世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年04月30日(火) いそがしや・・・

朝から、オッちらかった部屋のおかたずけ、冬服の整理、手紙類の処理。
途中でまたまたカメラが作動しないということをリコーに電話して、昨日送った原稿の校正をして・・アッという間に夕方となった。

S氏からいただいていた小包を郵便局に取りに行って、びっくり。あけたら、熊野、和歌山の資料いっぱい。玉手箱みたいな箱だった。ご丁寧に夜には電話まで下さった。
氏いわく、滝尻から田辺に泊まって、2泊3日で2番門前は、無理という。
だとすると、19日にたまちゃん達と合流できないことになる・・よ。
どうする?

夕ご飯の前に昨日から食べたかったケーキを買ってきて、コーヒータイムで2個ぺろ・・・。うまかった。歩いて、うちに帰るとどうしてこんなにケーキがおいしんでしょうね。ふだんは羊羹・大福餅系なのになあ。

明日は映画の日がお安い日なので映画に行きたいが・・・少年と砂漠のカフェ。またしてもアフガン。それからオウムをとりつづけた「A」「A2」、「鬼が来た」「活きる」これはどっちも中国だけど。昔ほど中国映画は面白くなくなったけど・・ねえ。
活きるは、コン・リーとチャン・イーモウのコンビだから見たいが・・チャン・イーモウも大御所になったからなあ。
どっちにしても、12日までにこれ全部は無理だろうからしぼらないと。
さてどれにするかねえ。
仕事もしないとなあ・・・。(-_-)



2002年04月29日(月) お仕事でした・・ね・・それと、お遍路の反省

昨夜は、やっぱり完全ネコにはなれなかった。
12時を過ぎたら猛烈に眠くなって寝てしまった。
朝5時おきでお仕事でした。
昼2時過ぎに、メール添付で送信。

買い物へ。外は初夏めいたよい天気。お寿司が食べたくて。ケーキも食べたかったが、いつものケーキ屋さんが混んでいて、やめた。

★お遍路の反省? 振り返って

*星の岩屋、慈眼寺ににお参りできたのが何とってもよかった。

*慈眼寺からの道を間違えて、あの車のお大師さまに出会えたこと・・忘れられない。
*たまちゃんに会えたこと、よかったね。19日、私もいけるといいんだが・・。

*道を直して下さっている田淵さんにお会いできたことがめったにないことで、不思議だった。宮崎さんに依れば、あの方は、腎臓がお悪くて大変だったのにあの道直しをはじめて元気になられたそうだ。

*今年は、歩きの人が異様に多いお四国。夏になったら、少しは減るか?
事故など何事もないことを祈りたい。

*野宿の人のマナーの悪さも気になるところだ。申し訳ない・・って気がしてくるよ。
*馬路村への寄り道は面白かった。四国の内陸部に今後も寄り道をしよう。
*ANAの超割、7月、とれるかな・・・。「主人が行きたい、といっていた夏遍路に少しでもいいから歩きたい」というのが同行のkさんのご希望だし。そうしたら、次回は、私が苦手な夏に行くことになる。


 



2002年04月28日(日) 昼寝にキムチ・・だ _(_^_)_Zzz・・

***** 本日のできごと ********

朝起きて、私がいない間にいろいろと大変なことがあった友人にメール。
昨日できなかった洗濯をして、冬の服をしまったりしていたら昼になってしまった。
ご飯を食べて昼寝をしてしまった。
面白い夢をみたが、起きたとたんに忘れた・・思い出せないのがクヤシイ。
事故の後にみた夢は今も思い出せるのにこういうのは不思議だ。

やっぱり疲れているのか・・な・・・多分。そんなかんじはしないんだけど、甘いものと、キムチが食べたい症候群は毎度おなじみだ。
夕食に、ブタ・キムチチャーハンと春キャベツおひたしの馬路村のユズポンがけ、ワカメスープ。
仕事があるので、ビールは禁止、悲しい、トホ。
しかたないので、馬路村のごっくんをごくん、うま〜〜いわ。
家に帰ると、いつものような夜強いネコ生活に、即、戻る私って何なんだろうか。

松山のTさんより熊野のことで電話。
手紙は兵庫のNさん、宮崎さん、馬路村からの宅急便。

明日までに書き直しの原稿をやらないと・・意欲がないなあ・・・。
明日はぐちゃぐちゃの部屋の中を整理しないと、ホッ散らかして出かけたから。
返信しないといけない手紙やお礼などいろいろあるし、明日は昼寝のヒマはないよ。
明日と、いえる幸せ、かな。





2002年04月27日(土) 無事に帰宅・・でした

松山発の高速バス、オレンジライナーは徳島行きのエディより眠り心地がよかった。
リクライニングがちがうんだ。さすがに12時間あまりの乗車だから、その辺は考えてあるのだろう。
新宿7時半過ぎ。
渋谷発の急行に乗れたおかげで、うちに8時半前につく。
留守電、手紙、たまりまくり。

うちのお大師さんにお茶をあげてご報告と、思っていたら、親類のMちゃんから電話。離婚こと、終了したとのこと。これからが大変だが、私ができることはヘルプするよ、と伝えた。

お茶をおあげして、くしまさんの談話室にも、忘れないうちに書き込み。

荷物整理をしてから、また新宿。高野山大学の公開講座だ。
ビール力のおかげで爆睡できたせいか、居眠りしなくてすみそうだ。

5/12日から熊野だ。
それまで、またいろいろとかたずずなくてはならないことだらけ。
まだ、旅の余熱で元気。何とかなるだろう。



2002年04月26日(金) ★周防大島から松山へ★

帰りは、ペンションのご主人の助言で柳井港までいって松山行きのフェリーに乗ることにした。
本州までいってまた四国?という感じだが、高速バスチケット関係でしかたない。
宮崎さんをお訪ねしたり、友人のTさんと会ったりできるしまそれはそれで、ヨシ。

昨日に引き続き、今日も瀬戸内とは思えぬ風の強い日。冬型のせいだろう、今朝は、朝日がきれいだった。

8時35分大畠行き、そこから9時発の電車、一駅で柳井港だ。茂兵衛さんは、好きな人をお嫁にもらえず、ここの遊郭まで遊びに来ていたんだわ・・・。
9時45分のフェリー、島巡り オレンジラインというパンフレットがあって島の名前が書いてあった。
一枚もらって、島影を楽しみながら2時間25分を過ごすことにした。
ゆるゆると時速50キロほどで進む船旅、大好き。高速船、新幹線、はやいけど、きらい。何でも視界から飛ぶように消えていくのでつまらない。
ノルウエーの沿岸急行船、中国の長江下りの旅を思い出す。
なぜか、心地よい揺れで眠くなってしまうんだわ。この辺もよく似ている。そんなわけで、のって30分ばかりは前後不覚のお休みタイム。
私だけではなくて、乗客のほとんどの人が寝ていた。

島影が次から次ぎ、あらわれては消えていく。
おだやかげに見えるが、海面を見ると、潮の流れがよく見える。島と島の間がせまいほどそれはきつい。ほとんど川の流れのよう。いつだったか、下関でもかんじたことだが、潮をよまないと生き残れない。
瀬戸って、狭い海峡の意味らしいけど、そう考えると「瀬戸内海」って名前の通りだと思う。
周防大島と情島の間がとにかく難所という感じだった。
「情(なさけ)島」なんて、いい響き。

わたしが島影を追って船内をウロウロしていたら、「そんな紙で島の名前がわかるんですか」とおばあちゃん的年齢の人が話かけてきた。
わかりますよ。答えたら、ばあちゃん、いろいろと話しかけてこられるが、なんかかみ合わない。ばあちゃん、自分のことだけいうんだもん。アンサーがないんだわ。
こういう人のお嫁さん、大変だろうな。
大洲まで行くそうだ。
私は横浜から来た、といっているのに砥部まではどのくらい時間がかかるか、どうやっていくのか、聞くのには参った。
私は、知っているよ。バスが市駅か出ていて、多分、4,50分は乗るだろうということは・・・でも、砥部とかいってもふつう横浜から来たら、しらんぜ。
松山市民だったら知っておろうが・・・がさ。

それにしても、瀬戸内島巡りの旅も面白いだろうな・・と思った。

バスで市駅に出る時にTさんから電話がはいって、メモを取ったらそのメモ帳を落とした、バスの中に。ヒエーだ。
伊予鉄の人は親切に対応してくれたが、2時40分まではわからないという。

しかたないので、かまわず、宮崎さん宅にうかがう。
いつも、アポも入れずに突如だが、在宅の所に行く私。今度も大丈夫だろう、と奥様の仏前にお花とお供えのお菓子を用意して。
ピンポン。ハイ、大あたり。
「わし、いまちょうど区切りがついて郵便局に行こうか、おもていたとこや」
顔をのぞかせられた宮崎さんはそういわれた。
昨年末より、また少しお元気になられた感じはするが、おやせになったままだ。
仏前でお参りをしてじきに1周忌ですね、などと話して、お遍路の途中に土佐でお会いした田淵さんが宮崎センセによろしくと、いわれていました、とお伝えする。よかった、これで、伝言鳩の役目をはたしたぞ。
次のガイドブックを原稿を少しのぞかせていただく。
カラー刷り、今までとずいぶんちがったモノになるようだ。
めずらしい太龍寺の英語Tシャツをいただいてしまった。
ついでに手帳も出てきた、と携帯に電話があった。
何と忙しい宮崎さんが取りにいって送って下さることになってしまった。すみません。
市駅のそばにある「日切じぞうさん」にお願いしたんだけど、かなったわ。お礼してから帰らなくちゃ。

4時、Tさんと松山市役所前で会った。
一緒に松山城へ。
登ったことがない、といったら、こんなに何度も来ているのに?とびっくりされてしまって、ジャ行きましょうとなったのだ。
20分ばかりの登り。新緑が気持ちいい。
登り切ると松山市内や、瀬戸内海が一望できてなかなかだった。
さかりの藤の花の下で、彼女が出している同人誌の話などをした。
もともと、私の本を読んでくださったTさんがお手紙を下さったことから始まったおつきあいだが、今や松山に来ると必ず連絡を取る友人となった。
これも、お遍路をしたご縁だわ。ありがたや、だ。
5時過ぎ、市内のイタメシヤサンで一緒に夕食をとって、19時10分のバス乗車。見送っていただいた。
今回は、今治のKさん、北条の杖大師さんにはうかがえかったが、次回はまた、と思う。

ビールのおかげで爆睡。





2002年04月25日(木) ★周防大島2日目★

お遍路の体癖がとれていないので、つい9時頃に眠くなる。今朝も早起きできのうの日記アップ。5時半、起きると、ちょうど朝日が出たばかり。きれいだった。

今日は茂兵衛さんのご子孫である中司善子さんにお会いし、昼からは役所の方が紹介してくださった郷土史家の金本さんにお会いする予定だ。

8時34分のバスで出かける。
昨日さがしておいたお宅の赤いかわらをめざしていく。
8時45分ついてしまった。少し早いが仕方ない・・・・。
ごめん下さい、と声をかけると眼鏡をかけられた細い立ち姿の女性が出てこられた。
私が、四国を歩いていて茂兵衛さんのことを知って興味を持ちまして是非、生まれ故郷に来たくて・・・役場に電話したらこちらをお教えくださり・・・と説明したら、まあおはいりなさい、と招き入れてくださった。

