おひさまの日記
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2009年07月28日(火) マンゴー・デイ

私が仕事しているゆうゆう窓口のそばには、
不在で戻ってきたゆうパックを置く場所がある。
そこに、マンゴーの箱があった。

そばを通ってその箱に気づいた人が、

「えみやさん、マンゴーだよ!」

と口々に声をかけてくる。
しまいにはおかしくて笑い出してしまった。

なぜみんなマンゴーを見ると私なのか!?

あー、そうか。
宮崎か。
マンゴーと言えば宮崎。
(沖縄出身の知人は「本当はマンゴーは沖縄が元祖なんだ!」と主張・笑)
宮崎と言えばabuの地元。
私が宮崎に帰るのを知っていて、マンゴーを見ると私につながるのか。

ってことで、明日から宮崎に行ってきまぁす。
しばしネットから離れた日々。
それもいいかな。

仕事もかねた帰省のabuと、爆裂夏休み真っ最中のアンナは、一足先に車で向かってる。
私はそんなに長く休みが取れないもんで、飛行機で時間短縮ということで。

ちなみに私はマンゴーにまったく興味なし。

では、いってきまーす。
朝早いからはよ寝よっと。


2009年07月27日(月) 事実を受け入れる

昨日、仕事でミスをしてしまった。
帰り際、社員に注意された。
今日出勤すると、同じミスの件で、今度は上司から話があると言う。

その人はこわい、物言いもキツい。
怒られる…どうしよう…

でも、ある瞬間思った。

どうしようじゃないよな、ミスしたんだもの、怒られて当然だよな。
自分が悪いんだし、よくよく考えれば逃げるのもヘンだよな。
仕方ない、いさぎよく怒られよう。

上司がやって来た。
まず聞かれた。

「誰がやったんだ!?」

「はいっ、私です」

腹をくくって答えた。

「何回言えばわかるんだよ。
 この前も窓口で同じミスがあっただろ。
 お前ら基本動作が徹底されないんだよ」

「すみません」

「原因は何だ?」

上司の言葉は続いた。

言い方がどうだの、言葉がどうだの、突っ込みを入れればキリがない。
言い分はある。
でも、仕方ないのだ、ミスしたのだから。

事実を受け入れた。

今まで、何かある度、きっと私は、事実を受け入れずに、
感情を主体に目の前の出来事を判断して、人や状況に責任を転嫁し、
そうすることによって、自分の落ち度、味わいたくない気持ち、
向かい合うべきこと、向かい合って改善すべきこと、
そんなものから逃げてきたのだな、ふと、そう思った。

そして、黙って怒られた(笑)

同じミスをしないようにしようと、素直に思えた。
認めて受け入れて一区切りついて、仕切り直して、
次に進むんだし、もういいや、というスッキリした感じ。

これが事実を受け入れるということか。
その事実がどんなものであったとしても。

感情のままに、見たいように見て、受け取りたいように受け取って、
そして、解釈したいように解釈するのではなく、
物事をありのままに見る、事実を単に事実として受け止め、扱う、
それ、すごく大事なんだな。
そして、それが一瞬、うっ…という作業だったとしても、
結果、自分を心地よくしてくれるんだな。

パートに出なきゃ実感できなかったこと、本当にいっぱい。
頭では、言葉では、わかってたけど、自分のものになってなかったものが、
体験を通して自分の中にしっかりと落ちていくのを感じる。


2009年07月25日(土) 疲れて眠る

疲れるっていいなぁ、って思うことがある。

疲れると、体がだるくて眠くて、1秒でも早くベッドに転がりたい。
あまりの眠さに床で寝てしまうこともある。

そういう時は余計なこと考えるヒマもない。
くよくよするより先に眠くなってしまうのだ(笑)
なんか楽。

ある本に書いてあった。

「苦しくなることを考えるから苦しくなる」

と。
うんうん、ホントそう思う。

考えることは大切だけど、考え過ぎはよくない。
思考が感情を伴い自分をつらくしていると感じたら、
切り替えスイッチを持つことで、ニュートラルな自分に戻れる。

疲れて眠るってのもそんなスイッチのひとつなんだな、なんて思ったりした。


2009年07月24日(金) フリフリーク

なにかの「フリ」をすることで、それになれるってこと、あると思う。

日々暮らしてると、はぁ…、って暗い気分になることがよくある。
そんな時、はぁ…、って暗い顔して、はぁ…、気持ちのまま振る舞ってると、
ますます落ち込むし、事態はどんどん悪い方に向かう(ように思えてしまう)。

