おひさまの日記
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2009年11月28日(土) 歩いていこう

郵便局の仕事はつらくてイヤだけど、いい人はいっぱいいて、
そんな人達とのコミュニケーションはすごく楽しいのだ。
だから、辞めるって考えるとちょっとさびしい部分もあるのが本音。

そんな、さびしい気持ちを感じながら辞められるなんて最高だと思う。
ありがとうの気持ちで去ることができたら、それがいちばんいい。
だって、私を育ててくれたありがたい場所なのだから。

私が確信していること、それは、
郵便局は私の順当なプロセスの中にあったということ。
郵便局での体験なくしては、
新しい道に進んでいく自分になれなかったということ。

過去2年間、色々あって、はっきり言ってさえない人生だった。
下り坂だった。
それまでうまくいっていたものがうまくいかなくなり、
急に道が行き止まりになったように感じることばかりで、
私の人生一体どうしちゃったんだろうって思った。
経済的な窮地にも陥った。
神様から見捨てられちゃったような、そんな気分になることもあった。
それでも生きていかなきゃならないから、
その日の暮らしをなんとかするために、私とabuは色々なことをした。

その渦中にいた頃は、夢とか希望って言葉がすごく悲しく響いて、
何かを望んだり求めたりすることにも疲れていた。
だって、どうすることもできなかったし、どうしたらいいかもわからなかった。
望めば望んだだけつらくなるから、望む気力もなくなり、
ただ目の前にある義務をこなすことが精一杯だった。
不毛な毎日だと感じることもあった。

それは、いつ出口が見えるのかもわからないような、長い、長い、トンネル。
いつしか、出口を探すこともやめてしまった。
居心地の悪い不本意な場所が自分の場所だと信じてしまうこともあった。

今思えば、そんな終わりが来ないような暗闇の時期さえ、
自分たちにとってのプロセスで、そのプロセスなくして、
本当に行きたい方向に進む道へ踏み出すこともできなかった。
そのプロセスの中で不毛に思えたこと、ありとあらゆることすべてが、
今の自分達を生み出したことを強く感じている。

そうした体験は、過去何度も繰り返してきた。
まさに、山あり、谷あり。
それを繰り返すうちに、人生に対しての信頼が強くなってきた。
こういうことの後には、必ず急に目の前が開けるような時が来る、って。
そのために積み重ねる日々もあるんだ、って。

もちろん苦しい。
そういうときはとても苦しい。
けれど、そんな中にいても、春の芽吹きを待つ土の中の花の種のように、
じっと冬の時期を耐え忍ぶことを覚えた。
もちろん苦しいけど(しつこい・笑)

待ち切れない春を見たくて、地面から顔を出した小さな芽のように、
私達も顔を上げよう。
まだ未来は見えないけれど、
何かのスイッチが入ったことを確信したんだもの、歩いていこう。
先のことはわからない。
でも、人生の道ってのは、歩くことによってその道の先ができる。
だから、歩こう。
もうずいぶん長い間足踏みしてたんだもの。


2009年11月25日(水) ホストがお待ちしております

私がいるゆうゆう窓口にはポストがある。
壁に埋め込んであるフツーのやつ。

だが、しかし、このポストがなかなかやってくれる。

「ポスト」

という文字の「ポ」の小さい丸が取れてしまっていて、

「ホスト」

になっている。

子供や若いおねーちゃんに結構ウケがいい。
黙って帰っていく人の中にも、
心秘かにウケている人がいるんじゃないだろうか。

ホストなポストにあやかって、
社員の制服を派手なスーツにして、みんなロン毛だの茶髪だのにして、
女性パートなんか雇わず、
窓口にオトコがずらっと勢揃いしてりゃおもしろい(おっさんを含む)。

ゆうゆう窓口では、ホストがお待ちしております。
ドンペリをオーダーしてくださった方には、
ドンペリコールをさせていただきます。


2009年11月24日(火) 切なる願い

イヤなことがあると吐きたくなる。

私は、昔、過食嘔吐を繰り返していた。
食べては吐き、吐いては食べた。
吐きやすいようにと、水分を摂りながら食べていた。
コンビニに行って吐くために食べるものを買い込んだ。
1日中食べて何度も吐いたこともあった。
吐くときのいきみで眼球の毛細血管が切れ、白目が赤くなることもあった。

当時、つらいことがあると、指を突っ込んで吐いていた。
怒りと悲しみが交差し、孤独感や疎外感を感じるような時、
別に気持ち悪いわけではないのに、
指を突っ込んで胃の中にあるものを吐かずにはいられなかった。
自分の中にあるイヤなものを出すように。
吐くといくらかでも気持ちがスッキリできたから。

心が痛くて痛くて、体に悪いから、なんて考えられなかった。
いや、考えられたとしても、体に悪いからって、だから何なの?
そんな感じだった。
それだけ私の心は病んでいた。

でも、当時は、自分が心の病だとは思っていなかった。

セラピーを受け始めるずっと前の話。

過食嘔吐が自分のトラウマに起因するなどとは思いもせず、
ただつらくて苦しくて、発作的に吐くことが習慣になり、
これじゃいけないと思いながらも繰り返していたけれど、
心理療法を続けていくうちに、だんだん過食嘔吐をしなくなっていった。

その経緯を書くと相当長くなるのでここでは書かないけど。

今では過食嘔吐をしなくなったけれど、
それでも、つらい気持ちになると、やっぱり吐きたくなる。
恐らく、自分の中のつらさを吐くことで外に出す、そんな感じなのだろう。

吐いてしまいたい、そんな衝動を感じながら、
目の前の状況に過剰反応して感情的になった自分や、
そんな中で感じる自己嫌悪、疎外感、孤独感、
そんなものをしんみり感じたりする。
そして、私はまだ自分を許せていない部分があるんだなぁ、って。

自分を許せていない部分があると、
その部分を見せつける人が必ず目の前に現れて、
(もしくは、誰かのそういう部分が目について)
自分が許していない部分を目の当たりにする。
その人に対してものすごい怒りが湧いてくるけれど、
実は、その怒りは、自分自身への怒りなのだ。

そんな時、怒りながらも、
私はまだこんなに自分に対して怒りを感じていて、
許せずにいるんだなぁ、って、思う。

人にぶつける怒りは、自分への怒り。
許していない自分を責める心の声。
私、まだ自分を責めてるんだなぁ、って、思う。

そうわかっているだけでも、昔の自分よりは前に進んだのね、って思う。

セラピストをしていた頃、
エイミーさんはいいですね、つらいことなんてないでしょう?
と言われることがあった。
セラピストの方は悩みはないんでしょう?って。

でも、そんなことなかった。
みんなと同じ、まったく同じものを持ちながら、
セラピストをやってたんだよね。
持っているからこそ、セラピーをしていたのだよね。
自分がそこを抜ける作業をしながら、
人のそんな作業をお手伝いする、そんな感じで。

そうしたセラピストの視点は、セラピストを卒業した今も、
生きるためにとても役立っているのだと思う。
毎日、毎日、醜く振る舞ってしまうこともいっぱいあるけれど、
そんな自分も受け入れながら。

だからなんだってんじゃないけど、ふとそんなことを考えた今夜。

セラピストをやってよかったな。
あの仕事は私の生きるためのレッスンだった。
またヒプノセラピーをしたいなって思うことがよくある。
でも、続けてたら辞めたいと思うんだろう(笑)