どうやら、犬と2人?住まい。ご主人の表札はかかっていたが・・・・。
私がお話ししながら、足を崩していいか、といったら、じゃ、あちらでお話ししましょうと、次の間をあけられた。
窓から瀬戸内海をみおろすすてきなロケーション。そこに籐の椅子とテーブルがおいてあった。
おしゃれ、と思っていたら、ご自分はここに住んだのが50代に入ってから、ソウル(植民地時代の)で生まれ、福岡、呉、福岡などをご両親やご主人の仕事の関係でまわられたという。なるほど。
お聞きしたお話は、差し障りもあると思うので詳しくは書かないが、これが戻ってきましたのよ、と茂兵衛さんの遺品である大粒珊瑚のりっぱな数珠を見せてくださった。それから、小さな柳行李3はことお菓子のはこ2個の遺品も。
金のキセルもあったらしいが、誰かがどうにかしたのか見たことはないといわれた。
「あけてみていいですよ」といわれたのであけて見せていただいた。
たくさんお札や書簡、日記、わげさ、印鑑など。書簡などはずいぶんと崩してあるので私には読めなかった。日記などの几帳面さ、公式の居所を書くときには大島郡の住所かいている、保証人の一人が大島の人、などから、よく書かれているような家出、出奔ではない、と思った。善子さんも、出るときがずいぶん多額のお金をもらっていっているようですよともいわれた。
そりゃ、まあ、大庄屋の息子が突然お遍路になるからとて托鉢なんぞできるわけがない、ということだろう。まして、当時は江戸末期、土佐藩などは、路銀がじゅうぶんでなかった遍路は入れなかったというし。
書簡に、証券入れなどというのがあって、400円モノお金を預けて運用していた。

昼近くまで遺品を拝見し、お昼までごちそうになって1時過ぎのバスで辞した。

2時、宿に来てくださるという郷土史家の金本さんを待った。
表具やさん、というお仕事なので、少時間があくのだという。それにしても「行きますよ、うちはわかりにくいから」といってくださって感謝。

茂兵衛堂を立てるときに発願者の石川氏が作った史料の小冊子(善子さん宅にはなかった)のコピーと、中司家の手書き系図、などを持ってきてくださった。

この地域の歴史とともにいろいろとお話を聞いた。
茂兵衛さんはなぜ帰らなかったんでしょうね、といったら、ホントの修行者、行者になったんでしょう、この地域のお寺の住職は庄屋の出が多いですよ、茂兵衛さんが主受けしても別におかしくはないですよ、ということをいわれた。
お遍路をするうちにはまったんでしょう、とも。
やっぱりそうなのかな?
1時間半ばかりお話しして帰られた。

さすがに疲れて、茂兵衛さんのコピーを読むうちに少しうたた寝してしまった。
今日は海に波がたって寒い一日だった。






2002年04月24日(水) ★ 周防大島にて ★

5時半起床。昨日、ビールと城山郷という地酒の力に負けてアップできないで眠ってしまった日記をかく。
今日は7時ぎっちりに朝食をいただいてでないと、8時55分の周防大島行きの船に遅れる。
支度をして6時55分には、下へ。おばあちゃんがいらっしゃった。昨12月に泊まったときに、彼女が焼いたばかりのアップルパイを食べていいモノだと思って食べちゃんタラ、それはお昼のもようしもののようにやいた、とわかってお詫び。
昨夕も、ほら、アップルパイを食べてしまった・・といったら、笑って覚えとるよ、ようきたねといってくださった。
ここの玄米ご飯と、豆腐の味噌汁はおいしい。味噌、米自家製だからなあ。
おかずもしっかり食べて、まじめなミカンジューズも飲んで、コーヒーで仕上げて・・・7時15分。向かいに座った、スイス人のお兄さんに日本を楽しんでねと声をかけ、愚痴だらけの九州から来た車遍路のおじさんにがんばってね、と肩たたいて4階にかけ登ってにをとって降りてきた。
「またおいで、大島のお遍路もいいんよ、5がつ1日からじゃけど。やったら、ええよ、いってらっしゃい」とおばあちゃんが合掌で見送ってくださった。
はい、また来ます。ありがとう。

船の出る三津浜港、8時30分着。高速船のお値段、なんと2170円、高いねえ。それに私は高速船てあんまり好きじゃない。だって潮風に当たれないんだもん。帰りはフェリーにすることにしよう。1600ほどですこし安いし。

9時40分すぎに着いたモノの港はがらん、乗っていた人たちも一人降りただけ。後の人は岩国まで行くようだ。
窓口で、バス乗り場をきくが、なんか方言がきつくて、よくわからん・・・松山とだいぶん違う。

それでも何とか、狭いとおりで見つけた。
バスは10時13分、まだだいぶある。
そのうちに人が、1人2人と集まってきてバス停は世間話の花が咲き出した。
10時14分に油宇(ゆう)行きのバスがいく。誰も乗らない。時間的にはぴったりだけど、これが戻ってくるんだろうと、とりあえず時間割を確かめると、ない。えええ・・もしかして・・・。
「あの、私、久賀のへ行くんですが・・・」
花が咲いている方へ声をかけると、「だったら、今のバスに乗らないけんよ」「ええ、だって油宇、ってかいてありましたよ」
「私らは、病院にいくん、」と、一人が来た病院バスを指しながらいう。そ、そうなの。病院に行くにしてはみなさんお元気じゃないのよ。
「まっちょってよ、運転手さんに頼んでみてあげる」
 ありがたい。でないと、また1時間半ばかり待たないといけなくなる。
OKがでた。前の席のおばさんたちが席を倒して、ほらここ、ここおいでと声をかけてくれた。
油宇とバスにはあったといったら、こんな天気じゃし運転手もおおかたぼんやりしとんのじゃろう。
はあ・・・
このへんのもんはしっとるし、乗るが、しらんとなあ。
周囲でいろいろとご意見が出てかしましい。
今日はガスが出てぼやん、むあんとした気配ではあるのだが・・・ねえ。
病院バスは、みなさん元気ですね、といったら、このバスに乗れる人は元気なんよ、とばっちり化粧の人の良さそうなおばさん。げんきで、病院?
途中で、油宇とつけたまま走っているバスにあう。バスを止めて運転手に大畠駅行きにしろと、みなさん親切に教えて、私は下田というところまでつれていってくださった。
隣のおばさんが「よかったよ、ここまでで、800円ばかり違うよ、今日はいいことあるよ」。そうか。得したって訳だ。でっかい声で、お礼を言っていって病院バスを降りた。何人かのひとが手を振ってくださった。
待つこと5分、さっきのバスが来た。

道は国道らしいが、延々と海沿いを走る。
宿の「オレンジランド」は宗光西。
11すぎに着いた。
4時まで部屋には入れないが、荷物を預かってもらう。いったら、ご主人が待っていて、椋野まで送りましょうか、といってくださった。
次のバスに乗るつもりだったので、ありがたい。目指す茂平衛堂はそこにあるのだ。
「横浜のどちらからですか」といろいろときかれたので、もしかしてお住まいになっていたことが?といったら、まえに新横浜にいたという。なるほど。

茂平衛堂は川に沿って竹林のわきの道をぐんぐんと登った高台にあった。その気配は遍路道のような・・・。
りっぱなお堂だった。
正面にお大師さん、その背後にお墓があった。
昭和58年、4月24日、善通寺の管長さんが来て開眼会をしたという。
24日って、今日だ。ご縁。
静かな、鳥の声だけがする場所に茂平衛さんは眠っておられる。
いいとこじゃないか。なぜ彼は帰らなかったのか・・文殊山という600メートルほどの標高のお山の中腹までミカン畑。豊かな村だと感じる。
お参りをして、お線香を立ててそれが燃え尽きるまでお堂の縁台でのんびりとした。心地のいい場所だった。
あすもこよう。

歩いて、宗光まで帰る。宿の主人は、78キロといったが、4キロやっとだろう。私の足で1時間かからずにもどったから。
このへんから先にに町の中心がある。

旧道を歩く。
島八十八ケ所がある。
役場に行って、道を聞きがてら、誰か郷土史家を紹介してもらえないか、と頼んでみた。
簡単かつ親切にことは運び、明日の昼からお会いできることになった。
久賀長の郷土資料館へ行く。
なんとここは、あの宮本常一博士のお生まれになった島だったんですね。
資料館は彼のお声がかりで昭和47年に集めた民族資料がいっぱいだった。
みごたえがあった。懐かしいモノもあったし。
特に国の文化財指定を受けているという醤油ダルの見事さよ。
江戸期、この島はいわゆる武士のいない、農、町民の島であったらしい。
1100年代に作られた岩風呂や薬師堂も見る。
帰りの道を聞いたら、なんと役所の女性が宿まで送ってくださった。親切だあ。
ありがたい・・・。

宿のフロントにいたご主人と少し話して、(なんと南極の石があったのだ、グリーンランドの石にいていた)夕食。
町の雰囲気、活気にはかけるが、のんびりとして人は穏やかで。
そんな一日だった。











2002年04月23日(火) ★リアルタイムお遍路日記 27番神峯寺まで★

5時半起床。山に囲まれた外の様子は、どうもぱっとしない。今にも降り出しそう。
昨夜用意してもらったおにぎりを1個食べて、出た。フロントには男性一人。まだ寝静まっている感じだ。
外に出たとたん雨が落ちてきた。あわててもう一度中に入って雨具を着る。
ネットでこのへんの天気予報を調べたときは曇りで、降水確率は低かったんだけど・・・・。
「安田あたりも降っていますかね」と、フロントの人にきいたら「このへんで降ってもあっちは晴れていることがありあります」との返事。その言葉にかける。
身支度をし直しながら、その人と話す。
きけば、バス道路ができてバスが走るようになるまでは、森林鉄道(木材運搬用)が走っていて、みんなそれで町へ出たらしい。
「じゃ、歩かなかったんですね」といったら「いや、森林鉄道は木材運搬用ですから、命の保証はないですよ、実際、急カーブで振り落とされて亡くなった人もおります」
 それでなければ20キロを歩いた、という。
バス停にいたら、年輩の女性が一人。
挨拶をして「いいとこですね」といったら、「寂しいとこです」という返事。うーむ・・・・・
6時55分のバスに乗るために高校生たちが集まってきた。みんなあいさつをしあっている。いい景色だ。
男性が一人ジョギングでいく。なんか、山里に似合わないような・・と思っていたら、さっきの女性が「お医者さんじゃ」と教えてくれた。

予定道理、7時33分、安田JA前。昨日のところだ。
歩き出す内に雨は激しくなる。
荷物を背負って登るのは初めてだ。
今までは、宿にまずにをおいて、それからだった。
それでも、昨日の温泉効果か、足が軽い。やっぱり、2会温泉にはいるというのはきくんだよねえ。
途中で、お寺の庫裏を作っているという大工さんの作業場で休ませてもらう。そこに来たのは、逆打ちのおじいさん。道がよくわからんし難儀しているという。一度など、崖から転げおかにてめがねととけいをなくしたとか。どんな迷い方をしたんだろうか。

9時過半すぎにお寺着。
背中に荷があったけれど、あまり疲労感を感じないで着いた。
しかし、お寺は車お遍路のラッシュ。まあ、ピストンで、ハイヤーが運んでいたからね。おいしいお水をいただいてからゆっくりとお参り。
その後、初めて神峯神社に登る。
下はお遍路さんラッシュなのにここは深閑。900年の楠、600年の杉などがすごかった。古さびた、たぶんお寺より古い神社だ。灯明岩もあった。

降りていくとさっきのラッシュは嘘のように引いてのどか。納経をしていただいて、歩かれているから、とコーヒーとお菓子のお接待を奥様からいただいた。
朝の残りのおにぎりを食べながら休む。
奥さま寄ればあの神社あたりは、ここのように水が出ないという。
ふしぎな話だ。
お礼を述べて辞す。
雨も上がりかけ。

途中、野宿のおじさんに会う。
昨日はあまり寝ていないという。
何と、御霊跡あたりのバス停も野宿の人でいっぱいなんだったとか。ふーん。
気をつけて、無理しないで、といって別れる。

