おひさまの日記
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2010年12月31日(金) 鼓動

小さな鼓動が始まった今年。

新しい年、小さい鼓動が大きく波打ち始め、
愛する人に、そして世界に広がっていくように、
心から祈らずにいられません。

ひとつひとつの出来事に、
ひとつひとつの出会いに、
心から感謝しています。

おはよう、私。
おはよう、みんな。
おはよう、世界。

このブログを読んでくださっているおひとりおひとりに、
心からありがとうございます。
まもなく2011年、どうぞよい年をお迎えください。

心からの愛と感謝と尊敬を込めて。


やっぱ、年が明けた瞬間は、
「ゆく年くる年」よね!
と思うえみやでしたっ。
あの鐘の音を聞くとじぃ…んとするんだわよ。
日本人でよかったなぁって(笑)


2010年12月29日(水) おはよう

昔読んだある本の書き出しにこう書いてあった。

「人はなぜ苦しくなるかわかりますか?
 その理由を考えてください」

私は、トラウマが…とか色々考えた。
そして、次のページにあるという答えを見てみた。
そこにはこう書いてあった。

「人が苦しくなる理由、
 それは、苦しくなることを考えるからです」


えーーーっ、そんな単純なことなんだ!?
それだけ!?

その時は、どこかで納得しつつ、
いまひとつピンとこないまま過ぎていったような気がする。



最近、その言葉をよく思い出す。
そして、その意味がわかるようになった。
それはまぎれもない真実だということも。

私達の思考が現実を作り出す。
それは、もうそこらかしこで言われていること。
そして、それは、極めてシンプルな真実。

自分が体験したい現実のために、自分の思考を変えていく。
自分がどういう状態になりたいのか、それをまず選択する。
そして、なりたい状況、味わいたい感情、それに見合った思考をしていく。



すべては思考から生まれる。
思考が現実を作る。
最近、その意味がやっと、やっと、腑に落ちた。

どんな思考を、
どんな言葉を、
どんな行動を、
自分がしていくのか、
それがすべて。
愛と喜びと豊かさに満ちた世界を望むなら、
それを自分のものとして選択していくこと、それがすべて。

今まで読んだ色々なスピ本とか、
聞いたスピ話とか、
そういうものが、
まさに目の前で結実するのを、
理由はわからないけれど、
見ようとしてるんだと、そんな感じがしている。



私達が注意深く見ていく必要があるのは、
毎瞬、毎瞬、生まれる自分の思考。

何かあって無意識に飛び出してくるのは「反応」だ。
パブログの犬のように、過去の体験に条件づけられた「反応」。
それがあたかも自分自身のような錯覚に陥っているのが私達だけれど、
それは、自分ではなく、自分の体験が生み出したもの。

私達は自分の思考を選択できる。
無意識に飛び出してくる反応的思考ではなく、
どういうものを感じていたいのかということに基づいた創造的思考を、
選択して自分のものにすることができる。

そして、その思考の結果の現実を体験する。
これからは、それがよりリアルに感じられるようになると思う。
また、ものすごいスピードで思考が現実化していくことも、
体験することになると思う。

だから。

常に気づいていること。
自分の思考に。
無意識の思考に。
そして、それが自分の望む思考でない時は、
自分の望む思考に置き換えていく、その作業が大切。
毎瞬、毎瞬、置き換えていく。



そろそろ目覚めますかね。
おはよう、私。


2010年12月28日(火) 洗濯物に見る究極の「生きる技」

私は家事が苦手。

ゆえに色々な工夫をする。
いかに簡単に、いかに楽にこなすか、そういうことには心を砕く(笑)



洗濯物もそう。
夕方取り込んだ洗濯物の山を見て、へなへなと脱力する。

避けたい、避けて通りたい!!!
だがしかーーーし、頑張れ奥さん!!!

心の中で葛藤しながらようやく洗濯物をたたみ始める。

洗濯物をたたんでいるうちに、
最初はイヤイヤするんだけど、最後はウキウキしている。

なぜか。
やりたくないことなはずなのに。

それは、私が「あること」をやっているから。

これって、人生のすべてに言えることじゃん!
そう気づいた時、なんかすごく得した気分だった。

それは、小さいこと、できることから始める。
まずはそれだけやるってこと。
その魔法(魔法なのか!?・笑)、かなり効きます。

言い古されたこと、よく言われること。
でも、意識してないて忘れちゃうことでもある。
それを、意識する。



洗濯物をたたむ時は、タオルからたたみ始める。
なんてことはない、たたむのが簡単だから(爆)
とにかく簡単にたためるものからどんどんたたんでいく。

避けたいのは、Tシャツとか、シャツとか、
簡単に四角にたためたり、くるっとまるめたり、できないものですな(笑)

だから、どんどん後回し、簡単なものだけ手をつけていく。

すると、あら、不思議。

簡単なものだけまずたたんでしまうと、
残った洗濯物、つまり、私にとってはたたみたくないものが、
さっきよりもちんまりと少量になってそこにある。
ゴールが近い(笑)

「あ、こんなに減った。
 残りあとちょっとだし、頑張っちゃおーっ♪」

と、急にモチベーションが上がるのだ。

人って面白いよね。

そうなると、イヤなことをしなければならない、ということよりも、
これが終わるとスッキリして気持ちいい、ということに意識が向く。

そして、さくさくと洗濯物をたたみ、キレイになった部屋を見てにんまり。
達成感を味わう(笑)



なにかを成していこうとする時、
いきなりすべてを完璧にやろうとすると、
それがあまりにも大きかったり、難易度が高かったり…
苦手なことだったり、やり方がよくわからなかったり…
それで一気にやる気が失せてしまうことがある。
もういいや、無理…って、急に下を向いてしまう。

そんな時は、その中のさわりだけ、小さいことだけ、
ひとつにだけ手を出してみる。
それができたら、また次の小さいことだけやってみる。
それができたら、次、また次、と、続けてみる。

そうすると、あれ、案外できちゃってるじゃん?ってなる。
そのうち、あれ、こんなとこまで来ちゃった、結構イケるかも?
ってな具合になる。

私の洗濯物たたみと同じ。

これをやらなければならない、
苦手なのよね、
難しそう、
どうしたらいいわからない、

そんな思いに向いていた意識が…

ちょっとだけどできたぞ、
なんだかんだ言って進んでるな、
やっていくうちに形になってきたぞ、
なんかいい感じかも、

そんな思いに向いていく。

そうなるともう簡単です。
勝手にやる気スイッチがオンになるから。
そして、楽しくなるから。
できるようになっちゃう。

実は、それが計画性を持つってことでもあったりするんだな。
ざっくりな計画。
そこからでいい。

私は究極の生きる技だと思ってます(笑)



あとね、完璧でないとそれをやっちゃーいかんだろ、って考え、
年末の大掃除後のゴミと一緒に捨てちゃいましょう。

何かを始める時、
スキルが足りないから、知識が足りないから、
そうしりごみしがち。
もちろんあるに越したことはないけれど、
スキルも知識も100点になるまで待ってたら年寄りになっちまいます。

やりながら身につける。
やることによってさらに身に付いていく。


やり始めると、その時の自分に合った人や出来事を引き寄せるので、
学ばせていただけるるようにできとります。



来年は、

「やってみたいな、でもな…」

なーんて思ってたこと、やってみよう。

ええ、私も来年はやりますよ!
やったことないし、できるかわからないけど、
やってみたいんだもーん、ってこと。

コケても死にゃあしません(爆)


2010年12月27日(月) どん底ズンドコ

いやぁ、もうね、正直、どうにもならない時期ってある。
いわゆるどん底。

こうしたらこうなります、っていう人生の法則ってのがあって、
そして、私達はその法則通りに生きてるんだな。

わかっちゃいる、わかっちゃいるし、
その通りにやってるはずなのに…

なんなんだよ、この現実…(号泣)

そのうち、もうどうしたらいいかわからなくなる。
そのヒサン(だと感じる)な現実の中で、
それでも生きていかなきゃならなくて、
とりあえず日々を生き延びていく。

スピリチュアルとか、引き寄せとか、思考現実化とか、もうどうでもいいや、
ああ、明日は電気代の引き落としだ…
ああ、また家族とケンカだよ…
ああ、左折しようとしたら直進車に入れてもらえなかった、
すげーこっちにらんでたな、感じ悪ぅ、
なんもかもやんなっちゃうぜ…

そんなふうな具合に日々を過ごす。

うまくいかないことだらけ…
思い通りにならないことだらけ…
イヤなことだらけ…
つらいことだらけ…

そんなに俺が悪いのか?(チェッカーズ風に歌いながら)

え?