時々、たまにでもいいからセラピーをしてください、と言われることがある。
本当にありがたいことだ。
そうね、そんなのもいいね、って思う。

セラピストを10年近くやっていて、
つまり、それは、私が、
自分の癒しにそれと同じ時間を注ぎ込んだということなんだけど、
私の人生は確実に変化した。
自分をより深く知ることができて、
それによって人をより深く知ることができて、
心の奥深くにある痛みに気づいて、
それまで自分に許せなかったことを許して、
それによって人生に流れ込んでくるものが変わっていって、
許せた分だけ受け取ってきたと思う。
そして、今がある。

これからも、より多くを自分に許し、自分自身も許し、
多くを受け取り、多くを愛せるようになりますように。

そう祈らずにはいられない。
それが私の切なる願い。


2009年11月23日(月) アンナへ

石ころひとつ、
イチョウの葉っぱを重ねて作ったお花ひとつ、
折り紙の鶴ひとつ、
小さなメモ紙に書かれた手紙1枚、
ノートの切れ端の落書き1枚、
アンナがくれたものをママは捨てることができないんだよ。

全部がママの大切な思い出なんだ。
その瞬間瞬間のアンナの気持ちを思う時、
もらったものが全部いとおしくて、いとおしくて、手放せないんだ。

キミはどんどん大きくなる。
まだまだしてあげられていないことがいっぱいある。
いつか独り立ちしていく時までに、
ママはどれほどのことをしてあげられるだろう。

ママも人間だから、疲れてブスっとしてる時、機嫌の悪い時もある。
感情的になって言い過ぎることもある。
自分がこういうママでいたいという理想のママからはほど遠い。

心の奥に隠したアンナの本当の気持ちを、ママは知っているよ。
ママにはわかるんだ。
ううん、本当はわかっていないかもしれない。
でも、小さい頃の自分のことを思う時、
アンナの言うこと、することの、その裏にあるものがどんなものか、
なんとなくだけど感じるんだ。
態度や言葉の裏にあるアンナの気持ち。
表現されないからこそ感じるアンナの気持ち。

けれど、未熟なママだから、それを感じながらも、
責めてしまったり、裁いてしまったり、してしまうんだ。

ずっと仕事に追われてママぐったりで、ゆっくり話す間もなかったね。
ママが郵便局を辞めたら、いっぱいお話しようね。
手をつないで歩こうね。
マックでお茶もしよう。
一緒に遊びに出かけよう。
映画も見ようか。
アンナがしたがってたお菓子作りもしよう、ママ苦手だから頑張らなくちゃ。
あのね、あのね、うんとね…
いっぱい一緒に楽しくなろう。

ママだけが幸せじゃダメなんだ。
アンナも幸せじゃなくちゃ。
ママが幸せになるために、アンナはママと一緒に来てくれた。
ママはアンナの幸せのために、何ができるだろう。

一緒にお風呂に入っている時、
やわらかいほっぺを両手で包んでたくさんなでたら、
涙が出てきたんだよ。
心から大切だと思ったんだよ。
それだけで心震えるんだよ。
キミの存在はとても大きい。
そこにいるだけでママを包み込む宇宙のよう。
とても尊い。

生まれてきてくれてありがとう。
この生でママの子供になることを選んでくれてありがとう。
出逢えてよかった。

いちばん最初に愛で泣けることを教えてくれた人、
ママの大切なアンナ。
ママの大切な子供。
愛してるよ。


2009年11月22日(日) ソノサキヘススメ!

信頼できる歯医者さんに出会って、しばらく歯の治療を続けた。
先日、すべての治療を終わらせ、今後は定期検診のみとなった。

その中で、正しい歯磨きも教わった。
それまで自分でやってた歯磨きが、
いかに磨き残しが多く、結果、虫歯になりやすいのかがよくわかった。

自分ではしっかり磨いているつもりだったのに、
虫歯はできるし、歯石はついちゃうし、
一部歯周病にもなってたって言うじゃないか。

教わった方法で磨き続けていたら、
見てもらっても磨き残しがないし、歯石もつかなくなったし、
歯周病の進行が止まって歯茎も引き締まり、
治療を始めた頃よりずっとよく磨けているとほめられた。

ははーん、そういうことね。

どんなことにも言えること。
自分がいいと思ってしていても、それが間違った方法だったら、
どんなに力を注いでも、結果が出ないってこと。
それに気づかないまま続けていると、
こんなにやってるのに、こんなに頑張ってるのに、なぜ!?ってなっちゃうんだな。

何をするにも最善の方法ってあると思う。
それを知って、それを実行することが、結果を出すために必要なんだな。
私が歯医者さんに正しい歯磨きの仕方を教わったように、
何かをする時、その道のプロや優れた人達に、
その方法を教えてもらうことって大切なんだな。

もちろん、方法を教わったらそれでオッケーなんじゃなく、
その方法を正しく実行していけるようになることも必要だろう。
学んだり、練習したり、経験を重ねたりして、
自分がそれを身につけることが大切だろう。

最善の方法を正しく行なうこと、
それが結果を出す最大の秘訣なんだと思った。

私とabuも、これから歩きたい道を歩き出す。
ただがむしゃらに写真撮ってフリッカーやブログにアップするだけじゃ、
ただの自己満足で終わってしまい、これまでと同じになってしまう。

そこで、じゃあどうすればそれで食べていけるワケ?ってとこが悩みなんだけど、
色々なノウハウを持っている人、共感できる人、大好きな人、
そんな人達から教えてもらえることは教わって、自分達でも学んで、
好きなことをしながら豊かになれるように、歩いていきたい。

本当にありがたいことに、
写真でやっていこうねってふたりで改めて決めてから、
それを知って手を差し伸べてくれる人達もいる。
惜しみなく自分達が持つあらゆるものを分け与えてくれようとしている。
そのご夫婦と私達で深夜のスカイプ会議をしながら、
漠然としていたものが少しずつ形になってゆく。

彼等がいなかったら、私達は、
夢こそあるものの、どうすることもできない迷い人になっていただろう。
それに私は、郵便局を辞める決断ができなかっただろう。

足立育朗さんの本「波動の法則」の中にある言葉に、
「決断した瞬間に現実が動く」というものがあって大好きなんだけど、
私達もそうだった。

どうしたらいいかもわからないけど、
ただ生活のためだけに望まない職場で働くのはもうこりごり、もうイヤ、
本当に好きな写真でやってこう!強くそう決断した瞬間、現実が動き出した。

どうしたらいいかもわからない中、
とりあえず思い付いたのはHPのリニューアルで、
まずできることから…と実行した。

それが自分達のひとつの意思表示となり、
それを見た彼等が声をかけてきてくれたのだ。

目の前のたったひとつのことだけでも、
たとえそれがあまり意味のなさそうなことだったとしても、
ひらめいたら形にする、それが本当に大切なのだと痛感した。
それが呼び水となり、次を、そしてそれがまた次を呼ぶ。

