おひさまの日記
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2006年01月24日(火) 恒例、ワークショップ後の感想

1月のワークショップHEARTから帰還。
「なりたい自分になる」のテーマで、今月も深いワークが展開した。

そして、今月も(個人的には)ものすごい気づきと、
その気づきと共に、ガッツン!と腑に落ちるものがあった。
テーマ「なりたい自分になる」とは無関係に(笑)それは私の中で静かに起こっていたのだった。

それは、またもやスタッフワークでのこと。

あるスタッフのシェアリングが始まると、なぜだかものすごい怒りが湧いてきた。
ワークが始まると、椅子を窓ガラスに投げつけて割りたくなるほど、怒りは激しいものになった。

もちろん、そのスタッフが人を怒らせるような話をしたのではない。
私の無意識の中にある何かが勝手に反応して怒りが湧いてきたことは付け加えておく。

私は、怒りながら涙がこぼれそうだった。
けれど、私は泣かなかった。
絶対に泣くもんかと歯を食いしばっていた。

いつもなら泣きの斉藤なのに、
なぜだろう、その日は「絶対に泣くもんか」という強固な想いがそこにあった。
それでも溢れてくる涙をおさえるために、私は無意識のうちに、
左手の親指と人差し指の間の柔らかい部分に、
右手の親指の爪をギリギリとねじ込み痛めつけていた。
普通なら耐えられない痛さだった。
でも、ぐっと歯を食いしばって溢れてくる涙と悲しみを止めるためにはその痛みが必要だった。
信じられないくらいの力で自分の肉に爪を食い込ませていった。
心が壊れそうなほどの苦しみから目をそらすために。
まばたきもしなかった。
涙がこぼれないように。
意地でも泣かなかった。
何事もないような涼しい顔をしてその場にただ座っていた。

目の前では、感動的なワークが展開されていた。
それを受け止める部分も存在している。
ワークの内容も十分理解できていた。
それでも、それに従うまいと怒り狂う反抗的な部分も存在している。
そして、そのふたつの相反する部分があることを眺めている自分も存在していた。

ワークが進むにつれ、自虐的左手いじめがエスカレートしていった。
爪を食い込ませている部分が赤く晴れ上がり、ズキズキ痛み始めた。
私はその痛い部分をわざとぐりぐりといじめた。
痛みで感情が途切れ途切れになる。

そして、目の前のワークが素晴らしいという考えを打ち消すために、
頭の中で「バカ、バカ、バカ、とんだ茶番だ、バカ、偽善者」と、
ワークを否定する言葉を一生懸命に並べた。
他の事を考える隙間ができないように、ただただそんな言葉を頭の中で繰り返していた。
そうやって否定していないと、手の痛みだけでは足りず、今にも泣き出しそうだったのだ。

そうしたおかげで私はなんとか泣かずに済んだ。

そんな中、私はぼんやり考えていた。
「私すごいなぁ。ここまでしてこらえて、いい根性してんじゃん」って。

悲しい気持ちを隠すために、こんなに怒って、
悲しみが出てきそうになると、また頑張って怒って、
それでも追いつかなくて悲しみが顔を出して泣きそうになると、
痛みで頭がボーッとするまで自分の体を痛めつけて、
それでもどうしようもなくなると、
自分の感じたことを打ち消すために、思考のコントロールも始めて。

そこまでして「苦しい感情を感じないようにして」自分を守ろうとしてるのかと、
自分のその頑張りに無条件に感動した。
ある意味「よくぞ、そこまで」って、ヘンなところに感心したと言うか。
私の「怒る自分」への視点が完全に変わった瞬間だった。
視点が変わることで「怒る自分」は私にとって初めて出会う自分「新しい怒る自分」となった。

苦しい感情を感じないように押さえ込むそのエネルギーたるや、凄まじいもの。
尋常ではない。
苦しい感情を感じないようにするために、別の形で苦しんでいる。
ワークを見て自分の感情を押さえ込んでいったその時、私は常軌を逸脱していたと思う。

