おひさまの日記
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2005年11月29日(火) |
オカマの集い、生首でRe-birth 3 |
acoさんのセッション、観撫手(ハンドスケープ・ヒーリング)を受けて、
私が体験したこと、感じたことを綴っての続き。
私の3つの前世がacoさんの口から語られた。
どの前世でも、その時代の流れ、また、常識や観念など、どうすることもできないものの中で、
不本意であったり、理不尽であったりするものにも従わざるを得ず、
不遇な体験をし、心の中に深い傷や葛藤を持って生きていた。
それらの痛みが罪悪感や自己否定となっていた。
ふむ。
セッション前の移動中に、いきなり出てきた武士のビジョンのこともあるし、
とにかく印象に強く強く残ったのは、武士の時代だった。
彼は自分の力を発揮しようとしたことで戦に負け、
多くの人を死に至らしめ、親兄弟と国を失った。
その体験から、自分の力で何かをすることへの大きな恐れを自分の中に刻み込んだようだ。
acoさんに会うために都内へ向かう電車の中で武士のビジョンが浮かび、
彼に「なぜわからぬ?」と問われたことは、前の日記でも書いた。
「あれは一体何のことを言ってたんだろう…?」
そうつぶやいた私の手を握ったまま、またacoさんが何かを感じ始めた。
「彼は…死にたかったようです。
自分を責め、こんなことなら死んでしまいたい、そう感じていたようです」
そう話していると、私の中で、電車で見たビジョンの続きが浮かんできた。
正座する私の前にいる武士の彼が刀を振り上げ、私の首を切り落としたのだ。
ゴトンという鈍い音や、首が床に落ちた時の振動まで、リアルに感じた。
私の首を切り落とした彼は、首のない私と向かい合うようにあぐらをかいて座った。
本来なら、あまりにも惨い光景なのに、
私はそのビジョンを見ながらとても穏やかで幸せな気持ちになった。
とても心地よく、スッキリした。
彼の表情も穏やかで、ほほえみさえ浮かべていた。
そして、首だけになった私の前に、白い布に包まれた赤ん坊が現れた。
新しく生まれた私。
彼はその赤ん坊を愛おしそうに抱き上げ、イメージの中から現実の私へと投げてよこした。
そこでビジョンは終わった。
死を望みながらも、生きて天命を全うした彼。
本当に死ぬ気なら死ねたはず。
それでも生きたということは、彼は生きたかったのではないだろうか。
そして、私への「なぜわからぬ?」という問いは、
魂に刻まれた恐れに阻まれ、私が彼と同じあやまちを犯すことに怯えて、
力を発揮し、歩むべき道を邁進し、さらなる成長を遂げることを、
無意識のうちに拒んでいるということに、気づけという彼の訴えだったのではないだろうか。
そう思った途端に、自分の中で何かがスーッと流れて、腑に落ちた感があった。
3つの前世を伝えてもらいながら、その3つの生の最後の武士の時代に、
今の私への必要なメッセージが集約されていたのではないかと思った。
彼は、私の首を切り落とすことにより、
恐れによってその場に留まり続け、魂が望む道から離れようとしている私を斬ったのだと思う。
だから、首が落ちた後、赤ん坊の私が現れた。
新しい私。
生き直す私。
そして、それは、私の魂が肉体を持った私に宛てて、
前世というツールを使って送ってよこしたメッセージであると解釈した。
ひとつの魂が幾つもの時代を生きてきたのだから。
私、これから、新しい自分で生きるんだ、
そんなこと感じ、清々しい気持ちで、acoさんとお別れした。
すると、帰りの電車の中で、武士の彼がイメージの中でやってきて、私に刀を渡してくた。
しっかりと左手に持たせてくれた。
刀のサヤにとても美しい細工がしてある刀で、赤や緑の石がはめてあるのが印象的。
恐れや迷いを断ち切るために使えと彼は言った。
右に持てば、不浄なものや厄災を招くもの、よからぬものを遠ざけると。
そして、私をこれからずっとそばで守ってくれると。
彼の力をすべて私に預けてくれた。
私の分まで生きよ、と。
泣かせるぜ、青年。
まるで鬼武者の金城武みたい!と妄想したイケメン好きな私、
聞いたところ、acoさんの見たビジョンの前世の私も、
鬼武者の金城武みたいだったということだった。
私イケメンだったのか!(喜)
このセッションを終えて、私は自分の中にありながら、
それをはっきりと思考として捉えようとせず、また感じようとせずにいたことを、意識化することができた。
それは「立派になってはいけない、素晴らしい人になってはいけない」という観念。
師、中島先生とご一緒させていただき、目標とさせていただき、
いつか先生のようになれたら…と思ったある時、
なぜか私の中に「イヤだ!」という感覚が湧いてきた。
その「イヤだ!」には「こわい」という感覚が伴っていた。
先生のようになることを考えた時、恐ろしいという気持ちになったのだった。
いつか先生のような素晴らしいワークショップができるようになれたら…と願うと、
いやいや、そんなこととてもこわくてできない、そういう想いが願いをかき消す。
そんなことしたら、よくわからないけれど、とてもこわいことになるような気がして仕方がなかったのだ。
