ひゃー、これって、毒だ。誘惑だ。飲みたいよう。今飲んだら、プハーと一気でお昼寝、か。 精神衛生上よくないのでそそくさと出たが、橋の上で熱心に川面をのぞきこむおじさんに「なにを見ているんですか」と声をかけたのが運の尽き。鮎釣りだいすきおじさんで、今日は揖保川が鮎解禁、行こうかとおもているんだが・・から始まって、友釣り、虫つり、その他いろいろとレクチャーが始まった。 あんたはあるいとるのだから引き留めてはイケンのだが、といいつつ20分近い時間が過ぎていった・・・。おもしろかったけど、ね。
観音霊場は、これでもか、これでもかという感じで山の上にある。清水寺、しかり。下から、2キロたっぷり40分の山道歩きだった。涼しくて、新緑が美しい、いい気が漂っている寺だった。 納経後、お寺の方に電話帳で宿を探してもらう。 社町、社にあった。 しかし、松葉旅館さんには満員で断られ、オリンピアホテルと決まった。後は歩くだけだ。遅いお昼を取り、2時25分清水寺発。 ちなみに清水寺さんは京都の清水寺さんとご関係でも、ときいてみたがない、ただ同じ名前なだけということだった。
下りの清水寺西坂は廃道寸前の巡礼道だった。入り口が見つからずに困った。
黙々と歩くこと、4時間、ホテル着6寺40分。いったい何キロ歩いたのかな。 計算する気もしない。 マメはおこり出しているようだが、後半はしびれたようになって麻痺状態だった。 西国道は地図を読む能力に加えて、宿まで歩き抜く歩行力もいるような・・だって宿がないんだもんね。 乗り物は日没タイムオーバー、宿の人に着く時間をいっていて、その時間までに着けないときは心配をかけるので車利用、車お接待は声をかけていただいたときの状況によっては、と決めている。 日没がのびて、恨めしい気がした本夕であった。 マジに疲れた。
花山院は、番外ではあるけれど、西国札所を巡錫され、創始者とされている徳道上人ともに西国札所の縁起に関わるお方で、ここが菩提寺となっている。 藤原氏にだまされて19歳で、出家というアンラッキーな運命を背負った天皇だった。 今日は、中山観音からここへ向かう。
6時半、宝塚より戻って門前をでた。 風さわやか、いい天気になりそう。いずれにしろ暑くなるのだろう。 巡礼街道という、案内札が出た道をぽくぽくといく。 宝塚の少し高台になっている地域を横断する道だ。家がすべて真新しいのは震災のせいだろうか。昨夜はなした旅館の主人が、古い家は全部つぶれました、火事にはならんかったから、目立ちませんでしたが、この辺もようけなくならはりました。
今日の道は中国自動車道と、国道176号線につきあっている旧道をいくルートだ。何しろ騒音、ごう音をあげているビッグロードが目印になるから道間違いの心配はない。 不思議なのは、一歩旧道にはいると、田圃(それも、棚田)や畑があることだ。 漂ってる空気がのんびりしているのがいい。
有馬川に出る前に、阪神大震災犠牲者納骨所「飛雲殿」というのがあった。
有馬川沿いの国道はきれいにしたばかりらしくて歩道が広い。このごろ、歩道、バリアフリーというと予算が付くらしいけど、そういう感じの道路だ。
1時前に、三田駅前に着く。 観光案内所で、ホテルをきいて予約を取る。受付にいた人が暇だったらしくて、杖を見つけていろいろときいてくる。 昨日もそうだったけど、観音様の宣伝局って感じだ。
座ったら、なんか動く気がしなくて、おしゃべりしてついつい3,40分がすぎた。行かねば・・・・ 後6,7キロ。ゴールは花山院。 受付の女性、おもしろそうなパンフレットをたくさんくれたが、もてない、というと、送るといってくれた、ご親切様。 歩き始めたが、かかとにできたマメが痛い。歩幅が極端に小さくなっているのがよくわかる。靴の選択ミス、だね、とつくずく。
それでも、3時半過ぎ到着、最後に観音霊場おきまりの一気に高度を100メートルほどもあげる、に参ったよ。毎度・・で覚悟はできてきましたが。 門前に、お参りをしてから納経所に来てください、華美、露出の服、飲酒の人は門前より入るべからずと書いてあった。ただ、集印しても、幸せにはなれない、とも。 骨のある寺じゃ。気に入った。 これを全部の観音霊場にはってほしい。
お参りを済ませて納経所にいくと、もちろん私一人だ。 張り紙に大いに共感することを受付の男性と話した。 「とくに、観光バスで団体で来る人がひどいな、ガイドが一言いったらいいんじゃ」 そう思います。 観光案内所の女性が、ガイドブックなんかには気むずかしいご住職と書かれたらしいけど、そんなことありません、立派な方ですといっていたが私もそう思う。
ご住職の気性のように、さわやかな気配が漂う寺だった。 標高400メートル。展望も見事。
下山後、4時26分のバスで、三田駅前に帰った。(同じ道は歩きたくない・・・) プラザホテル三田、なんと、禁煙ルームがあった。初めてのことだ。 たばこのにおいがしない部屋って久しぶり。我が家みたい。
駅前のワンコイン(500円玉)食堂で中華丼。これはいまいちだったが、ソフトクリームがものすごくうまかった。 明日もいい天気みたいだけど、どうなっているのよ、空さん。 でも降るよりいい。
平穏是貴人 の一日。
2002年05月23日(木) |
★西国巡礼 勝尾寺・中山寺を打つ★ |
朝、5時49分の電車で総持寺門前へ。 6時少しまわった時間だが、境内はすでにお参りに見えた方々の姿がある。もう一度しっかりと参りをしていると、歩いているんか?とおじいさんに声をかけられた。 はい、というと、おじいさんは私の金剛杖やら、地図をいろいろと確認し始める。 出たいんだけどな・・・。 しばらく話し相手になって20分過ぎに出た。 今日は雨がくるし忙しいのだが、あえて寄り道、継体天皇陵。 あの、謎の天皇といわれている<存在さえも疑う歴史学者もいる>の墳墓がこんなところにあったとは・・・だ。 場所的にいったらやっぱり渡来だよね。
ぱりぱりと歩いていたら、後ろから声をかける人あり。 「どこから歩いてきはったん?」 「総持寺から・・」 「どこへいかはるん? 夕べはどこ、とまらはったん・・・」 黄色いパーカを着たウオーキング中のおばさん興味しんしんできいてくる。 次は勝尾寺で、野宿はしていないとかいろいろと答えた。おばさん、そう、そうなん、というばかり。 勝尾寺までだいぶあるでしょ、ワタシなんて歩けへんわ。 11キロほどですし、毎日ウオーキングしていたら、歩けますよ。 継体天皇陵への曲がり角が来たのでさよならをする。 やれやれ、しかし、天皇陵はまだ開いていなかった。反対側を見ると、総持寺が古墳延長線上にあった。 そういうこと、なのね。なにが?
西国街道のルートに戻ろうとしたら、さっきのパーカのおばさん。 道、大丈夫かと思って・・・・教えに来てくれたらしい。 ありがとう!!です。
西国街道、というのは西や九州の大名たちが参勤交代に使ったまあいってみれば国道だ。そのルートが巡礼の道にもなっているというわけ。ようく考えると、それは不便だし、少し違うどろうと思うのだが・・いかがなモノか。だって、しょっちゅう「したに」をやられたら歩きのハカが行かないではないの、裏道やもっと目立たない道を進んだのではないか。
「西国街道」の印は出ているが、車の抜け道になっているし、休みたくてもベンチの一つおいているわけでもなくトイレはもちろんなし、困るよね。こういうのって。お役所仕事。 歩き始めて2時間を過ぎてやっと工事現場の事務所の前にベンチを見つけた。やれどっこいしょ、と休ませてもらっていたら奥からおじさん。 「すみません、歩いているんですが、ここまでベンチの一つもなくて・・ここで休ませてください」といったら「いいよ、役所にいわんならんな」 どこからきたんや? 横浜・・・ などというところから会話が始まり、おじさんは、ほなジュースごちそうするわ、なにがええ?コーヒーか。 冷たいコーヒーをごちそうになりながら、さらには話は続く。「ねえちゃん、ええ子やな、ミスか、ミセスか?」ときたもんだ。 ついつい正直に答えたら、ほな、おっちゃんにも希望があるわけや、お参り終わったら、ご飯食べに行かんか。 はあ??? 将来のこと語り合おうや。 はあああ・・・・・この人、変、か。 「私のお参りは岐阜まで続くんですよ、それは無理です」 ほな、そこから新幹線でやな、戻っておいでいな。汽車賃、あげよか。 おじさん、ぽっけから、鰐か蛇かしらんが高そうな財布をほんとにとりだした。 ま、っまっちくれぃ。 私も仕事がありますから、そう簡単には行きませんよ。すみません。 「だったらやな、こっちに来るときに連絡してや、電話番号は・・・」 仕方ない。メモをした。 しないとおさまらん感じだったし。 もうびっくりだ。 寂しいお人なんだろうなあ。
やっと見つけた公園で、トイレ問題を解決したが、ふるはずが晴れ上がってきたではないか。 勝尾寺は観音霊場の定番で山上。鳥居をくぐってどんどん登る道だ。 途中に帝釈寺があった。わたしにいろいろと助言をくださった、S・Yさんのお薦めの宿坊なのだが、まだ朝だもんねえ。
山道は新緑の気が満ちて気持ちよかった。地元の人にもここは魅力の場なんだろう。何人かであった。
10時40分、お寺着。 花の寺だ。しかし、やや、ケバい。入山料500円。 シャクナゲが華麗な色を見せていた。 関西テレビが取材に来ていた。 納経所の女性、新米とかでお軸の判を押し間違えてくれた・・・しかし、何度もわびられて・・・仕方ないよね。とほ。
食事20分。11時45分、いよいよ、箕面の滝を目指して下山だ。 この道は、猿が人をからかったりものをとったりするので有名らしい。が、車を止めて餌をやって猿を呼び寄せている人がいる、こういうことするから人を襲うんだよね。
箕面の滝見事。もみじの若葉見事。この色は柳の若緑と並んで私の好きな色。
1時半前下山。どうやら中山寺まで行けそうだ。とばしてみるか。たぶん、山がはいっているし、とちゅうの池田くらいまでか、と思っていたんだが。
あつくなってきたがとばす。