打ち止め。12時19分のこう知恵奇異機のバスで出た。
空港でkさんとお別れ。
ありがとうございました。

私は高知駅から松山へ。
yH泊。
道後温泉のあと、おいでんやでビールと地酒でかんぱい。おいしかった。
YHでpcをやっていたら、スイス人為電話をかけてくれと頼まれてかけた。
福岡から来たおじさんから、奥さんが不作だった。息子がかまってくれないという愚痴を聞かされた。

明日は、周防大島へ行く。








2002年04月22日(月) ★リアルタイムお遍路日記 馬路村に来てしまった!★

5時過ぎに起床。
6時に勤行なので、支度をして出た。
ご住職ではなくて、若いかた、あととりができたんですね。このお寺も・・・・。
お経が終わって、その後にお説教があったが、15分ほどの間に5つほども話題があり、少し欲張りすぎの話だった。

朝食。夕べの6人が同じテーブル。非mrじから、お父さんに3週間分食費を渡して出てきたおばあさん?は、足がいたい、足が痛い、もう帰ろうか、でも2週間は帰りたくない思ってるし・・とぶつぶつ言いながら食べている。
バ27番は、バスでふもとまで行って、そこからタクシーにしたらどうですかといったが、どうするんだろうか。
yさんは足が速いし、もう一人の方は何とお寺で尺八を奉納しての旅だった。
精進君(精進料理しか食べない・・ベジタリアンくん)は、優雅にまわっている感じだし、みんななかなか個性があるお遍路さんだ。

ここの奥様は、昨日もいそがしそうだが、今朝も大変そうだ。
それでも、私たちが支度をして歩き出したら、外まで飛び出してきて「道、わかりますか?」と叫んでくださった。ありがたいことだ。
個人的には、26番さんの宿坊は私が泊めていただいた宿坊の中ではベスト1だと思う。
95年の時は、いわれた方へ歩き出したものの、印が少なくて困ったが、今回はその充実ぶりにびっくり。これでは迷いようがない。

下の国道まで出て不動岩までいく。
裏の岩までまわると、そこには精進君がにこにこ座ってるではないか。
おやまあ。
私が、お大師さんがご修行なさったところはあそこという説があると、話したからだという。
しばらくはなす。
彼は、フリーでマスコミのお仕事をしているとかで、充電期間として88カ所をまわるということだ。

この後、私とKさんが休んでいると追い越していったり、私たちがまた追いついたたり・・・で、あちこちで会う。

室戸市吉良川東の橋あたりに町並み保存地区ができて、きれいなトイレと休憩所ができていた。
これがあると、クジラ館からここ、トイレきゅうけいに不自由しない感じ。
土佐街道沿いの町並みを眺めつつ歩く。

しばらくいくと道路沿いにヒラメの養殖場もあった。珍しいので寄ってのぞくが立入禁止、で、おじさんがにこにこしながら出てきてなんか?ときかれてしまった。

羽根のあたり、旧道にはいる前、男性の「おへんどさん」に会う。
今日はまだ、カップ面しか食べていない、お接待を・・とおねだりされたので
500円玉を一つ、車にはくれぐれも気をつけてと別れる。
17年まわっているって、もしかして熊さん?とも思ったが後の祭り・・・だった。

旧道をよれよれと登っていくと、道が今修理されたばかり・・という感じ。
おや?と思いつつ登ると、そこにはへんろみち保存協力会のバッジをつけたおじさん。今日は、草刈りをしたり、水はけ用の溝を切ったりしながらこの峠の整備をしているという。しないとすぐに草が繁茂してまむしも出るという話だ。
ありがたいことだ。
休んでいきなさい、といわれて、お接待にド栄養ドリンクをいただいてしまった。
ご自分で飲もうと持ってこられたのだろうに。
宮崎さんの協力者の方だ。
その後降り口まで一緒にいく。
今は草が茂り気が森を作っている道の両側はかっては竹や田圃があったのだとか。家もあったし・・・国道ができてすっかり変わってしまったようだ。

くだりは滑るとこがあるから気をつけて、と心配してくださった。

ご霊跡でささやかな昼食。
お天気はよく晴れてあせびっしょり。
どうも時間がはんぱだ。
今日は安田川上流の馬路村泊まりだが、バスで行く。6時台のバスだと、27番を打てるが、4時台だと打てない、というより、かなり無理をしないと行けない。
温泉に2回はいるには6時台だと無理だというか、着いて、夕食、せんたく、温泉1回で終わりだろう。

27番は明日、4時台のバスで行くことにした。急ぐことはないのだ。

それでも国道で尺八のおじさんを追い越し、休んでいたら、追いついてきた精進君と歩く。
「4時頃に27番の麓にいかないと」というが、歩みはけっしてはやくはない、おそくもないが・・・。
いちおう、先に立って歩くことにした。
3じ過ぎに安田町の橋を渡る。
これでいい、浜吉屋さんに荷物をおいて登るといいよといって別れる。
私とKさんは、地元の人にきいた「十字路」というサテンでコーヒータイム。6時のバスなら私たちもお参りできるんだが。
でも、コーヒーとお水がすごくおいしくてほっこり、リラックスしてしまった。
ちょうどいた地元の方たちと、馬路村のユズぽん、ごっくん、マリンゴールドの話などで盛り上がってしまった。楽しい時間だった。
遍路道から数十メートルはいっただけだが、お遍路さんが立ち寄っている気配なく、地元の人のたまり。こういう寄り道もたまにはいい。

4時44分、安田町JAの前からバス乗車。
乗ること30分、安田川沿いのくねくね道を奥へおくへで馬路村到着だ。
降りると、高校生の男の子が馬路温泉まで案内してくれた。
私が馬路村のゆずポンがすきで、どんなとこか来てみたくて・・・といったら、前もそんなことをいっていたお遍路さんが来た・・とはなしてくれた。
どうも、時々私たちのような人を道案内しているみたい。
「この村の人口は?」
「1300人くらい、この馬路村馬路には1000人くらいがすんでいますが」
なんて答えが礼儀正しい言葉ですらすら出てくる。
それになんとこの高3生、自宅とは反対方向の道なのにつれてきてくれたのだ。
「たのしんでいってください」
といって帰っていった。
偉い子じゃ。

温泉も山菜やアマゴのユズ味噌焼きなどお料理もおいしかった。
すごい寄り道、大正解。
明日の天気が心配だが。
今年の高知は雨が多いという。

明日、27番さんを打って今回の打ち止めとする。
今日も、いろいろな人にあった日だった。
ありがとうございました。



2002年04月21日(日) ★リアルタイム日記 ただいま26番金剛頂寺★

 夕べはすごいあれようだった。夜中、まるで木の葉の舟に乗っているような海鳴りに一晩中包まれた。
 し・か・し、一昨日の鶏よりいい。
 朝まで雨は残り、海は白い波頭を見せてあれている。
 なにしろ、ロッジ尾崎さんの海の見える部屋に入れてもらったから迫力満点の室戸の海を眺めることとになった、朝から。今日は雨の歩きだ。
 6時半、下に降りると、はなちゃんが濡れて寝そべっている。ご飯はできてカウンターの上。昨日のお客は、私たち二人と船橋から来たというyサンというおじさんだったが、彼もでようか、どうしょうかという感じで外に出ていったが、私たちは雨でも歩くから、外も風が強くなければオーライだ。

食事を終えて支払いの段になって、おまけしてくださった。
「ホントはお接待しなければならないんだけど」
 と、おかみさん。
とんでもない・・・。またくることができて、楽しい話ができてありがたかった。
でがけに、たくさんのビワと増築祝いだというタオルのセットをくださった。
琵琶はホントに豪華。

外に出ると、ぬああ〜と温かい。雨だけど、寒くはないのでまあ何とかなるだろう。
女将さんが私たちの姿がなくなるまで送ってくださった。
凍らせた水入りペットボトルを用意してくださっていたが、さすがに今日は飲まないだろうということで重たいから辞退した。

以前歩いたときは室戸までの道はほとんど歩道がなかった。
しかし、今回、ずっと歩道(一段高くなっているというところも含めてだが)があった。安全度、すこし高くなった気がする。
 海を見ているとなんか黒潮が近い。すぐそこを黒い流れが流れている気がする。
 椎名漁港でトイレを借りて雨の中を休憩。
欲を言えば、このルート(佐喜浜から室戸岬まで)に屋根付き四阿とトイレがあればいうことなしだけど。室戸市に要望を出してみようかしらん。

椎名の付近、波が高いあたりでサーファーが遊んでいる。
そこに漁師ふうの親父さんが何かを叫んでいる。
「どうしたんですか」
「あそこなあ、あぶないんじゃ。波に持って行かれて頭ぶわる・・・」
きけば、一番波の立っていないとこが一番危ないのだという。
そこは、外への潮の流れがあって持って行かれて返す波に飲まれて岩に頭をぶつけると、いうことになるらしい。ふーん。

室戸青年大師像前、10時35分着。大休憩。
雨だと休みがすくなくなるので予定より早かった。
小降りになった雨はほとんど上がっている。
みくろどうによって、24番への遍路道を登る。
あついし、きついし、たいらなとこを歩いてきてこの急坂はやっぱりこたえる。
でも、そんなに距離がない、とわかっているのでやっとこどっこいで我慢できるが。
11時40分、最御崎寺。
kさんとワタシが本堂のお参りを終えて大師堂に向かったら、同宿だったYさんが見えた。
「きいてくださいよ、ずっと私にに犬が付いてきてね」
「はなちゃんが?」
「違いますよ、どうも捨て犬かな・・腹が空いているようで、なんかあげようにもなくて、通りかかったおばさんにこのへんにお店はないかときいたら、ないといわれたんであきらめていたら、その人が車でパンを買ってきてくれたんですよ」
 それで、そのパンをお犬さまに・・か。
 その犬くん、遍路道をずっと一緒にあがってきたらしい。
 そこまで話すと、yサン、また姿の見えなくなったお犬さまを探しにいった。
昨日も今朝もはなちゃんにおかずをあげていたから犬がすきなんだろうけど。おもしろいお人だ。

24番さんの真新しいへんろセンターで、納経所にいた奥さんらしい人に予約はしてないんですがなんかお昼をいただくことはできませんか、ときいたら「カレーなら」ということだったのでお願いした。お接待で「室戸深層海洋水」がおいてあった。飲み放題。おいしいが、そんなに飲めるモノではない。
室戸で、変わったのは、この深層水の工場が大きく新しくなったことくらい。
ワタシは有名になる前、時々お取り寄せして飲んでいたのだが、みのもんたでやったとたん、手に入らなくなった、が、今はややだぶつき気味?なのねえ。
あちこちでこの水、見かけるようになった。
体になじむ優しい水、常温で飲むとそれがよくわかる。

雨は上がったが、用心で雨具を着る。でも暑いんだわ、サウナ状態。
のんびりと下っていたら、納経所にいたおじいさんが車で降りてきて「歩くんか?」とやさしげにきいてくれた。おじいさんは、25番と26番の間にある自宅に帰るという。のっていかんかと・・・・太平洋を見下ろす雄大な景色は遍路道でも好きな風景・・楽しみたい。優しくおことわりした。

25番津照寺着2時半。
ここで、お遍路バス3台分のお遍路さんに出会った。びっくり。あまり広くない大師堂前が新宿の雑踏のようになってしまった。
ついてすぐに納経帳を出しておいて、大正解だった。
ここの急な石段で捕まりながらゆっくり片足ずつ降りているおばあさんにあった。
「ご苦労様です」と声をかけたら、「じきにお四国さんにいくんよ、そんでな、石段歩けるろうかと確かめにきたんよ」
「ここをのぼっておりれたらだいじょうぶですよ」
「そうややなあ」
とにっこり。