自分の信じる道を進めば進むほど、途中で足が止まると言うか、
そこそこのところでやめとこう、みたいな、ヘンな恐れがあると言うか、
リーダーやトップになるのではなく、ナンバー2に甘んじていたい自分がいるのだ。
そんな想いが自分の中にあったことに気づいていたのに、
あえて明確な考えや言葉にすることはなかった。
acoさんのセッションでそれに気づくことができた。
そして、思えた。
ああ、高みを目指していいんだ…って。
より高く、高く、上を目指して進んでいっていいんだ…って。
武士の彼が斬ってくれたのは、恐れて歩みを止める私だったのだろう。
「なぜわからぬ?」の続きは、
「お前の中にある恐れに負ける自分の姿が」という言葉だったのではないだろうかと、今思う。
白い布に包まれた赤ん坊、新しい私。
歩こう、歩いていこう、そう迷いなく思えた。
彼がくれた美しいサヤの刀と共に。
これが、生首でRe-birth、ね。
私は、前世よりも現世を重んじる。
いくつもの過去生を生きてきたとしても、
そこでのカルマは今生に集約されると考える。
だから、セッションも今の人生を大切にして進める。
それでも、今回のように、前世から示唆や大きな気づきを得ることがある。
私のセッションでも前世に及ぶことがある。
そして、思うのだ。
癒しや成長のために、私達は、その時々、必要な扉を叩くことができる。
それが現世であれ、前世であれ、自分という大きなパズルを完成させるための大切なワンピースだと。
私の場合は、だが、
前世からは、本当にごくたまに、今の自分を知るための示唆を得る程度だ。
それだけでは現実問題の解決にはあまりつながったことはないように感じる。
もちろん、示唆を受け取った時は色々なことに気づくし、衝撃や感動もあるが。
それらを課題として取り組むのが現世での現象や出来事や状況、つまりこの現実だ。
さしずめ、受験で言うなら、前世は傾向と対策であり、現世は受験勉強や試験本番そのもの。
まさに理論だけではどうにもならない実技を現世でこなす、そんな感じかもしれない。
そんな捉え方をしている。
だから、どっちかだけがいいとも思わないし、
どちらも必要な時にそれらに触れていくのがいいんじゃないかと思う。
これからもっとぐれいとになっていいかな〜?
いいとも〜!
この場をお借りして、大きな気づきと新しい展望をくださったacoさんに、心からの感謝を。
本当にありがとうございます。
久しぶりに「これだ!」という本に出会った。
般若心経絵本。
夕食の買い物ついでに、なんとなくそんな気分になって立ち寄った本屋で出会った本。
これは「絵本」なの。
経文である般若心経の「絵本」なの。
お釈迦さまのもと、観自在菩薩、つまり観音さまが、
弟子のシャーリープトラくん(舎利子)に、
わかりやすくお釈迦さまの到達した境地についてお話する絵本。
「あのね」って。
かわいい絵に、かんたんな言葉。
けれど、私はかつてこれほどまでに、
わかりやすく心にまっすぐに届く般若心経を伝える本に出会ったことがない。
言葉にもならないけれど、
自分自身が常にそうであることはまだできないけれど、
自分の内側を見つめ始めて、この仕事にたずさわり始めて、
そこでの体験から自分の中で確信となってきた輪郭を持たないものが、
この本の中にすべてあった。
無数に存在する経文の中で、最も短いお経、般若心経。
その中にはこの宇宙のすべてのエッセンスがあると言われている。
お経、と言うと、宗教、特に仏教というイメージがあるし、確かに仏教のものなのだけど、
特に宗教を信仰するということをしていない私も、
般若心経が伝えようとしていることに、ものすごく惹き付けられてゆく。
中学校3年生の修学旅行の時、たまたま京都のあるお寺で手に取った般若心経。
そして、なんとなくそれを買って、意味もわからないままなんとなく惹かれて、
唱えて、覚えて、常に私の中のどこかにあった。
人として生き、多くの体験を積み重ね、また時を重ねることで、
私は少しずつ般若心経の言わんとすることが、ようやくわかり始めたような気がする。
それは、頭での理解ではなく、体験と体感によるものであり。
少し離れて私と共にあった般若心経が、ここ最近、なんだかとても近づいたように感じるのは、
今、そこに説かれていることを、感じていく時なのかもしれないなんて、思ったりもするのだ。
般若心経絵本、よかったらぜひ読んでみてください。
アンナも大好きで、意味もわからないだろうに、
それでもなぜだか好きなようで、読んで、読んで、とせがむ。
私はアンナを膝に乗せて、このかわいい絵本を声に出して読むのだった。
2005年11月27日(日) |
オカマの集い、生首でRe-birth 2 |
acoさんのセッションでの体験のお話のつづき。
acoさんから語られた私の前世は3つ。
1:武士
彼は若く有能な武将で、先発隊として出陣する戦の前夜の姿だった。
父親が小さな国を治めており、その国取り合戦の戦、
ひとつの軍勢を率いての明日の出陣を控えていた。
国取り合戦の要になる戦だったが、
これまでの戦での体験にも自信があり、明日の自分の作戦にも自信があった。
翌日、彼は馬に乗り先頭を切って勢いよく出陣した。
彼の指揮する軍の中には、部下ではあるが無二の親友がいた。