4時15分、中山寺着。 なんと、ここはエスカレターがあったぞ、観音堂まで。 (後で宿の人にきいたらあそこは地震で壊れてからそうなったとのこと) 納経所で教えてもらった旅館清滝に素泊まりで予約した。 さすがに宝塚までもう3,4キロを歩く気がせずに電車。明日、またもどり。 歩行距離約35キロ。
宿で、ご主人に「おじいさんがおいなりさんを2体、天理教、金光教、伊勢神宮とお祭りしていたのはいいが、今年は家をつぶすので困っている、こういうのはどうしたらいいか、」ときかれた。 お返しできると思う、お金はかかるだろうけど、粗末にしない方がいい、時々お参りに来ますし、といってお返しするようにそれぞれに問い合わせたらどうか、と助言した。 そんな話を聞いていたら、トマトを買いに行くはずがいきそびれた。そういったら、宿の主人、そんならひとっ走り行って来ますよ、と買ってきてくれた。トマト、コンビニ弁当、ゴボウサラダ、お茶が今日の夕飯。 今日は暑かったので水を大量に飲んで食欲より「飲み欲」の日だった。
2002年05月22日(水) |
★西国22番 総持寺まで★ |
朝6寺55分のバスで、穴太寺前まで戻る。 バス待ちの時間、バスドライバーと大本教の本部の話をした。 「すぐそこやで、今もいろいろあるけど、本部は今は綾部や」 出口王三郎率いる大本教が昭和10年(?確か)に戦争反対などなどで大弾圧されて、神殿をはじめとしてすべての施設が破壊されたのがここ亀岡だ。高橋和己の「邪宗門」のモデルだ。 ひとっ走り、駅の前から数分のお堀のそば、までいった。 しかし、亀岡城祉としかかいてない。近くで散歩中だったおじさんにきいた。 「ここ、大本教本部のあったとこですよね」 「そうですよ」「お城の中にあったんですか」「そうやね、今は綾部や」 宗教は強いよ。 オウムも滅びないよ。 オウムと大本教を一緒にしてはしかられるというモノだが。 熊野の近露にあった「近露王子」の碑は弾圧後に残った出口唯一の書。
穴太寺前では、私ともう一人60代後半ふうのおじさんが降りた。 話しながら、歩く。 栃木からで今朝、亀岡の駅前に着く夜行バスだったという。 バスや電車を使いながらの西国参りだ。 栃木弁が、私のなじみの三斗小屋温泉のダンナを思い出させて懐かしい。もう2年いってない。今年は何とか行きたいモノだ。 お寺納経所はどうやら8時からのようで、門は開いていたが納経所はクローズ。昨日おくってくださった方に挨拶と思ったが、かなわなかった。
おじさんにさようならをいって、目の前にそびえる山<桜峠越え>を目指す。 今日は迷わないぞと、きちんと地図で確認をしてから歩き出した。 今日はこの桜峠と、清阪峠を越える。
写能神社をすぎると道は里を離れて一気にだらだらのぼりに入る。 人気なし。坂や谷筋にそれぞれ名前が付いていて、おもしろい。 でもまあ、歩き用ではなくて、山に入る人用だろう。 こういう、林道で、車も人も・・という道はあまり気持ちがよくないが、仕方ない。これが、巡礼道、だといわれれば、ね。 ほぼ1時間で越した。亀岡市東別院町に着く。 広い道だが、悪名高いダンプ街道、実によくダンプがとおる。 トイレ問題が気になっているが、ない。仕方ないので、見つけた学校で、貸していただいた。 外で仕事をしていらした用務員さんにきくと、1学級17人が最高、小さい学校だ。懐かしい学校の空気だ。門を出ようとしたら、唐突に「石田梅岩」の胸像。 エーどうして? 「どうして、石田梅岩がいるんですか」 「ここが、生まれ故郷なんよ」 そうなんだ。私はまた、大阪の人だとばっかりおもっていた。
学校の空気に当てられたのか、なぜか、サオリのことを思い出した。 歩きながら、思いに耽るのは危ないのだが・・・ やめる1年前に担任した彼女、母が出奔、父もフィリピン女性と同棲、という火宅家庭、いつも「ぬくもり」が欲しい3年生だった。 もし、仕事を辞めないのだったら、希望して育てていたかもしれない・・・・。 あの子、どうしているだろうか。よく思い出す子の一人だ。もう、高校生のはずだ。4年になって施設に行ったとはきいたが・・・ やがて道は旧道へ。清阪峠越えだ。あまり車の通らない道なのに、蛇がひき殺されていた。 昼寝でもしていたのか?おかわそうに。嫌いだけど、不憫・・・
同じ道の続きなのに、大阪に入ったとたんに、道幅が狭くなり鬱蒼という感じの森に道は突入だ。これって、京都と大阪の行政の経済格差?でしょうか。 狭い道に入るルート、はずさないように行くが、乗ったコースが「キリシタン自然遊歩道」なる野道コースだ。 キリシタンと、自然遊歩道、の組合わせって少しヘンよ。 などと思いながら歩くが、静かな道だ。途中の竹林の中があまりに薄暗くて怖かったが、基本的に感じのいい道だ。
しかし、またしても、山手台という新興住宅地にはいって、降りて、あれちがうぞ・・・・ロストマイウエイ・・・困った。 何しろ、出たのがダンプ街道だもん。人気はないし、怖いしで。 うろうろしていたら、何かを配達している感じの車が止まっていてお兄さんが戻ってきた。 「私は今どこにいるんでしょうか」 お兄さん、え?という顔をして、どこにいかはるんですか? 総持寺です、といいながら地図を見せると、彼、じっと見てから、「僕もこのへんはよくわからヘンのですわ、だけど、次の配達先がここ、東太田3丁目やし、近くでしょ、一緒に乗っていかはりますか?」 はい、いかはります、いかはります!!! またまた観音様出現。 今日は、茶髪のハンサムな22,3歳のお若い観音様。いあやーうれしやな。 わかれぎわ「がんばってくださいよ!!」ハンサム観音はいってくれた。 ありがとう。 こうして私は今日も無事にお札所に到着したのでした。
総持寺は大師堂があってお参りができたのもうれしかった。 立派な納経所に行くと、暇していた。バス巡礼シーズンが終わったららしい。 納経所のおじさんたちと四国の話をした。一人のおじさんは、自転車でまわっているのだという。 もう一人のおじさんにここ立派ですね。といったら、いや、こういうのんはなんや居心地悪いで、納経所なんてもんわやな、ちっこくて、少し汚いくらいでいいのんじゃ。 うん、その美学、わかる。ここって、まともなりっぱなお寺よ。 珍しいのは、受付に座って納経帳に朱印している人の前に名札があったことだ。銀行みたい。 ホテルを探すので、電話帳を、といったら、持ってきてくれたのは、祐園さんというわかいお坊さんだった。 2駅先の高槻市のビジネスホテルを予約して、しばらく明日のルートについてなはしをしていたら、でぶい日に焼けた大槻教授を漫画にしたようなお人が現れて、うちに泊めたろか? あるいとんだるんだって? もう、高槻のホテル、予約してしまいましたから・・・。 ここは四国じゃないし。ああそうですか。では、とはいかない。とりあえず、わたし、「女」ですから。 話をきくと、その人は、総持寺の発掘調査をしている茨木市の市教委の人。うちは、明日のルート上にあるとか。 もう歩きたくないし、やっぱり今日はご縁がないということで。
あの、キリシタン自然遊歩道って何ですか。 ときいたら、あの辺に江戸期隠れキリシタンがいたのだという。 「ほら、高山右近はルソンに逃げたけど、な」 そういうことなのね。高槻はあのキリシタン大名の高山右近の領地だったんだ。納得だ。そりゃ、隠れキリシタンもいただろうさ。 ついでに、漫画大槻教授は、明日は「継体天皇陵」もみていけという。 ええ、あの怪しげな継体天皇陵って、ここなんですか。 そうだ、よ。 そういえば、確か、伊藤若沖の闘鶏図があるお寺もこの近くじゃなかった? 今度、2泊くらいで、茨木市の歴史探訪においで、案内する、といわれて、住所まで書いてもらった。
ということで、納経所で楽しく「遊んで」いたら、早4時半。 3時半前についたのだから、お参りも入れて1時間あまりいたことになる。 お坊さんと、漫画大槻教授にさよならをして、電車で移動。 ホテル着5時10分。 明日は雨らしい。 でも、歩かねば、だよね。 今日の歩行距離は約30キロ。
2002年05月21日(火) |
★穴太寺(あなおじ)さんまで★ |
快晴。 しかし、昨夜遅く寝たのと、やや風邪気味か、という感じで体は重いし、集中力に欠けて道を思いっきり間違えた。反省。何しろ、、3、4キロはミスったよ。 私の歩行人生の中で最大だ、これって。
★ ☆ ★ 6時25分にYHを出た。昨夜は6人部屋に3人だったのだが、60代後半のおばさん2人組。UFJにきたのだという。いいねえ。早く起こしてしまったおわびに、きのういただいたおみかんを「お接待」して出た。
大阪駅から各停に乗ってすわり,すこしねむったが、頭はぼんやり気味だ。
8時25分、4月に打ち止めていた向日町から始めた。風はさわやかだが体は重い。顔を上げると今日登る善峰寺さんが山の中腹に見えている。次の穴太寺はあのさらに上の峠を越していく。やれやれだわい。 市街地が切れると、水田と竹林がつづく田園風景。このへんは竹の子産地だものな。畑や田圃の人影に朝の挨拶をするも、無視、じろっと、いう目線のみ。実に感じがよくない。和歌山では、とりあえずあんな視線は返ってこなかったよな。 京都人だ、よくない意味で。でも、私がかつて住んでいた京の町屋近辺はそんなことなかったけど。。
のそのそ歩いていたので、10時半過ぎにやっと山門下に到着。 500円の入場料。これって、高い。 山門わきで21番に抜ける道をきいたら、山門わきの茶店の女将さんが詳しいから、ということでおたずねした。 すると、お参りしたら、お寺を突っ切って、三鈷寺へ抜け、そのわきの山道を行けとのこと。 それが古い道らしい。 納経所で、三鈷寺への道を聞いたら、ホンマに歩かはるんですか、20キロはありますよ、一人で?・・といろいろと心配してくださったが。
11寺30分、三鈷寺脇道へ。 約25分の登り。なんと、峠には4軒の民家があった。 またしてものそのそと歩く。 車が時々くるが、涼しい静かな鳥の声だけが響く感じのいい道だ。
今日は楽勝、と思いきや、伏兵はいました。 外畑(とのはた)は京都の水瓶なのだが、ここのバス回転場で、左折をしないで直行して下り、はったと気がついて、カンカン照りの登り道を戻った。やれやれ。