決断と行動の繰り返しが大切なんだな。
でも、私達は、決断も行動もできない時間が長くて、
ただ毎日を暮らすのに精一杯だった。

今思えば、そんな決して満たされない時間があったからこそ、
もうイヤだ、別の方向に進むんだ、こうなりたいんだ、
そんな思いを大きくふくらますことができて、
たとえて言うなら、矢を放つために弓を限界まで引いていたような、
そんな状態だったような気がする。

だから、今がある。

無意味な時間なんてないんだよな…
どんなにつらくても。

迷える子羊のような私達に、
最善の方法のひとつをもたらそうとしてくれているそのご夫婦に、
この場を借りて心からの感謝を。
彼等との出会いも写真がきっかけだったなぁ。

私もabuも会社というコミュニティから脱出して、もう後がない。
前に進むしかないのだ。
戻ってしまったら前よりもっとみじめでつらい。

この日記を読んで、夕べ久しぶりに連絡をくれた人もいた。
彼女のメールにはこんな言葉が並んでいた。

「日々五里霧中でも日は必ず昇る。
 明日は今日より少しいい日。
 ソノサキヘススメ!」

彼女とは、本当に時々連絡を取るくらいなんだけど、
私が大好きな人で、いつも素敵な言葉をくれる。
他にも励ましやねぎらいのメールが届いていて、本当に心救われる。

そのご夫婦といい、彼女といい、周りの人達といい、
私はなんて人に恵まれているのだろう。
ありがたい、本当にありがたい。

彼等から与えてもらったものを、いつか誰かに渡していけたらいいな。
そして、彼等から力や勇気をもらえたように、誰かを力づけ励ませたらいいな。

みんな、本当に、本当に、ありがとう!

うん、ソノサキヘススメ!


2009年11月21日(土) 言葉の美容液

今日はゴキゲンだ。
なぜなら、34歳の人に年齢を聞かれて答えたら、

「えーっ!?
 同じくらいかと思った!」

と言われたからだ。
心の中で、そりゃ言い過ぎだろ、ヲイ、と思いつつ(笑)

うん、でも、お世辞でもいい。
言葉の美容液が女を美しくする。

ここ数日、またカラダのケアを始めた。

お風呂でかかとすりでかかとをゴシゴシして、
たっぷりクリームを塗って、かかとちゃんをはいて寝る。



やわらかくて割れてないかかとになってきた。
かかとちゃんはウチのかーちゃんも愛用する逸品。

寝る前に手にもしっかりクリームを塗る。
ささくれも、ひび割れもなくなってきた。
爪もつやっとしてきた。

それだけで、なんだか気持ちがまぁるくなるんだから面白い。

今夜はプラセンタをいつもの倍飲んで寝ることにするのだ。

そして、思うのだった。
自分の言葉はどうだろう?と。
人に心地よさを与えられる言葉を使えているだろうか、と。
元気や勇気を与えられる言葉を。

意識して言葉を発しようと思った。
たとえ冗談だったとしても、
人を傷つけたり、不快にしたりするような、
そして、ネガティブな暗示みたいな、
そんな言葉を避けられる人でありたいと思った。

例えば、
寝る前におやつを食べたら太るよ、じゃなく、
寝る前におやつを食べるのを控えたらもっとキレイになるよ、
そういう風に言い替えられるような、そんな人に。
ヘンな例えだけど(笑)

言葉の美容液はタダ、どんどん人に与えられたらいいな。


2009年11月19日(木) お父さん、お願い

昨日、父がいる老人介護施設から電話があった。
父が大量に下血したため、病院に運ばれたというのだ。

大慌てで指定の病院に向かった。
私達が病院に着く頃、診察が済んだ父は施設に戻ったらしく、
結局病院では父に会うことができず、その足で施設へと向かった。

施設に着くと、口をぽかんと開け、どこを見ているかわからないような目で、
斜めに体を傾けて、放心したように車椅子に座っている父がいた。
みんなで声をかけるものの、あまり反応しない。

そこには、私に暴力を振るった父はもういなかった。
老いという人間の宿命に身を任せたひとりの老人がいるだけだった。

心の中では何かを感じているのだろうけど、
必死に感覚を閉ざしている何かが私の中にある感じで、
思考と感情は制御され、至極冷静に父を見ていた。
お父さん、もう死ぬのかしら…無感情にそんなことを考えた。

父の暴力と支配への恐怖を感じないように感覚を閉ざすことを覚えた私は、
今また、老いて衰弱する父を感じないようにしている。
幼い日も父へのあらゆる感覚を閉ざし続けたように。

私の深い心の傷は、ただ痛むだけではなく、
私を傷つけた父の傷の痛みを感じる力をも備えていた。
私は、自分が、父の心の傷の痛みがわかる世界でたったひとりの人間だと思っている。
父は自分の心の傷と同じ傷を私につけたから。

あまりにひどく、あまりにむごく、許すことのできない行為だったよ、お父さん。
けれど、そう思うと涙が出てくるのは、
私のことを本当に大切にしていてくれたお父さんがいることも知っているからだよ。
愛したいのに愛せない時間があまりに長かったからだよ。

一緒に凧上げしたことを、
お化け屋敷がこわくておぶってもらったことを、
寝ている私の枕元に旅行のお土産を置いてくれたことを、
覚えているんだよ。
決して多くないあたたかい思い出が、今、キラキラ輝いてるんだよ。
そして、どんどん奥の方から出てくるんだよ、忘れいていたそんな思い出が。

私はあなたの娘です。
私として生まれてきてよかったと思ってます。
この人生を生きてきてよかったと思ってます。
今私は幸せです。

お父さん、私とあなたの距離を縮める魔法があったのなら、
神様にお願いしましょう。
どうぞそれを与えてくださいと。

お父さん、引っ越して部屋を片付けていたら、お父さんのメモが出てきました。
私が憎いと書いてありました。
復讐してやると書いてありました。
今でも私が憎いですか?
今でも復讐しようと思っていますか?
一体私が何をしたのですか?
私はただありのまま生きていただけなのです。

お父さん、お願い、
それを許してくれないまま、逝かないでください。

私はただ愛してほしかっただけなのです。
ありのままの私を。


2009年11月17日(火) ママは帰ってきたよ

今日、アンナと一緒にお風呂に入った。

ムスメとお風呂なんてどれくらいぶりかしら。
今までアパートではシャワーだけだったから、
 (前の日記にも書いたけど、アパートのお風呂は汚くて、
  とてもとても湯船にお湯を張って入る気にはなれなかった)
ふたりで湯船につかっておしゃべり、なんてこともなかった。
2年くらい一緒にお風呂に入っていなかったことになる。
近所のお風呂屋さんに行く時以外は。

ふたりできゃあきゃあ言いながら体を洗って、湯船にどぼん。

私にアンナが言った。

「ママ、お風呂は10分位ゆっくり入るのがいいんだよ。
 体中の毛穴が開いて汚れが取れて、お肌すべすべになるんだよ」

びっくり。
なんか言うことがおねーさまになってる。

「え、そうなの?
 ママ知らなかった。
 じゃあ10分入る〜!
 時計見ててね」

「うんっ」

10分の間、私達は色々なおしゃべりをした。
ああ、忘れてた、この感じ。
楽しくて、うれしくて、愛おしい、この感じ。
胸がきゅんとなって、お湯の中でアンナと腕を組んだ。