これまで一緒に闘い抜いてきた仲間だった。
攻めて行く中、その親友の肩に敵軍勢が放った矢が刺さった。
それを見て彼は一瞬うろたえ、つかのま集中力を失い、落馬する。
統率していたリーダーが落馬することで軍勢はバラバラになり、結果、負け戦となった。
それにより、彼は人質として捕らえられ、父親の治める国は敵国に吸収される。
主であった父親とその跡継ぎの長男は打ち首にて処刑。
彼は敵国にその能力を評価され、処刑を免れたが、
自分の失態によって国を失い、家族を死に追いやり、
また多くの死者を出したことで、罪悪感にさいなまれていた。
ほんの一瞬の気のゆるみですべてを失って。
彼は長生きこそしたものの、自分だけが生き残ったことを悔い、
生きながらえながら、死んでしまいたいと感じるほど苦悶していた。
罪悪感が消えることはなかった。
2:星を読む女性
今は海に沈んで存在していない大陸で暮らしていた女性。
明るく元気な彼女は、街に住み、人々の間を行き来しながら暮らし、
星を読んだりしながら、今の私のような仕事をしていた。
私はそこでacoさんとご一緒していたようだ。
acoさんは宮殿に神官として勤め、私は人々の中で同じようなことをしていた。
国が沈むのを星で読んだその女性は、神官とその事態に向けて役割を分かち、民を国外に逃がす。
その際に、彼女は足の不自由な夫と一緒に逃げることができなかった。
歩けない夫だけ船のルートで逃げ、彼女と子供3人は陸のルートで逃げた。
そして、それが永遠の別れとなった。
子供がいて自分では夫を探しに行けず、人に頼んで夫の行方を追っていたが、
夫の消息は不明のままで、結局行き会えなかったのだ。
ある程度成長していた長女はそれを理解していたが、
小さい長男はまだそれを理解することができず、母が父を捨てたと思い込む。
またさらに小さい次女は、母親が新しい男を作って父を置いて逃げてきたという世間の噂を信じて、
母が女の性に従順で奔放であると思い込み、傷つく。
唯一の理解者だった長女が、長男と次女との橋渡しをする役目だった。
その長女が今の私の娘アンナ、長男が父、次女が母だそうだ。
3人と私の関係が、現世での関係そのままで驚いた。
つまり、そうせざるを得ず家を出た私に「お前は家族を捨てるのか!」と私に怒りを向けた父、
私が成長するごとに、私の女性性、セクシャリティ、生理からなにからなにまで、
徹底的に私の女性の象徴となるようなものを嫌悪した母、
そうして離れていった私達親子の橋渡し結びつけたのが生まれてきた娘アンナ、
彼女が生まれてから、まさにその存在が橋渡しとなり、
私達親子はやっと一緒にいられるようになった。
その構図のままだったのでびっくり!
そんな中、逃げ延びた国で、彼女は女手ひとつで3人の子供を育てながら、
同じように星を読み、人にそれを伝えながら生きた。
3:火を見つめる少女
鉄を打つ仕事をする父、刀鍛冶。
少女は、彼が鉄を打つ度に散る赤い火花をじっと見つめている。
女子禁制の鍛冶場には入ることができず、建物の外から目をこらしている。
彼女は異常なほどその仕事に焦がれ、自分もやってみたいと願うが、
鉄を打つ仕事は女人禁制、その仕事への激しい想いも許されないものだった。
彼女は長く編んでいた赤い髪をばっさりと切り落とした。
当時では、女性が髪を短くするということはあり得なかったという。
それでも髪を切った。
どうしても男になりたかったのだ。
けれど、髪を切ろうとしょせんは女、どうすることもできなかった。
そして、自分の性を悔やんだ。
女だから想いが遂げられない、女だから自由ではない、自分が男だったらよかったのに、と。
鉄を打つ仕事への情熱が激しかっただけに、
それが叶わない願いと知るとひどく人生に落胆し、希望を失ったように感じていた。
こんなにも自分の願いがどうにもならないなら、死んだ方がいい、と。
星を読む女性、少女、武士、の順で私は生まれているそうだ。
この3つの前世を紐解きパズルのように組み合わせ眺めることで、
私は今自分が直面している無意識レベルの、けれど、どこかで気づいていた、大きなテーマに出会った。
そして、acoさんの見て感じ取って伝えてくださる、かつての私の様子や想いを通して、
その輪郭が次第にはっきりとしていくのだった。
でもって、続きはまた。
お肌を気にするなら丑三つ時まで起きてちゃダメだよねー。
と、思いつつ、もういっちょ。
今日また「イノセンス」を観ました。
最初に観た時は、感動しつつも、正直チンプンカンプンな部分があったけど、
その前作の「Ghost in the shell」を観て、
攻殻をわかった上で観たら、溶け込むように入ってきました。
これまで学んだ心理学やセラピーのあらゆることや、
これまで読んだ精神世界の本にあったあらゆることや、
これまで体験によって感じてきた宇宙や神、そんなものが、
世界の哲学者や思想家の言葉を引用したりのセリフや、
ちょっと難しい言い回しのセリフによって、
随所で語られつつしみてきて、それなんだよ!と、心の中で叫ぶのでした。
そして、葛藤とともに、また、なんらかの想いと共に、
それでも生きる人間の姿が、切なくて、切なくて、美しくて、
たまらず泣いちゃったよ。
イノセンス、映像が美しい!