お次は亀岡に入って、右に曲がる、を左に折れる、という信じられない間違い、大回りでルートにたどり着いた、が、印のでている四国では考えられない間違いだ。 地図を見たら、そして、自分の位置をしっかりと確認したら、こんなこともなかったはずだが、カンで自分を信じて痛い目を見た。明日は面倒がらずにきっちりと地図を見よう。
時間が予定より大幅に遅れて、しかし、道がもう一つ不確かで焦っていると、そこに親父観音様。 「穴太寺さんやろ、そこの墓地の間を抜けて、ゴルフ場のわきに出たら、路地のような石段を下りて、左に折れて自動車道のわきに出て、・・・・」と実に丁寧に私が困っているあたりを説明してくださった。 「もうすこしや、がんばり!!!」 のことばも・・本当にありがたかった。 こういうお人を「ステテコ親父観音」と呼ばずしてなんとよぶのだ? 今日は、女の人に道を何度か聞いたが、説明が下手だった。ポイントがいえないのだ。 もう後はかけるようにすーすーんで、5時15分前、お寺到着。 すべて、親父観音様のおかげ。 いつかの、3番への山道であった「ハイカーお父さん」も観音様だったが、私が道に困るとこういう人が突如出てくるところが観音力か。と、マジに思う。
お寺でホテルを教えてもらった。この近くにはないので、亀岡駅前のホテルまでバスに乗ろうと思っていたら、納経所にいた女性が、駅の方にいくんやったら、のせていこか? やったあ!!またまた観音力だああ。 ありがたく乗せていただいた。 車の中で、なぜ歩くのか、とかいろいろと話した。この前に四国の人がリアカーを引いてきたという。 リアカーの中で寝る、ということもありなんだという。 お遍路みたい。
明日の朝、またここより歩く予定。
道間違いについては、深く反省することが多々あったが、おかげで2人の観音様に出会えた。
2002年05月20日(月) |
★紀三井寺まで ついに200キロ踏破!★ |
5時に目が覚めたが、昨日の日記のアップと支度、宅急便送りなどをフロントで頼んでいたら、7時20分発和歌山発 湯浅行きとなった。
いい天気だが寒い。半袖Tシャツは私だけだ。歩き始めるとあつくなるし、と思ったのだが、どうも喉がいがらっぽい。体も冷えている感じがする。 昨日同乗させてただいた阿波公方さま、S氏のどちらも確か風邪ひき上がり。 もしかして菌が喉にきた?阿波公方さまは「後は誰かに移すだけです」とかってのたまっていたし・・・。
8時半、湯浅から歩き始める。今日のテーマは峠越え3回。 まずは古道の道にはいる。 例のごとく、古道提灯や道標がある。 まずは糸我峠だ。 「イトガ」って、昔の教え子にいた、少し字が違うけど、トカゲが好きで、ワタシの机の中に入れてくれたよ、あいつ。何しろ、幼稚園も「お引きとりください」って園側からいわれて退園したお子さまで、あいつの出てくる悪夢を担任の間よく見た。でも、4,5、6年と、3年間も持ったよ。6年の真ん中でアメリカに行って、彼が20歳頃に突然電話があって「先生、今日本を旅行中です、ぼく人類学者か心理学をアメリカでやります、人間が一番おもしろいです」。飲みましょう、といわれたが、用があって行けなかった。少し残念だったなあ、どんな男になったか、見たい気もしたのだが。しかし、どうしてハチュウ類じゃないのさ、と思ったりもしたなあ、などと考えていたら、道はのぼりきって、下り。地道だ。1個目の峠クリア。
中将姫の得正寺をすぎて、、・有田川をわたり、また登り。 これは少しばかりきつかったね。蕪坂、という。このへんの道しるべは手作りが多い、地元の熱意が感じられる。 降りて12時。まあ予定どうりだが、やはり喉の具合が良くない。
さてさてその次が目の前にそびえ立っている山越えだ。藤白越え。高度は蕪坂と違わないが、峠に至るアプローチが長い。 昔はこれを嫌って、加茂川を下ったそう。わかる気がする。 今度は地道が長いが、蛇がいそうで怖いので、お杖で地面をどんどんとたたきながら進む。 山頂の地蔵峰寺、そばに立派な休憩所があった。 藤代王子到着3寺15分。さあて急がないと紀三井寺の納経に間に合わない。 平地だし、どんどんばたばたと進む。 町中に違和感があるが、しかたない。
4寺50分、ついに着いた。 まず駆けつけたところは門前おみやげ物や。和光さん。 店を閉めかけていたが、ご主人がいた。 「おぼえてます?3月に来た・・・5月に歩いてくるといっていた・・・来ましたよ」 ご主人、もちろん!先にお参りに行ってきてくださいよ。待ってますから。
4時55分納経完了。ゆっくりとお参りをして、宿の予約電話をかけて降りた。 なんとお店には、奥さんもいた。 こられた、というんでうちから飛んできたんよ、まっていたんよ。 と、奥さん。 よかった、エスケープしないできちんと歩き通して。約束を守って。走れメロスの気分だ・・ははは。 それからコーヒーやおみかんをごちそうになって、40分ばかりも3人で話した。楽しい時間だった。すっかり友だちになってしまった。 また来てね、というのがうれしい。 ありがとう。 昨日のお遍路も楽しくて、今日のすがすがしい気持ちはそれもあるのだが、この再会もうれしかった。
宿は、大阪長居YH。立派。大阪ってお金がないはずなのに公営、偉い。 ご飯を駅前で食べて、お風呂、洗濯、日記のアップ、等々。もう11時半だ。寝ないと・・・。 ではおやすみ。 明日も歩こう。
2002年05月19日(日) |
★たまちゃんと日曜遍路★ |
3月に続いて2回目の車遍路ご一行さま遍路だ。
深夜3時半、阿波公方さんがTさんご夫妻とともにホテルに迎えにきてくださった。途中で雨などが降り出して困った、という感じになったが無事に予定どうりの走行で淡路島のインターに到着。 地震の話になって、あの阪神大震災は架橋による人災という話にびっくりする。あり得ることだ・・・・。 インターで、阿波公方さんたちはなんと朝から淡路産タマネギラーメン。すごいよ。しかしまずかったらしいが。 阿波公方さんがおにぎりまで用意してくださっていたが、私はコーヒー、さすがに食欲がない。疲れている感じ。
予定通りに11番の駐車場に着いた。たまちゃんご一家とマッキーさんがお待ちかね。そのうちにミッチー先生ご一行さま(あのよっくんせんせいも)、しのじんさんもついてみなさん勢揃い。 よっくんせんせいのおばあちゃんや、しのじんさん、くれーてさん、からいろいろといただいてしまった。ありがとうございます。 たまちゃんは ちゃぱつになって 髪の感じが変わっていて かわいい。阿波公方さんから すてきなプレゼントをもらってご機嫌顔である。そりゃわかる、女の子が一番喜ぶモノだから。おとしごろのたまちゃんである。
雨が当たる中を11番さんからお参り。よっくんせんせいが先達さんだ。 うまい、し、なんでそんなによく知っているの?ってかんじ。 あ、よっくんせんせい、と声をかける人もいる。有名人、人気者だもんな。
たまちゃんの「ぽくぽく」もうまくなった。
童学寺、東禅寺、12番、建治寺、13番、でお昼。途中、熊野を同行したS氏より電話。13番で合流するという。風邪はどうやら峠を越えたらしい。 それにしても、阿波公方さんはお四国のお寺のスペシャリスト。よくご存知だ。本番より、空いている番外に四国のお寺の良さを感じた。
S氏合流。これで、総勢15人。<たまちゃんのお母さんは途中から都合ではずれられたが>たまちゃん教ご一行様かな。
14番、15番、16番、だんだんと天気もあがってきて混んでくる。 マッキーさんは帰られた。長野まで7時間だという。 16番ではなんと1時間近く納経所で待った。気になったのは、少し前に歩きの人はじっと待っていたことだ。歩きの人だけでも、早くしてあげられないモノだろうか。 たまちゃんは、「明応さんのこと」「お姉ちゃんが元気になりますように」とお祈りしていた。優しい子だ、ホント。 たまちゃんがこんにちはというと、お参りの人の顔がほころぶのもいい。たまちゃんは「笑顔の風」だ。 よっくんせんせいのお祈りもすごいがこれもすごい。 S氏は偉い先達さん(権中さん)だが、あの子の方がうまいよ、といっていた。 17番、近くの不動霊場密蔵寺でうちとめ。名残を惜しんでお別れとなった。 私は、S氏の車から、阿波公方さんの車に戻ってフェリー経由で和歌山へ。 明日から歩きの続きをやるのでありがたいご配慮。
和歌山駅前で落としてもらい、すぐその前にあった和歌山ターミナルホテルに投宿。よかった。
それにしてもすばらしい一日だった。 みんな気持ちのいい人たちで、本当に心がすがすがしくなった。 楽しい、忘れられない1日。 ありがとうございました。 また明日から「歩行」に戻ろう。
それにしても、いい一日だった。
夕べは一晩中降っていたが、久しぶりの晴れだ。ありがたや、だ。 宿発6時40分。挨拶をしようとしたが下には誰もいない。仕方ないので、置き手紙だ。書いて出たら、ひょっこりとおばさんにあった。改めて、お弁当をいただいたお礼を述べる。 「気をつけてな」とおばちゃん。
まずは近くの塩屋王子による。 立派な神社だった。美人王子ともいうらしい。お祭りしてあるアマテラスさんの神像が美人なんだそうな。美人の子どもが授かる御利益があるのだとか。
ささやかに熊野古道の印。みちびいてくれる。ショートカットしようとすると間違えたり、わかんなくなるから今日はとことん古道に沿うことにしている。それにしても体が重い。昨日の疲れがある。
次は王子に寄りながら道成寺を目指せ、だ。 わかりやすい道、何しろ日高川に沿えばいい。 着8時50分。予定どおりで何とか動いている。足が痛いのだが、よくやっていると自分ぼめ。境内下で、日曜市のおばさんたちとはなす。
いよいよ、道は山に向かう。 少しずつのぼり、きょうの難関、鹿ケ瀬峠への道程にはいる。 あついし、体が重いしでとことこ状態で歩く。まあ、歩き続けたら着くんだし、の心境だ。 12時前、夕食を摂り、やがて熊野古道最大の石畳道が残る峠だ。 誰もいないが、とぐろを巻いたまむし君に出会う。一瞬息が詰まるがしずかにとうりすぎた。 ああーこわかった。まむしよけをお願いしたM氏のことを思い出してしまった。