はい、そうです。
それ、私のことです σ( ̄▽ ̄) ウヘヘ…

以前のね。



生きてると、どん底って感じる時期がある。

最初のうちはもがくんだけど、もがけばもがくほど、
まるで蜘蛛の巣にかかった虫みたいに、
よけいに糸が絡み付いて身動きが取れなくなる。
それでも身をよじる。
よじって、よじって、力尽き、最後にこうなる。

どうぞ、食べてください、蜘蛛さんよ…
あたしゃあ、もうあきらめました…

私は蜘蛛さんに懇願したい気持ちだった。
苦しまずにすむように、ひと思いに殺して食べてくれ、と。

絶望の中にいならが、
かすかな開放感を感じた瞬間だった。

もういいや、なるようになれ…



今、その頃の自分を振り返ると、泣きそうなんだ。
つらかったからじゃない。
なんて頑張ってたんだろうって、思うから。
あんな状況の中でよく踏ん張って生きてたなって、思うから。
えらいね、って。



ねぇ。

今だからわかるんだ。

そういうどん底が来るってことは、
これから素晴らしい人生を生きるために必要なことを、
つかむ機会を与えられているってこと。

そういう時期って、
一般的に言われる「イイコト」ってのをやってみても、
全然効果ないじゃん!って感じる。

ああいうのって嘘なの?って思うこともある。
でも、嘘じゃない。
それは確固たる真実としてそこにある。

じゃあなぜうまくいかないんだろう。

それは、何かが欠けているから。
幸せというパズルを完成させるためのピースが足りないの。
ピースがなくちゃあどんなにはめたくてもはまらないよね。

私達はそのミッシングピースを探すために、
冒険に出るんだ。
いや、無理矢理出させられてしまうんだ(笑)

その冒険は、人生で言うと、どん底の時期だったりする。

神様が、

「足りないピースを探しておいで。
 そこに置いておいたから。
 それを手に入れてもっともっと素晴らしい人生を送るんだよ」

そう言ってくれてるんだと、私は勝手に思ってる。



どん底の時期、まず私はすべてを周りのせいにした。
あれがああだから、あの人がああだから、こんなんなっちゃった、って。

次に、自分のせいにした。
私がああだから、私がこうだから、こんなんなっちゃった、って。

苦しい感情だらけの毎日。
そして、そんな感情とそこから生まれる思考が引き寄せる現実。
その中で溺れながら死ねないような感覚で日々を生きた。

そして、そこでの体験こそが、
私にミッシングピースを与えてくれた。

ひとつピースを拾う度に、大切に心のポケットにしまった。
ひとつ拾い、ポケットにしまい、
またひとつ拾い、またポケットにしまい、
そうやってピースを集めているうちに、
私は大切なことをすっかり忘れてしまっていた自分に気づいた。
こんなに大切なものをみんなどこかに置いてきてしまってたんだ…って。

私は数年かけて無数のピースを拾い集めた。
長い長いトンネルだった。
もしかしたら、このトンネルは終わらないのかもしれない、とさえ思った。
空っぽだった私の心のポケットは、
いつしか拾い集めたピースでいっぱいになっていた。
みんなみんな大切なものばかりで、眺めていると涙が出そうだった。

私はこんなに大切なものを持たずにいたんだ。
これじゃあ、どん底の人生になっても仕方ないや…
静かに静かにそう思うようになった。



その頃からだった。
一見、どん底なんだけど、どん底なりに楽しい時間が増えた。
どん底の中にも幸せがいっぱい見えるようになった。
ピースを取り戻したから。

家族でふりかけごはんをおいしいねって食べた。
カップラーメンがごちそうだった。
でっかい袋いっぱいのパンの耳を50円で買ってきて、
ラスクを作ってみんなでほおばった。

本当にお金がなかったんだ。
仕事もうまくいかなかった。

でも、実家に入ったために、住む家があることに気づいた。
雨風を避けられて、お風呂に入れて、お布団で眠れて、
携帯も持ってる、パソコンも持ってる、ネットがつなげる、
どん底じゃあないじゃないか。

空が青いぞ。
木々がそよいで心地いいぞ。
風が気持ちいいぞ。
雨がしとしと穏やかな音で包んでくれるぞ。
私はなんて素敵な世界に住んでるんだろう…

そして、一緒に笑える家族がいる、友達がいる、
おかげさま、おかげさま…

あれ?

なんだかとっても恵まれてるね…
私本当は豊かなんだね…
色々うまくいかないと感じることもあるけれど…

今この瞬間欠けているものはないんだね…

そう思い始めた頃だった。
人生の歯車がまたかみ合って動き出したのは。

その時やっとわかったのだ。
私はミッシングピースを探す冒険をしていたのだと。
どん底も神様の粋な計らいだったんだと。



もし、今、どん底だと感じている人がいるとしたら、
私は大きな声で言いたいんだ。

大丈夫!
絶対に大丈夫!

って。

その中にいて何かをしていなかったとしても、それでもいいんだ。
日々を追われるように生きているだけだっていい。
それでも、つかむ必要のあるものをつかんでる。
素晴らしい人生というパズルのために必要なピースを、
ひとつ、ひとつ、確実に拾い集めてる、確実に。

今は苦しくてピースを手に入れたことにさえ気づかないかもしれない。
けれど、それでもちゃんと手に入れてるんだ。
もっともっと素晴らしい人生のために必要なものを。

だから、意識を、
できないこと、うまくいかないこと、足りないものに向けるのではなく、
できること、うまくいっていること、恵まれているものに向けてみてください。
ひとつもないはずはないんです。
たったひとつでもある、必ず。

そして祈ってみてほしいの。

「私は今この状況の中でどんなことに気づけばいいか教えてください」

答えは必ず与えられる。
誰かの言葉や、本、ウェブのページ、テレビやラジオ、
何かの形を通してだったり、ひらめきだったり、色々だけど、
必ず与えられるから。

答えは感じるもの。
時には、痛みを伴いながら感じるかもしれない。
けれど、その後は、必ずおひさまがぽかぽか照らしてくれる。



どん底は、まるで真冬の明け方。
太陽が昇るほんの少し前。

そして、夜明け前がいちばん寒いの。
凍えて死んでしまいそうなほど寒いの。

もうすぐ夜が空けるよ。
だからこんなに暗くて寒いんだ。
明けない夜はない。
もうすぐ、もうすぐだよ。

彼方にかすかな光が見えるよ。
その光がどんどん大きくなるよ。
そして、新しい世界の匂いがしてくる。

その時気づくんだ。
どん底は贈り物だったんだ、って。

ミッシングピースを拾い集めたあなたの次のステップが始まる。
たまらないくらい素敵な世界だよ。



どん底ズンドコだった私が保証する!!!


2010年12月24日(金) クリスマスを美しい日本語で飾る

今日はクリスマスイブ。
みなさん、メリークリスマス.。゚+..。゚+.



私は意外に頑固なところがあって、

「メリクリ」

とか、

「あけおめ」

省略があまり好きではないのです。
昭和女だから ( ̄▽ ̄)エヘン

最近は「ら抜き」が普通の使い方になっていることも、
秘かに嘆いていたりして。

「食べられる→食べれる」
「見られる→見れる」
「借りられる→借りれる」

というように、以前は「ら」が入っていた言葉から、
「ら」が消えていっている。

この辺はもう時流なんでしょうか、
仕方ないんでしょうか、
ちょっと寂しいなぁ。

うぅ…
「ら」は私にとって「わびさび」なんだよ…

娘のアンナには「ら」を入れるように、
しつこく言ってる母だったりして(笑)

そのくせ、

「マック」

とか、

「スタバ」

とか、

「ケンタ」

とか、
平気で言ってるんだけど(笑)
そして、結構口も悪いんだけど(爆)



日本語は美しい。
とっても美しい言語です。

「ありがとう→有り難う」
難が有るからこそありがたい…

「おかげさま→お陰様」
陰に何かが有ってこそのおかげさま…



例を挙げればきりがないくらい、
ひと言に深い意味を含めたものがたくさんある。

漢字ひとつ取っても、
そのひと文字に意味があったり、
そのひと文字自体がひとつの造形として成り立っていたり、
それに気づく度に感動するのです。

日本人でよかったなぁ.。゚+..。゚+.