お天気は落ちてきそうで怪しい、いよいよ蒸し暑くなる。

室戸の町中をてくてく歩く。町中、どうも活気がない。好きな町だけに気になる。
金剛頂寺までの4キロ妙に調子が出て、はなうたがでてきて、どんどんスピードが上がっていく自分にびっくり、後ろのKさんを気にしないといけないのだが、どうにも足がいってしまう。こまった・・・どうしたんだ・・右足は親指の爪がとれてただいま成長中、いたいのに。

金剛頂寺4時5分着。
最後の山道がややしんどいが、まあ、時間通り着。

宿坊の食卓で、3人の歩き遍路の男性、70代の乗ったり歩いたりという女性遍路さんと同席。
明石から来たという女性は阪神大震災にあって家が全壊して引っ越したという。
そうかあ。
男性のうち2人は退職遍路さんで、一人はあのyサンだ。もう一人は31歳の秩父のお寺の息子さん。彼、精進ということで、お魚類いっさい手をつけていなかった。
食後、30分ほど、いろいろ話が弾んだ。楽しい夕食だった。
もちろん、メニューも豪華だったが。

明日は快晴らしい。神峯寺だ。しんどいぞう・・がんばろう。









 
 

 

 



2002年04月20日(土) ★リアルタイムお遍路日記 ロッジ尾崎さんにて★

参った、参った。今朝は、力一杯寝不足だ。
なんと真夜中3時に「コケコッコー」というすさまじいときの声に目が覚めた。
夕べ女将さんが「朝、裏の家で飼っている鶏の声がうるさいですけど・・・」という断りがあったのだが、ま、まさか深夜3時とはおもわんかった。
鶏はそのまま数分おきに鳴き続けて外は明るくなった。
あ、あんまりだ・・夕べは11時半近くまでインターネットしていた私、眠ったか眠らないかの時間に起こされたというわけ。
Kさんと、この宿(川渕旅館)はきちんとした宿だけど、あの鶏の声ではゆっくり眠れないし、歩きお遍路には向かないかも・・と話し合った。

6時50分発。
送ってくださった女将さんに「誰もあの鶏のことで苦情をおっしゃらないのですか」ときいてみた。
「いえません、あそこ、犬もいるんです・・お遍路さんの中には、あの鶏は鶏鍋になったか?といいながらお見えになる方もおいでて・・・」
はい、よくわかります。
ワタシも、鶏鍋だ、とさけんでましたから今朝。

今日は予報では午後が雨。
せっせこ歩いてできるだけ早く尾崎さんに入ってしまおうという予定。
土曜なので、55号線に車が少ないのが幸いだ。
九時半には東洋大師着。尾崎さんに、どうも2時くらいには着きそうと電話した。
東洋大師はご住職さんが若い方になって違うお寺になったか、と思うくらい華やかになった。
滝行、通夜堂、お接待所などなど。
納経の時に「前のお年を召した方は?」ときいたら「老人ホームに行きました」という返事だった。
大柄のばりばりのお坊さんだった。
通夜の人のことをきいたら、昨日2人、今日3人と泊まります、今年は異様に多い、どうしてとよくきかれますが、私もわからなくてね、といわれるので「お大師さんがお呼びになっているんでしょ」といったら、そうですね、それが答えとしてはいいですね、今度私もそう答えますと笑われた。

野根の町中まるたや旅館、廃業の噂があるが、ここがなくなると困る人もいるよねえ。小松やさんはもうやめたしねえ。
蒸し暑い。汗が出る。黒潮の影響かな?
雨はまだ来そうにない。
伏越をすぎて、御水谷のあたりでイルカの大群を発見。
kさんと、すごい数がいるねと眺めた。
去年土佐のクジラを見に来たワタシ、いないか?と沖を観察しながら歩いていたのだ。しかし、クジラは見えなかった。

法海上人堂で休み。高見さんご苦労のお堂はすてきだった。が、お賽銭の盗難とかで、お堂はあかなかった。残念なことだ。
谷の水というのがうまかった。
海でごろごろと石が転がる音を聞きながら進むのは、室戸に向かっているんだな・・としみじみと、いうか、うーむというか。
12時過ぎに仏海庵着。即身成仏の塔でお参りをして出る。

着きそうで着かない室戸、佐喜浜の町。子どもたちが実に礼儀正しく挨拶をしてくれるのがうれしいというか、感激だ。
1時半ロッジ尾崎着。
サーファーがいる景色。、ごろごろと荒々しい岩の海。懐かしい。
尾崎の女将さんはケーキを用意して待っていてくださった。
昼食代わりのカップ面。ご飯もいただいて懐かしい話が弾む。
ありがとうございました。
kさんと今はなきご主人とお会いしたのもここだった。
いろいろと話がでた。
あっというまに1時間が過ぎた。
尾崎の女将さんは「毎日たくさんこられましが、いまはいろいろなおへんろさんがおられますよ」とはなしてくださった。
そうだろう。
Kさんと二人ずれのせいか、一人の時ほどいろいろな人から話しかけられない。

今日は、これから昨日の鶏不眠を解消せねば。
明日は室戸だ。




2002年04月19日(金) ★リアルタイムお遍路日記 本日38キロか?★

快晴。6時55分出る。薬王寺に朝日が当たって美しい。
今日のテーマは、インターネットからもらってきた資料で、旧土佐街道(旧遍路道)を歩くこと。
場所は、日和佐トンネル前後のよここ峠越え、牟岐の八坂八浜ラインだ。

55号線に出て歩き出したとたん、「ご苦労様です」と、ジュースのお接待をいただいた。今日は暑くなりそうだし、ありがたい。
8時すぎに、日和佐トンネル前についた。
トンネルの前、左側から旧街道にはいる指示が出ているが、そこにはガードレールがあってまたがないと入れない。それに草ぼうぼう、ゴミごろごろ・・ホントにあるけんのって雰囲気がただよっている。
kさんと柵を越えて一休み。
見ていると、またたくまに二人のお遍路さんが立ち止まってしるしと説明を読んでいたが、トンネル抜けで行った。そりゃ、トンネル抜けは690メートルの不愉快、よここ峠越えは1,4キロ、30分。初めてだと本道からはずれたくないこともあってこちらにはこないだろうとは思うが・・・それにしてもたった10分の一休みタイムに2人も歩きの人が行った。

さてよここ峠。
はじめの600メートルは、夏は草が茂りそうな砂利道、広い道で、木や草の無効に白いガードレールまで見えている。無足は海岸沿いの町に抜ける車道だったことがわかる。次の200メートルは山道、登り。でも地道だし、鶏が鳴き、風の音がして、すごくいい感じ。やがて、峠についた。よここ地蔵さんがまつられていた。
どなたかがお世話なさっているのだろう、きれいだ。
最後の600メートルは急な下り。杉林の中にかすかに道の痕跡をとどめているところをテープや遍路印に模した手作りマークが導いてくれる。
迷う心配はない。
鳥の声、涼しい風、静寂。きれいな空気。国道歩きのストレスが一気に回復する清涼剤的ルートだった。確かに30分きっちりで国道に戻った。

その後打越から牟岐へとすこしさみしい地域が続く。
小松大師の手前から急に後ろに引かれるような感覚と、肩の痛みが来た。
あれれ・・・なんか、誰か・・・いる・・仕方ないので口の中でぶちぶちとご宝号を唱える。
だめだ・・・
「kさん、私、小松大師さんできっちり少ししっかりとお参りしますね、どうも誰かついてきたみたい」
「そう・・・」
「なんか、ザックを引っ張られているみたいなの」
 小松大師さんで、わげさとお線香、お賽銭などを出して、きっちりと心経をよんだ。そして、ついてこないでください、ここでお大師さんと一緒にいてみんなに拝まれてください・・とお願いした。
 しばらくして大丈夫そう・・となったので、近くのお店「おかざき」の前で休憩とした。
 歩き出したら、微妙にザックの持ち手を引っ張られる感じと肩の痛みはなくなっていた。やれやれ、どんな方がおられたのやら・・。

牟岐の町中に「旧土佐街道」という印ができていた。
見れば、平成14年1月、ついこの前に設置したばかり。
まちなかで、「まだこおっているけど、」とペットボトルにいれたお茶をお接待でいただいた。持っていると冷たくて気持ちいい。朝いただいたモノは休憩のときに飲んだし、ありがたい。
設置といえば、牟岐警察の前にもお接待所。
テントが張ってあって、休めるようになっていた。
いつもは誰かがつけているようだが、今日は無人。先客の男性遍路さんがいた。
いただいたばかりのお茶とたまちゃんからいただいた「かつ天」をたねた。一枚はお接待で差し上げた。初めて食べたけど、カレー味でおいしかった。
男性は遍路宿で一緒になったご同行さんを待っているとかで・・30分も待っているのにまだこない・・と心配していた。
歩調が違うんだったら、一人で歩けばいいモノを・・・と思うが。どうも男性はツルミタがる?
Kさんは、お接待所においてあったコーヒーをいただいて元気になった。
何しろ、コーヒーが元気の源の人だから。

牟いよいよ「八坂・八浜ライン」だ。牟岐トンネルを越えて2本目を左に入ると、すぐに登り。イヌがわんわんと大騒ぎでほえるおうちの前の竹藪がなんとこの道のホントのいりくち。
「昨日も6人ほどの人が越していったよ、だけど、下の道行くより2倍ほども時間かかるよいいです、ありがとうございます、と親切にお礼を言ってからあがり始めた。
まずは大阪峠越え。急坂を登って後は下り、だがそれが滑り気味の道で怖い。
出たところは海の見える静かな風景。
きれいだ。丁寧に指示が出ているので、これまた迷わない。
草鞋大師にお参りしていたら後ろから女性のお遍路さんがきた。内妻浜に向かおうとしたら、一見のおうちからおばあさんが飛び出してきて「あんあたら、安全たすきを持っている?」
もっていません、トンネル歩かないし・・
「接待所でもらわなかったか?」
「誰もおられなかったですよ」
私もいつもはいいておるんじゃけんど・・といいながらちょっと待ち、といってうちから安全たすきを持ってきてくださった。せっかくのご好意なのでいただく。
牟岐のトンエルでお遍路さんが車に巻き込まれた、それがこのたすきにつながったという噂は知ってはいたが・・どんな事故だったのだろうか・・心配になる・・・。
内妻の浜から、松坂峠へ。
なかなかの急坂だったが、登り切って昼御飯。おいしかった。
古江の浜はまさに海岸を歩く道。
八坂、八浜というけれど、お大師さんのころから、そうだったのでは、という浜の風景だ。
やがて国道へ。
福良トンネルを抜けて鯖大師についた。
1時半をまわって2時に近い。これ、かなりおそい。
お寺にはすでに3人のお遍路さんの姿がある。
ホントにたくさんの人が歩いておられる。
たまちゃんのお父さんが室戸まで歩いている人を数えたら、63人いた、という話をしておられたがうなずける話だ。
今日のゴール、海部まで、何とはなしに5,6キロと思っていたのだが、ようくカウントしたら8キロあまりもある。どひゃ・・・こりゃたいへん。
「仕方ない、1時間5キロ歩きしますから、そのおつもりで」
Kさんいことわって歩き出した。
じゃないと5時2分の阿佐海岸鉄道に乗れない。
「女てっちゃん」<女の鉄道好き>、入っている私は、前からこのミニ電車に乗りたかったのだ。

ただ黙々、どんどんと歩く。
結局4時30分過ぎ海部町着。
Kさんには悪かったが・・・でも、彼女は私より11歳年上。私は彼女の年になったとき、こんな歩きができるか・・・自信ない。
そう距離38キロほどあるのではないか?今日は・・・立派。
kさんと、自分をほめてやろう。

海岸鉄度道のお客は私たち二人だけ。
赤字続きで存続が危ないというが、なるほど、と思う。
でも高所を走る1両のかわいい電車だった。中もきれいだったし。ことしは、開業10周年という。