最近もそんなことがあった。

活字離れしていた私だったけど、何気なく昔買った本に手を伸ばしたくなり、
ペラペラとめくっていくと、こんなことが書かれていた。

「自分がそうありたい状態であるかのように振る舞うことで、
 そういうふうになっていくのです」

どんよりした気持ちの私がそれを読んでも、
ああ、そうですか、そうですよね、わかっちゃいるんですが…
そんなふうにしか思えなかった。

その時、はっ、とした。

ああ、そうか、これか、と。
わかってるだけ、気づいてるだけ、
それだけじゃ何も変わらないって、このことか、と。

必要なのはそれを実行することなのよね。

それで、すんごく気は乗らなかったんだけど、
明るく楽しく振る舞い、笑顔でいることにした。

つらい気持ちの時に、重たい気分の時に、
明るく振る舞ったり笑ったりするのって、やってみると結構キツイ(笑)
ふとした瞬間に、どーん!って暗い方に引き戻される。

でも、ここで負けたら今までの自分と同じだ、と思い、頑張ってみた。
明るく振る舞うこと、笑うこと。

そうしていると、不思議だよね。
自分の気分もそうなんだけど、周りの人が変わってくる。
明るく楽しく接してくる。
そして、変わった周りの人の力で、今度は自分がもっと変わる。
明るく楽しくなる。
きっと相互作用なのだろう。
私としては、周りの人に助けられた感がとても強いけど。

問題は変わらずそこにあるんだけど、
ただそれに振り回されてくよくよしていた時よりもうんとラクチンだし、
そんな問題や悩みまでなんとかなるような気になってくる。
なんとかなると思えた時、それはなんとかなる方向に向けて動いていくのだとさえ思える。
そして、きっとそうなのだろうし。
そういう自分が引き寄せるものがそう導いてくれるのだろうし。

「フリ」ってすごい。
楽しい「フリ」、楽しい状況の中にいるように振る舞うことで、
私はだんだん楽しくなっていった。
自分がいい感じなのがわかる。

ここで大切なのは、「フリ」と「ガマン」はセットじゃないってこと。
「フリ」をするために「ガマン」をすると、
本来感じて直視すべき自分の問題やそこでの感情を無視することになってしまう。
そうではなく、問題もあるし、しんどいんだけど、それもひっくるめて「フリ」をするってこと。
そんな「フリ」は必ず私達に「フリ」をした分だけ贈り物を持ってくる。

それを実感。

潜在意識は「フリ」と「事実」の区別がつかない。
だから「フリ」が「事実」だと勘違いした潜在意識は、
「フリ」をされるとそういうものだと思って、それに見合った現実を引き寄せる。

正直、あまりにしんどくて「フリ」することがキツイこともある。
そんな時は、さんざん荒れて、泣いて、時には涙も枯れて、
落ちるだけ落ちてから、欲しいものを選択して、そして「フリ」をする。

時に、選択とは意思の力でもあると思う。
感情に負けないで最初のペダルを力一杯踏んだら、あとはだんだん楽になる。
最初がいちばんきつい、どんなことも。
「フリ」も。

私は、まずは「フリ」から入る、フリフリークで行こうと思う。
「フリ」ならタダだし。


2009年07月23日(木) 人生を料理する

相手の言葉や態度、考え方、生き方、
そうしたものに疑問を感じて批判したくなることってあると思う。

少なくとも私はそう。

イヤな人を、否定して、批判して、
ああいうところがダメ、こういうところが間違ってる、って、
悪く言いたくて仕方なくなる。
だから不愉快なの、だからあんなにひどい状態なの、って。
被害者意識丸出しで。
時には正義感たっぷりに。

でも、ある時、ふと思った。
悪口言うのやめよう、って。
まあ、心許せる家族や友達に愚痴くらいは言いたいが(笑)

イヤなことがあれば、イヤだと思うし、感情もネガティブな方に動く。
人間だからそれは当然だし、それでいいと思う。
問題なのは「ネガティブになる」ことじゃなく「ネガティブでいる」こと。

その瞬間の自分の反応はネガティブなものでいい。
でも、そのネガティブな気持ちを、あたかも自分の大切なもののように、
いつまでも持ち歩くことがよくないだんと、ふと思ったのね。

相手によって感じた、怒り、悲しみ、こわさ、つらさ、理不尽さ、悔しさ、
そんな不愉快な気持ちをガマンすべきだってことじゃない。
それはむしろしっかり感じるべきだと思う。
感じた上で、それをどう料理するかが大切。
どう料理して、どんな形にして、自分のものにするか、が。

ネガティブなものとして不愉快なままそれを持ち歩くのか、
料理して別のものとして人生の糧にして持ち歩くのか、その違いだ。

誰かが誰かの悪口を言っているのを聞くのは決していい気持ちじゃない。
聞いているうちにだんだんその重たいエネルギーに飲み込まれて、
自分まで重苦しくイヤな気持ちになってくる。
逆に自分が誰かの悪口を言っている時も、周りの誰かをそうさせている。