また観よう。
もっと深めよう。
つか、もうレンタルやめて買おう。
2005年11月25日(金) |
オカマの集い、生首でRe-birth |
24日木曜日、お江戸まで出て、
acoさんの観撫手(ハンドスケープ・ヒーリング)、
通称「にぎGO」を受けてきました。
中島先生以外の方のセッションを受けるのは本当に久しぶり。
病気療養中であるacoさんは通常セッションを行っておらず、
それが今回色々な巡りで受けられることになって本当にラッキー!
それがだね、私もacoさんも風邪っぴきで、
ふたりとも風邪でしゃがれたオカマ声で会ったもんだから、まるでそれはオカマの集い、
「ゆうべの客がさ〜」
「朝になるとヒゲがねぇ」
とか、始まりそうな勢いで、楽しく始まったのだった。
acoさんに手を握っていただくと、
彼女の口からは次々と私の前世のビジョンが語られた。
「遠くに金…の光が見えます。
近くに寄ってみますね。
…火を燃やしているようです、たいまつ…ですね。
そこには甲冑を着た武士がいます。
それがエイミーさんです」
私は全身鳥肌が立った。
なぜなら、彼女に会うために都内に向かう電車の中で、
突然ビジョンが見えてきたのだが、それが甲冑を着た武士だったのだ。
その武士は私の首に刀を突きつけると、激しい怒りで繰り返しこう言った。
「なぜわからぬ?」
悲痛なまでの叫びだった。
一体これは…
なにか今日のセッションに関係あるのかな…
そう思いながら臨んだセッション、
いきなりacoさんの口から出た言葉が「武士」だったのだ。
立つ、立つ、鳥肌、偶然じゃねーだろ、こりゃ!
本当は、セッションの様子を全部書きたいんだけど、
ものすごく長くなるので、今日はかいつまんで。
全部で3つの前世を伝えてもらい、それらに横たわるテーマに気づいた時、
私は今自分が前に進むことを止めている自分の中に葛藤に気づいた。
3つの前世をパズルのように組み合わせて紐解いていくと、
私は自分の力を発揮することを恐れていることに気づく。
また、有能な人間になるということ自体を恐れていることにも気づく。
力を発揮することで恐ろしいことが起こる、よからぬことが起こる、そう感じているようだ。
また、願っても叶いなどしないという無力感を感じているようだ。
こんな自分は死んでしまいたいという想いが横たわっているそれぞれの前世を体験した後、
私は電車の中で刀を突きつけてきた武士(前世の自分)に首を切り落とされた。
私の生首が下にごろんと転がった。
そして、とても穏やかで心地よい感覚を覚えた。
首斬られたのに(笑)
私は死にたかったらしい。
そして、死にたいほどに絶望していたことに気づきもせずにいた。
だから、武士は「なぜわからぬ?」と私に問うたのだと感じた。
セッションで、理不尽さの中で、
救われない、報われない、好きに生きられない、人生を過ごし、
自分の存在に罪悪感を感じ続け、死にたいと願っていた自分を知った時、
私は彼の手によって一度死んだ。
首を切られた私の前に、白い布で包まれた赤ん坊が現れた。
生まれ変わった私だった。
武士の青年はその赤ん坊を愛おしそうに抱き上げると、やがてそれを私に投げてよこした。
彼の顔は晴れ晴れとして希望に満ちていた。
私は生まれ変わったんだなぁ…って感じた。
これが、タイトルの「オカマの集い、生首でRe-birth」のゆえん。
このセッションで感じたことがたくさんあるので、
また続きを書きます。
今日は寝よ、もうすぐ夜中のおやつの時間になっちまう。
水は形を持たず、 また、与えたどんな形にもなる。
水は人に恵みを与え、また、人の命を奪いもする。
水はそれにかかわるものの在り方によってその意味を変える。
そのように、あるがままこそいかようにもなる。
私達が苦しむことも、あるがままである証なのだろう。
すべてが自分の選択によることを許されている証なのだろう。
今日の夜から実家に戻ります。
実家で食べる母ちゃんのごはん。
しあわせ〜。
母が年老いていると思うんですよ。
このごはんが食べられるのにも、悲しいけれど限りがあり、
いつも、おいしく嬉しくありがたく、いただこうって。
考えたくもないけれど。
先日、アンナがよそにお泊まりした日、ひとりで実家に泊まったんです。
母に手をつないで寝ようと勇気を出して言いました。
母は黙ってそうしてくれました。
なんだか照れくさくて、つないだ手を離してしまいたい気持ちもありつつ、
しわしわで、ふわふわで、あったかいてを握っていました。
翌日帰る時、またああいうふうにして手をつないで眠りたいね、