近い。
アンナがとっても近い。

ママは今まで何を生き急いでいたんだろうね。
いつもこんなに近くにいてくれたのに、
自分のことでいっぱいいっぱいで、
キミのあたたかさにもやわらかさにも触れないまま、
日々のことに追われていたよ。

郵便局を辞めると決めて、力がふっ…と抜けたママは、
世界でいちばんの宝物がすぐ隣にあることを思い出したんだ。
こんな大切なものを見ないで、一体私は何を見ていたんだろう。
心が疲れていると、こんな大切なものさえ見えなくなってしまうんだね。

でもね、ママは帰ってきたよ。
アンナのところへ。
自分らしく生きると決めたよ。
好きなことをしていくと決めたよ。
多くを自分に許し、多くを受け取っていくと決めたよ。
だから、もうママはどこへも行かないんだ。
どこに行って何をしても、もうママはママだから。
ママは、いつもママでいるから。

ねぇ、もっとくっついていい?
ねぇ、もっとおしゃべりしていい?
ねぇ、大人になっても手をつないでくれる?
ねぇ、大人になってもハグハグさせてくれる?
すごく、すっごく、大切なんだ、アンナ。
かわいくて仕方ないんだ。
大好き、大好きだよ。

だらしないもの、忘れんぼうなのも、散らかし放題の部屋も、
本当のことが言えなくて、もじもじしてしまうのも、
本当のことを言うのがこわくて、つい嘘をついてしまうのも、
ママの子供の頃そっくり。

ママがアンナくらいの頃、いつもじいちゃんに、

「憎らしい」

そう言われてたの。
すごく悲しかった。

「苦しめてやる」

そう言われた時、心が真っ白になって何を考えていいかわからなくなったの。

「殺してやる」

そう言われた時、心がねじれて行き場を失ったの。

だから、今、アンナが大好きって言える自分がうれしいんだよ。
完璧なママじゃないけど、大好きって言えて、ぎゅうできる自分が。
アンナがママをそういうふうに育ててくれた。
そういうふうにできるようにしてくれた。
いつもたくさんの愛を注いでくれて。

もうどこへも行かないよ。
ママの命が終わる日まで、アンナの心の隣にいさせてね。

さびしかったでしょう。
つらかったでしょう。
ひとりぼっちだと感じたでしょう。
心を閉ざしたこともあったでしょう。
頑張りを認めてもらえず、ほめてもらえず、
できないことばかり指摘されて、怒られて、
苦しかったでしょう。
わかってもらえないと感じたでしょう。

ごめんね。
本当にごめんね。

また、ここから、ママは成長し直すから、
どうぞ見ていてね。

心からの愛と感謝を込めて。


2009年11月16日(月) 決断の日

今日、課長に1月末で郵便局を退職することを伝えた。
この日がやってきた、やっと。

どうしよう、やっぱり言いづらいな、そう考えながら窓口に出ていた。
そうしたら、ちょっとやっかいなお客様が。
本人確認が必要な作業があったんだけど、
何も持っていなかったその人の本人確認ができなかったので、
申し出を受けられないでいた。
そうしたらその人がかんしゃくを起こして、

「お前、バカか!?」

と言った。
ああ、もうイヤだ、うんざりだ、
これ以上こういうものの中にいたくない、そう思い、
わずかな迷いも吹っ切れた。

皮肉だけど、イヤな客に背中を押してもらえた。
そう、世界はこういうふうに成り立ってるんだよな。
いつも、どんな時も。
そういう意味で、すべてに善悪や正しい正しくないなどの定義は存在せず、
ただ中立でそこにあり、ただ中立なものとしてそこに起こる。
それを通して湧き上がる不愉快な感情やつらい感情でさえ、
私達をどこかへいざなうための大切な要素だ。

そして、伝えた、退職することを。
最後にこう付け加えた。

「これはもう決めたことです。
 残った人が大変にならないように、
 それまでに新しい人を入れてください」

私を悪く言う人もいるかもしれない。
それもいい。
人はみな自分が大事なのだから。
私も。

次の休みには写真でも撮ろうか、久しぶりに。
もう山茶花がきれいに咲いているとabuが教えてくれた。
しばらく見向きもしなかったカメラを再び握る日がやっと来そうだ。

今日、帰って来て、またOsho禅タロットを引いた。
こんなカード↓が出た。
私の選択、これでよかったんだな、そう思った。
まさにドンピシャだったし(笑)

やー、しかし、Osho禅タロット、いっつもドンピシャだよなー (  ̄∇ ̄)

決断の日。
おめでとう、私。



********************


11. 突破(ブレイクスルー)

挫折(ブレイクダウン)を突破(ブレイクスルー)に変容させることが
マスターの役割のすべてだ。
サイコセラピストたちは、ただあなたにつぎを当てて修理するだけだ。
それがサイコセラピストの役割なのだ。
サイコセラピストは、あなたを変容させるためにいるわけではない。
あなたに必要なのはメタサイコロジー、ブッダたちの心理学だ。
意識を保ったまま挫折を経験するのは、生における最大の冒険だ。
挫折(ブレイクダウン)が突破(ブレイクスルー)になるという保証は
なにもないのだから、それは最大のリスクだ。
それは確かにそうなる。
だが、こうしたものごとは保証されえない。
あなたの混沌(カオス)は太古の昔からあるひじょうに古いものだ。
多くの、多くの生にわたって、あなたは混沌としていた。
それには厚みがあり、濃密だ。
それ自体がほとんどひとつの宇宙。
だから、あなたが自分の小さな許容力でその中に入って行くと、
もちろん、危険なことになる。
だが、この危険に直面せずに統合された人などこれまでひとりもいなかった。
個人(インディヴィジュアル)に、
わけることのできないもの(インディヴィジブル)になった人などひとりもいなかった。
禅、あるいは瞑想は、あなたがこの混沌、魂の暗夜を、
バランスを保ちながら、規律を保ちながら、
油断せずに通り抜けるのを助ける技法だ。
夜明けは遠くない。
だが、夜明けに行き着く前に、あなたは暗い夜を通り抜けなければならない。
そして、夜明けが近づいてくるにつれ、夜はますます暗くなる。

Osho Walking in Zen, Sitting in Zen Chapter 1



解説:

このカードでは赤がひときわ目立っていて、
一目でそのテーマがエネルギー、パワー、そして強さにあることがわかります。
この人物の太陽神経叢(そう)、あるいはパワーの中心からは明るい輝きが発せられ、
そのポーズは、はちきれんばかりの力と決断を表わしています。
私たちはみな、時として「もう、うんざりだ」というポイントに行き着くことがあります。
そのような時は、自分を縛っている重荷と制限を放り出すために、
なんでもいいから、たとえそれが後になって失敗だったとわかるようなことであっても、
とにかくなにかしなければならないように思えるものです。
もしなにもしなければ、おまえの生のエネルギーそのものを窒息させ、
使えなくしてしまうぞ、と脅されるのです。
もし今「もう、たくさんだ」と感じているのであれば、
これまであなたのエネルギーの流れを止めてきた、
古いパターンと制限を粉々に打ち砕いてしまうリスクを冒しましょう。
そうすれば、あなたはこの「突破(ブレイクスルー)」によって
生にもたらされるバイタリティーとパワーに驚くことでしょう。