そういう話は進歩がない。
同じ場所をぐるぐる回る。
怒り、恨み辛み、憎しみ、さげすみ、否定、批判、
暗く出口のない場所でわんわんと鳴り続ける不協和音のようだ。

そんなものをいつまでも自分の人生の要素にしたくないと思った。
どうせ持つものを選ぶなら、そんなものは持ちたくない。
持つなら持ってて心地いいものを持ちたい。

だから、ネガティブな気持ちをさんざん感じたら、
それを自分の中で料理して心地よいものにして持ち歩きたい。

人生の中で出会う人は、例外なく自分の鏡であり、成長のためのテキストだ。
ネガティブな感情の波が去ったら、すべきことは、
そこから自分が何を学ぶべきか、
そこで自分はどう考えどう振る舞いどう行動すべきか、
それを考えることじゃないかと思った。
そして、それを実行することじゃないかと。

それをしていないから、私、今、同じ場所でくすぶってるような気がした。
目の前に横たわる問題がいつまでもなくならないのは、
きっとそのせいじゃないか、って。

ここしばらく、そういう作業をするのを忘れてたわ。
日々に追われ、髪振り乱し、雑音と共に生きてたわ。

だから、この辺で、またリセットしようと思ったの。
自分の在り方、自分の生き方を。
忘れてた大切なこと思い出そうって。

あれを、これを、やってるつもり、頑張ってるつもり、は、もういい。
「何をやるか」じゃなくて「どうやるか」が大切だと思った。
今自分を取り巻くものの中でどう生きるかが。
どう生きるかによって、自分を取り巻くものも変わるのだと。

世の中には色々な人がいる。
色々な人がいるゆえに問題が起こることもある。
人間関係でイヤな思いをしたことがない人なんていないはずだ。
ここで忘れちゃいけないのは「色々な人」の中には自分も入ってるってこと。

人生を料理しなくちゃ。
自分に訪れる色々なものを料理しなくちゃ。
目の前にあるものをどういうものにするかは、自分次第。
せっかく生きてるんだもの、いいものにしたい。


2009年07月22日(水) 怪奇現象

郵便局で仕事してる時のこと。
ある人が真顔で言った。

「今日は怪奇現象が見られるね」

すぐにピンと来た。
皆既日食のことを勘違いしてそう言ったのだと。

すげぇ「かいき」違いに、ぶっ、と吹いた。
何か飲んでたら確実に噴射するところだった。

それを聞いて、私の隣にいた人が、
パソコンのモニター画面から目をそらさず無表情なまま言った。

「怪奇現象じゃなくて皆既日食でしょ?
 ま、夏だし、怪奇現象なら涼しくなれるから、それでもいいけど」

いやだから!
怪奇現象いやだから!

個性の強い人達が大集合したこの職場自体が、
ある意味怪奇現象だらけなような気がした。
なかなか面白い職場だ。


2009年07月21日(火) ヘビロテ鼻歌

ここしばらく、私の頭の中でなぜか鳴り続けるのは、


  ♪ ごはんが ごはんが すすむくん

  ♪ め・い・じ チョコベビー


そのふたつの古いCMソング。
知らない人もいるよね(笑)

ずっと頭から離れないことをぼやいていたら、abuが言った。

「じゃあチョコベビー買ってみなよ。
 そしたら止まるかもよ」

私は試しにチョコベビーを買った。
ふたつ。

おいしかった。

が。
CMソングは止まらなかった。
相変わらず頭の中で鳴り続けている。

仕方ないのでこの際だから口ずさむことにして、
ここ数日はその2曲がヘビロテ鼻歌となっている。


2009年07月20日(月) 人生ゲーム

少し前まで、ネットでできる無料のパズルゲームにハマっていた。

ひとつクリアする度に難しくなりながらステージが変わってくんだけど、
どうしてもクリアできないステージがあった。
いつも、そこで終わってしまう。

来る日も、来る日も、そのパズルゲームをやった。

クリアしたい、どうしてもクリアしたい、
クリアして次のステージに行きたい。

いつしか、そのステージをクリアしないと、
人生でいつまでもくすぶって、このまま先に進むことができないような気がしてきた。
逆に、そのステージをクリアしたら、自分が変われるような気がしてきた。
人生も変わるような、そんな気が。

気軽に始めたネトゲが、いつしか自分の人生を投影したものになってしまっていた(笑)

ネトゲはこわい。
自分をコントロールしないと現実に支障をきたす。
ハマっていつまでもやり続けてしまう。
ちょっとそんな危険を感じのたので、
1日に2回挑戦してダメならまた明日、と自分のルールを決めてやっていた。