そう母が言ってくれた時、言葉にならないたくさんのものを感じたな…。
車で実家から走り去る時、
サイドミラーに映っていつまでも手を振る母を、
見えなくなるまで見てるんです。
目に焼き付けたくて。
いつもどこかに切なさがある時間を、母と過ごしています。
父は施設で母が来るのを心待ちにする生活です。
嘘のようなおしどり夫婦になりました。
彼等の長く積み重ねてきた時間のほとんどは地獄のようなものだったけれど、
それでも今のようにあたたかい関係へと変化したのだな…と、不思議な気持ちで見ています。
うぅん、日記に書きたいことてんこ盛りなんだけど、
なかなか書く時間がなくて、書きたいことが頭から消えてゆく〜。
るーるーるー。
最近の私は、スターバックスにハマりつつ、またーりと生活してます。
2005年11月15日(火) |
「存在するすべては現実であり、そして、幻なんだ」 |
昔もこの日記に書いたけど、私はアニメの「攻殻機動隊」シリーズが大好き。
少し前も、シリーズの最初の作品「Ghost in the shell」を改めて観た。
攻殻…シリーズは、
人間が電脳化され、声を出さずとも、コンピューター端末を打たなくとも、
ネットワークを通じたデジタルコミュニケーションが可能になり、
それと同時に、肉体の機械化も進み、人とサイボーグ(機械化人間)、
ロボット(人形)が共存する、2032年の日本、魂が希薄になった時代が背景。
↑これ書かないと話が進まないんで、勘弁してくだせぇ(笑)
詳しく書くとヲタになるので、それは避けながら、
人間の存在や、心、精神、それらに通じるインパクトの強いシーンやセリフがいくつもある。
私の好きな般若心経に説かれていることも盛り込まれている。
いくつものあるその中のひとつのセリフがこれだ。
「疑似体験も夢も、存在するすべては現実であり、そして、幻なんだ」
事件の中である男性が、脳をハッキングされ
(みんな電脳化、つまり脳みそごとPCになったようなモン、なので)、
実際には自分が体験していない記憶をデータとしてプログラミングされてしまう。
そして、プログラミングされた偽の記憶を現実だと思い込んで生活している。
奥さんも可愛い娘もいる生活。
それがハッカーの仕業による単なるデータのプログラミングだと知った時、
男は、自分を取り巻いていた妻、娘、そして家族との絆を失い、
激しく落胆し、泣き崩れる。
ハッキングされた男性は、現実には家族などいない。
みすぼらしいアパートでのひとり住まい。
そんな彼がプログラミングされたデータは、
既婚者の自分が浮気をし、別居となり、現在離婚調停中、
なんとか復縁しようと妻とのやりとりをしているが、
弁護士が間に入っていて直接話をさせてもらえない、というもの。
なかなか会えない娘がかわいくてかわいくて仕方ない。
男は、単なるデータとして与えられたものを現実としてとらえ、
そこでの体験に感情を芽生えさえ、移入している。
本当は単なるプログラミング、夢のようなものなのだが、
それが彼にとっての現実なので、
ハッキングによるプログラミングだと発覚した時、
強い喪失感を感じ、悲しみの中に落ちていった。
それを見ていたバトーという登場人物が言うセリフがそれだ。
「疑似体験も夢も、存在するすべては現実であり、そして、幻なんだ」
このシーンで私は頭をガーン!と殴られたような衝撃を受けた。
そう、存在するすべては現実であり、そして、幻。
この仕事をしていて、それを強く強く感じる。
意味わかんないなぁ…と思った人、
いや、なに、実はいたって簡単な話。
つまり、こう。
誰もが思い当たると思う。
人間関係の中で、ネガティブな気持ちになる相手がいるとする。
「こんなことをされた、ひどい、あいつはムカつくヤツだ」
そう思ったりすることはないだろうか?
私はよくあるよ。
例えば、誰かにひどく冷たい態度を取られたり、無視された、とする。
すると、ほとんどの人に心理反応が起こるだろう。
腹が立つ、悲しくなる、ショックを受ける、
自分が何かしてしまったのではないかと不安になる、
それによって怒らせてしまったのではないか思い、
相手の出方や、それによるこれからの自分の未来を恐れる、等々、
心理反応には色々あるだろう。
そして、そういう感情が胸の中に渦巻いている間は、とても苦しい。
その出来事の後、自分にひどいことをした(と感じる)相手が、
実は、親を亡くした後で、悲しみのどん底にいて、
人と話せる心のゆとりも何もなく、自暴自棄になっていたことを知ったとしたら?