2009年11月15日(日) インディヴィジュアリティ

残りの荷物運びと掃除をabuが済ませてくれて、昨日アパートの鍵を返した。
生活が完全に実家にシフトした。
まだ運んだ荷物が完全には片付いていないものの、
新しい住まいで自分達の空間を作るためにあれこれやっている。

今日、ドラッグストアに買い物に行ってコスメを見ていたら、
試供品を使った人のためだろう、鏡が置いてあって、
そこに自分の顔が映っていた。
じぃーっと鏡を覗き込んだ。

ぎょっとした。

お手入れしてない顔。
眉毛もぼさぼさで、顔中の産毛もそのまま、
生活に疲れている感じだった。

お風呂から出たら、パンパンとローションを雑につけて、そのまんま。
顔なんかじっくりケアする気にもならない。
眉毛を整えることも、産毛の処理もしなくなった。
美顔器も全然やってない。

そう言えば、手だってクリームひとつ塗ってない。
カサカサになってあちこちにささくれができている。
おとといはとうとう指先があかぎれで割れてしまった。
他にも薄い亀裂があって、
これ以上放っておいたらもっと割れてしまいそう。

足もそう。
全くお手入れなんぞしてなくて、
かかとがカチカチに固くなって割れ始め、動く度靴下の内側でひっかかる。

こんなんじゃなかったのになぁ…そう思った。
雑誌に載ってるセレブママのようなケアこそしていなくても、
キレイでいるために、そこそこのケアはしていたと思う。
でも、今は自分に構う時間がない、いや、そういう気持ちになれない。
そういうことをする心のゆとりがないから、
そういうことをしようという考えに及ばない、と言うと的確かもしれない。
本当にしたければ、どんなに時間がなくたってするのだ。

別にお手入れをしないことがダメだということじゃない。
たとえば、の話だ。
自分に目を向けられていない、ということなのだ。
自分をケアしていない、ということ。
体しかり、心も。
私にとって、体に気を配れるということは、
心にも気を配れているということなのだ。

今、自分がすごく危険だと思った。

何かを追いかけているのではなくて、何かに追いかけられている。
追われて追われて、必死に走って、走るのに精一杯で、他のことが見えてない。
自分の意志で好んで走っているのではなく、
自分が所属している大きな意思に追い立てられ髪振り乱して走っている。

心が満たされておらず、それにより個を喪失しかかっている。
それが今の私。

久々にゆっくりネットをつないで、Osho禅タロットを引いた。

2枚のカードが出た。
1枚目のカードの意味を読んだ時、
奥の方から何かが突き上げてくるような感じがして、目頭が熱くなった。
2枚目のカードの意味を読んだ時、
静かに私は決意した。

自分はだだの現実逃避を選択しているのか、
それとも、未知なるものを信頼し、無限の恵みへと飛び込む選択しているのか、
それは、後になってみないとわからない。

こわくてたまらない。
けれど、今のままでい続ければ、
私はもっと自分の大切なものを遠くへ追いやってしまう気がして、
そのこわさのほうがうんと大きい。

仕方がない、生活のためだから、
そんな気持ちで走り続けることで私が得るものは、
毎月7、8万円の収入と、終わることない虚しさだけ。
とりあえず必要なお金という安心と、心の痛み、それが私の得るもの。

私が本当に欲しいものはそんなもんじゃない。
そんなちびたるもののために自分の大切なものを失うのは、
あまりにも大き過ぎる代償だ。

私はabuに言った。

「信頼していい?」

abuは答えた。

「もちろん」

自分達がしたいことをしよう、少し前からそう考えていた私達。
厳密に言えば、方向性が明確になってきたabuを、
私が手伝う形で一緒にやっていくという感じ。
そのために引っ越しもした。

「信頼していい?」なんて、人任せな質問だ。
私達は一蓮托生なのに、まるで彼に責任を押し付けるみたいな質問。
ずるい私。

でも、助けてほしかった。
こわくてこわくて、不安で不安で、
空中ブランコのバーから手を離せず、
向こう側のブランコに飛び移れない状態だった。
飛び移りたいのに。
バーから手を離しても大丈夫なんだよ、そう言ってほしかったのだ。

そして、彼は「もちろん」と答えた。
それを聞いて、頭が下がる思いだった。
本当はabuだって不安なはず。
逆に私に「大丈夫だと思う?」と聞きたいんじゃないかと思う。
今私がそう聞かれたら「もちろん」なんて言えないと思う。
自分が迷子なのだから。

屁理屈かもしれないけれど、
目先の安心のために走り続けるのをやめることが、

「信頼しています、ついていきます、私も自分の道を行きます」

そんな意思表示でもあるような気がした。

ここからの私は、何を選択するか、ではなく、
行なった選択のためにどう行動するか、になった。

以下、今日私が引いたOsho禅タロット。



********************


15. 条件付け(コンディショニング)

自分の人格を落とさないかぎり、
あなたは自分の個であること(インディヴィジュアリティ) を
見いだすことなどできない。
個であることは、存在から与えられている。
人格は社会が押しつけたものだ。
人格は社会のなかでは都合がよい。
社会は個であることに耐えられない。
個であることは、羊のように追従しないからだ。
個であることにはライオンの資質がある。
ライオンは独りで動く。
羊はつねに群れをなしている。
群れのなかにいると楽で居心地がいいはずだと期待している。
群れのなかにいると、守られて安全な感じがする。
誰かが攻めてきても、群れのなかにいれば、
自分を救える可能性がいくらでもある。
だが、独りだと?
ライオンだけが独りで動く。
そして、あなたがたひとりひとりが、生まれつきのライオンだ。
だが、社会が絶えずあなたがたを羊として条件づけている。
あなたの心(マインド) を羊としてプログラムミングしている。
それがあなたに人格、当たり障りのない人格、素敵で、
とても都合がよく、ひじょうに従順な人格を与えるのだ。
社会は奴隷を望んでいる。
どんなことがあっても自由に身を捧げている人びとなど望んでいない。
社会が奴隷を望むのは、特権をもつあらゆる者たちが従順さを望むからだ。

Osho One Seed Makes the Whole Earth Green Chapter 4


解説:

このカードは、
あるライオンについての禅の古くからある話を思い出させてくれます。
このライオンは羊に育てられたのですが、
年老いたライオンに捕まって池に連れていかれ、
水面に映った自分の影を見せられるまで、自分は羊だと思い込んでいました。
私たちの多くは、このライオンに似ています。
私たちがもっている自己のイメージは、
自分自身が直接体験したことから生じるのではなく、他人の意見から生じます。
内側から育つことができたかもしれない「個であること(インディヴィジュアリティ) 」が、
外側から押しつけられた「人格(パーソナリティ)」に置き換えられているのです。
私たちは群れのなかのもう一匹の羊にすぎなくなってしまい、
自由に動くことができず、
自分自身のほんとうのアイデンティティを意識していません。
池に映る自分の影をよく見て、
他人からの条件付けによって自分はこうだと信じ込まされてきた、
そのすべてを打ち破るために、動きだす時です。
踊り、走り、揺さぶり、ジベリッシュをしましょう。
内側で眠っているライオンを目覚めさせるために必要なことは、
なんでもやりましょう。