どれくらい挑戦し続けただろう。
かれこれ、3ヶ月くらいかしら。
ある日、突然、そのステージをクリアした。
いとも簡単に。

あ、できちゃった。

できた瞬間は、ドラマチックじゃなく、気づいたらパズルが完成していた感じ。
もちろん、うれしかったし、達成感はあったけど、本当にあっけなかった。

そして、念願の次のステージ。
難しいだろうと思っていたそのステージは拍子抜けするほど簡単。
そこからまたどんどん進んで、あるステージをクリアできずに終わったけど、
もう、そこから先は挑戦しようとは思わなかった。

そして、その日、私はそのパズルゲームを卒業した。
そのゲームをしたいという欲求もなくなっていた。

目標としていたステージをクリアした後、
私の人生が変わったかと言うと、別になんの変わりもなく、
いつもの毎日がそこにあるだけだった。

何も変わらなかったけど、ひとつだけ言えることは、
どうしてもクリアできなかったステージをクリアすることで、
ものすごくすっきりして気持ちいいってことかな。

クリアするまでにものすごい回数挑戦したし、
それによってコツをつかんで上達したからクリアできたんだろうし。

あっけなく、淡々と、終わったけど、
それは、あっけなくなかったし、淡々としたもんじゃなかった。
終わったからそう思うのであって。

面白いもんだ。

まるで人生みたいだと思った。
なにが?って、それ書くとすんごく長くなりそうだし、
もう眠いので書かないけど、色々。

そして、私は毎日郵便局のパートに向かうのだった。
それが決してムダじゃないってことが、なんかわかった気がした(笑)

私は毎日人生ゲームのコマを進めている。
そのゲームに終わりはなく、紆余曲折色々ありつつ続くのだ。
ドラマチックなのは何かの結果ではなく、その結果に辿り着くために経過だ。
その経過の中で体験することの中に贈り物がたくさんある。
そして、結果さえも経過なのだ。


2009年07月18日(土) 存在の大きさ

アンナはボーイスカウトの小さい子組のカブスカウトの活動をしている。
その活動の一環で、今日からキャンプに出かけた。

子供の世話がないと母さんラクチンね、好きなことし放題ね、わーい♪
と思っていたけど、そして、その通りなんだけど…
夜になってみると、子供がいないことがなんとさびしいことか。

家の中がしーんとしてて、
いつもはドアを開ければそこにある笑顔がなくて、
ママー!と呼ぶ声が聞こえない。
あまりにさびしくて、彼女がいつも眠っているベッドに転がり、
かすかに残っているかわいらしい子供の匂いを吸い込み、
タオルケットをぎゅっと抱きしめて、熱くなった目頭を押さえた。
彼女がいなくなって、初めてわかるその存在の大きさ。

普段は、あれやってないだー、これやってないだー、
またこんなことしてー、またあんなことしてー、って、怒ってばっかりだけど、
こんな夜は、そんなことがどれだけチンケなことかよぉくわかる。
もちろん、マナーやきまりを守ったり、やるべきことをやったりすることは、とても大事。

だけど、それ以上に大事なことは、アンナが存在しているということ。
そばにいて、元気で、生きているということ。
何より大事なこと。
何より尊いこと。

そう感じた時、ふと、自分も親にとってそんな存在だったのかしら…と思った。
物心ついた頃から、特に父親はこわくてきらいだった。
いつも私がすることに干渉してきて口うるさかった。
毎晩のように怒鳴り声がしていた。
あまりのひどい仕打ちに、お父さん早く死なないかな、と思っていた。
常に怯え、心閉ざしていた私は、家に居場所などなかった。

でも、今ならわかる。
それでも、親は私がとても大切だったこと。
私がいないと、今日の私みたいに、とてもさびしかったであろうこと。
私がかわいくてかわいくて仕方なかったこと。
今ならよくわかる。
愛されていたんだと。

その愛し方はとてもいびつだった。
愛が愛だと伝わらないくらいいびつだった。
でも、今なら本当によくわかる。
愛されていたのだと。

私の愛し方もいびつだ。
あんなに嫌っていた父親と私はそっくりだ。
いや、あそこまではひどくないと思うけど(思いたいけど・笑)。
きっと、アンナにとって、今の私はあの頃の父みたいに煙たい存在なんだと思う。
上手に愛せない。
よく本に書いてあるようないいお母さん像からはほど遠いと思う。
そして、それがとてもつらいことでもある。
その痛みは、きっと、私の親が感じていた痛みでもあるのだろう。