すると、ほぼ間違いなくこう思うだろう。
「ああ、そうだんったんだね、だからああいう態度だったんだね」と。
許せてしまうし、自分も気にならなくなるだろう。
相手は自分に敵意や嫌悪などのネガティブな感情でそうしたのではないとわかるから。
苦しい感情が胸の中から消えてゆく。
私にはそういうことがある。
で、だ。
この例え話の中で、相手の親が亡くなったと知る前と後では、
現実が違っていることに気づくだろうか?
目の前で起こっていることは、単にひとつの出来事。
けれど、自分がそれをどう意味付けするかによって、体験する現実が変わっているでしょう?
それが「存在するすべては現実であり、そして、幻」ということ。
相手の親が亡くなったということを知るまでは、
相手はあんな態度とってイヤなヤツってのが現実だったので、
それと共に生き、感情を伴って体験してた。
けれど、相手の親の死を知った時、それは「ない」ものとなる。
映画「Ghost in the shell」の中の男もそう。
プログラミングされたデータそのものが、彼にとっては現実だったので、
それと共に生き、感情を伴って体験していた。
けれど、実はそれは「ない」ものだった。
また、「ない」ものとなってもなお、
疑似体験した出来事や感情は彼の中に残り、それに苦しむ。
私達は、実際には存在しないものに苦しむ。
心理反応によって生まれた現実の中で生きるから。
これによって、幻も現実も同じであるということがわかるだろう。
私達は「こうである」と思い込んだ世界に住んでいる。
存在するすべては現実であり、また幻、というお話。
そんなことを考えさせられる攻殻…シリーズを観て感じることは、
マトリックス」シリーズを観た時にも感じたこと。
それもそのはず、この「Ghost in the shell」が、
「マトリックス」の監督ウォシャウスキー兄弟に多大な影響を与えたことは有名。
押井監督が、自分の住む日本の観客に向けて広く問いかける作品だと言われている。
だからこそ、一見SFファンタジーの形式を借りながら、
現代の日本そのものを正面から描き出すという究極的なテーマに挑んだそうだ。
ここにご紹介したセリフやシーンはほんの一部、
内容が一見難しかったりもするけれど、全編に深い深いものがちりばめられてます。
個人的には、観ていて引き込まれていって、深い部分でなにかが動く作品なので、
ご興味のある方はぜひどうぞ。
映画「イノセンス」が「Ghost in the shell」の続きなので、ふたつご一緒に(笑)
あ〜、長くなっちまったです。
もう寝ます。
アンナと近所のお寺に行った。
灯台下暗しとはよく言ったもので、
ゆっくりと散策してみるととてもいい場所。
子供の目線で巡るお寺の境内は素晴らしかった。
アンナに連れられて入った奥の方に立派な木があった。
とても惹かれて手をあててみた。
すると、胸がドキドキして、
心の奥の方から何かがわき上がってきて、涙が溢れてきた。
木に体をぴったりつけて寄り添った。
なんだろう、何かが私の中に流れ込んできたかのように感じた。
言葉にならないもの。
理屈を越えるもの。
意識を越えるもの。
そんなものに触れた気がする。
そして、そんなものを感じて、自分の中で何かが応えた気がする。
だからなんだってんじゃないけど、
生きてるって思った。
生かされてるって思った。
2005年11月12日(土) |
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い |
昔、ある友達のこんな一件があった。
暑い日にキャミソールを着ていたら、
「男にアピールしている」と他の女性達に陰口を言われていた。
まったくもってとんちんかんな話。
世にキャミソールを来ている女性はゴマンといる。
ましてや夏なら当然だ。
それを彼女だけが責められた。
なぜか。
それは「彼女」だからだ。
彼女を責めた女性達は、彼女のキャミ姿が気に入らなかったのではない。
彼女の別の部分に反応していたのだ。
つまり別の部分が気に入らないと感じていたのだ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」って言葉もあるように、
その人が憎くなってしまうと、なんでもかんでも憎らしくなる。
それと同じこと。
その女性達は、本当に彼女に腹を立てた要因とは無関係に、
もうとにかくなんでもかんでもキーッ!となっていたわけだ。
けれど、実際、なんともおかしな話だ。
私達は常にそれと同じあやまちを犯す。
私達が見極めなければならないのは、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と同じことをしていないかどうかだ。
誰かを責める時、誰かを非難する時、
それは「袈裟」ではないかということを、
注意深く観察することはとても重要なことだ。
アンナから手紙をもらった。
そこにはこう書いてあった。
ママへ
ママ、おつかれさまでした。
あんなをいつもあいしてくれてありがとう!