今日の宿、かわぶち旅館さん着5時40分。
今日は新聞の原稿の校正の日なのでT新聞に電話。
居場所をいったら、担当のS氏、ええ??となぜか、大笑いだ。
宿にはfaxがないので電話口で原稿を読んでいただく。なおし、なし。


kさんは、今日の方が元気、このくらい歩かないとだめね、とばりばり。歩きながら、なきご主人のお話もたくさんなさった。景色とともに二人で歩いた思い出がよみがえるのだろう。
私たちが初めてお目にかかったのは、鯖大師だった。
考えてみれば不思議なご縁だ。

今日の予定はこなした。
二つの国道からはずれるルート、なかなかよい道であったとと思う。評価A。
印を付けてくださっている方々に感謝である。


















2002年04月18日(木) ★リアルタイムお遍路日記 薬王寺まで ★

昨日書き漏らしたこと
慈眼寺の穴禅定で、2年ほど前に、どなたかがなくなったらしい。
穴に入って、心配になって心臓麻痺の発作、だったようだ。
同行のKさんとも話したことだが、ご遺体を出すのをどうしたんだろう。大変だったろうな・・ということ。

今朝は6時起き。昨晩11時すぎだったのですごく眠い。
外は晴れ。よかった。
新聞紙を詰めておいた靴も乾いている。
6時半朝食。
タクシーを7時に頼んでおいたので、外を見るともう待っている。
阿瀬比までタクシーで行って「遍路小屋」を見学して、大根峠を越えて平等寺。そこから薬王寺まで行く、が今日の予定だ。

タクシーの道々、一昨日に見たお髭お遍路さん、遍路道であって一緒に歩いてほとんどカップル化している若者組を見る。
お髭さんは、歩くことにこだわっているように見受けられるし、若者組は二人の世界、声をかけるだけ野暮。。
みんな、宿がなくて、ロープウエイで降りた歩き遍路さんだが、問題は、yさんという大阪からのおっさん。
「ホテルから、阿瀬比までは、6キロから8キロあると思うし、私たちはタクシー」といったら、そんなにあるか?ワシを見たら、乗せてくれ、と頼まれていたのだわ。
後、2キロくらいというところでおっさんの青いザックが見えた。
タクシーのドライバーさんが後少しですよ、という。
おっさんの横につけて、あと2キロほど見た井だし歩いてはどうですか、というと「いや、お金、払うし、乗せてえな」とのってきた。
「歩いている人からもらえんし、お接待」といったら、じゃ、小銭だけ払うわ、とおじさん、300円をくれた。
遍路小屋で休んで、昨日いたいだたちくわを2本、朝ご飯をたべずに6時に出たおっさんにプレゼントした。
遍路小屋はおしゃれな形で、座る場所によって、高野山や善通寺に向いているらしい。また2本の木組みは同行2人を表しているのだとか。

7時25分出発。
いきなり大根峠はつらいかな・・と思っていたがそうでもない。
特に登り切ってからの道があの評判のよくないコンクリートの段ではなくて、単なる山道、地道なのがうれしい。足が喜んでいるのがわかる。
ここは「いやし道」」とかネーミングされているようなのだが、わかるよなあ。
タケノコが道にまでにょきにょき生えているし。
「タケノコはえらい、どんなとこにでも出る」とkさんと話す。

平等寺着 8時40分。
天気が良くなってどうやら今日が大丈夫そう、となってきた。
いざり車を撮っていたら、カメラがトラブル。作動しなくなってしまった。
あのGR1、だ。去年11月になおしてもらって6ヶ月もしないうちにまた、だ。困ったもんだ。これじゃ信用して持って出られないではないか。
平等寺の一番右の「いざり車」は大正期のモノだ。
トイレにいったり霊水をくんだりしてなんと9時20分になって出発だった。
平等寺からで立てすぐのとこれの橋が工事中で落ちている。
数分上流に迂回して、川沿いを工事中のところまで戻って歩き出した。
この川は河床が菜の花畑になってすてきなのに、土手をコンクリートでかためていやにきれいにしていた。残念。

いきがけの電柱に宿の紙が張ってあるのを見つけて写していたら、定年で歩いている感じの男性遍路さんが追い越していった。
この方は、少しきいたら、昨日は坂口屋と太龍荘が満杯で阿瀬比まででてバス・伝書を乗り継いで薬王寺会館まで行って泊まり、今朝またここまで戻ってきたのだという。
ご苦労様です。

ところで宿の紙。
「素泊まり お一人様 1500円 水洗トイレ、風呂付き
 22番から23番の間 連絡先 090 1171 5785」
歩く人が一番やどに困るルートだが、どの辺なのかは、住所とかいっさいないのでわからない。電話も携帯の番号だし。
でも、ものすごく困ったら試す価値はありそうだ。

月夜お水庵で一休み。
ちくわをおやつでいただく。
お水庵、だが水はかれたままだ。国道や道ができた背で水脈が断ち切られたのだろう。

国道に出て、鉦打坂のお薬師さまにお参りしてから歩く。さすがに国道、うるさい、空気は汚いし。
一時間に10分、規則正しく休みを入れながら進む。
風が冷たくて太陽が出ないのですずしい。
びっくりしたのは、鉦打トンネルに立派なガードレール付きの歩道ができていたこと、福井トンネルにトンネルにはいる前にボタンを押すと、トンネル横に歩行者あり、注意、が出る電光掲示板ができていたこと。
誰かが事故ったのかなあ・・・・・

星越茶屋でお昼。
お変わりないが、犬の数が少なくなっていた。
月岡さんの小さなポスターが張ってあったのでお噂をした。
よかったら、とお接待で出してくださったタケノコがすごくおいしかった。今まさにタケノコが旬。
1時、午後の部、開始。
ふつうに歩いて4時、早かったら3寺過ぎですね、とKさんと話しながら。

廃業している満腹じゃ屋近くのおみかんやさんで母へ土佐文旦を送る。
前の2回もここから、送っている。
小夏がでていた。売っていたおばちゃんによればゴールデンウイーク頃が一番おいしいという。
そのころ、電話で頼むことにした。

せっせと歩く。
景色に変わりはない感じがするが、歩道が増えた。
95年歩きの印象では、歩道がない55号線、という感じだったので。
3寺40分薬王寺着。
まあ、まあ、ですね。
納経をし、西国(和歌山)で会ったおばさんからきいた紀州接待講のことをきくと接待講の手ぬぐいをくださった。
荷物をおいてお参り。肺大師のお水をいただく。

4時半すぎ、今日の宿、日和佐YHにつく。
出てきたおばちゃんは、非会員のKさんもサービスで会員と同じに泊めてあげる、というが、お風呂がない(工事中)ので千羽の温泉に行けという。
いいけどさ・・・予約のときはそんなこといわんかったぞ。それで予約とるのはアンフェアだい。
おまけに、ホステルシーツも出てこない。洗濯機も古いタイプ、ついていないとだめ。とにかく、YHらしくない。
ホステルシーツ、浴室、洗濯乾燥室、清潔な広い洗面所等々・・インターナショナルなYHの条件をクリアしていない。
部屋に入れば寝具はきれいとはいえないし、「ホステルシーツをください」とおばさんにいってみた。
「わたし、このYHの潜り込むシーツ嫌いなんやわ」といいつつ出してくれた。
あの、好きか嫌いかは客が決めるよ・・・とはいわんかったが・・・・
おばちゃん、このYHシーツ。私は外国に行くときは持っていくよ、YHにはこれ、つきものよ」
「そうなん・・・」
おいおい・・・そうなんよ。

千羽温泉は気持ちよかった。500円だったけどね。
硫化水素泉だったが、私は肺大師と同じくラジウム入りではないかと思うのだが。
受付の子にきいたが不明だった。

山帰来の葉の柏餅を買ってぶらぶら帰る。
夕方の薬王寺は、それはそれで繪になる。
夕食の御支度ができていた。
てんぷら、やき魚(鰆)、タケノコと若竹煮、三つ葉ごまあえ タケノコお澄まし
お新香と梅干し
どれもおいしかった。
特にタケノコがおいしかった。今日2回目だけど、飽きずにきれいに食べた。

私たちがデザートで柏餅を食べていると、おばちゃんが出てきてYHの話をいろいろとする。
知り合いにここを任されているとかで、どうもYHのお約束などをおばちゃん、よくしらんみたい。
私は泊まったYHの様子などをきくのでいろいろと話した。

明日は6時半にご飯を用意してくれるという。
4時でもするよ、といわれてびっくりした。

泊まり客が少ないので静かだ。









 





2002年04月17日(水) ★慈眼寺から太龍寺まで★

まずは、慈眼寺の穴禅定
6時に起きてしたくをしていたら、もう外でお参りの声がする。
なんと、10人ほどのグループが雨の中、待っている。
きけば、穴禅定を一番に入りたいので待っているとのこと。気合いが入っている。

7時、素どまり3000円と穴禅定1500円をお払いして、行衣なる白衣を渡された。そしてどうしたら・・とおききしたら、肌着の上に行衣を着て、なにも持たずにということだった。狭い岩場をくぐることはきいてはいるがどんなところなのか・・・案内人の女性が見えて出発。本堂から1キロほど登る。
すごい岩のしたに、観音堂。そこで「今日の18人の人が早く出られますようにと、ガイドさんは祈る。さらにきけば、柱と柱の間を通れないと、入れてはもらえないのだという。さらに、私は眼鏡も取れ、といわれた。
いったいどんなとこなんだ?

テストの結果、団体さんの男性一人が通れずにのこるととなった。
ワシ待つわと、心なしか沈んでいるその人に(去年も通れずに入れなかった・・本人曰く、ワシ、去年よりやせたけどな)
「おじさん、私が代わりにお参りしてきてあげるわ」と声をかけて登る。
お大師さんが、21日間護摩をたかれたという岩倉でまたお参り。そしていよいよ、ろうそくを片手に入道。
指示に従え、指示を後ろの人に伝達して、ということがしつこくいわれたがそれがよくわかった。何しろ、こんな岩の切れ目にどうやってはいるのという感じのところからはいるのだ。
ピラミッドも、トルコのカッパドキアの地下都市もはいったわたしだけど、これは少し勝手が違うぞ・・と・・・
はなから「亀歩き」という指示が伝達されてきた。
はあ?亀歩きってどんなんだ?
きいたら、かに歩き<横歩き>が伝達の間にかにが亀になったみたい、ははは、なんて笑っていられたのは、はじめの時だけ。
一カ所、どうもがいてもとおれず、デブだから?悪人は通れないとかいうことだけど、あたし悪人?
と悩むひまなくとにかく、今回の2回目というおばさんの助けを借りて抜けられた。ほんのちょっとの体のねじりとか、頭の下げ方とかで通る、か通らないかが決まる。しゃがみ、くぐり、時にははいずり、万歳をして岩の形に体を合わせ、足をほとんど真横に曲げて・・・何とかお大師さんが龍を封じ込めたという少し広い岩の空間に出た。要するにここは鍾乳洞。龍の形が残っているとガイドさんは話すが、眼鏡のない私には見えない。
もしかして、化石か何かがレリーフのように出ているのか?