お父さん、お母さん、私は元気です、ここに生きてます。
色々あったし色々あるけど、
お父さんとお母さんの愛を受け取ってここまで生きてこられました。
人の親にもなっちゃいました。
やっぱりうまくいかないこともありながら、子育てしてます。
そして、今になって、お父さんとお母さんの気持ちが痛いほどよくわかります。
私を本当に大切に思っていてくれたんだね。
ありがとう。
私にいたずらするトラウマはいまだ心の奥深くにうずいているけれど、
今はそれさえも一緒に持ったまま、ここにいようと思います。
そして、いつか、そんな痛みも手放して、最高のお母さんになれたらいいなと思ってます。

アンナが私の子として生まれたことで教えてくれたこと。
それは、人はただそこにいるだけで、
人の心をあたたかくして、満たして、そして、幸せにするということ。
何ができるとか、どういうふうであるとか、そんなことには関係なく、
その人そのものがそこにいるということ、それがどれだけ尊く美しいことかということ。

存在の大きさ。
それは、例外なくすべての人に言えること。
生きている、それはどんな形であれ、愛を受け取ってきた証。

渦中にいる時は、そんなことわからないし、わかるはずもないし、わかる必要もないと思う。
わかりたくないことだっていっぱいあるし。
だから、人が生きる人生があり、そこでの体験があるんだと思う。
その体験を通して積み重ねたものでわかることを増やしていけばいいのであって。
ゆっくりと、ゆっくりと。

アンナが帰って来たら、思い切りぎゅうっと抱きしめよう。
笑顔を見せよう。
怒ってばっかりのママだけど、
それがアンナの一番欲しいものだって、ママは知ってるよ。
だって、ママもそれが一番欲しいものだから。

アンナの存在がこんなにも大きいということ、
それは、私自身の存在も同じように大きいということ。
そして、すべての人の存在が同じように大きいということ。
たとえそれが信じられなくて、自分なんか消えてしまえばいいと思う時でさえも。


2009年07月17日(金) 幼い私の手を引いて

休みの今日、必要なあれこれを買い出しに、某ショッピングセンターに行った。

色々なお店を見ていると、当然欲しいものがみつかる。
今日もどうしても欲しいと思うものに出会ってしまった。
「魔女の宅急便」と「風の谷のナウシカ」のそれぞれの原作が、
セットになってヴィレッジヴァンガードに売っているではないか。
欲しい、欲しい、どうしても欲しい〜〜〜〜!!!!!

でも、月末の帰省旅行を控え、今、我が家の家計は…(笑)
食費切り詰めてるくらいだから、そんなものを買っているゆとりはない。
そうだよな、そうだよな、こんなの買ったらいかんよな。

心はスーパーの通路でお菓子欲しさに寝転がって泣き叫ぶ子供同然。
大人なのでそれはやめておいて、ただその原作セットの前に立ち尽くす。

手に入らないのだと思うと、ものすごく悲しくなった。
そんな私の耳に届くのは、試聴のために店が流している、
ジブリの映画音楽をピアノで演奏した曲を集めたCDの中の「テルーの唄」。
泣けといわんばかりじゃないか。
マジで涙目になった。

欲しいものも買えないなんて…
欲しいものが手に入らないなんて…
静かで重たい悲しみがひたひたと押し寄せてくる。
すべてが絶望的に思えた。
悲壮感たっぷりに、まだ終わってない買い物のために、
ヴィレッジヴァンガードを後にした。

そして、買い物を済ませた帰りの車の中でのこと。

助手席の私は、ふとサイドミラーに映る自分に気づいた。
鏡の中の自分を見て思った。

「足りないものがあるようには見えないなぁ。
 すごく満ち足りているように見えるなぁ」

なんとなくそう思った。
そして、なぜだかわからないけど、本当にその通りだと思った。

そんなことを考えていたら、また私の中にぽわんと浮かんできたことがあった。

「私はあの原作のセットが買えなくて本当に悲しいんだろうか。
 買えないことがそんなにつらいことなんだろうか」

次の瞬間、明確な答えが浮かんだ。

「ううん、違う。
 原作セットが買えなかったことが悲しいんじゃない、つらいんじゃない」

と。

「じゃあ何がこんなに悲しいんだろう?」

自問自答。
また答えが浮かぶ。

「昔、欲しいものが手に入らなかった時の痛みが、今再現されているだけ」

そうか、そうだ。
いやっちゅーほど仕事でやってたよなぁ。
子供の頃の体験から刻み込まれた感情が、
大人になっても似たような出来事を通して再現されるのだと。
その昔の出来事で感じていた感情を、
今あたかも自分のもののように感じるのだと。