みんなだいすき。
あんなより
うれしかった。
目頭が熱くなった。
いつの間にこんな言葉を繰り出せるようになったのだろう。
毎瞬、毎瞬、二度と戻らないこの子との時間を、
しみじみと味わっていこうと強く思うのだった。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
近所の某百貨店の周りには、
緑が多いちょっとしたいい場所がある。
百貨店のスターバックスでコーヒーを買って、
その場所にある椅子に座って、
コーヒーを飲みながらボケーッとするのが、私の最近のお気に入り。
ほんの短い時間でもいいの。
時々、家の中であれこれしていて煮詰まると、行ってみる。
特に晴れた日はいい。
何か考えようとしても考えられないこの頃だけど、
でも、空を見たりとか、風やおひさまを感じたりとか、 行き交う人を見たりとか。
それだけでなにかが満たされていく。
ちょっとだけ自分の中のなにかが動く気がする。
私の大好きな時間。
ムダなことの中にほど人が求めているものがあるらしい。
最近、改めて強く思う。
「思考」って自分という世界の中だけのオバケみたいなもんで、
自分にとっては真実だけど、周りにとってはどうでもいいことなんだって。
そして、その「思考」が自分の真実であると信じてしまうことから苦しみは生まれてくる。
たとえば、
こんなことがあったから、これからこうなるに違いない、とか、
ああいう態度をされたから、あの人はこう思ってるに違いない、とか、
こういうふうでいないと、私には価値がないんだ、とか。
それは、予測という名の、また、思い込みという名の「思考」だ。
人に何か言ったら嫌われちゃったり怒られちゃうに違いない、ってのもそうだ。
過去の体験(傷ついた出来事)がデータベースとなり、
私達はそこから過去の事例を引き出してきて、
それに照らし合わせて未来を予測したり、状況を判断したりしてているのだ。
そして、そこからネガティブな感情が生まれる。
人を責めたくなるし、自分に対してそうしたくなる。
人生を嘆きたくなる。
だからと言って、いきなり、
じゃあそのデータベースはあてにしないようにしよう!なんてこともできないし、
それはそれで今まで通りでよくて、そこでできることがあるとしたら、
今まで通り、不安がったり、恐れたりしながらも、
それは「真実ではない」と知っておくことだ。
自分が幻想に怯えているということを知っておくことだ。
そして、それを常に自分のものとしておくことなのだ。
感情は思考から生まれる。
何かを考えたことによって生まれてくるのだ。
何かを考えたと気づかないくらい無意識に瞬時に考えて、
そこから生まれた感情に翻弄されていることだって多い。
データベースからひとつの思考を起動させる引き金は、
日常の中に腐るほど転がっているのだ。
私は悟ったことがないので、悟りについて説くことはできない。
けれど、なんとなく思うのは、
悟りとは何もなくなることじゃないんだろうなってこと。
弘法大師は確かこんな感じのことを説いていた。
無とは何もないことではなく、すべてがそこにあって、
ただそれらがあるがままにあることである、みたいなことを。
これを読んだ時、いたく感動したっけ。
私達は「思考」によってそこにあるものに様々な意味付けをしたり、
それに基づいて色々な予測をしたりするけれど、
それは、私達が物事を見たいように見て、判断したいように判断しているだけのこと。
ひとつの物があるしても、それを好きな人と嫌いな人がいて、
どちらもその人にとっては真実だけど、
実はそこにはただその物が存在しているだけなのだ。
最初に頭でわかっておく。
体験によってその頭での理解が知恵になる。
腑に落ちてゆく。
だから、知っておくのだ。
私達の「思考」は、自分にとってだけの真実であり、
それはただ自分の中から生まれた幻想、思考の罠なのだと。
不安や恐れに飲み込まれそうになった時、思い出してほしい。
感情はそのままに、ただ思い出すだけでいい。
私達が信じているのは「そういう気がする」だけのものであることがほとんどなのだ。
ホントかよ!?と思い、疑いの目で見ていた拭き取り洗顔。
佐伯チズさんが強くすすめていらしたけど、
オイルクレンジングとフォームでのダブル洗顔派だった私は、
お水でしゃばしゃばしないなんて、汚れが残りそうでイヤよ〜と思ってた。
でも、気まぐれでクレンジングミルクを買った。
ま、試してやってもいいかな、と。
友達も「なかなかいいよ!」って言ってたし。
実際自分でやってみたら、まぁ、すごくいいじゃありませんか〜。
しっかりメイクの日の夜だけは、やっぱり今まで通りダブル洗顔してるけど、
そうじゃない日は朝晩クレンジングミルクで拭き取りのみの洗顔にしたら、
お肌がしっとりしてすごくいい。
最初のうちは、これで汚れ落ちてんのかよ!?って不安だったけど、
しばらくやってても肌トラブルないし、ないどころか肌の調子いいし。
これからの乾燥する季節、心強いな〜。
で、たまにやっぱりこれまで通りダブル洗顔する日もあったり。
今は両刀っス。
食わず嫌いならぬ、やらず嫌いだった。
それって案外損してるのねぇ…と思ったのだった。
そう思って、
今までやらないで放置してしまったようなものでちょっと気持ちが向くもの、
そんなものに手をつけてみようかなと考える秋の夜。
夢を見た。
目覚めても後味が悪い夢だった。
胸の中に重い塊が残ったかのように。
最近、内容にバリエーションはあるにしろ、
一貫してひとつのパターンがある夢をよく見る。
私が夢の中で何かを決断して行う。
そしてそれを激しく後悔する夢。
けれど、それは私の中だけにある後悔で、周りから見たら問題のない状態。
つまり、私の内面にある真実に添っているか、背いているかだけのこと。
夢の中、私は人知れず苦悩する。
なぜ自分はこんな選択をしてしまったのか?