そんなことを思うのも、今、この年齢になったからであり、
「メリクリ」や「あけおめ」を、
ひとつのコミュニケーションの楽しみとして味わっていた頃もありました。
それはそれでよかったんだなぁとも思うし。



私がもっとも好きな日本語は、

「ありがとう」

と、

「ごめんなさい」

です。

「ごめんなさい」はどんな過ちも許してくださる神様の愛。
そもそも神様から見れば過ちなど存在しないのだけれど…
傷つけた人に、苦しめた人に、この神様からいただいた愛を届けることで、
私達は許しという体験をそれぞれがすることができる。
言われて相手を許す、
言って自分を許す、
それは時と場合によって違ってくるとは思うけれど、
時に、とっても時間がかかるものでもあるとは思うけれど、
そっと春の雪を溶かすおひさまのような言葉だと、
私は思います。

「ありがとう」は一瞬ですべてを幸せにする神様の魔法。
この言霊のパワーは絶大で、それはそれは、まるでおひさまそのもの。
私達の心を明るくあたたくする魔法。
心からこの言葉を伝えられた時の感動を、
誰もが体験しているはず。
もちろん、「ありがとう」と言えない、言いたくない時も、人生にはあります。
けれど、そんな時間さえも、
実は何物にも代え難い「ありがとう」なのだと、
いつか気づくことができることこそが人生の醍醐味だと思います。

このふたつがありゃあ生きていけるんだよ、と、
娘には言ってんだ(笑)



クリスマスを美しい日本語で飾ろうと思いました。
家族に1枚ずつカードを書きました。
みんな喜んでくれるといいな。



それに、このブログを読んでくださっている方にも、心からありがとう!
こんなにたくさんのブログがある中で、
このおひさまを知って、読むためにクリックしてくださる、
こんなありがたいことがあるだろうかと、常々思うんです。
とってもうれしいんだ。
本当にありがとうございます!

おひとりおひとりが過ごす今日が、
それぞれの素敵なクリスマスイブになりますように.。゚+..。゚+.


2010年12月23日(木) 31年目のごめんね

買い物をしていたら見た顔が。
本当にたまにだけど、町の中で彼女とすれ違う。
けれど、私は見ないふりをして通り過ぎていた。

なぜなら。

彼女は、私が中学生の時にいじめた友達だったからだ。

小学校5年生の頃から仲良しで、
中学校に入って、ちょっとした気持ちの行き違いがあったんだろう、今思えば。
ある友達にふとこぼした彼女の愚痴。

すると、その友達も彼女を好ましく思っていなかったようで、

「あの女ムカつくよね。
 ねえ、ヤキ入れようよ」

そう持ちかけてきた。
その友達は、いわゆる昔のつっぱりグループの子で、
仲間内にその話を持ちかけ、
いつ呼び出して、いつヤキを入れる、とすぐに決まってしまったのだ。

内心焦った。
自分はそんなつもりじゃなかった。
ちょっと愚痴をこぼしただけだったのに、
それが原因で、
ずっと仲良くしていた子のヤキ入れに参加しなければならなくなった。
私のせいだ、どうしよう…

でも、断れなかった。
こわかったのだ。
断ったら次は自分の番…

ヤキ入れの時、私は口の中がからからだった。
手こそ出さなかったものの、言葉の集団リンチだ。
彼女は輪になって囲まれた真ん中で、
あまりにも惨い言葉の暴力を受け、下を向いて泣いていた。

「あんたも言ってやんなよ」

私に声がかかった。

言わないと私がいじめられる…
それがこわくて、私は彼女にひどいことを言った。

「最近、生意気なんだよ。
 ムカつくんだよ」

それから先のことはよく覚えてない。

彼女はそれから私を避けた。
当然だ。
とても悲しかった。



心のどこかでそのことがいつもひっかかっていた。
もちろん、いつもいつも気にしているわけじゃないんだけど、
時々町で見かけたり、噂を聞いたりする度に、胸が痛んだ。

彼女のヤキ入れのあと、
私も同じようなヤキ入れをされた。
結局、された(笑)

「最近生意気なんだよ。
 ムカつくんだよ」

って。

その時、彼女がどれほどつらかったのかがよくわかった。
それから、ずっと申し訳なく思っていた。
けれど、距離ができた私達、ごめんねを言うことさえできなかった。

だから、彼女の顔が見られなかったのだ。
傷つけた。
よくしてもらったのに、仲良しだったのに、苦しめた。

彼女を見かけると、心がぐちゃぐちゃになって思考が停止する。
私は無意識に彼女への罪悪感とから逃げようとしてた。



今日もある店で彼女を見た時、
いつも通り気まずく、さっさと逃げようとした。

けれど、ある瞬間、くるっと向きを変えて彼女の方に歩いていった。

「M子!」

私が声をかけると、彼女が振り返り、

「あーっ!
 久しぶり!」

と叫んだ。

「会えてよかった。
 ずっと気にかかってたことがあるんだ。
 中学生の頃のこと」

私がそういうと彼女はなんとも言えない顔をした。
そりゃそうだ、30年以上まともに口もきいていないのに、
再会していきなりそんなことを言われれば。
それに、最後があんな出来事なんだもの。

「みんなでM子をいじめたことがあったでしょう?
 その時、私もその中にいて、ひどいことを言ったでしょう?
 それまで仲良しだったのに、よくしてもらったのに、
 あんなことを言ってしまって、
 本当に申し訳ないと思ってたんだ。
 だから、いつか謝りたいと思ってて…
 あの時はごめんね。
 つらい思いさせちゃったね。
 そして、よくしてくれていてありがとうね」

彼女はただただ苦笑し、

「いやいやいや、そんな、そんな…」

と言った。

急にそんなこと言われても、
どうしていいかわからないかもしれない。
もしかしたら、何よ今さら、と、思うかもしれない。

けれど、私はどうしても謝りたかった。
本当に悪いことしたよ、つらかったよね、ごめんね、って。

その後、お互いの家族の話をちょっとして、
私達はバイバイした。

彼女は、近くに住んでるから遊びに来て、って言ってくれた。
今日に限って携帯を持っておらず、
メモ用紙も持っておらず、
番号やアドレスが交換できなかった。

「近所ならウチのポストにでも連絡先書いて入れておいてよ」

私がそういうと、彼女は、うん、と言った。

彼女が連絡先をウチのポストに入れてくれるかどうかはわからない。
どういう結果になっても、それが彼女の大切な気持ちだから、それでいいと思った。
そして、連絡先くれるといいな、って。



あの時から31年の月日が流れていた。

あの頃、私はあまりにも幼かった。
人をひどく傷つけた。
ごめんねも言えなかった。
そして、自分も傷つけた。

今日、彼女を見て、なぜか急にごめんねを今伝えなきゃって思った。

彼女とバイバイをして店を出ると、涙がこぼれそうだった。
悲しい涙じゃなかった。
よくわからないけれど、胸がちょっとズキンとして、切なくて、そして、安堵して。

私は今日、
31年前に味わった彼女へ気持ち、あんなに苦しめた罪悪感、申し訳なさを、
やっと、真正面から味わったような気がした。
今までそれをちゃんと感じることから逃げていた。
そう、逃げていた、それが今日よくわかった。

よかった、ごめんねを言えて。
31年目かかったけど、やっと、言えて。

胸の中で、なんだかわからないけれど、
何かがほろほろとほどけて、ぐるぐる回っていた。



M子、あの時は本当にごめんね。
苦しめちゃったよ。
ずっと仲良くしてくれていて本当にありがとう。
今日の出会いに感謝します。

どうぞ、どうぞ、ますます幸せになってね。



私はきっとたくさんのことから逃げてきたんだと思う。
感じてあげなかった感情がいっぱいあるんだと思う。

その感情にまっすぐ向き合った時、
そんな自分がしたいと思うことを、これからしていこうと、そう思う。
時に、感情を感じるのは、とてもつらい作業。
けれど、それを感じ切った後、まっさらな自分が出てくる。
その自分の心に従って進もう、そう思う。

上っ面にある、感情にふたをするための感情で、
本当の感情を隠してしまって、
自分に目隠しするのはもうやめよう、
そう心に誓ったのだった。

本当の自分の心で生きていくためにも。
その自分ですべてを選択し進んでいくためにも。
どんな自分よりも信頼できる、その自分と一緒に行くんだ。
未来へ。


2010年12月22日(水) 無意識にすること・意識してすること

私達が何かをする時、ふたつあると思う。

ひとつは、無意識にすること。
これは習慣になっていることでもあり、
ああして、こうして、と考えず自然に行うこと。
時には、それをしていることさえ気づかずにしていること。

もうひとつは、意識してすること。
ひとつひとつのことを、ああして、こうして、と、考えながらすること。
無意識にしていたことを意識することでより明確な行動にしたり、
無意識にしていたことを意識することで違うものにしたり、
それまでしていかなったことを意識することで新たに行ったりすること。

そして、付け加えるなら、意識してすることを続けるうちに、
それが自分にとって無意識にすることへと変わってゆく。



以前、テレビで、叶恭子おねーさまが言ってた。
これ聞いてさすがだなーと思ったのだった。

インタビュアーが、叶姉妹の座るポーズについて聞いた時のこと。
アレです、例の美しく見える斜めに足を組むポーズ。

イ:「おふたりはずっとそのポーズで座ってらっしゃいますが、
   疲れないんですか?」

恭:「ええ、疲れません。
   あたくしたちは1時間でも2時間でもこのポーズで座っていられます」

イ:「でも、きつそうですよね」

恭:「最初はきついかもしれません。
   けれど、意識して続けるうちに、
   それが無意識のうちにできるようになります。
   何も考えなくてもそれが自然にできるようになるんです。
   そうなるまでの努力が大切です」

やっぱりタダもんじゃない!、と思ったのだった。



そうそう、そこなのよ、そこ、そこそこそこ!!!