そか。
原作セットが買えなくてあんなに落ち込んだのは、
遠い昔、幼い私が感じていた感情なんだね。
腑に落ちた。

今買えなければ、次の機会に買えばいいじゃない?
どうしても欲しくて必要なものなら、どうしても手に入れるじゃない?
今はその時じゃないから手に入れないだけでしょう?
そんな自分への問いに「うん!」と答える自分がいた。

重たい気持ちがすーっと軽くなった。
欲しいことには変わりない。
でも、お店で感じたような悲しい気持ちはもうなかった。

もちろん、すぐにでも欲しいし、残念な気持ちはあるけど、
いつか手に入れよう、そう思うと、しょぼんとした気持ちと一緒に、
ちょっぴり楽しみな気持ちも生まれた。

実は、原作セット以外にも欲しいと思うものがあった。
そして、それもまた、同じように悲しくなっていた。

それについても考えてみた。
すると、欲しいけど必要じゃないと思った。
衝動的だっただけで、よく考えると実はそんなに欲しくないとも思った。
なーんだ、そんなに欲しくないんじゃん、自分に突っ込んだ(笑)

そこでも、昔の私の感情がぼわんと出てきて、
欲しいのか、必要なのか、そういう実際のところを越えて、
欲しいものが手に入らない悲しみだけがぼわーんと大きくなって、
私に襲いかかってきていたことに気づく。

私はいつも幼い私の手を引いて歩いている。
小さな私の大切な心を感じながら歩いている。
これからもずっとそうやって生きていくだろう。

それでいい。
それでいい。
大切でいとおしい自分の一部だから。

そして、教えてあげよう、そんな自分に。
もう大丈夫だよ、って。
本当の私は足りないものなどなくて、満ち足りているんだよ、って。
鏡に映ったあの姿が本当の姿だよ、って。
今ここに生きていること、それがすべてで、
本当に欲しくて必要なものはちゃんと手に入るようになってるんだよ、って。
だから、大丈夫、って。

これからも歩いて行こう。
幼い私の手を引いて。
満ち足りた今を重ねながら。


2009年07月16日(木) 「よ」のパワー

夏だし、宮崎にも帰省するし、
水の中でも写真撮りたいよね、という話になり、
abuとウェブで水中カメラを探していた。

abuが言った。

「ほら、あれ、使い捨てのやつ、
 『写ルンですよ』ってあったじゃない。
 あれの水中用、いいんじゃない?」

ぷっ。

ねぇ、それ『写ルンです』だってば。

最後に「よ」がついただけで、なんか妙な響き。
くそバカ丁寧に説明されてるみたいな。
念押されてるみたいな。

「よ」が余計なことに気づいていないようだったので、
しばらく放っておいてみた。
会話がかなり楽しかった。
笑いこらえて腹痛かった。

「よ」のパワーで、笑う角には福来るということで。


2009年07月15日(水) ほどほどの美学

辛いもの好きの私、コンビニで見かけた激辛のスナック菓子を食べた。

辛〜〜〜い!!!痛〜〜〜い!!!
ナメてかかってました、ごめんなさいっ;

口の中や喉が痛いだけじゃなく、食道まで痛い(爆)
胃がじりじりするし、食べた後もしばらく口の中が痛かった。
おいしいとかそういう以前の問題だ。

そして、思うのだった。
ほどほどがいいのね、と。

どんなこともそうだ。
ほどほどがいい。
なんにつけ過剰なのはいただけないんだな。

ほどほど、って言葉は妥協するみたいなニュアンスもあるけど、
そうじゃなく、ほどよく、って意味で。
ほどほどの「ほど」は、ほどよくの「ほど」で。

そう思って自分を振り返り、こっそり反省したりもする。

若いならギラついて思いのまま過剰なまでに突っ走るのもいいだろう。
それもひとつの大切な体験になる。
私もハチャメチャだったし。

でも、40歳を過ぎて思うのは、
差し引いたり控え目なのがいいってこと。
そんなものの中に、美徳みたいなものをあるってこと。
それが美しかったり素晴らしかったりして、目立たないのに目立つってこと。
そして、そういうものを人生の要素にする人でありたいということ。

激辛スナック菓子を食べて、そんなほどほどの美学について考える夜なのだった。


2009年07月13日(月) 毎日が自分探し

どよーんとして、なんかブルーになる時って、
後になって気づくと、自分に不正直でいる時が多い。

自分の気持ちに正直でいるって本当に大切だよな。

その正直な気持ちをベースに色々な選択していくことによって、
うそーっ、ってくらい、気持ちが軽くなる。
問題は変わらずそこにあっても、その問題に向き合う自分が変わってくる。
結果、問題が問題じゃなくなることもある。

いっつも自分の真ん中の気持ちを探してる。

私は本当はどう感じてる?
私は本当はどうしたい?
私は本当はどうありたい?
私は本当は何を望んでる?