難関とはいいながら、私的にはむしろ楽な道。予定タイムより、30分も早く越した。 降りるといよいよ湯浅。本日の終点だ。 4時36分の電車で、大阪へ。 あすは四国でお遍路だ。 楽しみ。
2002年05月17日(金) |
★御坊 南塩屋まで ★ |
YHを6時15分にでようとしたら、雨が来た。今日は雨具なしでいいのか、と思っていたのにやれやれ。取り出して着ていたら6時20分過ぎになった。
昨日夕方、親切なおじさんに送ってもらったので、楽をした。 まあ、紀伊田辺に入ってから、だったし、今日は海岸道路を抜けて、一気に出立王子へ出てそこから国道へむかうことにする。 出立なんて、一日のはじめに縁起が良さそうではないか。 途中、犬を連れた人にきいたら、「でだち、とよむんや」と教えてくれた。 なるほど。大和読みだ。
小さなほこらのあるこじんまりとした神社だ。山中の王子は石碑が立ててあるだけ、が多かったが、平地ではきちんと建物として立っている。 旧国沿いには、鰹節屋さんがいい匂いをさせている。向かいには「植芝助産所」の看板。なんか町の雰囲気も「旧」的でいい。 雨があがったので雨具を脱ぐ。が、その40分後大神社(芳養王子 はやおうじ)激しい通り雨できた。
8時10分、南部町にはいる。梅干しで有名なところだ。と、思っていたら、正直なモノで、ホントに看板は梅干し系が多くなり、あちこちから酸っぱいような梅干しのにおいがする。国道で排気ガスに負けないで匂うのだから、梅干しも大したものだ。 南部町の海岸通り、椰子の木が植えてある、紀伊田辺もそうだったが、黒潮の影響だろう。よく育っている。また、四国でもはっきりと感じたのだが、ほんのそこまで黒潮は来ているのが海の色でわかる。 今年の早くからの暑さ、やもう梅雨入りとしか思えないお天気はこの黒潮の蛇行と関係あると思う。
今日は御坊まで、40キロ、とあちこちでいわれているし、できるだけ距離が稼げる国道42号と思っているが歩道がないしうるさい。時々旧国にはいるとほっとする。王子もできるだけ寄りたいが通りばたにないときはぱす、と決めている。 まあ、王子巡りが本来の目的ではないし。ということで、三鍋王子をパス。
南部橋をわたって国道のカーブの急さ、と車の勢いに恐怖を感じて不本意ながら、地図にある熊野古道の道へはいる。といっても、印があるわけではない。国道・旧国をはずすとを「地図読み」が始まるということだ。 これができないとどうにも動けなくなる。 大目津から海岸へ、千里が浜という古来から風光明媚をいわれていた浜歩きへ。ホント、今日みたいな雨の日、いくら歴史と由緒があってもしたくない砂浜歩きだ。足が砂にずぼと、疲れが出るね、やれやれ。 千里王子近くの砂浜で中学の生徒たちが先生と遊びに来ていた。ビーチバレーをしたり、貝拾いをしたり、かに取りをしている子たちもいる。 「今学校にこんなゆとりがまだあるんですか」 「今日は、3年が修学旅行で、1,2年生だけで遊んでいるんです」 生徒100人規模の学校とか。生徒の顔がみんな覚えられますね、といったら、まだ青年教師風の人、ええ、と破顔一笑。ふーん、去年私が講師にいっていた川崎の先生よりいい顔だ。あれていない、生徒も先生も。
さてここからがたいへんだった。道迷いで、30分はロスタイム。 私としたことが、ポッと、いく方向を誤ったのだ。 魔がさしたとしか思えない。 昨日、山中で、道に出ていたビワの木からちっこい実を一つ、あんまりのどが渇いていたので失敬したがその罰だろうか。ここんとこ、いけないことをしたのはそのくらいしか思いあたらないし・・不偸盗、いけませんでした。反省。
岩代駅12時少し前着。 近くに岩代王子があるが、それより休んで何か食べたい。お疲れ・・・・だああ。 ここを11時半には通過、と思っていたのだが遅れだね。 小さな駅に、養護学校の先生が二人の子どもをつれてお食事中だった。 先生も子どもたちもいい感じだった。親ごさんかと思ったもん。 近くのお店で買ったパンで昼食、トイレ休。30分。 それにしても、松尾寺さんの地図ではここにくるのは、なんと紀伊本線のわきをひたすら歩くようになっている、これは熊野道ではないのだが、こんな道があるのか疑問。駅へくるまえに調べたがついに謎だった。 もしかして線路沿いを歩く・そんな・・・それって開発途上国の映画シーンみたいじゃんよ。 岩代王子は海べりの潮風の中にひっそりと立っていた。潮垢離をしたようだ。 ご飯を食べると体が重くなり疲れが出る。歩行が明らかに遅くなっている。 晴れてきたのでまあいいが。
印南町へ1時にはいる。 ここから、熊野道だ。昨日S氏が電話でいい道だしいくといい、教えてくれた。 確かに林道の、人気のない道、道に張り出した木々が「夏闇」をつくりだしている。 榎木峠を越えて中山王子へ。海と町が一望できる景色が広がった。 ここもきちんと社があって、立派な神社だ。トイレもきれいだった、地元の人が大事にしているのがわかる。 切目王子にいく前に途中の郵便局でお金をおろしたり、仕事の電話をしたり。 宿はまだ決めてない。決めかねている。 本当は、御坊の南塩屋か、北塩屋までいきたいが行けるか、なのだ。ホントは印南から御坊には行ったばかりの楠井の方が楽勝なのだが、時間が早い。
切目王子で、よし、と北塩屋の民宿に電話。 切目王子は立派な神社。3時10分発。 不本意ながらまた旧国へ。とにかく車が容赦ないスピードで走っているし歩道はなくカーブが急とくると、もう行けない。 印南湾をぐるっと迂回して津井王子へ、そこから国道へ出ようとしたら、道がしたにある。うろうろしていたら、畑仕事をしていたおばさんが畑の中の道を行くようにいってくれた。 国道近くまで降りて声がするので振り返ると、おばさんが「御坊、あっちや」。上から様子を見ていてくれたのだ。ありがとう。 御坊4時20分にはいる。 やった。しかしだね、足が痛いよ、マジに。 どうも今までできたことのない場所にマメができている。 新しい靴が合わないようだ。 困ったね。熊野道を歩くに当たって裏のしっかりしたゴアッテクスを選んだのだが。 もう、王子に寄り道する体力はないようだ。ということでひたすら国道歩き。 熊野道は海岸より町中の道だが距離がありそうだしパス。上野王子があるのだが。 ここまで、歩く距離を少なくしたいと思ったのは久しぶりだ。 歩みが朝の半分近くになっているのがわかる。 やっぱり私には40キロはきついよ。30キロ台が理想だな。
名田町○○というのが長い。 バスが通る。乗りたい、の気持ちが走る。乗ってしまえば一気だ。しかし、私がタイムオーバーの時間に決めている6時にはまだ1時間ある。でれでれ、歩く。 逆にこうなってからがむしろ「歩行」(ほぎょう)かも。
清姫の草鞋塚なるものが見たくて熊野道沿いにはいるが見つからず。 この町は宮子姫生誕地(藤原の誰かの奥方で、光明皇后?の母ではなかったか?) さっきの印南は鰹節発祥の地とかあったが・・・えらく違うね。
めざす尾の崎橋が見えてきた。じきだ。 6時すぎ、国道の危ないところで携帯が鳴り出した。 見れば昨日まで古道歩きのお仲間だったTさんだ。 少し話してお互いの労をねぎらって切った。ありがとう。 民宿とあ(永遠とかくみたい)さん、6時10分着。
おばさんが明日のお弁当、おにぎりと甘夏、缶コーヒーをくれた。 おじさんも親切。あたりの宿だった。 素泊まり3500円。
近所の店で食事をしたらもう目があかない。 9時前に爆睡。 今、日付けが変わって深夜2時半過ぎに起き出してアップ。 もう少し寝よう。
2002年05月16日(木) |
★滝尻まで 熊野古道完了!★★ |
今日も小雨、風強し。 旅館のご飯は昨日もおいしかったが、今日もうまかった。 部屋などはまるで、明治の趣<夕べはすきま風に困った>だが、ご飯がいいからいいかな、とみんなで言い合った。
M氏はぎっくり腰をやった腰が痛いということでリタイヤ。 3人で滝尻まで向かうことになる。M氏に寄れば、迷うところはないから大丈夫、ということだったが・・・。 7時10分発。 毎度のことだが、またしても一気に距離を上げる道。途中に牛馬童子なるかわいい石像のところによる。 今日はとりあえず、600メートル台まで登って降りる。 今日も雨で蛇がいなそうなので私が先頭だ。S氏は風邪気味とかで調子がよくないと愚痴る、ついでに嫌みも。「あれ、もう蛇、怖くないの?」だってさ。 「飲み過ぎじゃないの?」と私はいいかえす。 きのうは宿のおじさんから本宮大社の御神酒をもらってご機嫌で飲んでいたしな。飲み過ぎシールだよ。 Tさんは、今日は足の様子が昨日より良さそうだ。私もほっとした。
私は滝尻まで出たら、田辺まで歩く予定なので思わず早くなる。何しろ、急坂とはいえ、地道なので足は快調だし。 休憩のたびに「はやすぎるよ」「げんきだね、まるで天狗だ」「田辺いきがあるからね」とかっていわれるが、気持ちいいんだもん。足が喜んで早くなるんだよ、仕方ない。
緩やかな登ったりくだったりで、11時前に高原神社着。コースタイムより30分ほど早い。宿のおじさんにここでお昼がいいよといわれていたのでそうする。 休憩所は、浩宮がこられた<711年ぶりの熊野行幸だそうな>ので作られた施設。「新王子、だね」だ。
またまた急坂を転げるように降りた。 1時15分滝尻王子着。 2時頃だろう、といわれていたのだがはやかった。 私は30分休みで、田辺へ下る。 3時ころ、S氏とTさんが乗ったバスが通り過ぎるのを国道から手を振って送る。
田辺まで20キロあまり。かけるように歩いたが、三栖王子で6時。タイムオーバーとなった。宿のYHに6時から7時には入るといっていたので・・・・。 バス停を探してきいたら、何とそのおじさんがYHまで送ってくださった。 5月の大峰山の山開きにはいつも登るのだという。 私が古道を歩いた、今日は近露からだといったら、ようがんばったなあとほめてくださった。