「そうなるまでの努力が大切です」


これはだねー、心のことにも言えるんだなー。

私達は、普段感じている感情を当たり前だと思っている。
人や出来事を通して瞬間的に飛び出す反応、喜怒哀楽すべて。

でも、ちょっと待ったぁーっ ヽ(`Д´)ノ

実は、それ、当たり前じゃないの。
無意識のうちにしている「習慣」、心の「クセ」なんだな。

あんなことで腹立つのも、
あんなことでへこむのも、
あんなことでこわくなるのも、
あんなことでやる気が一気に喪失しちゃうのも、
みんな、みーんな、心の習慣、クセなのだ。

それが自分の性格だと思っている人もいるかもしれないけど、
実は違うんだなー。

あまりに長い年月、それがしみついていて、
そして、それを繰り返してきたがために、
それがあたかも「自分」のような気がしてしまうんだけど、
実は違うんだなー。

もちろん、その人の持つ性質というのはあると思う。
その性質をベースに色々なものがその人となりの形で表現される。

木に例えた時、自分が幹、自分が表現すものが枝葉だとしたら、
その枝葉は変えられるのだ。
ケヤキの木にイチョウの葉は生えてこないように、
基本的な性質は変わらないけれど、
ケヤキの葉をより素敵な葉にすることはできる。

簡単に言えば、思考も感情も、
そして、それに伴って現実も変えられるってこと。



最近、やっと、それが腑に落ちてきた気がする。

心の習慣を変えるために何かをしていくのは、
ダイエットやトレーニングで美しくなるために何かをする、そんなのと同じ。

私が一時期猛烈に筋トレにハマってたのは、
「やればやっただけ結果が出る」ってのが、
面白くて、うれしくて、楽しくて、たまらなかったからだ。
幸い、親友がインストラクターで、効果的なトレーニング方法を教えてもらったので、
それに忠実に従い、私はひたすらトレーニングを続けた。
私の体は、あれよ、あれよ、と言う間に変わった。


えええええっ、まぢーっ!?
こんなに変わるのーっ!?
・:*:・(*´∀`*)・:*:・
うひゃーっ!!!



それが私の率直な感想であり、
鍛え続けるモチベーションを維持するのに十分なエンジンになっていた。

実は、心も体も同じなのだ。

無意識のうちに飛び出す心の習慣、クセを、
意識することによって違うものにしていくことができる。
そして、それを何度も何度も何度も…繰り返すうちに、
今度はそれが新たな自分の心の習慣となって、
自分の反応も変わってゆく。

素敵ぃ.。゚+..。゚+.

いやね、気楽に、素敵ぃ.。゚+..。゚+.なんて言ってるけど、
ここまで来るのにかなりもがいたよね(笑)
迷走、暴走、しまくった。

精神的に落ちると、自分なんか死んだ方がいいんだとか、フツーに思ってたし。
ベランダから飛び降りたら死ねるかな、なんて考えると、
いや、2階じゃ悪くて骨折くらいっしょ、
とか突っ込む冷静な自分がいたり ( ̄▽ ̄)
そして、死ぬ気などさらさらなく(爆)

だからこそ、今があり、
この年齢の自分がたまらなくうれしく、好きなんだよ。



本題です(前置き長っ)。

筋トレと同じで、
心トレ(語呂合わせで「シントレ」とでも読んどいてください)があれば…

無意識にすること(それが自分だと思い込んでいる姿)を、
意識してすること(こうありたいと望む姿)に、
変えていくことができる。
それによって現実はぐんぐん変わる。

そして、それは、もうすでに、
色々なメソッドがあり、
色々な本が出版され、
Amazonに石を投げればそういう本にぶつかる(笑)
セミナーやワークショップもあるだろうし。
いずれにせよ、自分に合うよい方法を選ぶことが大切。

とにかく、シントレは、

正しい方法でやる

ってことが大切なんだ。
筋トレもそう。
自己流やズレたやり方でいくらやっても、

「こんなに頑張ってるのに全然変わらない…」

ってことになる。

私は自己流筋トレでは全然体が変わらなかったよ (´・ω・`)ショボーン…
それが、プロのイントラについてみたら、どうよ。
3ヶ月後にはイントラに間違われるくらいに体ができてきた。

シントレも同じでございマス。



SunGoddessは年明け、2月くらいまでにはホームページをリニューアルし、
癒しだけではなく、そうしたシントレ(笑)にも力を入れ、
セッションやワークショップを行っていきます。

私も今なおシントレ継続中なので、
みなさんと一緒に、


なんか最近色々いい感じだぜぇっ♪
・:*:・(*´∀`*)・:*:・
うひゃーっ!!!



を体験できたらうれしいな。

シントレの選択肢の中にSunGoddessも入れていただき、
ご縁ある方と一緒にワークしていけたらと思います。

私の数年に渡る長いトンネル暗黒体験も、きっと話のネタとして出るはず(笑)



シントレの選択肢を広げるために、
私が素晴らしいと感じている方をご紹介します。

おひとりは、すでにここで何度かご紹介した、
「思考は現実化するの秘められた真実
 思い通りの思考が実現するシンプルな法則」
 造田修作さん


造田さんのブログに出会い、
思考現実化無料メールセミナーに参加したことが、
私の突破口となったのは言う間でもありません。
栃木に向かって思い切り合掌です。
そして、合唱、いや、娘と「かっこう」を輪唱してもいいかなと思ってます。

もうおひとりは、

「決断コンサルタント」
 木村英一さん


木村さんとは、山志多みずゑさんのパーティで一度お会いしました。
お会いした瞬間深い信頼を寄せられる不思議な方です。
存在から匂い立つものがあるんですよねぇ。
ごり押し感、上から来る感がなく、本当に気さくで、
けれど、確固たるものをお持ちになっている、素晴らしい方。
圧力感に弱い私には(爆)こうした方の存在は救いです。
私が語るより木村さんのブログを読んでいただいた方が早いと思います(笑)

どうやって現実を心地よく素晴らしいものにしていくか、
その「どうやって」をつかむきっかけとして、
選択肢の中にぜひこのおふたりを入れてみてくださいね。




ああ、今日も長くなっちまいましたが、最後までおつきあい感謝です。
読んでくれてありがとうございます.。゚+..。゚+.


2010年12月19日(日) 毎日の中には贈り物がいっぱい

毎日の中のちょっとした出来事の中に、
贈り物がいっぱいあるんだなぁ、と、感じるこの頃。
そして、それに気づいた時、ワクワクし始める。
先日もこんなことがあった。


*****


近所のディスカウントショップで、
歯ブラシを買おうと手を伸ばすと、
私の隣で老夫婦が歯ブラシを物色しながら言う。

「みんな固いねぇ。
 柔らかいのがいいんだけどねぇ」

柔らかい毛の歯ブラシが欲しいらしい。
思わず、自分が取ろうとした歯ブラシを老夫婦に見せ、

「これ、いいですよ!
 柔らかくておすすめ!
 毛先が細くてしっかり磨けて歯茎が痛くないの」

と言った。
私が使っているGUMの歯ブラシ、これこれ、すっごくいいんだ♪
 ↓
GUMデンタルブラシ #202M

お父さんがその歯ブラシを手に取り眺める。

「ほぉ、これがいいのか、じゃあ買ってみようか」

「私の好みなんで合えばいいんですけど」

そう言った私に老夫婦はにここにして言ってくれた。

「いやいや、教えてもらってよかった」

私と老夫婦はお互いにぺこぺこと何度も会釈し合いながらその場を離れた。



うれしいわぁ.。゚+..。゚+.