そして、そんな瞬間を、子供の頃に数え切れないほど体験し、
また、染み付いたそれらを、大人になっても繰り返し体験し、
無意識のうちに、苦しい感情を感じないようにするために、凄まじい労力を費やしてきたのだろう。
悲しみや寂しさを怒りにすり替え、感じないように、感じないように、ひたすら。

そんなにまでしていたなんて、どれほど苦しかったことだろう。
苦しみを感じないようにするために、別の形で苦しんでいたんだ。
こんなにまでして、こんなに苦しんでまで、私は自分を守りたかったのか…

そう思うと、なぜかあたたかい気持ちになった。
左手の晴れ上がって赤くなった部分を、今度は右手でなでなでした。
私の口から自然に「いい子」と言葉が溢れてきた。
私はずっと「いい子、いい子、いい子…」と左手に言い続けていた。

「よく頑張ったね、こんなになるまでよく頑張ったね、えらいね、
 こんなにまでして守ってくれて本当にありがとね、
 もう、ずっと、ずっと、そうやって守っていてくれたよね」

その言葉を自分に心から伝えた。
あたたかい涙で目頭が熱くなった。
怒りで武装していた私のある部分にその言葉が届いたことを感じた。
自分の中で何かがほどけていくのを感じた。

「怒りは悲しみや寂しさ等つらい感情を隠すための感情」だということを十分に理解していたが、
今回の体験で、逆に「頭でしかわかってなかった」ということに気づく。
なんと薄っぺらい理解だったのだろうと、今になって思う。
「苦しい感情を押さえ込む」ということがどういうことなのか、
それがどれだけ凄まじいことなのか、
私はようやく身を以て思い出せたのではないかと思う。

それによって、私は、
これまで自分の「いけない部分」「なくしたい部分」だと思っていた「怒る自分」が、
自分にとっていかに大切で、また、それにいかに守られてきたのかを知った。

これまでは、それをなんとかしたくて、なくしたくて、私はセラピーを受け続けてきた。
頭ではそれも自分の大切な部分だとはわかりつつも、早く何とかしたいと思っていたのが本音だ。

けれど、「怒る自分」が存在していなかったら、きっと今日まで生きてこられなかっただろう。
社会人としても機能できなかっただろう。
強くなることができたのも「怒る自分」のおかげだった。
間違ったこともしただろう、方法は荒っぽかっただろう。
けれど、とにかく私は「怒る自分」に救われ続けてきたのだ。

ストン…と腑に落ちた。

そして、その「怒る自分」を感謝して受け止め、休ませてやる時を迎えたことを、
娘が生まれたことによって知るところとなったに違いない。
彼女との出会いが、私の「怒る自分」との真正面からの出会いだったのだから。

ここ3ヶ月のワークショップで、私は自分の「怒り」と向かい合い続けている。
それぞれのワークショップで、自分の怒りについて新しい気づきや体験があった。
もっとも手放したい「怒る自分」が、もっとも不器用に自分を守っていたものなのだということ、
もっとも忌み嫌う「怒る自分」が、もっとも愛おしい存在なのだということ、
それが自分の真実であるということを、ワークショップを通して、3ヶ月かけて体感した。
少しずつ、少しずつだけど、プロセスが進んでゆく。

左手の傷を見る度、私は今も「いい子、いい子、ありがとう」と声をかけている。
とても穏やかで、自分の中でなにかがなにかにぴったりハマったような感覚がある。
とても心地よい。

今月のワークショップも素晴らしい体験となった。
テーマにはホント無関係だけど(笑)

あ、でも、なりたい自分に近づいてはいるのか。
最終的になりたい自分にさ。

今度はどんな自分に出会うんだろう。
来月のテーマは「自分を知る」。
ある意味すべてを網羅する究極のテーマ。


2006年01月15日(日) 「あらしのよるに」

今日はアンナ・デイ。
いつも仕事にかまけて彼女を寂しくさせてしまっているので、
一緒に遊ぶ日を作るのだ。

今日のアンナ・デイは映画を観に行った。
私がずっと観たいと思っていた「あらしのよるに」。
今日がこの近辺での最終上映だった。

すごくよかった。
本当に本当によかった。
DVDが出たらすぐに買おうと思った。

私は咳が出るのでマスクをして行ったんだけど、
あまりに泣くもんだから、化粧が落ちて涙で流れて、
それをマスクが受け止めてくれて、
マスクのふちが見事な肌色になっちまいました。