YH着7時。座り込んだら立つ気がしなくて、しばらく今日のもう一人の泊まり客の女の子と話した。彼女は伊勢路を歩いてきたのだが、古道は2日で挫折した・・・また今度、といっていた。
やっぱり国道で疲れた。
6時50分がタクシーがくる。 今にも降り出しそうな空、出たとたんに落ちてくる。 本宮までいく間に、ずいぶん降り出してきた。 仕方ない。今日はそういう日だから、ね。 歩きながら、S氏に今日のコースの大変さを講義された。私は昨日2日分の日記をアップしていたのでなんにも予習していない。 今日は、何でも、3、4回アップダウンがあるらしい。そのコースは今までのようなのらくら歩きではなくて、まじめに歩いて、9時間のコースだとか。
本宮発7時。祓戸王子、伏拝王子8時5分。楽な静かな道だ。 今日は雨なので、蛇が出ないので先頭をとる。 伏拝はNHKの、ほんまもんの舞台だ。 あちこちにロケ地の看板がある。
9時10分、発心門王子あたりでたくさんの古道歩きグループとあう。 ここで、M氏、この先はどんどん下ってまたあがるので、自分はエスケープするから、スタンプを押してきて、と頼まれる。 確かにどんどん約100メートルあまりも下った。 その後、また登り。 音無川に沿って、つきあうだけつきあい、その後550メートルまで一気。ほぼ、300メートルを登る。つらい。とにかく、1時間近くただ登る。それも胸つき八丁ってやつを。 そして、10時10分前、M氏の待つ休憩小屋着。ここが本日のピークの一つ三越峠。 ここからまた下る。 M氏いわく「むなしいなあ、越えたらまた下がる・・・人生のような修行のような」。なるほど。66歳のおじさんがいうとそれだけ味がある。
そう、また一気に150メートル下がった。湯川王子。ここは湯川氏の発祥の地とか。ホント? また登り、岩立峠。きつい。 このへんはダル、という物の怪がいて旅人にとりつくのだそうな。 655メートル、本日のピークだ。 今度は男坂を下る、女坂は登り。わらじ峠まで。雨がきつくなる。坂を登ると一人になる。それがなんか孤独。(後できくと、あんなとこにいった・・とかって3人から下から見られていたようだが) ガスってきて、時間がストップしてタイムスリップするような・・・。 とにかくここまで登って下っての連続技。最後はやけっぱちでむしろ楽しく登った?みたい。 小広王子手前の休憩所で、1時40分、やっとお昼になった。 みんな1時50分には着く。 ご飯。 うれしい。 S氏「うれしそうな顔をして食べるね」 はい、もちろん。 Tさんも昨日は足が痛かったのに今日は歩けた。すごい。がんばった。
近露まで4人で舗装道路をてくてく歩く。 宿(月の家)着、4時20分、早かった。
お風呂が気持ちよかった。 夜の宴会?(私は飲まないけど)楽しかった。
今日のみんなの不思議。 「どうしてこんなしんどい道をお参りに来たのか?どんな御利益があったのか」
2002年05月14日(火) |
★熊野古道 本宮から湯峯まで★ |
今日もいい天気。 小口自然の家、7時25分発。 玄関先で友人のTさんから電話、びっくりした。 今朝はワン切りの携帯の音で4時半すぎに目が覚めたんだけど・・結構すっきりだ。 できたばかりの赤木橋をわたりすぐに登り、それも急坂。またかよ・・状態。 それでも今日のコースが楽だ、といわれているのだが・・。確かに今日のピークは桜峠の460メートルだ。ということでゆっくり歩いてゆっくり休み、地元の人にあった、9時10分、桜茶屋跡で休。景色がいい。この近辺に数軒の茶屋があったというが、今は昔、だ。 今日はTさんの足の調子がよくない。下りが痛むという。 M氏は登りがだめ。で、二人は二人で一人前だ、請川までついてらバスにするという。それもいい、無理せず、だ。 石堂茶屋10時20分、一番若いS氏も右膝がよくないとかで、下の水場までほんの少し下りと登りなのにだれも降りず。私だけが見てくる。「元気だなあ」の声がかかるが・・みんなそんなにゆとりないの?・・・だ。大丈夫か?
石堂茶屋の先、道路と交わるところでトイレを期待していたのだがない。セミ天ちゃんがここまで来ているんだけど、この先までいってくれていたら、ここはトイレ休憩で、「浩の宮王子」とかって新王子ができていたのになあ・・とS氏とばかな冗談を言いながらいく。
結局、M氏とTさんは、待たないでいい、先にいっていいという声がかかり、S氏と請川までいく。今度は標準コースタイムより約10分早くつく。下りだったが、昨日の道とは大違いだ。地道の楽ちん道。好きな道・・しかし蛇がいて、またまた叫んでしまったが、蛇は私の声のバイブレーションで、びっくりして逃げるみたい。 S氏、何でそんなに怖いの、ときく。本能的に、よ、前世、ネズミか蛙で飲み込まれたんだよ、と私。猫は怖いかと、彼。怖くない、すき、といったら、じゃ蛙だなと大まじめにいわれてしまった。そうか、蛙だったのか、私・・・。
請川には、自販機も水洗トイレもあって、「なんか文明の地に帰ってきたね」と二人してしみじみ。S氏「これ、文明の味がする」と冷たいカルピスウオーターを飲んで喜んでいる。そうか、昼は酒、飲まないのね。 私が3個のおにぎりのお弁当を食べるわきで彼は水とカルピスとたばこのお昼? 荷物へらしに甘夏を進呈。
待てど、2人はこない。 私たちがすぎ越してきた何とか茶屋あとで彼らはご飯をとっているんじゃないかとS氏。 それじゃこない、と集合場所の大斎原(おおゆのはら)へ。ここは本宮の旧社地、すごく気の強いところだ。私の好きなところ。 2時半まで待つがやっぱりこない。 S氏と二人して、すごい話(ヤク・・麻薬ってヤツ)をして待つが、来ないので仕方なく、本宮まで行くことにした、もしかして向こうで待っているかも、ということで。 途中で役場により、王子スタンプ帳を4冊もらう。 さて、本宮の前。私は郵便局により、お金をおろし、はがきを買い、ドコモショップがあるかときき(ない、といわれてがっくり)で、行ったらいた、いた2人、本宮のいりくち。 なんと2時過ぎのバスで来てもうお参りをすましたという。 喫茶店で待っているから、という。 ということでS氏とお参りに。 熊野本宮大社、社殿に「癒やしの何とか・・・日本」みたいスローガンをつけていて何だか下品、「右翼みたい、やだ」といったらS氏もうなずく。 「前はなかった」。 そうです。そうでしたよ、わたしが来たのはかなり大昔だけど。 お参りを済ませてから、S氏にテレカを借りて104番へ電話。ドコモのサポートセンターに電話。するするとつながってなんとシグマリオン、無事に復旧。やれやれ。 本当は湯峯まで大日越えで山越えするはずだったが、足が痛いS氏、なんかいやそうで、M氏ももちろんパス。Tさんもとんでもない状態で、蛇よけになってくれる人がいなくて私も断念。
結局、車で湯峯。宿着17時。 温泉、ご飯、私はまた温泉で、すっかり元気。2日分の日記アップで今22時50分。明日は雨予報。早出、といっても6時50分。車で湯峯まで帰り、ここから中辺路本道に戻って歩く。9時間の行程とか。 ではお休み、です。 今日も元気でした、シグマリオンも直ったし、感謝。
2002年05月13日(月) |
★熊野古道 大雲取越え 小口まで★ |
上天気。5時からの勤行に参加。 朝日が古さびた青岸渡寺本堂に当たってこうごうしい。いい日になりそうだ。 7時半、尊勝院発。本堂わきからあがる。お寺の副住職の方が丁寧に教えてくださったので、安心だ。どう歩いても小口までは7時間あれば行くという話、だけれど。 はじめから一気の急坂だ。杉林の中を進む。先頭に出たとたん蛇。私がけたたましく「きゃー」と叫んだら、S氏「ああびっくりした、どうしたの。その声、きいたら蛇もにげる」だってさ。今日は絶対先に出ない、と決めた。
8時30分、全国植樹祭で、セミ天(皇太子)が来たのでできた広い公園。全く自然破壊だ。でもまあ、おかげで、道はいいし、トイレはできたし、みたいだ。 休んでしゃべっているとあっという間に時間が過ぎる。
また急坂だ。登り立茶屋(9時)、舟見茶屋跡までは登って下ってまた登り・・・が何回出てきたか・・・ふーふー状態で、9時50分。海が見えた。 ここは、本宮の方からくると初めて海が見えるところだ。ゆっくり15分休む、気持ちがいい。舟見峠標高867メートル。越す。しばらく楽な道。M氏は「下りと平らが俺は強い」という人なのでとたんに早くなる。
ここから次のピーク越前峠まではまさに大雲取のメインコース。 色川の辻で、いったん国道と交わるがすぐに山道へ。副住さんに水は沢の水がいくらでも飲める、雨が多かったし水場は心配ないといわれたが確かに沢の流れは清らかそう。しかし、どうやって飲むのか。岸に降りるのが大変だ。 アップダウンがまたいくつか。やがて、11時30分地蔵茶屋。ご飯タイム。 立派なあずまや、お地蔵堂、工事現場の小屋、トイレとまあなかなかのところ。M氏に寄ればここに前は自販機があったとというので楽しみにしていたのだがない。 昼は食べないというS氏は水飲みの休憩。後の3人はお弁当を食べる。S氏はお酒を、ご飯にしているという感じの驚くべき人だ。 たっぷり1時間の休憩。まあ、こんなことをしていたら7時間じゃつかないと思うが、そんなに大急ぎしなくてもいいよ。 わたしたちがご飯を食べているところに小口から来た女性3人組(東京からの人) が来た。 胴切坂が大変だったという。 そこは、私たちにとっても大変だ。なにしろ、800メートル下るんだから。 川の水が飲めるというんで、それを水筒に入れて12時20分出発。 石倉峠を通過して、越前峠へ。13時15分着。M氏は登りが苦手で大おくれ。なにしろ、石ごろごろの急坂。見上げると、とため息が出る道だ。 越前峠13時15分。出発1時40分。ここは、870メートル、本日のピークだ。 やれやれといいたいが、これからは下るだけの800メートル。これも難物だ。 とにかくまっすぐに下っている。真っ逆様という感じの石ごろごろ道。 30分ぐらい、ただ黙って下ったがかったるい。休もうよ、道の石に腰掛けて、4人ため息。どうなってんだ、この道。登るのもこれはきついぞお。という話を15分あまりもして、また進む。途中、ガソリンを持ってあがってくるおじさんであう。3時頃だ。 車がガス欠になったのでこれから林道にある車に引き返すという。 エーこの道、800メートル、登りですよ。 これからだと、車まで行き着くのに3時間はかかりますよ。 歩かれたことあるんですか、ないという返事。 私たちはしきりに心配するがおじさんは大丈夫です、の一点張り。いってしまった。我ら4人、見送りながら、あきれてため息。 宿小口青少年自然の家着、16時30分。7時間どころか、9時間かかった我らはかなり弱足? のんびり休みすぎたんだよね。 800メートルの下り、胴切坂の真ん中なんかでため息ついていたらおそくなるんやわいな。