なぜ自分は自分の真実を見極められずに不本意な道に進んだのか?
そう激しく後悔する。
そこで目が覚める。
夢は無意識からのメッセージ。
私はそこにどんなメッセージが込められているのだろうと考えた。
昔、やはり同じ夢を見続けたことがある。
それは、私が舞台女優で、幕が開く寸前に台本を読んでいなかったことに気づく夢。
(実際には台本を読んでいないなんてあり得ないけど)
そして、間もなくの開演を控え、
どうしよう、舞台に立てない、ごまかそうか、いやごまかせない、
そんな焦りの中で立ち尽くしている、そんな夢。
そこで目が覚める。
繰り返し、繰り返し、見た夢だった。
そんなある日、換気扇の下でタバコを吸っている時、突然頭の中で男性の厳しい声がした。
「お前は今すべきことをしていないから前に進めないのだ」
声が聞こえるなど、初めてのことだった。
普段、サイキック的な現象の体験は皆無に等しい私だったので、
頭の中ではっきりと聞こえたその声に驚いた。
が、しかし、私は一瞬のうちに続けてい見ている夢の示唆するところを察した。
ああ、あの夢はこの声が言ったことを伝えようとしていたのか、と。
いまだにその声は誰だったのかわからないけれど、
きっとガイドなどの私を導く存在だったのだろう。
いつまでも夢でのメッセージを受け取りあぐねている私にしびれを切らし、
とうとうわかるように声としてメッセージを送ってきたのかもしれないと、後から思った。
それからはっきりとわかったのは、
自分の中の問題(テーマ)を放置したまま、向かい合うことを避けて、
それをごまかすためのものにふけっていたということだった。
その後、その問題に向き合っていくようになると、
立て続けに見ていた夢を見なくなった。
この頃立て続けに見ている夢と今の私は同じような状況なのかもしれない。
自分の真実に背いた選択をして、とどのつまり自分を追い詰めている、
そういうことをしているのかもしれない。
ちょっと思い当たるし。
ま、今はそれが夢が伝えんとすることかどうかはよくわからないけれど。
夢には深いメッセージが込められていることもあるのだと体験し、
最近の夢が伝えようとしていることをつかもうとしている。
と言っても「うーん、なんだろう」と想いを馳せているだけで、
何か特別なことをしているのではないけれど。
今日、ある人から電話があった。
仕事の話をしていく中で、私が今うねりの中にいると伝えると、
「そういう時は、宇宙や大きなものとつながっているといいよ」
そう話してくれた。
つながる…どうすればいいかわからないけれど、
寝る前などに祈ることがあるかなぁ…と言うと、
祈ることはいいよ、祈る事自体が宇宙とつながっているということだから、
そうその人が言った。
今のこの大きなうねりの中で、私はただ祈ろう。
夢の示唆するところを自分のものにできるようにと。
自分が自分でないように振る舞うことや、
不本意なのにその不本意を見ないようにしていること、
そんな自分の真実に背いているようなことに気づき、
真の自分であるようにすべてのことを選択していけるようにと。
そして、私の魂が成長できるようにと。
無意識さん、宇宙さん、メッセージをありがとう。
その意味はまだはっきりとはつかんでいないかもしれないし、
それを現実とリンクさせられてはいないけれど、
でも、しっかりと受け取っています。
どうか、私を行くべき方向へと導いてください。
アンナとある店に入った。
そこには招き猫が置いてあった。
アンナはそれを見て言った。
「ママーっ、コマネチだよ!」
「まねきねこ」の「まねき」が、「コマネチ」の「マネチ」とリンクしたのだろう。
しかし、コマネチ!
おもしろい!
おもしろ過ぎる!
「それは『マネキネコ』だよ」
そう言いながら、後ろを向いて小刻みに震えて笑いを殺していた私。
子供って癒されるなぁ〜。
コマネチがわからない人も実はいるかもしれないな。
ジェネレーションギャップで。
くすっと笑える人はコマネチ知ってる人だね。
厳密に言うと、コマネチやってるタケシを知ってる人。
じゃあ、なぜアンナがコマネチを知っているのかと言うと、
私が例の振り付きで教えたからだ。
教えた頃は彼女も結構気に入ってて、よく一緒にやってたもん。