買い物を終え、店を出た目の前にあるタイヤキ屋さんに直行。

そこのタイヤキが我が家の定番おやつの中のひとつ。
あのもちもちくにくにした食感のヤツね。

いつもの白いタイヤキを注文して待ちながら、
お店のおにーさん@中年(笑)に話しかけた。

「これすごくおいしいですよね!
 やっぱり普通のより白い方が売れるんですか?」

「いや、この辺の人は普通のタイヤキの方が売れるね。
 白い方がもちもちしておいしんだけど、
 見慣れないんじゃないかな」

「意外…
 すごくおいしいのに!」

そんな会話を聞いていた後ろのおばさんが寄ってきた。

「なになに?
 そんなにおいしいの?」

興味ありそうにのぞきこむ。

「おいしいですよ!
 皮がね、普通のと違ってもちもちしてるんです。
 おすすめ!」

私がそう言うと、

「じゃあ、私もいただいてくわ。
 白いのふたつちょうだい。
 つぶあんね」

おばさんが興味津々で白いタイヤキを買った。



うれしいわぁ.。゚+..。゚+.



自分がいいと思ってるもの、すすめたものに、
興味を持ってもらえるって、とっても幸せ。

人によっては、それが、

「やっぱり自分には合わないな」

そういうことがあっても当然で、それはそれでよく、
きっかけを "どうぞ" ってできることが楽しいらしく。

私は、自分がいいと思ったものを、人にすすめたくなる性分なようで(笑)

ウキウキしながら帰路についた。


*****


ほんの20分程度の間に、
偶然そこに居合わせた人に、
自分がいいと思っているものをすすめて、興味を持ってもらえる、
そんな体験をふたつもした。
ワクワクした。

「ほら、あなたはこういうのが好きなんでしょ?
 楽しいんでしょ?
 思わずしてしまうんでしょ?」

そう言われたみたいな気がした。



あ…



そかぁ…



最近、私は仕事の方向性について考え込んでいた。
いや、考え込むと言うよりは、わからなくなっていた。
仕事って、SunGoddessの方、セッションね。

その時思った。
私は楽しむことを忘れてたんだ、って。

あれぇ、いつから忘れちゃってたんだろう(爆)

自分が好きで素晴らしいと思ったものを、
色々な人に伝えたいって気持ちでこの仕事を始めたんだよな。
2000年2月、ワクワクドキドキしながら。

すっかり忘れてた(爆)

楽しいことをするのがいいんだってわかってて、楽しめず、
もうこの仕事終わりか?って思ったり。

そか!
そか!
そか!

そこをすっ飛ばしてたから、最近おかしかったのか ( ̄▽ ̄;)

私に届いたメッセージ。

「ほれ、あーたの好きなことはこれっしょ?
 忘れてまっせ。
 これやったらいいんよ」

(どこのどいつだよ・笑)

それは、きっと、私の祈りへの答え。

「私はこれからどうやって何をやっていったらいいのでしょう?
 教えてください…」

空に向けて放った祈りへの答え。
それを受け取って、私は原点回帰した。

自分が好きなもの、いいと思ったもの、
それを伝える人であろうと思った。
ほら、こんなにいいんだよ、あなたもいかが?
これで一緒にうれしくなりませんか?
楽しくなりませんか?
ハッピーになりませんか?
って。

気が重かったのは、それを忘れていたから。
楽しいことをするんじゃなく、義務となりつつあった仕事。
なぜそれをするのかがわからなくなりつつあった仕事。

思い出したよ。
大切なこと。

思い出したから、楽しむことができなかった色々な理由がわかったの。
だから、自然にワクワクしてきたんだ。
不思議だね。
あんなに苦しくて、
セラピストに復帰したことは間違いだったんじゃないか、
なんて、自問自答していたのに。

私はたくさんのことがこわかった。
私はたくさんのことが不安だった。
私はたくさんのことがイヤだった。
私はたくさんのことがわからなかった。
私は迷子だった。

もちろん、今もそうだ。
でも、今は、それでも、前に進める気がしている。
なぜなら、そこにはワクワクというエンジンがついたから。

晴れてどこまでも突き抜ける青い空みたいな気分になった。

それから、私はSunGoddessのホームページのリニューアル作業に取りかかった。
待ってたんだ、この日を。

なくしてしまった「何か」がわからないまま、
その「何か」を探し続けて、
私はどれくらい闇の中をさまよっただろう。
もしかしたら、今も闇の中かもしれないけれど、
そこから私は光を見ている。

闇の中をさまよったとか言っても、
ま、過ぎてしまえばどーってことねーっす(笑)



この日を迎えるために、
この日のこの気づきに辿り着くために、
私にはいくつもの贈り物が届いていたことに気づいた。

楽しむことを恐れるブロックを外すための要素が、
必要な情報が、
必要なアドバイスが、
必要な人脈が、
必要な出来事が、
私に訪れていた。

今だからわかる。
みんなみんな贈り物だった。

あのことも、あのことも、あのことも、みんなみんな、
いくつもの点となって私に訪れて、
その日、それがみんなつながって線になった。

ああ、あの途方に暮れていた頃も、私はたくさんのものを与えられていたんだ…
ただ、その時は、それと気づかなかっただけで…
どんな時も常に愛されて見守られているんだ、そう感じた。

うれしくて、ありがたくて、ぴょんぴょん跳ねたくなった。
ありがとうって、どこへともなく叫びたくなった。
こういう瞬間、自分は宇宙とつながってるんだって実感できる。



毎日の中には贈り物がいっぱい。
時には、それがメッセージや贈り物だと気づかないこともある。
それでも、私達は与えられ続ける。
そして、意識しようがしまいが、必ずそれを受け取る瞬間がある。
それは私達を生かそうとする愛そのもの。



イヤイヤ何かを義務でやっていると心が死んでしまう。
人それぞれ色々な人生だけど、
ひとつだけ言えるのは、
大好きで、やっててうれしくて、楽しくて、ワクワクする、やりたくて仕方ない、
そんな中にこそ、私達が自分を生きる鍵がある。
人が自分を生きてイキイキして輝き出す時、その輝きが世界を照らし出す。
ひとり、またひとり、目覚めるごとに、世界は輝きを増す。

その楽しささえも感じることを許さない自分がいたり、
恐れや不安の厚い壁があって楽しいことやワクワクがわからなくなっていたり、
色々あります、うん、ある。
それ、外しましょ、よしゃ、それがいい!
誰に言ってんだよ(笑)

新しい世界にジャンプするのはこわい。
でも、古い世界にもいられない。
今、そんな人が多いんじゃないかな。

そのためにも、私が先にジャンプしますんで ( ゚∀゚)ノ オシャーーーーーッ!!!
先行って、

「おーい、来てみたらここは安全で安心だよー。
 それに、楽しくて居心地よくて最高だよー」

って、呼びますんで、
みなさん、後に続いてください(爆)


2010年12月17日(金) 日経トレンディに顔出し

ひゃーっ、私が日経トレンディにっ!
とか言っても、すごいことやってインタビューされたとかではないんだな。

私達は写真素材をココで販売しており…

写真素材 PIXTA

そう、ピクスタね。
その中の私の写った写真を日経トレンディのサイトで使っていただけたワケだ。
しかも、メッチャ演技してるヤツ(爆)

「あああ、もぉ鼻むずがゆいぃぃ、きーっ!」

ってのを表現しようと、撮影のabuとあれこれやって撮った1枚(笑)
 
日経トレンディ
花粉症の治る「境界線」「付き合い方」「病院選び」とは?


って記事なんス。
ここに私が載ってます。
ちなみに私は花粉症じゃないデス。

今より全然髪が長いねー(笑)
これを撮ったのは今年の春先だったと思う。

メッチャうれしい、うへへへ ( ̄▽ ̄)
たとえば、ドラマのロケ現場に居合わせて、
放送当日、自分が一瞬映って大はしゃぎするような、アレ ← 小市民

写真素材の話題が出たところで、
私達が写真素材を販売しているページを紹介させてください♪
アカウントがふたつ、どちらも私達emaのアカウントなのダ。


まずは、このページ。


そして、このページ。



まだ枚数はそんなに多くないんだけど、
おかげさまで買ってくださる方も結構いらしいて、うれしい限り.。゚+..。゚+.
これからもどんどん写真を増やしていきます。
写真素材をお探しの方は、どうぞ、どうぞ、よろしくお願いします!