宿には、新潟からの26人団体、なんと80歳のおばあさんも歩いているんだという。元気さに負けた。
シグマリオンがこわれて、真っ白。こまったが復帰できず。 ショックで死んだ(寝た)・・・・・夜8時15分。
。
起きたら7時8分、8時前には出なくては、とうちの中を飛び回り汗をかいて出発。8時53分、新幹線、名古屋から南紀5号で10時50分、で、14時19分に那智勝浦着。
名古屋で、なんと同行のM氏とばったり。同じ1号車だった。 そんなことで二人で勝浦から那智に行って「ふだらくさんじ」へ。しかしすわったら、観音さんを見せてくださった。ご開帳、、、だ。ちょうどいた人が堂守さ んの知り合いで、お見せしましょうということで。ラッキーだった。 無事に歩けますように、とお願いした。 平安時代の作とかで、丸いかわいい感じの観音さんだった。
バスに乗ったら、今度は松山から来たTさんと合流。大門坂で歩き始めたら今度は大阪からのS氏と合流。みんなであってしまった。 大門坂を一緒に歩く。苔むした杉の大木の間を歩く。 なかなかだ、汗がでる。 滝が見えてくる。 祈り石がある。 4時すぎに、お寺着。 先達のS氏を先導にお参りして、朱印をいただく。 ご苦労さんでした、といってくれるが、4時半にはぴたりと納経所がしまったのにはびっくりだ。
M氏はどうも調子がよくないらしい。 石段の下にいた。明日、大丈夫か、心配だ。 宿坊に4時45分にはいる。 すぐに荷物をおいて那智の滝まで降りる。 眺めがいい滝だ。 ここから捨身行をした人が、明治末期にいたそうだが完全にバラバラになっただろうなあ。
夜。静かなお寺だ。 明日は大雲取越だ。晴れるといいなあ。
2002年05月11日(土) |
高野山大学 公開講座 |
なんか肌寒い。 山川町の今関さんからのメールには、6月が冷涼だったら、ヤマモモ、ちょうどいいかもだったが、そんな予感の天気かな。 まあ、アタシはいいけど、室蘭のyクンなんて、野菜作り、困るねえ・・冷夏だと。
午後から、高野山大学公開講座。新宿の工学院大学だ。 阿字観。密教瞑想法の講義2回目。 先生のお話しがききとりにくく、かつものすごく早口で、困った。興味(理論というか思想的なことに)はあったのだが、どうも残念・・・だった。 そんな気配は、会場全体に漂っていたね。 もともと、阿字観そのものは、講義室などでやるモノではなく(教えては下さったが)期待はしていなかったのだが。 やはり高野山など、しかるべきお寺ですべきだろう。
ホントは本夕にでて、大阪まわりで宇久井まで到達して明日は午前にクジラ見物をしてから青岸渡寺、と考えていたのだが、電車は那智勝浦までが終電(夜11時頃着)で、なおかつ、朝は早朝の6時船出。 そりゃ無理だ、とあきらめた。 それに、考えたら、クジラ、となったら、カメラは一眼の望遠付き、双眼鏡、その他の身仕度などなど、で装備が大変だ。 2兎追う者は1兎も得ず、だし、やはり歩きに気持ちをしぼっておかないとまずいだろうという決断。 宇久井のクジラ船はバリアフリー船だというので興味があったのだが、またの機会にしよう。
HPの更新を少しだけした。 3ヶ月しないと、HPを削除という話もあるし。
クジラレターはまだできてない。 これだけやったら、ノルマは終わりだ。 あとは明日のしたくだけ。 ガンバローッと。
雨です。 朝のカラスが鳴きませぬ。 昔から、雨の日は眠い。
宮崎さんご依頼の、電話かけをした。 横浜からかけています、といっているのにしゃべり続ける方がいて参った。
兵庫のNさんから、晩柑なるおみかんが届いた。ひとつ食べた。酸っぱくて美味しかった。ありがたいことだ。
善通寺のT師からもTEL。自坊の本堂の落成でお忙しかったとか。
パソコン連載の6月分、書けていない、まだ1本しか。ネタ切れ、苦悩・・だあ。 こまったよん。
夕方になったらやむと思ったのだが、雨やまず。しかたないので、しっかりと雨支度をして、母の日宅急便を出しに行く。 ピンク色のパジャマ。70歳を過ぎたら、着て欲しい色。
sakurannkoさんによれば、もう梅雨に入りかけているんだという。 それは、それは、だ。 そんなわけで、今日も肌寒い日。
FDSの会合。すごく久しぶりにマチコさんが来て嬉しかった。 今日のテーマは「安全な食べ物」 わたしはごっくん、みんな分。Sさんは和歌山の梅干し、Mさんは生協のクッキー、Aさんは「もろみ酢」、それぞれ、本物の味だ。シンプルで、ごまかしがない。ただ、もろみ酢、少しだがアルコールが入っている。それは、飲んだら、身体が暖かくなったのでわかった。 「これ、アルコールが入っているよ、さすがに泡盛のしぼりかすからだし」といったら、え、そうなの?と持ってきた本人が言う。 そうですよ、温かくなるのはそれです。 Aさん 「わたしはまた身体の脂肪が燃えているのかと・・・」 それはそうでしょうが、アルコール力です・・といったら、彼女、びっくりしていた。なんか、かわいい、な。
その後、渋谷のあのうまいご飯の店で鯖の焼き魚定食(ヤミー!!)を食べて東中野のbox東中野へ。 途中で、なんとたまちゃんのお父さんから電話が来た。 きけば「あの書き込み、みました、お知り合いなら、迎えに行ってお世話をしますが」という内容。 なんと優しい、ありがたい。 今朝出る前に談話室のある方の書き込みにわたしが「レス」した。お医者に行った方がいいと。それを見てのことだった。知り合いではありません、が、わたしも足に故障を持っているので人ごとではなくて、とお返事した。 一緒にいたsakurannkoさん、びっくり。 実はその前に19日にたまちゃんとお遍路に行くという話をしたばかり、数秒も経っていなかったから。 「これがお遍路の不思議?」と彼女はいいました、はい。
さて、A2の感想。 あのAの続編。あのオウムの、ここ最近(といっても2000年前後)をおった記録だ。すべてがオウム排除闘争の様子。そこで生まれてくるオウムの人と町の見張り小屋の人たちの交流。これって、どんな映画よりも面白い。 確か、以前、足立区のオウムとその周辺の人たちに交流が生まれているというのをニュース23でほんの少しやったことがあったが、それを、今度は群馬県藤岡町で見せてもらった。 町の人たちはオウムの人から「ぼくたちのことよく知ってよ」と言われてオウム文書(冊子や本)をもらったり、彼らが撤退するときには見送りまで来て・・・見張り小屋の撤去はオウムのメンバーも手伝うし。 なんか、でも、それがすごくいい景色で、見送りに来ていたおばさんが「でも、それなりにえらいわよ、みんなに何を言われてもされてもひとつのことを曲げずにやり通してさ、人間て、ぐらぐらするし、曲がるし、なんだけださあ」といっていたけど、これもまたすごくまっとうな言葉だと思う。 書きたいことはいっぱいあるけど、映画がでかすぎて描けない。(もう一度、見に行きたいくらいだ) 今回も下品なのはマスコミ、その次ぎに警察、だ。 右翼も出てくるけど、それが「新聞は書いているけど、オレたちは立ち退きなんて行ってネエよ、あれは間違いだ。ウソだ。あいつらどっかへ行けといったて、どこへ行っても排除じゃしょうがネエだろ、だから、話し合おうっていっていっているんだ」みたいなことをいっていて、まともなんだよねえ。 (映画のエンデイングの協力者にその右翼の名前が出てきた(^^))
そう、ある信者が言っていた「ぼくが衰弱で入院、ということで病院につれて行かれたときもあれは拉致、でした。 だって、暴れるぼくを何人もの警官が羽交い締めにして連れていったんだから。病院で医者に何ともない、といわれて、でも入院させて下さい、もう連れてきたんですから、とかぼくの前で頼むんですよ」 「で、その記事は、信者衰弱で、入院搬送」 それを書いた記者、その様子を見ていたんですよ、ぼくが衰弱なんかしていなくて、拉致状態だったことを。それなのにどうして衰弱と書いたんだ、と訊いたら、だって警察発表がそうだった、ということで。彼、居心地わるそうでした。 この頃のマスコミって、たいがいこれ、かもだ。
この映画の監督の森さんが「日本がすごく劣化してきている」というの、わかる気がする。「ホント」が報道されない。少なくとも、この映画に出てきたような交流は絶対に、だ。
素朴な感想を言うと、オウムの信者、みんないいヤツなんだよね。あの上祐氏えも・・・。それはsakurannkoさんもいっていた。 この映画、TVでながしたらどうかな。 少しだけ、ウソと虚飾のTVが浄化されるかも知れない・・。
旅から帰ったら、少し「A」関係の本をまとめて読みたい。 このところ、正しい読書をしていない、気がする。
二人して溝の口に帰ってきて「和民」に行った。 安〜〜〜い。 お酒が日本盛り系しかないのが困る、が、それくらいだ。問題は。 肴のお味は、この安さ、にしては、上出来だった。 ウソかホントか、野菜は有機とかっていうこだわりも見せているし。 和民が安くて、うまいはきいてはいたがそうなのね、を実感。 ただ、味つけは若者系ではある。 会計の時に「なにかお気付きになった点は?」と聞かれたので、「美味しかったよ、安いし。女の子はかわいくて愛想がいいし、ただ日本酒の種類を増やしてよここれってオヤジ系のリクエスト?