観終わった後、ほっとして心が温かくなる映画って、いいなぁ。

あったかい。
あったかい。
「すき」ってあったかい。

何かに書いてあった。
私達は「ただ愛したい」のだと。
本当にその通りなんだ。
愛するものをただ愛したいんだ。
そして、愛することを貫くと奇跡が起こるんだ。




中村獅童のガブ、お見事!
あの人は本当に多才。


2006年01月14日(土) Oshoトランスフォーメーション・タロット「慈悲」

今日ひいた一枚。


**********


Oshoトランスフォーメーション・タロット

50. 慈悲

慈悲
Jesus and the money-changers

 慈悲は、他人への同情でいっぱいになった血のにじむようなハートを持っていることではありません――
 慈悲とは、状況に覚醒をもたらすのに必要なことであればなんでも喜んでやるほどの、愛の深さです。

 イエスの生涯で起こったある状況を思い出してほしい。
 彼は鞭を取って、エルサレムの偉大な寺院に入って行った。
 イエスの手に鞭?
 これこそ仏陀が言ったことの意味だ――「怪我をしていない手は毒を扱うことができる」。
 そのとおりだ、イエスは鞭を扱うことができる。
 問題はない。
 鞭が彼を圧倒することはありえない。
 彼は油断せずにいる。
 彼の意識はそれほどのものだ。
 エルサレムの偉大な寺院は泥棒たちの場所になっていた。 
 巧妙な盗みが行われていた。
 寺院のなかには両替人たちがいて、彼らは国全体を搾取していた。
 イエスは独りで寺院に入り、彼らの机――両替人たちの机――をひっくり返した。
 彼らの金を投げ捨てて、たいへんな動揺を引き起こしたために、両替人たちは寺院の外に逃げた。
 彼らは大勢いたが、イエスは独りだった。
 だが、彼はそれほどにも激怒していた。

 さあ、これはキリスト教徒たちにはずっと問題だった。
 それをどう説明したらよいのだろう?――というもの、
 イエスは鳩、平和のシンボルだということを証明しようとするのが彼らの努力すべてだからだ。
 その彼がどうして自らの手に鞭を取りえたのだろう?
 どうして彼は、両替人たちの机をひっくり返して、
 その両替人たちを寺院の外に放り出すほど怒ることが、激怒することができたのだろう?
 そして、彼のエネルギーは吹き荒れていたにちがいない。
 彼らは彼に顔を合わすことができなかったのだ。
 僧侶たち、商人たち、それに両替人たちはみな「この男は狂ったぞ!」と叫びながら逃げた。

 キリスト教徒たちはこの物語を避ける。
 もしあなたが仏陀のこの経文を理解したら、それを避ける必要はない。
 怪我をしていない手は毒を扱ってもかまわない
 無垢は傷つくことはない
 イエスは絶対的に無垢だ!彼は暴力的ではない、破壊的ではない――それは彼の慈悲だ。
 それは彼の愛だ。彼の手にある鞭は、愛の手にある鞭だ。


**********


少し前、私は、ある人から不快なアプローチをされた。
それは、私のエゴでの判断のみならず、
一般的に考えてもマナーをわきまえないものであり、
自分の考えや願望だけを一方的に押し付けて来るかなりイタイものだった。

どう対応したものか悩んでいたけれど、
このカードを引いて決まった。
毅然とした態度で臨もう、と。
もちろん、ある人からのアプローチに反応した私にエゴがゼロとは言えないが。

私は、悪く言われたり、嫌われたり、攻撃されたりするのがこわくて、
形相を呈することもある「慈悲深い人」ではなく、
鳩のような「いい人」になろうとしていた。

もっと自分を信頼しようと思った。



このカードの言うところは、
気に入らないことに対しては、片っ端から腹を立てて、
相手に食ってかかろうということじゃない。
それなら幼稚園児でもできる。
そこがとても重要だ。