またまた、右に捕まって鎖場、とか左肩からぬけてとかいう指示で歩き始める。こんどは、奥の院まで。
前の人が親切にいろいろと助けてくれる。
抜けるのを待つ間、前のおばさんと話した。
その人は昨7月のご主人を亡くして、でもご主人も去年の五月には88カ所を満願したんだけど、でもここはだめだった。ご主人の前の人が詰まっていけなくて、その後ろに続いていた人たちもでないといけなくなってしまって・・だから主人も連れてきたんよ、写真をポケットからだして、ろうそくの光で見せてくれた。
 やがて奥の院。
鍾乳洞の間に、お大師さんがまつられていた。
そこで、ご祈願とおつとめ。
なんか、すごい感じ。

出るのも大変。お母さんの胎内をくぐって出るという設定で、ホントに何回かはいはい状態でとおりぬけた。
要するに、岩と洞穴に私たち人間が体の合わせる。岩と一体化しないとはいれないし、出られない、のだ。出てきたときは外の広さ、明るさがありがたかった。
カッパドキアにいったときも外に出てほっとしたけど、それとは違う。
自然と合一するトレーニングなんだわ、穴禅定って。
というのが私の結論。
中で、ほぼ1時間。だった。

9時20分、出る。
鶴林寺、太龍寺といかねばらない、すごい降りの雨の中。きつそう。
ところが出た早々、実は大変な間違いをしていたのだ・・
昨日車で確かめていた「へんろ道」のしるしが出てこない。何で・・あれを見逃すはずはないのに・・・・おまけに車の数が少なすぎる・・・。でも、1時間40分あまり歩いた。しかし、1台も車がこない。これはヘン・・・とお寺に電話をしたが埒開かず。「どこにいるかもわかんない、お大師さん、どうしたらいいですか」と雨でガスる空に向かって叫んだとたん、何とその霧の中から白い車の姿が。
「あの、ここはどこでしょうか」
 くるまのじょしゅせきの女性「お遍路さんやね、どこにいきたいん?」
これこれで、といろいろはなして「横瀬」に降りたいんです・・・がといったら、この道が反対よ、どうしてまたこの道へ・・はあ?
「私たちは、今日休みやし、この先の山桜を見にきたんよ、でもガスでなんにもみえんね、私らも横瀬には12寺頃には帰らないけないしおくってやるわ」
「やった!!!お大師さまにあったようです」

道をどんどんと戻り、なんと寺の門前へまた逆戻り。
えええ???
つまり、お寺を出たとたん、左に行かないと行けないのに、右に行ったのだ。もうはじめの3分で間違っていたのだわ。ないわけだ。
逆戻りの間、一台の車にもあわなかった。
叫んだとたん、車が来たのはまさに超ラッキーだったわけだ。
「鶴林寺までいってあげるわな、そうしたら、楽に次まで行けるやろ」
ああ、ありがたい・・ホントに自然に手が合わさる。
「私らは、夫婦で山に木を植える仕事をしておるし、あそこの寺は仕事場の範囲よ、よく知っているしな」
とにかくこの方々にお会いしないと、もう今日の予定なんて、チャラになるとこだった。
何とも不思議な、ありがたい出会い。
やっぱりへんろ道って、不思議道。
鶴林寺さんの話や、木の話などをしているうちについた。
住所を教えていただいて、納め札が出せないので、私の名刺があったのでそれをお渡しして「今回の予定を無事にこなしたらお礼のお便りをだしますので」と我らがお大師さまとお別れした。

雨はおお降り。
どこもかしこもガスって白い。
鶴林寺本堂で、歩きお遍路さん3人とあう。
宿は?という話になって坂口屋とか龍山荘とかいうので、満員だよ、と、いうとみんなにわかに焦りだした。
若い男の子がすぐに携帯で電話。
そうですわ。と愕然。
ロープウエイ下なら、とおしえたが・・初遍路の人には不本意だろう。

1時頃でた。
太龍寺、3寺30分過ぎ。だけど、なんかお腹がすいて力が出ない。今日は道間違いのどたたばたがあったので、おにぎりとかがないのだ。ありあわせの非常食料を食べたのだが、やはり山道では腹に力が入らない。
結局、山門で大休憩をしていろいろとまたしても食べてお寺へ。
5時のロープウエーで降りる。南の舎心にたつというお大師さんの像もガスってよくは見えず。少し心残りだった。

降りるとなんとたまちゃんのお母さんが待っていてくださった。なんとたまちゃんとお父さんは太龍寺まであがったのだという。
5時半過ぎにたまちゃんと、ご両親が見える。
少しばかりおみやげを持ってきたのであげた。
たまちゃんは、kさんにお接待の腕輪と藍染めハンカチをプレゼント。私もいただいて、今回もしてきている。お揃いになった。
kさんは大喜びだった。
そしてなんと彼女が持ってきていたマローという栄養剤を薬が好きなたまちゃんにプレゼント。
鶴林寺と太龍寺を打ってきたたまちゃんもややお疲れ。しかし、いい笑顔で、またお遍路いこね、また来てな、とうれしい言葉。
はるばるとありがたかった。あえてよかった。
お母さんからも、徳島名物のお菓子やちくわなどをいただいてしまった。明日の食料だ。ありがたい。

3人を送りに出たら月が出ていた。明日は晴れそうだ。
今日は大変な一日だったけど、「お大師さん」2人にあえた日。











2002年04月16日(火) ★ リアルタイムお遍路日記 第19番 立江寺から ★ 

バスは予定通りに6時50分、徳島駅に着いた。
お天気は小雨。しかし上がりかけ・・・どうなることやら。バスには、私たちと同じくお遍路が目的の人3が人いた。
しかしご夫婦の人は、極楽寺でグループに合流するらしく、私に極楽寺の駅は板東か、板野かときいてきた。「板東だと思いますけど」と答えてはおいたが。
駅のトイレで一応の洗面をすました。

私たちの電車は7時21分阿南行き各停だ。
立江寺着7時50分。
電車を待ちながら小松島名産のゴボウ天、電車でおにぎりにお茶。これが朝ごはんだ。
寺まで歩いて5分という感じだ。
お参りをし、身支度をし、雨が降るかもというのでその準備もし・・で、結局寺を出たのは8時50分だった。少し遅い・・・
今日のコースは星の岩屋経由、別格3番慈眼寺で。距離は約23キロ。しかし、山、登りが多いので結構気合いを入れないとやばい。

雨はどうやらやんでくれそうだが、風が強い。おまけになま暖かくて汗がベットリと出る。徳島の田圃はもう田植えがおおかたすんで、今更ながら暖かいんだ、と思う。ツツジは散りかけ、シャクナゲも咲いているし、で春が長けたなんてもんじゃない。初夏、だよ。
沼江大師のてまえで、車から「はい、なめてや」とあめをだしてくださった女性が、このさきの「大師の里」というかんばんをだしているところでコーヒーをお接待してもらえるし、お参りが済んだら寄ったらええよ、と教えてくださった。
コーヒーは同行のKさんの好物、というよりエネルギー源といっていい。
よらせていただこうということになった。

「大師の里」はすぐにわかった。
入り口を大きくあけて開放的。誰でも寄って、コーヒーをごちそうになり、話していけるようになっている。そこに、小柄で優しそうな奥さんと、ご主人の山村さんがおられた。よっていってや、と笑顔で声をかけてくださる。。
コーヒーは、なんと本格的なコーヒー、ひいた豆を煎れてくださるモノでおいしい。生き返った感じだ。
私たちがコーヒーをいただいていると、松下さんという人が遊びに来て私たちにミカンをくださった。
きけば、どちらも81歳とか。ええ!?だ。あと10歳若くいわれても信じる。楽しい時間だった。

山村さん宅は泊めていただけることもできるらしい。
何でまた、ときくと「去年、調子が悪うなって歩けなくなったお遍路さん、泊めたんや。それからじゃ、歩いている人にお接待しょうか、いうて始めたんや」ということだ。去年の3月くらいからですでに300人からの人が寄っていったり、泊まっていったりしているらしい。その方々のお札や、礼状が所狭しと並んでる。。
辞してからkさんと話した。
「まだ1年で300人て、1にちに一人だよね、それってすごいことだわ。宿も取れないわけですねえ」

山村さんに私の日記にこちらの連絡先を書いていいか、ときいて許可を取ったので以下に書く。もし、これからいくが、接待のお宿を探しているというはお願いしてはどうだろうか。

大師の里
勝浦郡 勝浦町大字沼江
山村英歓<08854−2−2798>
場所は、沼江大師から旧道にでてしばらくいくと右側。

山村さんは「あんたら二人、福の神がついている人相しているなあ。いい顔や」といってくださった。なんかうれしいぞい・・・(デレ)

生比奈の郵便局によって、ようように勝浦川をわたり、星の岩屋コースにはいる。
本番打ちの道からはずれたとたんに印がなくなった。覚悟はしていたが、ね。
おまけに地図に「星取り寺」とはいっているのは「神宮寺」の間違いで、探してしまった。そこでウグイスの声を聞きながら昼御飯。12寺40分。昼は星の岩屋で食べないとやばい、と読んでいた私としては焦り・・kさんは、おまかせ・・という感じなのでねあら、そうなの大変・・と。

20分のお昼休憩で歩き出すが、その後が大変だった。初めて遍路印が出てきたので、あった、という感じでそのコースを行ったら、なんとそれは車道。(もっとも林道みたいな、滅多に車の通らない道なんだが、てんてん道の歩道より距離があった)kさんと、あんな山の上に道がある、あの下くらいかな、とかってに場所を決めていたのでその「あんな上の道」を自分たちがあるいていることにがくぜん。びっくり。きつい道だった。1時50分過ぎに着。

星の岩屋(星取寺)はすごいこところだった。大きな岩の奥でお大師さまが修行なさったとか、悪星と落とされてこの岩に封じ込められたら、星が石になったとかいう伝説があるところ。滝、大岩、人気がない山中・・・幽玄で、パワーがあるところ特有のモノがそろっている。
滝はその裏を通ることができて「裏見の滝」という。
立江寺の奥の院。
汗水垂らしてもいく価値ありという気がした。
お寺で納経を、と思ってブザーを押したが留守。前に、鬼無の元みゆき荘で、春になったら高野山に修行に行くというてたし、おられないかもしれません、ときいたがそうなのかもしれない。

へんろみち保存協力会の道はたいていだれが歩いて「遍路道」とかのお札や道しるべをつけているが、なんとこの道では一枚も見つけられなかった。それは不思議なくらい。誰もきていない、といことではないのだろうが、少ないのだろう。
私はいつも、布きれに「南無大師遍金剛」と書いた道しるべを作ってくるのだが、今回は最後に忌々しい原稿直しの電話やメールでばたばたしていたこともあったしで、してこなかった。
悔やまれる。
あの道にしるべ札や、布があったら、一人で登った人がどれだけ心強いことか。

kさんが、星の岩屋の石段を登り始めたら足がつるという。
「痛いわ」
たぶん疲れだろう。
時間のこともあるし、明日は「お鶴さんと太龍寺」
無理をしないで、横瀬まで降りたら、慈眼寺までタクシーにすることにした。
下山道もまずは登って、それからまた降りて、また登り・・で、なかなか。
里が見え始めたら、そこで一人のおじさんにあった。
「阿弥陀石はみたか」
ときく。
いいえ。
お堂があったやろ、あの下や。
ありましたが、ここね、地図にある阿弥陀石とかいうのは。。でもお堂の中で見えないねとはなしながらきたんですけど・・・。
お堂の下や、谷がわや。
私ら、お堂の方だけ見て谷がわなんてきがつかなかった。
谷側を降りたら、即身成仏した人を封印したところ、たくさんの仏が石に彫ってある、阿弥陀石という霊験のある仏がたっているのだという。
ワシの知っている左官の人はそこでな、その仏から光が出ているいうて逃げて帰ったことがある、猟師でもあそこは薄暗くなると気持ち悪いらしいで・・・・
いってはみたいけど、私はそういうとこで、カンが働きすぎて怖い気がするし、気がつかなかったのは幸いかも。惜しい気もするが。。
何とそのおじさんは、私たちを相手に自分の子どもの子どものことからさまざま、30分も話してくれたよ。
71歳といっていたが、60歳くらいにしか見えない元気なお人であった。