昨日、市のガン検診で、
バリウムが思ったよりうまいと思ってしまったえみやがお届けしました( ̄▽ ̄)
朝ご飯抜いたからかな…




***追記***

さっきまで

「日経トレンディ」



「日系トレンディ」

になってましたーっ! ( ̄▽ ̄)

造田さんがブログで私のことをこれまた素晴らしく書いてくださったのですが、
そこで「日経 → 日系」についての、
楽しい突っ込みをしていただき、初めてハッ!と気づいたのです。
いやーっ、もう気づいた瞬間、誰もいない部屋で大爆笑。

日系って…

そう言えば、

「あんた日本人?
 どこの人?」


と、ここいらのじさまやばさまに聞かれることがある。
今度そんなふうに聞かれたらこう言ってやろう。

「日系トレンディです」


造田さん、ナイス突っ込み感謝です!
日光猿軍団に代わってお礼申し上げまぁす♪


2010年12月15日(水) すべてがただ純粋に素晴らしい人生のためにある

ふと、思った。
今まで体験したことの中で

「あんなことなければよかった」

そう思うことはひとつもないと。

もちろん、ひとつひとつを拾い上げると、
もう二度とあんな目にあいたくない、そんなことはいっぱいある。

それでも、体験してよかった、そう思えるのは、
そこで学んだことがあるからこそ、今の自分がいるから。

私なんて消えてしまえばいい、
今この瞬間にも死んでしまいたい、
もう二度と立ち上がることなんてできない、
そう思ったり…

足りなさを指摘されて顔から火が出るほど恥ずかしかったり、
過ちに気づいて内蔵が撹拌されたように気持ち悪くなったり、
悔しくて涙が止まらなかったり、
そんなことがあったり…

そんな時ほど学びは大きい。
つらい、悲しい、苦しい、途方に暮れる、そんな「暗い場所」にいる時ほど。

そう思うと、人生の困難に直面した時は、
それは、未来の自分が振り返って、

「あの体験があったから今の私がいるんだな」

そう思える時なんだよね。

それは、もう、ずっと前から感じていたことだけど、
改めて、じっくりと感じてみると、
すべてがうまくいくための過程であり、チャンスであり、
私達はその機会を与えられているのだと、深く、深く、思う。

未来の自分を思うと、にこにこ顔で今の自分を眺めているのを感じる。

そして、そう感じられるのは、
ある程度生きてきて、色々なことがあって、
その色々なことが自分を生かしてくれているのだとわかるから。

それを認めるとすごく楽になる。
すべてがただ純粋に素晴らしい人生のためにあるのだと思う時、
今まで私を脅かしていた不安や恐れが影を薄くしてゆく。

だから、常に、すべてが学びの過程であり、
恩恵に満ちた出来事であるということに、
意識を向け続けようと、心に誓ったのだった。

今まで傷つけてしまった人、本当にごめんなさい。
今まで傷つけたり不愉快にさせる形で色々見せてくれた人、本当にありがとう。
そのすべてを輝きに変えるために、私はもっと素晴らしくなるね。

今日はおひさまがぴかぴかで、
そんなことを考えながら空を見ていると、涙が出ちゃいそうだよ。



**********

今日の「まるおくん」アップしました。

**********


2010年12月08日(水) たくさんの「教師」

私が大好きな言葉のひとつにこんなものがある。
Enigma の Odyssey Of The Mind という曲の中の一節。

「There's no teacher who can teach anything new.
 They only can help us to remember the things we always knew.」

新しいことを教えられる教師などいない。
彼らは私達がすでに知っていることを思い出させるだけだ。

そういう意味。

私達はすべてを知っていて、
けれど、それらの記憶を消して肉体を持って生まれてくる。
生きていく中でそれを思い出す。

「気づきとは本来知っていて忘れていたことを思い出すことです」と、
「思考現実化の秘められた真実」の造田さんの言葉、
ああ、本当にそうだなぁ…と、感じている。

この言葉の「教師」とは、特定のそうである人だけを指すのではない。
それも含め、あらゆるものを言うのだと思う。
人に限らず、草花、動物、出来事、あらゆるもの。

私達のとっての「教師」は、日々の中のあちこちに存在する。
それを「教師」であると認めると、
精神の隅々にまで流れ込み始めるものがある。

周りのすべてが「教師」であるとわかった時、
私の人生は「うまくいかない苦しい人生」から「豊かな人生」に変わった。

そこらかしこに存在する「教師」に、改めて感謝を感じる夜。
泣けてくるのはなぜかな…


2010年12月07日(火) ちょっとだけ愛を叫ぼう、イヤなヤツに(笑)

この前は、

「愛を叫ぼう、癇に障る人に(笑)」

でした。
今日は、

「ちょっとだけ愛を叫ぼう、イヤなヤツに(笑)」

です。

ちょっとだけが付くんだよ(笑)
しかも「人」が「ヤツ」になっちゃって、あーあ、もうイヤイヤ感漂う三人称だね(爆)



癇に障る人がいるのと同様、
その上を行く「イヤなヤツ!」って感じる人もいる私。
ああ、いないと言えたらどんなに美しいでしょう(笑)

何、あの態度!
何、あの言い方!
いっつも機嫌悪くて感じ悪い!
人の悪口ばっかり言って、
その悪口をみんなに吹き込んで周りまで巻き込んでなんなの!?
会う度愚痴ばっかり、ネガティブ一直線、こっちまで気分悪くなるぜ!

心の中でイヤイヤ祭りが始まってしまう (; ̄▽ ̄)
そう思ってる自分がイヤなヤツと同じになってたりして…

そ・こ・で。

私はそうなった時、また、ある作戦に出る。
その人に、

直接ガツンと言ってやる。

文句?
いや、ちゃうちゃう。
言えない、小心者だし(笑)
愛の告白なのですよ、前回に引き続き。
ちょっとだけ愛を叫ぼう、イヤなヤツにキャンペーン ( ゚∀゚)ノィョ―ゥ

「あれ、美容室行ったの?
 その髪型似合うね!」

「○○が上手いんだね。
 見直したよーっ」

「○○さんって仕事速いですよね。
 さすがだなーっ!」

ほめる。
ほめまくる。

ここで大切なのは、おべっかや心にもない嘘じゃなく、

本心でする

ってこと。
その人の、ここが素晴らしい!ってところをマジでほめてみる。
試しに(爆)

イヤなヤツに、心底ムカつくヤツに、
そんなこと言えない、言いたくない、という声が…あれ、私の声か(笑)

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」って言葉がある。
イヤなヤツはすべてがイヤだと感じてしまう。
でも、残念ながら(笑)誰にでも必ず素晴らしい部分があるのだ。
それを認めるくらいは、大人ならしよう。

そして、どうせそこまでイヤなら、バラバラにしてみよう。

バラバラ、コワイデスネー ( ̄▽ ̄)

バラバラになったその人を眺めてみると、ほら、パーツパーツになってるから、
髪型が素敵、とか、
爪の形がキレイ、とか、
洋服のセンスがいい、とか、
目がいい、声がいい、とか、
仕事が速い、とか、
商品知識がハンパない、とか、
部分部分でいいところが見えてくるわけだ。

バラバラにして、ヨカッタネー ( ̄▽ ̄)

その人のことはキライでいい、大キライでいい、そのパーツをほめる。
それなら心にもない嘘じゃない。
そして、それが本当に、すごいな、素敵だな、って純粋に感じてほめる。
それならおべっかじゃない。

この時に、

「このくらいほめときゃ相手も機嫌よくなるだろう」
「ほめたんだからちょっとはこっちにもよくしてよね」

相手にそんな期待や要求はなし。
ただただ、夕焼け空を見て、

「わぁ、キレイ…」

そういう気持ちでね。
誰も、夕焼け空を見てキレイと言ったからと言って、
夕焼け空から見返りは求めないもんね。

ほめるんです、そのイヤなヤツを。
切り刻んだほんのちぃちゃい一部分だけ。
心から。

それは、相手のためじゃーありません。
自分のため。

それからどんなことが起こるかは、体験してみてください。
かるーくね、かるーく、この日も書いたように、人生はゲームだから(笑)
実験くんしてみてください。

やりたくないかもしれない。
でも、やってみて(笑)

大切なのは続けること。
1回やって、けっ、ダメじゃん、と思わず、ただ続けてみる。
呼吸のように。



セラピストをお休みして、郵便局で1年間パートをやっていた頃、
これはフル活用したね、もう。
活用させていただきたい人がわんさかいたから(爆)