私の問題の答えは、いつもそこにあったりする。

表面にある気持ちの、奥の奥の奥の方にある本当の気持ち。
表面の気持ちが自分の気持ちだと思い込んでしまうこともあるけど、
違うんだ、もっと奥に本当の気持ちがある。
だから、意識的に探してみる、感じてみる。

置き去りにしてしまった自分の本当の気持ち。
それに出会った時、見つけてもらえた喜びとともに、
その本当の気持ちは溢れ出し、やがて浄化され、昇華し、新しいものになる。
そして、道が見える。

ってか(笑)

毎日が自分探し。


2009年07月10日(金) やっちん

神様が願い事を叶えてくれるなら、お願いしたいことがひとつある。
それは、中学3年生の時に仲良しだった友達、やっちんに会わせてください、ということ。

アンナが学校でいじめにあうようになってから、
私も色々なことを思い出し、考えるようになった。

私は、中学3年生の1年間、いじめにあっていた。
今思えば、自分に全く原因がないとは言えない。
結構生意気でイヤなヤツだったから(笑)

昔で言う「ヤキを入れる」ってのもされたし、
取り囲まれてイヤミを言われたり、
机に悪口を書かれたり、持ち物を隠されたり、
ストレスで胃をおかしくして救急車で運ばれるほど精神的に参っていた。

私をいじめていたグループは、いわゆるこわい人達で、
彼女達に逆らって私と仲良くすると自分もいじめられるからと、
クラス中の女の子達は私を無視していた。
中には「無視してごめんね。本当は話したいんだけど、話すと…」と言ってくれる子もいた。

そんなある日、ひとりだけ、私に近づいてきてくれた子がいた。
彼女の名前はやっちん。
おとなしくて目立たなくて、そんなに話すこともなかった子。

みんなが私を避ける中、いつも一緒にいてくれた。
私がつらいであろうことを察して、手紙や交換日記で励ましてくれた。
ピアノが大好きで得意だったやっちんは、私を家に呼んでピアノを弾いて聴かせてくれた。
彼女が大好きだったリチャード・クレイダーマンのレコードを録音したテープをくれた。
お互いに絵が好きで、よく描いていたっけ。
本当にこわくてつらい毎日だったけど、やっちんの存在が私を支えてくれた。
彼女がいなかったら、私は学校に通い続けることはできなかったと思う。
今で言う不登校になり、高校にも行けなかったかもしれない。

それまで、人を傷つけることも、いじめも、平気でしていた私は、
自分が逆の立場になり、いじめられることで、その苦しさを、
そして、やっちんに支えられることで、人のやさしさや思いやりを、
子供心ながら、深く、深く、深く、学んだ。
もし、私にあのいじめがなかったら、
自分の感情のおもむくままに人を傷つけることをいとわない、
すごくイヤなヤツのまま大人になっていただろう。

アンナがいじめに耐えながら学校に通う姿を見ていると、
自分のあの頃の気持ちがオーバーラップし、
アンナつらさが手に取るようにわかって、とても苦しい。
学校の先生も問題視して対応を急いでくれているけれど、
スイッチをパチンと切って電気を消すようには、いじめはなくならない。

まだ私より小さな手でこぼれる涙をぬぐうアンナを見ながら、
ふと、やっちんを思い出した。
ああ、こんなつらい気持ちで毎日を過ごしていた時、
自分を助けれくれたのは彼女、やっちんだったなぁ…と。

今、あらためて、どれだけ彼女の存在が大きかったのかを知る。

やっちんとは同じ高校に行ったけど、高校では新しい友達ができて、
彼女とそんなに仲良くしていなかったような気がする。

今となっては連絡先もわからないことが悔やまれてならない。

アンナのことと、自分のことがリンクし、
あらためて、やっちんに感謝の気持ちがわいてきて、
どうしても彼女に「ありがとう」を伝えたいと思うようになった。
あの頃は、今よりももっと未熟で伝え足りなかった感謝の気持ちを。
あなたのおかげで、今、私はこうして生きているよ、と。

今までも、時々、やっちんを思い出すことがあった。
そして、今、とても彼女に会いたい。
会って「ありがとう」って伝えたい。
どれほど私が救われていたのかを。

あれから30年近く経った今、
やっちんと私の楽しかった時間が、
まるでセピア色の映画みたいによみがえる。
笑い合ったあの時間が私を強くしてくれた。

ねぇ、やっちん、本当にありがとうね。
あの頃はありがとうね。
今となっては連絡を取ることも、ましてや、会うこともないけれど、
やっちんは今でも私の大切な友達だよ。
「友達」という言葉がしっくりくる、数少ない人のひとりだよ。
今どうしてるのかな。
いつか会えたらいいな。
やっちん、本当に、本当に、ありがとう。
やっちんのこと考えると、うれしくて、あったかくて、涙が出そうだよ。