********************


21. 完成

ものごとを最後まで言わないこと――これが禅のやり方だ。
これは理解されなければならない。
ひじょうに意義深い方法論だ。
すべてを言わないということには、
聞き手にそれを完成させる機会を与えるという意味がある。
答えはすべて未完成だ。
マスターはあなたにただ方向を与えているだけだ……。
あなたが行き着くところにまで行き着いてしまえば、
なにが手元に残ったのかがわかるだろう。
だから、たとえ誰かが禅を知的に理解しようとしても、失敗することになる。
それは問いに対する答えではなく、答え以上のなにかだ。
それは現実(リアリティ)そのものを指し示している……。
仏性は遠くにあるなにかではない――あなたの意識そのものが仏性だ。
そして、あなたの意識は、
世界を成り立たせているものごとをその場で見ることができる。
世界は終わっても、鏡は残る――なにもないことを映しながら。

Osho Joshu: The Lion's Roar Chapter 5


解説:

ジグソーパズルの最後のひとかけが、
しかるべき場所、第三の眼の位置、内なる洞察の場に置かれようとしています。
果てしなく変化する生の流れのなかにあってすら、
これで完成というポイントに行き着く瞬間がときにはあります。
こうした瞬間に、私たちは絵全体を、
長いあいだ気になっていた小さな断片すべてが
組み合わされた全体像を読み取ることができるのです。
仕上げてしまったら、私たちにできることは、
この状況が終わることは望んでいないので絶望してしまうか、
それとも、感謝して、
生には多くの終わりと多くの新しい始まりがあるという事実を受け容れるか、そのどちらかです。
なんであれ、これまであなたが時間とエネルギーを注いできたそのすべてが、
今、終わろうとしています。
それを完成させることで、あなたは、
新しいなにかが始まるためのスペースをきれいにかたづけて準備することになるのです。
この間合いを両方に―古いものの終わりと新しいものの到来を祝うことに使いましょう。


2009年11月12日(木) さあ、どこへ、行く?

引っ越しを終えて、実家でネットも開通、
まだ部屋に散乱した荷物の中で暮らすような状態だけど、
なんとかパソコンを立ち上げる時間ができた。

実家で何がうれしいって、お風呂に入れること。
アパートではほとんど毎日シャワーで、湯船には入らなかった。
(バスタブがすっごく汚い上に、お風呂場の目地もカビだらけで落ちないし、
 気持ち悪くて、入居以来ほとんどお湯を落とさなかった)
疲れてお湯につかりたい時は、市営のお風呂にわざわざ行ってたんだ。

今日もお風呂に入ってほぇーっとした。
幸せ…

しっかし、新しい生活をかみしめる間もない。
荷物をほどいたり、それを片付けたり、
アパートから残りの荷物を運んで掃除したり、
ちょっとした収納家具とか買い物に行ったり。

引っ越し前後ほとんど休みないし、当日も仕事だし、
つか、人いなくて休みの申請さえできない状態。
小さな助っ人を従え、abuが引っ越しの色々を頑張ってくれてて、
私は仕事の後に手伝う程度。
本当に申し訳なくて、そして、ありがたくて。
おかげで寝るスペースが確保されました.。゚+.
電話もネットもつながりました.。゚+.

今日はもう寝るっス。
明日は担当する仕事が異常な量なので、2時間の前超勤で早起きだし。

あ、明日は窓口じゃないのだ。
代引き、代金引き換え払いの伝票を作る仕事の日なんだけど、
修学旅行生が旅先から家まで自分の荷物を代引きで送ったもんだから、
普段の日の4倍くらいの伝票を作らなきゃいけないわけだよ。

しかも、そういう場合、ふたりでする仕事なんだけど、
ひとりは収入が扶養範囲を越えたくないからってことで、
しばらくは出勤しないんで、こういう時もひとりなんだよな。
そりゃ終わんねーわな、普通に仕事してちゃあ。
なんとかしろよ、この体制(すんません、キレ気味&壊れ気味)

最近郵便局が殺気立ってて面白い。
どこの部署も仕事量が多かったり、人が足りなかったり、色々で、
疲れもピークに達してるだろうし、精神的にもまいっているのだろう、
あちこちでみんな機嫌悪い。

愚痴なひとりごと言いながら仕事してたり、
書類をデスクに叩き付けてたり、
はぁ…って何度も大きなため息ついてたり、
ムカつくんだよ!と声を荒げながら仕事してたり、
ファイバー(郵便局を入れるカゴ)に当たり散らしたり、
おおおおお、みんなキてるねーっ!と思いながら眺めている。
なぜだろう、すっごくおかしくて、笑いたくなってしまう。
あら、私だけじゃないのねん、みたいな。

以上、オチのない日記フィーチャリング愚痴。

ということで、無事引っ越しました。

面白いんだよな。
今日アパートの片付けをしていて、ふと、思った。
気持ちの上で実家での生活にシフトしている自分がいる。
アパートでの暮らしがもう昔のことになっている。
物事がものすごい速いスピードで進んでいるのを感じる。
どこかに向かって流れてるような気がする。
好きだ、この感覚。

さあ、どこへ、行く?
このまんまじゃ終わんないぜ。


2009年11月09日(月) 引っ越し前夜

明日は引っ越し。

成田からココに引っ越してくる時にお世話になった赤帽さんが、
すっごく親切で、しかも、ありえねーっ!ってくらい低価格だったので、
今回もそこに依頼。

大きい荷物だけを赤帽さんに頼み、細々した荷物はひたすら自分達で運ぶ。
休みの今日は、ひたすら荷物運びと運び込んだ荷物の整理。

当日の明日は人がいなくて休み取れない状態で、
すべてabuに任せることにした。

アンナのクラスはインフルエンザで今週いっぱい学級閉鎖。
おおお、引っ越しにはちょうどいいじゃないか!(不謹慎)ってことで、
小さい助っ人も引っ越しメンバーに入った。

ふたりともよろしくね〜♪
ってことで、私は明日も郵便局に行くのだった。

このアパートで眠る最後の夜。

ここでの生活、楽しかったなぁ…
裸同然で生まれた街に帰って来て、アパート探して暮らし始めて、
abuが宮崎からやってきて、家族が3人になって、
セラピストをしながら色々なことやったっけ。

カーブスのイントラやって、専業主婦やって、
製菓工場でせんべい詰めて、サーフショップの店員やって、
チラシ配りやって、ゆうパックの配達やって、
郵便局のゆうゆう窓口のパートやって、
今までにない体験たくさんしたっけ。

いっぱい泣いたっけ。
いっぱい怒ったっけ。
いっぱい笑ったっけ。

このアパート、この町、ここでの暮らし、みんなみんなお別れ。
いちばんさびしいのは、アパートの前にずっと立っているクスノキとのお別れ。
このアパートをいちばん最初に見せてもらった日、
窓を開けると目の前にクスノキがあって、気持ちいい風が吹き込んできた。
それは、まさにインスピレーションに満ちた瞬間だった。
あの日、あの時があったから、今私はここに住んでいる。
そして、ここに住んだからこその尊い体験をいっぱいすることができた。
クスノキはそこに植えられていたただの木だけど、
私は、クスノキと私達は縁があったのだと思っている。
人と人とが縁あって出会って色々な体験をして成長していくように、
人と植物、樹木にも、そんな縁がある。
悲しい時は癒してくれたクスノキ。
苦しい時は助けれくれたクスノキ。
不思議な木。