またまた、するべきことをしないで気持ちよく寝てしまったわたしであった。
2002年05月08日(水) |
そこまでいわれてもなあ・・ |
昨日の疲れでパッとしない一日であった。
曇天の気分に追い打ちをかけて下さったのは、T新聞のS氏。 写真の要求がすごい。 腰から上しか写っていないのはダメ、とか、背中の写真はダメ、とか、下が切れているのはダメとか、札所ににぎわいが、もっと欲しいとか、結論的に使えないとかって。 そんなこと、はじめていわれたよ。 今までの本のモノも、べつの某新聞社の写真も、自分のとったヤツだったけど、ここまで要求する人はいなかった。 そりゃ、自分がうまくないのは知っている。 でも、私はプロのカメラマンじゃない。 ここまで細かくいわれると、ずいぶんじゃん、と思う。ここまでいろいろというんだったら、私が出かける前にいって欲しかったよ。 じゃ、T新聞のその欄の写真がみんな足が切れていないか、人が切れていないか、にぎわいがそれらしく的確に伝わっているか、というと、とんでもぎっちょん。 「にぎわう弘法市」(1月掲載分)なんて背中姿の写真で、ぎっちり切れているよ。弘法市をよく知っているわたしからみれば、何これ?的なにぎわい写真だしさあ。 でもまあ、わたしはこの日付のモノを参考にしたんだけど。 あれがよくて、わたしのがダメなんてどういう基準じゃ。 けっこう、気分屋さんかも、s氏って。
取り直しにいけということだったが、わたしは次の日曜、その次、とずっと不在で、それは不可能、原稿に問題がないというのだったら、あげます、原稿料要りません、一回かぎり転載なしということで、お使い下さい、ほかの方の署名でもいいです・・・最後まで仕事ができなくてご迷惑をお掛けしたんだから・・・・それにあれほど細かい要求にこたえる写真を撮る自信がない、と話して電話を切った。。
そもそも要求の中に「納経所の写真がない」というのには苦笑いした。 絵になる納経所なんてわたしが知る限り、四国にもどこにもないよ。 窓口で朱印を待つ人の列をとってもどうもならんと思うのだが。 札所なるモノを知らないんだわね。 まあ、あの日はとにかく人が多すぎた。 散漫な写真しか撮れないなあ、とは思っていたんだが。 原稿も、ワタシ的には、ホントはボツにしてほしいんだけど、あちらはそれはしたくないようだし、えい、あげちゃえ!!だった。 しかたないね。 これってプロといえないよなあ。 まあ、わたしのお仕事は「トラベラー」だし、いいか。
ブチブチ、グチを書いたら、気が晴れた。
まあ、こういうのも相性だろうね。 ご縁がありませんでした。
2002年05月07日(火) |
お遍路青年Aと満願飲み会、しました |
連休が終わったとたん、あの5月頭の暑さはどこへやら・・・・。涼しいというより寒い、小雨。 出さねばならない郵便物がたまっているので朝からお出かけだ。 4連休の後で郵便局の銀行も、どこも混み・混みだ。
今日は2月のお遍路であって、毎日のようにメールが来た青年くんと夕方町田の居酒屋で飲み会だ。 彼、南光坊で読売の記者につかまり、あの「平成遍路」のでたのだが、そのときの写真はモスレムのようにひげもじゃだ。あのひげがあればわかりやすいが、それは、もうないらしい。
小田急町田駅5時半、少し遅れてしまった私だが、彼はきっちりと待っていた。 はじめにあったときより、なんかがっしりしたような・・気のせいか? 「庄屋」に落ち着いて、「お酒は好き」というので、いろいろ頼んで飲んだ。 道に迷ったときの話、旅路のおじちゃんやおばちゃんの話、幸月さんや自称乞食遍路という人にあっていろいろな話を聞いたこと、通夜堂などで、他の人と一緒だと、はじめはやっぱり警戒したが少し話すとみんないい人だった・・・という話をたっぷりとした。 眠くなっていたし、そろそろ12時前かな、帰ろうか・・と時計をみたら、な、あんんんと、1時過ぎ。仰天して、電車あるか? マジに大慌てで、駅へ。となり駅、相模大野までしかなかった。 結局そこからタクシー。 うちについたのは、深夜2時少し前。 次のタクシーに乗る青年くんに「またねえ」とかいっていたら、タクシーの運転手に「若い、いい人だなあ」といわれて「ちがうんだよ、歩いてお遍路したときの仲間、お遍路は、そういうのじゃないの」 なんて、お遍路講釈。 その後は、オランダの雇用システム、女が働くということ・・としゃべったら、運転手さんに「楽しいなあ、お客さん、いい酒だねえ」と褒められて?しまった。 そうかい、。
それにしても、ここまでしっかり午前様なのは、この十年近くないんじゃないか。 タクシー6700円なり。
青年のお遍路、すごくいい体験をしたと思う・・
2002年05月06日(月) |
旅の気配がないと、だめな私・・だ |
今日は朝から、なんで・というメールが来て気分がいまいちパッとせず。
どうして、欲しい、という人がいて、それをお接待で差し上げます、という人がいて、うまく話が進んでいるのに、見知らぬお人が節介するんだろうか? そんな疑問に困りました、はい。
たまちゃんのHPにいって、かわいい写真を見たら、なんかホッコリしたけど。
昼はご飯にみそ汁、もずく、漬け物、さかな(昨日のニシンもうひときれ)と、ちゃんと食べたんだけど、夜は何と、カップ焼きそば。なんか無性に食べたくて。 体によくないのはわかっているのだが。 後で、野菜を食べよう。
昼寝もした。 まったく非生産的な日。 こんな日もあっていいのだ、と自分に言い聞かせる。 でも、しようとしていた予定はこなせず。 ネコ目でがんばるか。あああぁぁぁ、だ。
2002年05月05日(日) |
★仕事だ・・・が・・・進まぬ★ |
お出かけなし・・・・。 ホントはまたまたレイトショーの映画「記者はアフガンに何をみたか」?とかいうタイトルの映画とトークに行くはずだったんだけど、さすがにやめた。だって、仕事、おわんないんだモン。 しかたないから、ナイルストーリー(エジプト専門の旅行社)のHPを見にいったり、小笠原は母島YHのHPに遊びにいったり。 出かけないと生きている気がしない私にとってネットは時々手頃な代償行為になる。 ナイルストーリーのHPは、読ませてくれるからスキ、笑えるし。 エジプト人、面白いんだわ。 母島YHの掲示板に「私のためにクジラのアイコン用意してちょうよ」とカキコしたら、数時間後、「クジラ釣ってきました」とかってホントにできていて嬉しかった。それを使って早速再度のカキコをした。 9月にマッコウを見に行って、母島また行きたいわ。
ナイルストーリーのHPの旅とも募集に「サウジアラビアの旅」があって惹かれまくった。あの国、いまだに鎖国状態で、観光ビザは出さないわ、女が一人で入ろうとしたら逮捕される、で、とんでもなく「神秘な国」なんだわ。 行きたい!!! but、3000ドル・・だ。ウームムム。 水口博也さんのHPにもアラスカクジラ三昧の同行者募集があった。これも、40万円。お金がほしい〜〜〜宝くじでも買おうかしらん。
なんて、ブチブチいっていないで仕事、仕事だ。ああああ。 せんと熊野もいけんしなあ。
今晩のおかずはノルウェー産のニシンの煮付け。ノルウェーの海の清浄さ(ロシアの原潜は沈んだが)を船の上から10日あまりも見つめてニシンのうまさも堪能したわたしにはなつかしや、だ。 脂ののったニシンの酢漬け、よく食べたし。 でも、ヨーカ堂での売れゆきはいまいち。 ノルウェーのイチゴジャムもおいしんだわ。 まぜモノを国の法律で禁止しているから。 ユーロの国々はその辺の規制が弱くなってダメになった。 ノルウェーはユーロに入っていないから独自の歩みだ。でも、私が出会った人たちは頑固系だったけどホットだった。 特に、白夜の北の田舎町(北極圏)ハンメルフェストで町中のホテルが満員で警察に泣きついたとき1時間以上もかけて探して、さらにおくってくれたりりしいお巡りさん・・元気かな。 次の日は、泊まったキャンプサイトでバイトしていた女の子のボーイフレンドが港まで野菜配達のバイトのついでに送ってくれたっけ。 なんか、忘れられない思い出だ。 ニシン食べれば、思い出す・・・です。
昼間だらだらと仕事をして、ノルマが終わらなかったのだが、sakurannkoさんとの約束、夜9時よりのレイトショウで「A」を渋谷に見に行った。
夜の渋谷はなんか中国の北京か上海のようなエネルギー、これは若者が発しているんだ・・それにしても、この頃の女の子のお洋服って、まるでアジアの娼婦だわ。 そして、筋肉のない身体。ため息がでる。