横瀬で、お寿司をかって、車に乗った。
慈眼寺着,4 時40分。
タクシーの運転手戸田さんからきいた話。
慈眼寺の穴禅定で病気(癌)が治った人がこの十年来、和歌山から月参りにくるで、わしら、乗せるしな、その人。あそこで治る人はたくさんおるようや。

その穴禅定、明日、体験する。
ここは、前から来たかったお寺。素泊まりでも、と無理を言ってきたかいがあった。山の上のなんか力を感じるすがすがしいお寺だ。
境内の銀杏の木は600年モノ。その前からお寺はあったという。
宿坊は私たち二人だけ。
静かだ。
今、星の岩屋で、六甲のおいしい水を捨ててボトルに詰めた甘みを感じるお水を飲んで書いている。ホントにうまい。
今日は、結局、16キロほどしか歩いてない。
明日はロープウエイしたまで。
ホテルまで、たまちゃんが来訪予定。夜お父さんから電話があった。
「このごろの環の笑顔、いいですわ、親がいうんもなんやけど」
お父さんの声まで笑顔だった。
楽しみだ。
10時になった。寝よう。
今日もありがとうさんでした。



2002年04月15日(月) ★ 夜行バスでお遍路第2弾 出発 ★

午前中はfdsの集まりだった。
安全な食事、安全な食料の話が話題になった。
ホントに、なにを信じてよいのやら、だからなあ・・・
12時、次回の予定はみんなに任せて飛んで帰る。。
(sakurannkoさん、次回の予定教えてね)

やることいろいろあり。
ところがだ、今朝半轍で仕上げて、メールで出した原稿が戻ってきている。
やり方を変えてやったら、届いたのだが、クレームが付いた。
「実は、にたような感じの連載が先日から始まりまして、その連載とニュアンスを変えて欲しい・・・」
そりゃないでしょ。そちらが、できるだけ実体験で・・・というからホントに書ににくかったけどなんとかしたんだから・・・もっと早くいってほしい、方針が変わったんだったら。
そういったら「ええ・・確かに私がいったんでですが・・・」
結局、その始まったばかりという熊野古道の連載を何本か送ってもらって、読んでからニュアンスを変えて書き直す・・帰ってから・・・ということになった。
はあああ・・・・ため息、昨日の半徹は何だったの?

そんなやりとりを夕方になってしていたから、荷物の吟味をする時間なし。とりあえず詰め込んで夜7時40分出た。

品川駅改札8時50分ご同行のKさんと待ち合わせ。
品川バスターミナルより9時30分発徳島行きだ。
早く着いたkさんは、白系の目立つ出で立ちで待っていてくださった。
単なる白でもこれだけ駅の雑踏では目立つ。いつか、へんろ館の串間さんが東京駅で見られたお遍路白装束ってすごかっただろうなあ。

予定通りバスは出た。
私は爆睡・・でした。




2002年04月11日(木) 第103夜 ★しばらくは、本の旅・・で、_(_^_)_zzz★ 

それなりに疲れているようで、このところ夜が早い。家にいると、11時前に寝てしまっている。

15日から、またKさんとお四国だ。
夜、品川発徳島行きの夜行バスで出る。
それまで、日記もお休みだい。

「西国の寺」(五来重)と、地球の歩き方の「エコツーリズム」の本を読んでいる。どちらも面白い。まったく関係なさそうなのが、浮気者の私らしいか。

*15日までにやること
  部屋のかたづけ
  西国でお世話になった宿にお礼ハガキなど
  HPの写真と、壁紙くらいは変えたい
  PCちゃんなどの原稿書き
  Mさん、Hさんとのランチ会
  鍼灸にも行きたい
  青年遍路くんとの飲み会もしたいんだが・・・

どうも全部できそうにないなあ・・・

とにかく15日からまたかきます。それまでは _(_^_)_zzzzz。
あしからずご了解を。んでは 再見。



2002年04月10日(水) 第102夜 ★映画で旅するイスラム 5 カンダハール★ 

家の中の片づけやメール、手紙などの処理をしていたら、夕方になった。

夕7時10分、友達のsakurannkoさんと新宿武蔵野館「カンダハール」に行く。
ストーリー的には、ひとり国外脱出した女性が、希望がない・・日食の日に自殺するという妹の手紙を見て、彼女の自殺をとどめにアフガニスタンに、カンダハールに帰る、というもの。
本当は妹と父と3人で国外に行くはずだったのだが、妹が地雷を踏んで、不可能になり、父と共に残った。父は死に足をなくした妹はひとりで・・ということになっている。

夫や、家族がいないと、女が旅ができない現実。
仮装の夫を持ち、道で出会った少年に金を払い、弟と偽って旅の道ずれにする。
トルコで、夜行長距離バスの隣りの席に座った若い女性に「何であなたはひとりで旅をしているの?」と訊かれたことがあった。
「私の国では、女もひとりで旅をする」とこたえたっけ。

それにしても、地雷で足をなくした人の多いこと!!
アフガニスタンに帰る難民の子どもたちに、地雷だから人形を拾ってはならないという教育をするシーン。
むらむらと、怒りを感じた。
誰がこんな国をしたんだよう。
いつも弱いものが犠牲になるんじゃないか。

後半、希望を、希望として望まねばならないということが淡々と語られていく。
花嫁のブルカ行列の中に紛れ込んで何とかカンダハールに着きそうな気配で映画は終わった・・・。

シーンそのものは美しいところが隋所にある。
死体は白骨化した女性が一体出てきただけ。
まあ、今のアフガニスタンの現実はあんまり反映していないだろう。

同じ監督の作品である「サイクリスト」の方が私はいいと感じた。

帰りにsakurannkoさんと、いっぱいやりましたが、女が「社会生活」できるこの国の当たり前の現実がかの国にはない、なかった?んだと、思わず考えたものだ。





2002年04月08日(月) 第101夜 ★上越線 夕方 帰る ★

昨日7日は、新潟もさくら日和。
東京では散り果てたさくらがまさに満開、散り始め状態だった。
私は、家の裏山で、ふきのとうとつくしを摘んで、夕ご飯の一品に。
ふきのとうはかなり開いていたので天ぷら。ヤミー!!と叫びたいくらいに、うまかった。
つくしは、はかまと、アタマを取らないといけないので手が掛かったが、酢水でさっとゆがいて、水の中で渋抜き。ゴマ和えにした。ほのかな苦みは何ともいえずにいい。この、苦みを春先に摂ることはとても体にいいと本で読んだことがある。

さて8日、長岡発16時47分の水上行きに乗る。
来るときと反対側に座ったら、六日町近辺、八海山がとてもよかった。
雄大で存在感のある山容。母も父も夏になるとあの山に「講」で登っていたはずだけど、今は昔。

県境沿いのスキー場は人気がなくすっかり、シーズン終わりだった。
行きはトンネル内の駅「土樽」と「土合」だけど、帰りは外で「土合」「湯桧曽」となるんだわ。
チョーうかつ。初めて気がついた。もぐりの元新潟県民だわさ。
湯桧曽のあたりは景色も雰囲気もいい、ひなびていて。

大宮から、埼京線に乗り換え。
この方が、ほんの少しだけ、上野まで行くより早い。
田園都市線内、周囲の人たちが出しているストレス光線?を強く感じる。
昨年は、中学校の講師で学校に行くのにこれがすごくいやだった。
だって、朝はこの光線?がもっと強くて、気持ち悪くなりそうなんだモン。

やたらに眠くて、身体が火照っている感じがする。これって、今までの体験では、疲労感の極みだよという身体の要注意信号。
これを無視すると熱がでる。
明日は少しゆっくり眠ろう。
のんびりしよう。




2002年04月06日(土) 第100夜 ★ 上越線を新潟へ ★

7時起床。
8時50分には出て上野駅へ。
18切符がまだ2枚ある。
これを使って、郷里に2泊だ。

高崎、水上、と乗り換えると約6時間で長岡に着く。18切符のシーズンはこんな感じで、乗っている人は多い。
だから、車両の少ない水上発長岡行きだと、席確保のために走ることになる。
そのためには高崎で一番前車両に乗っていると有利、なんてことも18切符テクのうちの一つだね。

高崎までは、朝食代わりのおにぎりとお茶がすんだとたんに爆睡。
あっという間だった。

上越国境に近づくにつれて景色がよくなる。
水上近辺から景色が美しくなる。
特に新幹線だとトンネルの中でなにも見えないあたりの景色が一番いい。
残雪の山、大石の間にすんだ水が流れて・・・それは文句なしに急がないなら、新幹線より各停がいいよ、と感じさせる景色なのだ。
水上で、いつものようにあっちのホームに急ごうと思ったら、今日は、このホームなんだと・・。見れば、向こうのホームにはお座敷列車が停車中。お座敷列車ってきいてはいたけど初めてみた。

心配なのは、雪が少なかったせか、川の水が異様に少ないことだ。今年は水不足、お米は不作かもしれない。いつもなら、今頃の新潟の川って、ごうごうってかんじで流れているんだもん。
さくらもやっぱり早い。

駅を降りたとたん、小嶋屋で、そばとふきのうとうの天ぷらをオーダー。列車の車窓から見えていたふきのとうが何とも食欲を誘って、小嶋屋のそばも食べたいし。
ふきのとうの天ぷらは3ヶ330円。安くはないけど、食べたいときに食べられたのがうれしいよ。
苦みが何ともいえない、お酒を飲みたいが、まあそれはうちに帰ることだし、遠慮だ。またご飯が待ってる。

うちの近辺も雪なし。
播種(米の種まき)が忙しかった我が家である。



2002年04月05日(金) 第99夜 ★ 西国徒歩巡礼 JRむこうまちで打ち止め ★

昨日も日記をアップせずに寝てしまったので、5時30分に起きてする。
支度をしていたら、7時前に朝食を宿の女将さんが持ってきてくださった。
ホントは8時が朝食なのに、私のために早く用意してくださったのだ。こういうのは西国巡礼では初めて。
炊きたてご飯、卵焼き、ほうれん草のお浸し、お豆腐、味噌汁、海苔、京都らしくおつけものは三種。久しぶりにきちんとした朝食をとった。
7時20分、女将さんが見送ってくださる中を出た。早朝の冷たい風が気持ちいい。すでに家の前をはいたり、打ち水をしている人あり。挨拶すると、ちゃんと返事が返ってくる。京都の町屋の規律がある。挨拶に返すべし・・たとえ知らない人にも。

予定通り、8時少し前に革堂さんにつく。
老齢の尼さんが納経所におられて、げんきないさつをかけてくださった。見ればなんかお食事中・・・。お参りをして、お話をする。37年前にあるいてお参りをした話を聞いた。そのころから、歩く人はもうあまりいなかったとか。。尼さんは、別れ際にがんばってね、今日は朝からいい人にあった、機嫌よう一日ができるわ、と握手をしてくださる。

8時半すぎに六角堂さんを打って、タクシーで雪舟展を見るために京博へ。
ひゃーもうならんでるぜ。
チケットを買って中に。こういうときの私のやり方は、まずは人の少ない奥から見ること。
80代の長命を保った雪舟だが、確かに明から帰ってからの絵は変わった。
力があふれ出ている。
禅僧絵師とは、つまりは職人。
その描きわけに感心。
タッチの荒っぽさと構図のおもしろさにこの人の天才があると感じた。

人をかき分けて逆流して出た。
もう、そとは長蛇の列だ。
六波羅屋の女将さんから、雪舟は2時間待ちだから開館とと同時にいかはるんがいいですよ、といわれてそのとうりにしたのだが正解。