2006年01月12日(木) 困っている顔

眉間よりちょっと上を指でぐいっと持ち上げると、困っている顔になる。

これ、結構ブーム。
面白い。


2006年01月08日(日) 「なんでもあり」は「なにをしてもいい」ということじゃない

私は時々「なんでもあり」という言葉を使う。

セッションに来てくださる方々には、
その数だけ人生があり、またその数だけ事情や状況がある。
仕事以外でもそう、友達にもその数だけのそれらがある。

そして、彼女達が、
社会で言うモラルに反するようなことをしてしまっている時、
常識で考えたらひどいことをしてしまっているような時、
私はよく言うのだ、「なんでもあり」だと。

たとえば、不倫。

不倫をしていることを打ち明けられた時、
やっぱり私は言う、「なんでもあり」だと。
だから、不倫をしてもいいんだ、と。

そこだけ切り取ってここに書くと、
じゃあ、したければ「なにをしてもいい」という意味合いに受け取れるかもしれない。

けれど、それは断じて違う。
したいことなら「なにをしてもいい」なら、社会は狂ってゆく。
社会という大きなコミュニティのみならず、
家族という小さなコミュニティからの崩壊が始まる。

私が言うところの「なんでもあり」は、
自分がそうせざるを得なくなってしまっている、
つまりそういう問題と言えることを行わざるを得なくなっている中から、
自分の深い部分にあるテーマと向かい合いましょう、
そういう意味合いなのだ。

そうなってしまった以上、
ただやみくもに罪悪感やドロドロな感情にまみれるだけではなく、
そこに横たわる問題の本質に迫りましょう、
どういう意味合いなのだ。

それを美化せず(美化する相手に呑み込まれず)、罪は罪として認め、
それを通して学びましょう、と。

「なんでもあり」と聞いて、それを正当化せず、
自分がモラルに反していること、またそれによって傷つく人がいること、
(たとえ他の誰が知らなかったとしても、
 無意識で人は繋がっていてすべて知られているのだから)
それをしっかりと認めながら、その出来事を通して、
自分は本当は何がしたいのか、何の痛みから逃げてそこに走るのか、
それを見極めてもらいたいのだ。
そこから私達の変化が始まるのだから。

人間は、私も含めて、自分がすることに正当な理由を与えようとする。
正当な理由を与えて、自分がいけないことをしているという罪の意識から逃れようとする。
けれど、そこから逃げていては、何も解決しない。
また、それをしている罪悪感に押しつぶされているだけでは、何も解決しない。

私がかつて中島先生のセッションを受けた時のことだった。
アンナに必要以上に怒ってしまうことが苦しくて、
やめたいのだと切々と訴えると、先生は言った。

「怒ったっていいじゃないですか。
 だって、怒りたいのでしょう?
 怒っちゃいけないと強く思えば思うほど、怒りたい自分を否定してしまう。
 怒りたい恵美さんの中に何か大切なものがあるのですから。
 怒りたいんだということを認めることで始まることもあるんです」

私はそれを聞いて泣き崩れた。

子供に必要以上に感情をぶつけるのはいいことではない。
本来ならすべきことではない。
それでも、それをしてしまう自分の中の「何か」があって、
それこそが自分が向かい合うべきものなのだということを教えていただいた貴重なセッションだった。

先生は、私に怒ることを推奨したのではない。
そのままでいいですよ、変わらなくていいですよ、とおっしゃったのではない。
今そういう状況になってしまっている自分を一旦ありのまま受け止めていいのですよ、
そして、それによってそこから抜けていきなさい、
そう教えてくださったのだと思っている。

だから「なんでもあり」でありながら、
いつかそれをしなくてすむようになるためにも、今はそれをしながら、
自分の中にある気づいていない痛みに出会っていけばいいのだと、
私は大きく方向転換をしたことを、今も覚えている。
そして、そこから私は大きく変わり始めた。

「なんでもあり」は「なにをしてもいい」ということじゃない。
ひとつのプロセスとして、それが「なんでもあり」と許されるからこそ、
許されないことをしている場所から抜け出すために、私達は努力していくことができるのだ。


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