アンナのつらい体験が、私にも色々なギフトを運んでくる。
彼女がつらい中でも多くのギフトを受け取っているように。

私達は常に体験の中にいて、そこから何かをつかむ。
つかんだことから新しい何かが生まれる。
大切なものを取り戻す。

さあ、アンナ、ママとパパと一緒に進もう。


2009年07月09日(木) みんな、みんな、癒されてゆけ

アンナのクラスの学級新聞に、アンナの記事が載った。
それが教室の後ろに貼られた。
「元気っ子」と紹介されたアンナはとても喜んでいた。

しばらくして、その記事のところに「ブリッコ」という殴り書きが。
誰が書いたかわからない。
赤ちゃんのように泣いたアンナを見たのはどれくらいぶりだろう。

数日後、そのとなりに「死ね」という赤い文字が。
誰が書いたかわからない。
心臓の鼓動が早くなり、めまいを感じ、胸が苦しくなった。
アンナは痛みを感じなくしたかのように、もう泣くことをやめた。

私は言いたいのだ。

誰がやったのかを突き止めたいわけでも、書いた子を責めたいわけでもないよ。
ああいうことを書いたこと、それは、
そういうことをしたキミの大切な気持ちから生まれた行動なのでしょう。
キミの感情はみんな大切なもの。
そこにキミのたくさんの痛みと想いが込められているのを、私は知っている。
きっと、キミも、心に大きな傷があるのでしょう。
その傷に気づきながら気づいていないのでしょう。
そして、その傷をケアしてもらったこともなく、今日まで来たのでしょう。
とても、とても、痛かったでしょう。
私はそれを知っているよ。
傷ついた人が人を傷つける。

でも。

私の大切なアンナをもう傷つけないでほしい。
お願いだからやめてほしい。

そう言いたい。

アンナは被害者ではない。
見るのも苦しい言葉を書いた子は加害者ではない。
ここにあるのは体験なんだ。
親も、クラスメイトも、先生も、その体験に交わることで何かを見ている。

そして、私は私の責任でこの体験を受け止める。
私の中にある何かを見せられているのを見ている。

今私が感じているのは、怒りではなく悲しみ。
そして、やるせなさ。

「愛しています
 ごめんなさい
 許してください
 ありがとう」

みんな、みんな、癒されてゆけ。
愛の名のもとに。


2009年07月08日(水) 美しい人

夕方、キッチンの窓から、夫婦であろう男女が通り過ぎるのを見た。
散歩しているような様子だった。
年齢は40代後半くらいだろうか。

ふたりは手をつないで歩いていた。
何かを話しながら、とびきりの笑顔だった。
それを見て、なんだか、じぃ…ん、ときた。
たくさんのことがありながら、それを乗り越えて一緒にいるふたりなのだろう。
人生の重みと、そして、人として生きることの美しさがそこにある。
ほんの一瞬私の目の前を通り過ぎていったふたりだけど、なぜだかそう感じさせた。
静かに、穏やかに、幸せそうだった。

本当に素敵なふたり。
私の心を打ったふたり。
彼等は私が姿を見かけたことにも気づいていないし、
ましてや、彼等を見てそんなことを感じているなんて思いもしないだろう。
彼等は、ただ、彼等の時間を、彼等なりに過ごしていただけで。

そこにいるだけで、人に何かを伝えることができる人に、私もなりたいと思った。
まるで匂い立つような美しさを放っていた、そのふたりのように。


2009年07月06日(月) ただいま

約3年ぶりにこの「おひさまの日記」に帰ってまいりましたーっ。

少し前、セラピストとしての自分に終止符を打ち、
セラピールームを閉鎖すると共に、
ホームページでの活動もやめ、ブログも書くのをやめた。

でも、言葉を綴ることは続けたい、そう思って新しいブログを作ったんだけど、
書こうとすると、ちーとも進まん、手が止まる。
書きたいのに、書けない、困惑しながら、ふと昔のこの日記を読みに戻ってみたら、
「ここで書きたい!」という衝動がむくむくと湧いてきた。
3年とちょっと放置しておいたけど、私にとっては大切な場所。
自分に正直になれる貴重な場所。
そうだ、ここに帰ってこよう、そう思った。

そして、また、ここからスタート。

ただいま、おひさまの日記。
肩書きもない、しがないパートタイマーの私になったけど、
そして、かつて1日に200近くあったアクセスもういないけど、
でも、ここで書きたいの。
よろしくね、私のオレンジ色の場所。
ただいま。
帰って来たよ。


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