また烏丸六角に戻って歩く。
六角通りは昔すんでいたところ。なつかしかった。だいぶん、変わっていたけど・・・

東寺で昼食。
御影堂でお参りをして、1時出発。
2時10分、予定どおりにJR 向日町着。
今日のコースは西国街道だった。

18切符でひたすら東に、帰宅は、日が変わって、12時5分。
ご無事でご苦労さん、ありがとうございました。
そしておやすみなさい。
つかれましたわいさ。




2002年04月04日(木) 第98夜 ★ 西国徒歩巡礼 京都六波羅密寺まで ★

今朝大急ぎでアップした、昨日の日記を見て仰天。字は間違っているし、文はおかしいし、まずいよねえ。
まあ、その前の夜、眠くてできなかったのだから仕方ないが・・・。
そんなわけで、今朝は、6時50分発。
外に出たら瀬田川の風が冷たい。少し歩いたが我慢できずに荷を降ろしてウインドブレーカーを着た。

琵琶湖から流れ出す瀬田川沿いはきれいに整備されていて、植えてある木が松でなかったら、北欧の風景のようだ。
大津市内の旧道、東海道を歩く。
なかなか風情のある町並みだ。
9時、三井寺観音堂着。
お参りして、休んでると、下からさくら吹雪が風であおられて、舞い上がってくる。

小関こえという、京都から、北国(今の福井、金沢方面)へ抜ける感動を歩く。
それから、琵琶湖疎水べりへ。
大津から歩いてきたという足の速い女性とはなす。
これから、大文字へ登り、銀閣寺に降りるという。へエー、かなりあるよ。
番外の札所、元慶寺へ。少し早いがここで昼食。
こじんまりとしたきれいなお寺だった。
納経所の人も親切だったし。

このあとが大変だった。
今熊野への古い道がわからずに大いに困る。
目印めいたモノがないのだ。
結局、車道を歩いて、ききながらたどり着く。
距離的には1時間のところ、ほぼ倍かかった。
ここから、清水への道も古い道みたいなのだが、お寺の人にきいても「ワシ、そんな道歩いたこともないし、しらんわ、下の道に出ていったらいいねん」とけんもほろろ。
四国と違うなあ、とため息。
来た道を戻ると、私がさっき歩いたばかりの道で消防車が並んで消火の最中。お寺のすぐそばで不審火とは。さっき、消防車と、ヘリがやかましかったのだが、なんと今熊野観音時のすぐ裏だったのだ・・・。寺の人は「また火事やで、近いわ、このへんは寺しかないし、燃えてんのは寺や」とかって、のんきだったけど。
自分とこの裏だってしらんかったのかしらん。

またしてもききながら、そして地図とにらめっこで、何とか清水到着。
納経所の人に歩いているんは偉いなあ、といわれたが、こんなこという人は珍しい。
清水は観光客の海。
きちんとお参りしていたら、「あれ、お経読んではるわ」というびっくりしたような声が聞こえてきた。
黒人観光客には、金剛杖を「サムライ?」ときかれるし。

次の六波羅密寺、4寺20分。その次までいきたかったのだが、だめだ。
午前に東山YHを、満員で断られているので、お寺でこの近くに宿がないか・・歩いているので、遠くは困る・・といったら「男の人で歩いている人は時々来るけど、女は初めてや、宿、あるで、ちょっと待ち、きいてあげる」
と親切。
ということで宿問題解決。
今夜は、民宿六波羅屋。
京都の古い町屋を宿にしたモノ。
女将さんが迎えに着てくださった。
大学時代、こういうとこに下宿していた私には珍しくもなんともないが、マンション育ちの日本人、外国人にはいいんだろう。
朝食のみで6500円(税別)はいい値段だよね。
京都観光のまっただ中だし、こんなもんかな。
でも、まあ、何はともあれ、やれやれ。
宿着、4時55分。





2002年04月03日(水) 第97夜 ★西国徒歩巡礼 上醍醐から岩間寺・石山寺 ★

宇治川が朝は朝で美しい。
宿泊者がまだ寝静まっているなかを6時すぎに出る。
しかし、宿の人たちはすでに起きていて、送ってくれた。
きびきびして、なかなかによい宿であった。

宇治川でつりをしている人(イガイ?とかいうのがつれるそうな。食べるらしい )とはなしてから昨日戻った道をまた三室戸寺に向かう。
走っている人、歩いている人、宇治はなかなか健康的な町なんだね。

炭山という、志津川沿いの集落から一気に450メートルはある上醍醐を目指す。今日もきつい道だ。
山中の静かな道ときいていたのにどうやら抜け道になっているらしく、80キロ近いスピードで車が通る。も、ものすごく怖い。

炭山は焼き物の里らしくて、あちこちに陶房がある。
村はずれで、犬をつれた小学生たちとあう。
「どこいくの?」 
「上醍醐」
「私らもいったことあるで」
 女の子がさらに、「自然をまもる」スローガンの横に書いてあった不死鳥の繪をさしてあれうちのお父さんがかかはったんで、とおしえてくれた。

それにしても山の中がゴミ捨て場。汚い。村の人ではなくておおかた、町場からの投棄だろう。

杉林の地道にはいってしばらくで、醍醐寺のや山域へ。
ゴミもなくなった。
お寺が片づけたのか、寺だからみんな捨てないのか?

9寺すぎ上醍醐着。
ここの売店で、メーリングリストのMさまの奥さんにお会いした。
ちょうど私と同着くらいいの集団が、お参りもせずに争うように納経所に並ぶのを見た(そういうことが多い)後だったので、「なんか、みなさん、まさにスタンプラリーですね」といったら、「そうなんです、炭をかわかかすドライヤーで髪やら足の裏やらを乾かす人もいますね、まあここにいるのは修行です、人と関わる・・・」
なるほど。
1時間ほどお話をした後に辞す。
お茶やら、散華をいただいた。感謝。

岩間山まではハイキングコースになっているので、道標はあるが道はきつい。
山中でやはり4年が狩りで西国を歩いているという女性と会う。彼女はグループだという。
山をおりたとこで、椎茸売りのおばあちゃんのそばで休ませてもらう。
いい天気だ、ホントに。

岩間さんまで、登って降りて、また登り・・・・。さすがにもういいよ、早く着けと思いかけたところでお寺に出た。
いやはや。
お参りの後、「南無大師」の白衣を着た人たちと話す。歩いているといったら、お札をちょうだいといわれた。
お四国じゃねえ。広島の人だった。
お寺の人に調べてもらった「滋賀青年会館」(今夜の宿)に電話。とれた。やれやれ。
後はひたすら5キロあまりの道を石山寺まで歩き、その後宿まで2キロがんばるだけだ。

石山寺着4寺10分。
なんとこの寺、公務員みたい。4寺20分を過ぎたら、店じまい?を始めた。
4寺40ぷんしたまで降りてくると、入山料を払う窓口までも閉めている。おばちゃんたち、ご帰宅スタンバイ。
おやおや、納経って5時までだろ。
へんなの。

宿着5時15分。
疲れたね。











2002年04月02日(火) 第96夜 ★ 西国徒歩巡礼 三室戸寺まで ★

今日も、おかげさまでいい天気だ。
携帯目覚ましがなる前にとめて、静かにかつ大急ぎで支度をして出る。(おかげで靴下を忘れてしまった・・たった2枚のうちの一枚忘れたんだ・・)
下のロビーで、自販機のコーヒーと昨日買った柿の葉寿司を食べていると、奥からオーナーが出てきてドアを開けてくれた。
昨日は、同室の高校1年の女の子3人と、大学生3年生の子と11時近くまでしゃべっていた。
まるで、奈良質問コーナー状態で、名物、おすすめ、等々をきかれた。
お役に立てて幸いですけど・・眠い。
疲れもとれていないのでは、と心配になったが歩き始めたらそうでもないことがわかった。
やはり昨日の半日奈良ブラブラで元気になった。それと、若い女の子たちからエネルギーもらったかな?
YHはいろいろな人に会えるから好き。

今日は、奈良から、京都に入る。
木津町、井手町、城陽市、宇治市と進行する。
井手町では、選挙が始まったとこ。まちじゅうを選挙カーが走り「○○をよろしくお願いします」という感じで、うるさかった。
でも、○○をお願い、ってどんな効果があるんだろうな。
道沿いにある選挙事務所の感じを見ると、そういうのって、意味ないなあ・・。なんか決まってるってかんじだもんね。

今日の道は、ほとんどが国道または国道沿いだったが、昔の街道道にはいると宅地造成とか、新道ができていて・・・。どうしてこんなに山を崩し、畑や果樹園をつぶさなくてはならないのか・・・なんか、土建王国日本を改めて感じた。困ったことだ・・・
政治に土建連鎖ができているんだよね。
特に城陽市の長谷川あたりは、狭い道をトラックが5,6台と連なってきて恐怖だった。
城陽から宇治のあたりは新道で地形が変わっていたね。
地図の通りに歩いていてもなんか違うんだよね。

宇治は最高だった。
宇治橋で少し立ち止まって川を見ていたら、平等院あたりからの桜の花びらの嵐に攻められた。
豪華・・・。
日本の春っていいなあ・・と思う。

宿の「亀石楼」は、宇治川沿い、お風呂から桜と宇治川がみえていい感じだった。
この宿は、古い建物(100年前とか)だけれどよく手入れされている。
以前は、松下幸之助氏の愛人さんが女将さんをつとめられていたという話だ。

3時すぎに着いたので、荷物をおいて三室戸寺を打ちに出た。
往復4キロ、寺は静かな雰囲気のいい寺だった。
5時すぎに戻って、一番ににさくらの見えるお風呂にはいる。
もう極楽だ。
私があがったら、京都からという、60年代くらいの女性6,7人が入ってきた。
「すいませんなあ、うるさいおばさんたちで・・・」
最後に浴衣を脱いだおばさんが、椅子で休んでいた私を見ていった。
「いいえ、うるさいうちが花ですよ・・どちらからですか」
「京都なんですよ、近いとこで、しゃべり倒そか、ゆうてきたんです」
なんかいいですね。

明日は、難所だ。
山越え、谷越え、で、上醍醐のMさまからも身体に気をつけてというメールをいただいた。
少し心配だ。登りが苦手な私だから。
9時24分、サンマさんを見ながら笑いながら書いている。
もう寝よう。昨日遅かったし。
明日も晴れるかな、晴れてくださいよ。








2002年04月01日(月) 第95夜 ★西国徒歩巡礼 興福寺 南円堂 まで ★

朝6時50分発。
体に疲れが残っている。
休日を取ることにした。まずは天理教の本部を拝観して、その後のんびり奈良まで歩いて午後は「奈良の春」だい。
なにより、大好きな奈良なのに、通り過ぎるのは悲しい。

天理教本部。
会う人の顔がいい。自然と対面で出会う人の口からこちらにあわせるように「おはようございます」とか、にこりとするのが感じいい。これぞ、宗教の力か?
さて天理教本殿。すがすがしい雰囲気だ。
どうしていいものやら、で、れいの黒い法被を着ている人にきいたら、親切に教えてくれた。
(このへんは帰ったら詳述するので省略)

天理教本部、8時20分発。
なんか気持ちよくてもっといたい場所だった。
「みかぐらうた」という手踊りでの信者の方のお参りが懐かしくて心に響いて・・。

てくてくというより、のそのそ、すすりという感じで、いわゆる上つ道(旧街道)を歩く。
途中に帯解寺。
美智子妃殿下さんと紀子様の腹帯をご祈祷したんだとさ。

奈良の南縁堂を打って、奈良YHまで。
着は1時10分過ぎ。

その後に、興福寺の国宝館で、大好きな山田寺の仏塔さん、3月堂の観音さんにあって夕方。
さくらが見事だった。

以上報告。
楽しいことやおもしろいことがたくさんあったのだが、YHに泊まると、人と話すことが多くて、、、、今10時、消灯だ。
寝なくては、また帰ったら書こう。
明日はまた元気に歩こう、お休み。


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