「A」とは、オウムのこと、だ。 尊師麻原が逮捕されて、1年、オウムの信者や達は次々と味とを立ち退かされ、上九一色村の施設をなじめとして取り壊されていく。 その中で、広報担当となった荒木部長を中心に、彼らの日常をおった映画だ。 思ったことがたくさんありすぎて書ききれない感じだが、まず印象に残ったのは彼らのまじめさと真摯さだ。 価値観の違い・・まさに信仰世界に生きていて世間の価値観とは、それは相容れない。そもそも本来信仰とは、世間の価値観とは対立するモノだしそれはいい。しかし、そのはざまにあの事件が起きたことに問題というより、苦悩がある・・・。 その辺から考えれば、彼らが「麻原」をいまだ尊師として敬うのはよくわかる。わかるが・・・しかし・・だ。 感じるのは、既成仏教の力のなさだろう。 オウムの人の方が、その辺の若いお坊さんより「修行」なるモノをしているのではないか。真摯さにおいて、勝っているのではないかとさえ思ったりする。 荒木部長は強い。こずかれても、食いつかれても、わめかれても、彼なりの精一杯誠実な対応をする。 sakurannkoさんと帰りの電車で話した。「彼は我慢ずよい、いちばん強いよ」と。 世間からのがれるために出家したのに、むしろ逆に世間の荒波にもまれている彼は「もう一度出家したいですよ」と笑っていた。その穏やかさはすごいと思う。
対して、マスコミと、警察はほとんどやくざの世界だ。 人相の悪さ、言葉遣いの悪さ、行動の強引さ、すべてにおいて、わたしたちが「やくざ」と規定するすべての要素を持っていた。 おぞましかった。
それにしても見に来ている人たちは若者ばかり。わたしたちは一番の高齢者だろう。この映画は、若い世代より、その親の世代にみて欲しい。 だって、衣食足った世代が何を求めるのか、が示唆されているからだ。
9日に「A2」を見に行くことにした。
帰宅、12時20分。はい疲れました。 ワインでも飲んで休みましょう。今日できなかった仕事は明日にしましょう。 明日といえる幸せかな、だわ、今日も。
朝7時でた。 ザックに、魔法瓶に入ったお茶と、はっさくと、まじめなミカンジュース、小枝を入れた。 渋谷駅でおにぎりをかった。 いい天気。池袋から快速急行8時15分は、大混雑だ。 10時少し前、着いたもののトイレにいっていたら、バスを見逃してしまった。 しかたないね、どこもかしこも混んでいるんだから。
バスを待っている時に、千葉から来たというご夫婦と知り合いになった。 納経のこと、道のことなどいろいろと訊かれるままに答える。ついでに「私は今日は写真を取りに来たんですが、4番くらいまで歩くつもりなのでよろしかったら、道案内しますよ」。 ということで、新緑の中をその方達と歩いた。 私の好きな2番への道は春3月とは大違いで、緑に染まっていた。 ため息がでそう・・・・ 緑が一番美しい季節だ。 いい汗をかいて、到着。 2番さんでお昼。わたしたちみたいな人が老若男女合わせて、境内に15人ばかしもいる。 いいことなんだろう。 話すうちにご主人のお仕事が私鉄のタイムスケジュール管理の現場だとわかった。 大変なしごとだ。 事故が起きると休みなんか飛ぶという。 この頃は自殺も含めて事故、多いし。
3番さんへの道で3年か4年くらいの子どもが、自転車に小ぶりのたけのこをのせて、1本30円、とかってうっている。おいおい、ここは東南アジアか。 「あの子達は、生きていけるよね」 と奥さんのが笑った。 うん、多分、裏山で引っこ抜いてきたんだよ。
4番さんで「ありがとうございました、楽しかったです」と、歩いていただいたお礼を言ってお別れした。 お二人は5番さんへ。 私は新木鉱泉へ。
のんびり入りすぎて大急ぎで3時45分のバス。 駅で風呂あがりビールを飲んで列車に乗った。 爆睡。よく寝た。でもドミノ倒しのように私のとなり、そのとなり、そのまたとなり、そのとなり・・とみんな寝ているのがおかしい。
それにしても関係ないが、今日は餃子が食べたたい。 買って帰って、またまたビール。うまーーい。(^o^) 歩きはやっぱり気分いいわ。 これじゃやせないわ。
10時近くに、S氏より電話。やはり秩父(30番台)だったという。 今日お会いになった女性の話をなさっていた。
原稿を書くのは明日だ。とりあえず今日は寝よう。 ハイ、観音様、いい一日をありがとう。
2002年05月02日(木) |
7月のANAとれる! |
ANAの超割がとれた。 7/3日高知へ 11日徳島から。やったね。しかし、私のにがてな夏遍路、だ。 帰りは、徳島小松島のさる農園によって、ウレウレ紫になったヤマモモを食べるんだ。
今日はいい天気。 fさんとビデオを見て、買い物とか、ANAのチケット取りとか、で一日が終わった。 仕事が進まぬ。いいのか。困った。 夜、津軽三味線のTVを見た。 いい音、身体が自然に動き出すよ。 習いたいんだよね。 折り畳めるし、バックパックの荷物に入れて外国の路上で、法被かなんか着て、ジャンジャンジャンとやって、言葉通じなくても交流できたら理想だよね。と前から思っておるんだが。 習うヒマが、みつからぬし、果たしてモノにできるかどうか・・・。
2002年05月01日(水) |
映画で旅するモスレム6 「少年と砂漠のカフェ」 |
昨夜sakurannkoさんと遅くまで電話で話していたワリには、早起きで、手紙の処理。11時に家を出て川崎の親戚に、おみやげを届けて打ち合わせへ。
6時半、有楽町の映画館「シネラセット」(昔の有楽シネマよね)前に集合。 整理券が配られる盛況ぶりだ。 やはり水曜女性デーのせいか女の人が多い。 sakurannkoさんと「眠いよね」などといいながら最後まで眠らなかった。眠れなかった、というべきか。
母を爆撃でなくし、父はタリバンと闘っているという少年キャインは、国境の道路沿いのイランのカフェで働いている。カフェといっても、銀座や渋谷にあるモノを想像していただいては困る・・シャイもヤク(アフガニスタン製だと思う、今や大麻樹脂の世界最大の生産国はアフガニスタン)も水タバコもある、アヤシク田舎びたほこりっいたてもののなのだ。 水くみをし、たき付けを取り、車や機械が故障するたびに腕の悪い技師のところに走り・・・実によく働く少年なのだ。 ある日、彼の耳を診察してくれた医師が訊く。 「帰らないのか」「帰らない・・ネエさんはおばさんと暮らしている・・戦争だ・・」 目が悲しそうにしょぼつく。 警官が密入国者はいないか、としょっちゅう来るがみんな彼をかくまう。 ところがある日、ばれてしまった。彼は留置所に入れられる。 そこに来たのはカフェのオババさん。片足がない・・多分地雷か何かだろう。 「うちの子を返せ」と迫る。 その迫力に負けたのか彼は帰される。キャインにいつもの日常が戻る・・・しかしそんな中にあって、アフガンから危険を冒して働きに来た男達がまた鉄条網の向こうに金をにぎって帰る・・そのとたんに射殺・・といった毎日・・これもまた日常、だ。 新しい国道ができて、オジジとオババさんのカフェの前を車が通らなくなってオジジは新しい国道にまく鉄釘を造りに行く。つまりタイヤをパンクさせて車の流れを自分の家の前に戻そうというわけ・・・しかし、彼はその釘をまく前に亡くなった。キャインは、それを新しい国道にまき散らして(オジジの遺志だ)、荷を背負って悲しそうな表情で去る・・・。
これは半フィクション、といっていい。キャインは本当にアフガンから来た難民だ。彼のように母を亡くし父に会えない子もアフガニスタンには多いはずだ。 赤茶けた乾いた大地、ごつごつした岩山。それは去年訪ねたルクソールの王家の谷を思い出させる。そして、映画流れる時間はまさに私はトルコの田舎やエジプトの地方で感じたモスレムの時間だ。なつかしかった。
言葉の少ない映画だ。 淡々とシーンが流れる。 国境で人が死ぬシーンも声と拳銃の音だけ。ただ、棒に死んだ男達の遺品をつけた墓標が増えていくのを写すのみ。その向こうで、生き残った男達が亡くなった仲間の金を分けてあわただしく去っていく。 オジジが鉄釘を造りに行くシーンも説明も台詞もない。 死んで運ばれて行くところも・・・キャインもただ手伝って見送り手を合わせてうつむくだけ。
このところ見続けたモスレム映画NO1.
すごい映画だと思う。 悲しい映画だと思う。 観音さんにやっぱり世界平和をきっちりお願いせねば。 だって、戦争では、子どもと女がいつも一番つらい。 平和を希求しながら、人間って、やっぱり闘う存在なのか?
終わってから「オヤジの領分」的居酒屋で飲んで帰ってきた。 吉野川を常温で。空豆、めざし(飛び魚のチビイヤツ)、焼き鳥の塩、ホタルイカ、ししとう、の肴。 吉野川って、新潟じゃそう評価されない酒だけど、東京ではうまい方にはいっちまうらしい。常温、うまかった。
今度は「A」に行くことにした。 レイトショウだぜ。おばさん不良お二人様出来上がり。
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