今日、クスノキに抱きついてお別れをした。

「キミがいたからこの部屋に決めたんだよ。
 でもね、明日ここからいなくなるんだ。
 今までありがとうね」

さびしいって思うと、なんか泣けてくるから、
さびしい気持ちを忘れようとしている自分がいる。

アパートの木だから、別の人が入居すれば、
今までみたいにそうそう簡単には木のそばに寄れない。
敷地内をうろうろする不審者になってしまう。
もしクスノキに会いにきたとしても、
道をはさんだ向かいの公園から眺めるくらいだろう。
でも、つらいことがあったら、会いにくるかもしれない、クスノキに。

新しい生活が始まるよ。
どんなことでも、新しいことの始まりは、不安と同時に希望も感じる。
自分の何かがひとつ大きく変わることで、他の何かも変わりそうで。
ここから素敵な連鎖が始まって、人生がさらに心地よくなることを祈って…

もう寝ようっと。
日々仕事でくたくたに疲れて帰ってくる上に、
ここしばらくは引っ越し準備で休みも休めておらず、体がキツい。
少しでも眠りたい。

ネットも引っ越し。
復旧するのはあさっての見込みだけど、うまくつながるかな。

とにもかくにも。

最後に、メールをくださる元クライアントのみなさんへ。
メール、本当にうれしくありがたく読んでいます。
本当にね、社交辞令じゃなくうれしいんです。
みんな、みんな、数年の時を経ても、あたたかい言葉をかけてくださる。
ありがたいです、本当にありがたいです。
たくさんの元気と勇気、もらってます。

また、この日記を読んだとメールをくださる方、ありがとうございます。
とてもうれしく読ませていただいてます。
ホントね、うれしいんですよ。
メッチャ。

でも、お返事できてなくてごめんなさい。
読んでないとか、興味ないとか、スルーしたとか、そういうんじゃないの。
メール無精も手伝って、慌ただしいとついごぶさたしてしまいます。
私の悪いところなんだけど。
引っ越しが終わって、実家の片付けも済んで、色々落ち着いたら、
短いメールかもしれないけど、お返事したいと思ってます。

支えられてます。
気づきを与えてもらってます。
ヒントをもらってます。
みんな、みんな、本当にありがとう。

また会いたい人がいっぱいいるんだよ。
どうしてるかと思い出す人がいっぱいいるんだよ。

もうセラピストは辞めたけれど、
セラピストとしてそこにいたように、
毎日を過ごせたらと思ってるんです。

みんな、みんな、本当にありがとうございます。
住む場所も、環境も、状況も、違うけれど、
それぞれの人生で、みんな、頑張ろう。
時には頑張ることをやめながら。

あ、日記思いつくまま書いてたらこんな時間になっちった;
今度こそ、おやすみなさーい。


2009年11月07日(土) かっこわるく行こう

日記書きたいんだけど眠くて寝てしまう日々…

郵便局は年末を前に大忙し。
くったくたに疲れて帰ってくるから、ごはんがおいしくて、もぉ。
ダイエットなんて言ってられずにガンガン食べております。
夜も横たわった瞬間に熟睡。

先日、壊れて、課長にぎゃーっ!って言ってから、
なんだかとても気持ちが楽。

自分の内側に閉じ込めていた、
つらい、苦しい、しんどい、もうイヤ、こんなの続くなら辞める!!!
そんな気持ちを外に出して、頑張ることをやめたからなんだと思う。

頑張ることをやめるってのは、手を抜くのとは違う。
私にとってのそれは、与えられた仕事、やるべきことはやるけれど、
自分が背負い切れないもの、自分が苦痛を感じるもの、
そんなものに対してはノーの意思表示をすること。

結果、それが、自分を楽にしたのだと思う。
自分がアウトプットしたものが正しいか否かは別として。

そして、私が壊れたことによって、実は動きがあった。

どうもえみやさんが壊れたらしい、と察してくれた人達が、
私がつらくないようなシフトを組もうとしてくれたり…
今後の勤務状態を改善できるように考えてくれたり…
「壊れちゃったんだって?」「大丈夫?」「元気になった?」
冗談まじりにそう声をかけてくれる人もいて、それもすごくあったかくて。

申し訳なく恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
そして、それと同時にありがたい気持ちでいっぱいになった。
大人気なかったのに、それを責めずに受け止めてくれた人達、
感謝・感謝・感謝。

今すぐにでも郵便局を辞めたいと思っていた私が、
まだ頑張れるかも、と思い始めた。
しまった、そんなことを考えてしまうなんて、ヤバい(笑)

今回のことから感じたのは、
頑張らないで頑張るってことがすごく大切ってことだった。
どんなことにおいても、持てない重い荷物は捨てて、持てる限りのものだけ持って、
精一杯やるってことがすごく大事だということを改めて学んだ。

また、壊れたことは、私のひとつの選択でもあったんだと、今になって思う。
壊れることを選択したんじゃなく、
そこまで自分を追い詰めて何かをするということをやめるという選択。
ま、その結果壊れるという状態が付随してきたわけで。
そして、その選択の結果、その選択に添った形の流れが生まれようとしている。

スマートな方法ではなかったけれど、
現実が動くためのアクションを無意識のうちに起こしていたんだと思う。

かっこわるー。
かっこわるー。
私は年齢を重ねてどんどんかっこわるくなっていく。
でも、それもいっか、と思う。

郵便局にもいるのよ。
機嫌悪くて人にキツくあたったり、
ムカついたらそれをそのまま出しちゃう人。

そういう人を見てて、すっごくうらやましいと思ってたの。
いいなぁ、あんなに感情的になれて。
私は思いとどまってそこまでやれないけど、
やれたらすっきりするだろうな、って。

実際はそうなりたいとは思わないけど、
でも、ああ、いいなぁ、スッキリするだろうなぁ、って思って見てた。
もうね、微笑ましいんだよ、そういう人見てると。
あ〜、機嫌悪い、荒れてる、って(笑)
その後、落ち着いて笑顔になってるそんな人達を見ると、
よかったねぇ、って、うれしくなる。

頑張らないで頑張ろう。
かっこわるく行こう。
人生の半分はかっこつけてきたんだもん、
そろそろいいよね、かっこわるくなっても。




あ、最近お気に入りの座右の銘をひとつ。

「女ならやってみろ」

一緒にゆう窓に入ってる、年下だけどねーちゃんみたいな存在の人が言った言葉。
仕事量がハンパなく多くて大変なんてもんじゃない日、

「大丈夫か?」

彼女が私に聞いてきた。

「大丈夫!やってみる!」

そう答えた私に彼女が言ったのだった。

「そうか、女ならやってみろ」

その言葉がなんかすっごくしみて、力が湧いてきて、
女だもん、やるわよーっ!!!ってな気持ちになった。

それから、大変な時、いつも思うのだった。

「女だもん、やってやる」

って。

彼女には名言が多い。
自覚してないらしいけど。
今私がゆう窓にいて頑張れる理由のひとつは、彼女でもある。

つらくて忘れていた。
つらくて見えなかった。
イヤなことだけじゃなく、素敵なことも私の周りにいっぱいある。
そう、郵便局も捨てたもんじゃない。

辞めたいのにー(笑)