ひとりね、すっごく嫌われてる女の人がいたの。
入ってすぐ周りの人に、

「あの人には気をつけなよ、性格悪いから」

って言われたんだ。
そして、その女性は噂通りかなり個性的で、入ってすぐに洗礼を受け、
あちゃーっ、マジできっついわ、この人、って思った(爆)

でもね、ある時期を境に、すごーくよくしてくれるようになった。
えみやさーん、えみやさーん、って笑顔で声かけてくれて、
仕事で困ってると、部署が違うのに一緒になってかけずり回って助けてくれた。
いい人だなぁ、ありがたいなぁ、そう思うようになり、私は彼女が嫌いじゃなくなった。

私は彼女をバラバラにして眺めてみた。
そして、部分部分を眺めて、素敵なとこが見つかると、それを彼女に伝えたんだ。
そう、ちょっとだけ愛を叫んだの、ほんのちょーっとだけ(笑)
部分部分で見たらそれは事実だから。

「仕事がテキパキしててさすがです」

「細かいところに気がつくんですね、すごいなーっ」

「この前、笑顔で、おはよう、って言ってもらえたうれしかったです。
 元気出ちゃいました!」

そうやって彼女の素敵な部分を見つけて感動したことを伝え始めると、
彼女の私に対する態度が変わり始めた。
彼女は彼女の美しい部分を私に見せるようになった。

それは、私が彼女の美しい部分を見るようになったから。
人は自分が「あの人はこういう人」という目で見たような人になる。

そして、時に、彼女が愚痴や悪口を言い始めると、
私は仕事に戻るふりをしてその場からスーッと消えるようにしていた。

私が付き合いたいのは素敵な彼女。
だから、彼女がそうじゃない振る舞いを始めた時は、彼女を離れた。
そういうのを聞いてわざわざ嫌いになる必要もないし。

私が郵便局を辞める時、
彼女は、うるうるして「寂しくなるね」って言ってくれた。



この「ちょっとだけ愛を叫ぶ」ことが、
どれだけ自分をうれしく楽しくするかって、
今まで何度もやってきてしみじみ思うんだぁ。

人を嫌うのってすごく無駄なエネルギー使うし、気分悪い。
嫌いたいから嫌ってるんだけど、たまんないくらいイヤな気持ちになる。

でも、人を好きになると、うれしくて楽しい。
にっこにこしちゃう。

そういうふうに心地よくいたいんだもの。
自分がどういう状態でいたいか、どういう気持ちでいたいか、
それを選択して、そうなるように色々やってみる、そんなのが好き。

だから、私は「イヤなヤツ」と感じた人に、ちょっとだけ愛を叫ぶことにしている。
そうすると不思議で、素敵な部分を見せてくれるようになる。
こちらが見ようとするものを、相手は見せるんだよね。

そうすると、今までいやーっ!と思ってた人が、
実はそんなに悪い人じゃないじゃない?なぁんて思えて、
うれしくなっちゃうんだよね。

もちろん、全員が全員、それで好きになれるかはわからない。
けれど、その人の中の美しさを見るという意味では、
やってムダじゃない作業だとは思う。

私はそれで郵便局を乗り切った(爆)
今じゃいい思い出。



そして、人は鏡。
許せない自分、認められない自分、受け入れられない自分、
そんな自分を相手の中に見て感情がかき乱される。

人に愛を叫ぶことは、たとえほんのちょこっとでも、
ずっとずっと昔、お父さんやお母さんにしてほしかった、イイコ、イイコ、なでなでを、
自分で自分にしてあげることにもなると思う。

人を好きになるとうれしいのは、自分を好きになるから。
人を憎んで嫌って苦しいのは、自分を憎んで嫌うから。

人を通して、私達は常に自分と向かい合い、その自分をどう扱っていくか、
そんな機会をもらっていると、私は思ってる。



愛を叫ぼう。
最後には、あなたに。
大好きだよって。


2010年12月05日(日) タロットリーディング・リコリス|茨城の中心でアドちゃんを叫ぶ

最近あまり人のセッションを受けることってないんだけど、
どうしても、申し込みをしたくなってしまう人が、ひとり、いる。

それは、

アドちゃん!!!

彼女は、タロットリーダー。
ずいぶん謙虚で(笑)自分のすごさに気づいてないふうなところがまたニクくて、
私は、世界の真ん中で

アドちゃん!!!

を叫びたくなるんだよな。
まあ、世界の真ん中はどこかはわからないけれど、
茨城は日本列島の真ん中あたりなので、
まずは日本の真ん中で

アドちゃん!!!

を叫ぼうと思います ( ̄▽ ̄)



彼女はタロットリーディングのセッションを提供してます。
タロットって言うと、占いというイメージが強いけれど、
彼女のセッションを体験してみると、占いじゃないよなー、っていつも思います。

私にとっての占いのイメージは、
これからこうなります、こういう運勢です、これをするにはいついつがいいですよ、
そんなことを伝えてくれるものなんだけど…

アドちゃんはそういうんじゃなく、
タロットを媒体として、リーディングする人。
本人はケロッとしてますが、カードを読んでいるときの彼女は、
間違いなく第六感でどっかにつながって「読んで」ます(笑)
タロットを信頼していて、そして、タロットに信頼されている、
そんなタロットリーダーさんだなぁと、いつも思うの。

「答えは自分の中にある」って、よく聞くじゃないですか。
それを実感させてくれるのが彼女のセッション。

彼女はただひたすらカードを読んでいくんです。
とても中立的に。
けれど…
ひとこと、ひとこと、伝えられる度にこうなる。

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

最後に受けたセッションでは、
私の中にあって、外に出たがっていたのに、
すっかり自分からぶれてしまっていてそれを外に出してあげなかったものに、
リーディングで触れてくれたので、
気づいたら目から涙がぽろぽろと…

どんな時も思うの。
自分の本質に触れた時、あったかい涙が流れる、って。
それは、喜びの涙。

「ただいま!
 思い出してくれてありがとう!
 これからは一緒にいようね」

本当の自分が喜びに震えながらそう言ってくれている、そんな感覚。

そんなセッションだったんだぁ。

それからね、私は見失っていた自分、帰ってきたその自分と一緒にいる。
そして、その自分が選んだものと共にいる。
そこから現実がとても心地よく楽しいものになったんだ。

あの時、アドちゃんのセッション受けてなかったら、
間違いなく、間違った方向に驀進してたよ…
マジで…
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル…
ああ、こわや、こわや…

アドちゃんは、自分の中の本質的なものを思い出させてくれる。
すると、不思議なもので、答えはするすると自然に出てきて、
そうしないといられなくなっちゃう。
アドちゃんは、答えを自分で見つける力をくれる。

名医は、薬でただ症状を抑えるのではなく、
その病気の根本を改善していくために治療をしてくれると、私は常々感じてるのね。
時に症状を抑える薬は出さず、生活習慣や体質を変えるためのアドバイスや、
そのために必要な薬だけ出してくれたり。
自己治癒力で治っていくために力を貸してくれると言うか。

アドちゃんって、そんなお医者さんみたいな人なんだよね。
友達でもある彼女だけど、そういう部分、すごく尊敬してるんだ。

やっぱりねぇ、自分ひとりではどうも煮詰まっちゃう時ってあって、
そういう時は人の力を借りることにしてる。
私にとってのそのひとりがアドちゃんなのだ。
自分を取り戻すお手伝いの天才!
杓子定規にカードの元の意味に縛られることなく、
その人に合ったリーディングをするから不思議。
完全につながっちゃってるんでしょうなぁ…

人には力がある。
元々持っている力が。
その力さえ取り戻せば、どんどん進んでいける。
その力を持っているのは奥の方に隠れている本当の自分。
すべての答えを知っている自分。
その自分にさえ出会えば、そして、その自分に声に従って進めば、
進む勇気を持って行動すれば、現実は必ず変わる。

それを、さりげなーーーーくやってくれるのが、

アドちゃん!!!

ぜひ、ぜひ、彼女とつながってみてください。
アドちゃんのホームページも紹介しちゃう♪

タロットリーディング 「リコリス」

アドちゃんのごとく、シンプルで見やすくて、かわいらしい、ホームページです。
出張の他に、スカイプでもセッションしてくれます。
らっき♪

それに、彼女のブログがまた (・∀・)イイ!!

毎朝、1枚、引いたカードをリーディングして、
その言葉をアップしてくれてる。
これこれっ↓

「リコリスの日記」

時に、カードを読んだ言葉以外にアップされる記事に、
彼女のユーモア溢れるおされで楽しいキャラを垣間見ることができて、
またそれがたまらないっ!!!