2009年11月04日(水) 武装解除

ひとりで抱えるにはあまりに多い量の仕事と、
それをこなす異常な忙しさの中、
ストレスがピークに達し、今日は会社で爆発、
課長にぎゃーっ!って訴えた。

もうムリ、ひとりでこんな量の仕事やってられない、
なんとかしてください、そうでないなら辞めるかも、って。

それまでは、みんなそれぞれ大変なんだから、
みんな頑張ってるんだから、
他の人にはできてることなんだから、
そう思ってなんとか持ちこたえようとした。

実際、私のようにおかしくならずに踏ん張り通せる人はいるだろう。
しんどくても頑張り通せる人が。
それはとても素晴らしいこと。

けれど、だからと言って、
同じようにできない自分がダメなのかと言うとそうじゃなく、
自分が、つらい、苦しい、そう感じるという事実を
まず受け止めて自分の味方をしないと自分がつぶれてしまう。
自分がつぶれたら元も子もない。
なんのために生きてるかわからなくなる。

たかが仕事、されど仕事。

人によく思われるために生きてるんじゃなく、
人に悪く思われないように生きてるんじゃなく、
そのために何かに耐えて苦しむんじゃなく、
そのために自分の大切なものを捨てていくんじゃなく、
弱くても、根性なくても、できないことがあっても、
ふんばってここに立っているありのままの自分、
今はそれでいいじゃないか、そう思った。

で、課長にぎゃーっ!って訴えたら楽になった。

それは、私が「頑張り踏ん張り」の武装を解除したということ。
苦しい、もうムリ、それを認め、
私は苦しいんです、これ以上はもうムリなんです、
そうアウトプットした瞬間だった。

アウトプットしたことで、それは私の中で確固たるものとなった。

だからと言って、じゃあ明日辞表を書きます!っていうことじゃない。
自他の評価を加えず、ありのままの自分の状態を認めたことが、
私にとってはとても大切なことだったのだ。

それにより、あとはないゆきにお任せよ、そんな気持ちになった。
だから、もういいの(笑)
ホント、あとはなるようになればいいや、そう思う。

今日、ある社員さんが、

「俺、頭きてパソコン叩いて壊しちゃったよ…」

と、ボソッとつぶやいた。
私は、

「この忙しさじゃそういうことしちゃってもムリもないですよ」

と言った。
心からそう思ったのだ。

夜、ずっとセラピーでお世話になっていた恩師から電話があった。
セラピストを辞めてなお連絡をいただけることが本当にありがたかった。
うれしかった。
先生の言葉はひとことひとことに重みがあった。
慌ただしさで忘れてしまっていた大切なことを思い出させてもらえた。
そうだ、本当にそうだ、心からそう思える言葉をたくさん受け取った。

そして、先生は言った。

「えみやさんは来年から状況がよくなりますよ」

確か、そんな意味合いのことだった。
言霊ってすごいなぁ。
目の前に光が差した。
ぐわぁーん!とテンションが上がった。

通話中、ピピピッ、と音がして、先生は、

「あ、(携帯電話の)充電が。
 じゃあね」

と言って、電話を切った。
あ〜、なんか、いいなぁ、なんかこの感じが先生なんだよなぁ、と。
(意味不明かしら、でも、なんか、そうなんだよ・笑)
ほっこりした。

課長にぎゃー!って訴えた夜、
先生から電話があったのも偶然じゃないんだと思う。

それに、先生の電話を切った後、大好きな友達から電話があった。
その電話を切った後、また別の大好きな友達から電話があった。
どの電話も前の通話の直後という絶妙なタイミングで。
私の携帯はめったに鳴らない。
誰も電話なんぞしてこないのだ。
それが、今日に限って。

そのふたりとも心にしみる話ができた。

なんか、いいぞ、来るぞ、そう思えた。
よくわからんが(笑)

そして、明日も郵便局に行くのだった。

でも、来るのだ、何かが来るのだ。
よくわからないけど、その確信だけは、ある。

恐れと不安、夢と希望、そんなものが混在していていい。
その両方を抱えて今を生きよう。

今日、私に電話をくれた3人に心からの感謝を。
そして、大切な家族に。
みんな、ありがとう。


2009年11月03日(火) あなたに逢えてよかったよ

家に帰るとタバコを切らしていることに気づいた。
帰り道、コンビニにでも寄って買ってくればよかったと後悔。

そんな私にabuが言った。

「俺、買ってきてあげるよ」

私は驚いて言った。
まったくもって、どこまでよくしてくれるのだろう。

「いや、いいって、悪いよ、自分で行ってくる」

「いいから、俺が行ってくるから」

「えぇっ、そ、そぉ?
 じゃあ、お願いしようかな…
 なーんて、悪いとか言いつつ結局頼んじゃうだもんなぁ」

私、苦笑。

「そういうふうに言える自分がいいでしょ?」

abuのその言葉がじゅわぁん…と胸にしみた。

そうだ、そうなのだ。
そういうふうに言える、言えるようになった自分が、好きなのだ。
うれしいのだ。

私はどうも人に甘えるのが苦手で、受け取るのが苦手で、
昔なら、絶対に自分で買いに行っただろう。
第一、そんな時、お願い、なんて言う自分が許せなかった。

でも、今は、お願い、って言えるようになった。

それは、abuと一緒に時間を積み重ねてきたから。
慈雨のようにふりそそぐやさしさと思いやりを与えられ続けて、
それを受け取ることが素敵なんだと教えられ続けて、
そうすることができるようになってきた。

そして、そうすることでどれほどたくさんの心地よいエネルギーが巡るか、
生きることがふんわかしてあったかくてラクチンになるかを学んだ。

私の中の冷たくて固いものは、今も溶け続けている。
溶けて、溶けて、時にはあたたかい涙となって、
私から流れ出て、宇宙に帰ってゆく。

私はバツニだ。
もうすぐ43歳になる。
2回目の成人式を迎える頃、abuに出会った。
世間で言えば、おばさんの年齢、人生の半分を生きた頃だ。
でも、ただ生きてきたんじゃないんだなって、いつも思う。
abuがそう思わせてくれる。
今まで積み重ねたすべてが今の自分になるための要素をくれたんだと思える。
そう思えると、過ぎてきたすべてに感謝の気持ちが生まれる。

もちろん、過去に体験してきたことの中には、
思い出すだけではらわたが煮えくり返るほどの怒りが湧いてくることや、
どうあっても許せないと感じることはいっぱいある。
苦しかったし、もう二度とあんな思いはしたくないということも。
思い出す度、今でも生々しくドロドロした感情が湧いてくる。

それでも、そんなものがそのまま自分の中にありながらも、
それもひっくるめて、すべてがそれでよかったのだと思える。

好きな自分が増えてゆく。
許せる自分が増えてゆく。

あたりまえの毎日が、私にとってはあたりまえじゃないんだよ。

きっと、死ぬ時、私は泣くだろう。
うれしくて、あったかくて、幸せで、泣くだろう。
ありがとうの気持ちに包まれて、この人生を卒業するだろう。

ありがとう、その言葉だけじゃ足りないのに、
ありがとう、その言葉しか出てこない。

私は何かあなたに与えることができていますか?

あなたに逢えてよかったよ。


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