私が毎朝楽しみにしていて必ず読むのは、山志多みずえさんのメルマガ「ひとせら」と、
アドちゃんの「リコリスの日記」、このふたつだ。
このふたつは私に欠かせない。

「リコリスの日記」なんて、毎日タダでタロットひいてもらってる感じだよ。
はっ…!!!
って、なりっぱなし(笑)

どうぞ、どうぞ、素敵なアドちゃんとつながってみてくださいまし。
キャラもかなり魅力的な彼女、
えみや2010年イチオシリスト上位にランキングされております(笑)


2010年12月04日(土) 愛を叫ぼう、癇に障る人に(笑)

なんかいちいち癇に障る、おもしろくない、
それなのに、やたら気になる、そんな人いない?
見てると、ふんっ、ってなる人。

私はいるのよーっ。

そういう人がいる時、大体、その人のことを素晴らしいと認めてる時。
そして、負けてる感が漂っちゃう時。
自分ダメじゃん、そんな気にさせられる相手は、ホント癇に障るねぇ(笑)
本当はその人が、自分の理想であり、憧れであり、目指すところでありながら、
(だからこそ反応しちゃうんだよ、自分にはそれがないって思っちゃってるから)

「私は別にああいうふうになりたいんじゃないし」

「ああいうのってどうなの?」

と、ついつい相手を否定や批判してしまう (; ̄▽ ̄)

そ・こ・で。

私はそうなった時、いつもある作戦に出る。
その人に、

直接ガツンと言ってやる。

文句?
いや、ちゃうちゃう、愛の告白。
愛を叫ぼう、癇に障る人にキャンペーン(笑)

「私はあなたを素晴らしいと思ってます。
 あなたのかくかくしかじかこういうところが素敵です。
 素敵すぎて嫉妬しちゃう!(それも伝えたりする・笑)
 大好きです」

って、相手に言ってしまうのだ。

すると、まあ不思議。
自分が解き放たれる。
それまで、妬みや批判の目で見ていたその人が、
純粋に自分にとって、素晴らしい人、憧れの人、好きな人に変わる。
少なくとも、キライな人、ムカつく人というレッテルがはがれる。
おもしろいんだよー。

相手を認める行為、それは、自分を認める行為なんです。
相手を、もいいい、認めちゃう、素晴らしい、好き、最高だよ、そう認め、
そして、宣言することは、
自分に対しても、同じ思いを持ち、同じ宣言をするということ。

相手を批判している時は、自分を批判している時、
相手を通して見る自分の素晴らしさにダメ出ししている時。
やればやるほどイヤな気持ちになる。

相手を認めて受け入れる時は、自分を認めて受け入れている時。
相手を通して自分の中にある素晴らしさを受け入れている時。
やればはるほどうれしくてハッピーになる。

この世界で自分を否定できるのは、本当は自分ひとりなんだ。
だから、人を通して自分への否定を解きほぐし、解き放つ。

私達は鏡を見ないと自分の姿が見られない。
それと同じ。
私達は自分が持っているものを、人を通して見ないと気づかない。
だから、見るんです。
相手の中に自分を。

妬ましい、負け感が漂いみじめ、
自分をそんな気持ちにさせる人は、実は、自分と同じものを持ってる。
持ってるのさ〜、るるる〜♪
だからこそ過敏に反応してしまう。
自分はそれを持ってないと思い込んで、妬んだり、敵視したり、嫌ったり、しちゃうのね。
本当は持ってるから相手によぉく写って見えるのにねぇ(爆)

活躍していたり、美しかったり、素晴らしかったり、
そんな人を見て、ムカッ、ふんっ、キーッ、気に入らない、なんて思ったら、
平たい言い方だけど、チャンスだよね。
本当は自分も持ってるのに持ってないんだと信じ込んでしまってる自分の輝きを、
今まさに取り戻そうとしてるんだから。

とにかく、声を大にしてその人を認めて受け入れてしまう。
その早道が、私のやり方だと、相手に伝えるということになるんです。

「あなたは素晴らしい!」

って。

好きじゃないヤツにそんなことしたくない、そう思うことがあるかもしれない。
頑に。
しようとすればするほど泣きたくなることもあるかもしれない。
私もあるからねー(笑)
なんでこんな癇に障るやつにそんなことしなきゃならんのだ、と。

でも、ちぃと待った。
それは、その人のためにするんじゃない。
自分のためにするんだな。
自分が楽に、心地よく、そして、さらに素晴らしくなるために。

だから、相手にそう言うことは、つまり、こういうこと。

「私は素晴らしい!」

そうやって自分をほめることになる。

でですね(笑)
その愛の告白をするとどうなるのかと言うと、気持ちが軽くうれしくなるんだな。
そりゃそうだね、自分に愛の告白してるんだから。
そして、相手を認めて受け入れた分、自分を認めて受け入れるんだから、
自分を否定することによってできていた鉄の要塞のようなブロックが外れて、
それまで自分でせき止めていたたくさんの恩恵が流れ込んでくる。
間違いなく。

人生はゲームだから。
そんなゲームをしてみるのがおもしろいです。
もう遊びなんです。
その軽やかさが大切なんです。
そして、実験くんをするんです。
えみやがあんなこと言ってたな、じゃあ実験してみよう、って。

ねー。

今日は、癇に障るけど気になって仕方ない人への愛の告白(笑)について。
次は、キライでキライでホントいやでどうしようもない人への○○(笑)について。


2010年12月02日(木) 新時代の選択法

「人は絶えず変化するものだし、
 君が今の君自身であろうとする執着は
 君を制約し続ける」


これは私が大好きな言葉だ。
映画「Ghost in the shell」の中のセリフ。
シビれる〜 ・:*:・(*´∀`*)・:*:・



変化というのは、
自分の意識がそれを把握するスピードを超えて起こっている場合がある。
だから、自分がすでに変化し始め、それまでの自分ではなくなっているのに、
意識はそれまでの自分でい続けようとすることがある。

私の場合、そういう時は、
まず、今の状況や、今自分がやっていることがイヤになる。
でも、それまでうまくいっていたことをやめる理由が思い当たらず、
重い気持ちを引きずりながらやり続ける。
それがどういうものであれ慣れ親しんだ状態を、
何の根拠もなく捨て去ることに恐れを感じるからだ。

けれど、すでに昔の自分ではなくなってしまっているので、
もしくは、別の状況に移っていった方がよい時期を迎えているので、
昔はうまくいっていて楽しかったことが、もうすでにそうではなくなったり、
特に何が起こっているわけでもないのに、どんよりした気分だったり違和感を感じたり。

そして、「その場にとどまる苦痛」と「変化への恐れ」を天秤にかけて、
あまりの苦痛にようやく変化を選択する。
厳密に言うと、すでに変化している自分に合うような選択と行動をしていく。
すると、それまでの重苦しさが嘘のように消え去り、
清々しくパワーに満ちた新しい世界を見る。

そんなことを何度も繰り返すうちに、
早い段階で無意識レベルでの自分が変化に気づくようになる。
いつも心を通してそれを知る。
いつも大切なものは内側にある。
そして、それは頭で判断する正しさとか安全とかによって計れないもの。

自分が新たな選択をしようとする時、いつも思い出すのは、
映画「インディー・ジョーンズ」のワンシーン。

確かキリストの聖杯を手に入れるって話だったと思うな。
そのために「崖から飛び降る」というような暗号文を解読したジョーンズ博士が、
迷いながらも、いよいよ意を決して崖から飛び降りた瞬間、
何もないはずの空中に足場が現れる、そんなシーン。

信頼し行動したからこそ現れた次へのステップ。

認識できる世界においてはあり得ない選択を欲する自分を感じる時、
そのシーンを思い出し、自分に言って聞かせる。
大丈夫、大丈夫、って。

もういい加減大人な年齢なので、
選択するというその衝動が、
アディクションなのか、単なる邪欲なのか、
その辺は感じ取れるように、そして、選別できるようになったんだろう。
多分(笑)
そういうものから生まれる衝動は、
それにすがるような感覚があり、悲壮感が漂う。
その衝動に従うことが「救い」のように感じられる。


けれど、魂からの「お知らせ衝動」ってのは、
楽しくて、ワクワクして、いてもたってもいられない。
その衝動に従うことが「ハッピー」に感じられる。


そんなものに従って流れていきたいものだよなぁ。
何度でも崖から飛び降りてやれ、と(笑)
飛び降りれば飛び降りるほど、きっと信頼が深まるんだと思う。
身を以てそういうものがもたらすものを感じ取れるから。
自分でつかみ取るものだから。

私はそういうのを新時代の選択法と勝手に呼ぶ。


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