おひさまの日記
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自分の接する人が自分だと考えてみる。
特に心地よくない感情を抱いてしまう人に対して。
責めたくなる人、
批判したくなる人、
悪口を言いたくなる人、
嫌いな人、
ムカつく人、
こわい人、
近寄れない人、
そんな人を前にして「あの人は自分なんだ」、そう考えてみる。
接点を持った時、心地よくない感情を抱いてしまう人、
それは例外なくネガティブな投影、シャドー。
つまりは、自分の気づいていない無意識の中の自分を見せてくれている人。
自分の鏡。
もし相手が自分なら、私は自分であるその人にどう接したいのか、自問自答する。
自分を責めたいのか、
自分を批判したいのか、
自分を悪く言いたいのか、
自分を嫌いたいのか、
自分にムカつくのか、
自分がこわいのか、
自分に近寄れないのか、
考えてみる。
そして、そうだとしたら、じゃあ自分にどうしてやりたいのか、考えてみる。
鏡よ、鏡。
あなたは私。
ネガティブな感情を越えて鏡に近づいていったら、
ネガティブな感情のフィルターの向こうで鏡をちゃんと見たら、
そこには違う世界がある。
痛くても、こわくても、それでも近づいていったのなら。
鏡に与えることは、自分に与えること。
そして、それは人のためにするのではなく、自分のためにすること。
人に思うこと、言うこと、すること、
ほどこすことすべてが、自分に与えることだ。
私達は、思い、言葉、行動、それらのあやまちを認め、
それらを最も自分の真実にふさわしい愛に満ちたものへと、
変えていく意思の力を持っている。
最初から完璧であることはない。
あやまちを犯すからこそれに気づき、
それを変えてゆく機会を与えられている。
鏡を通して、私達はその作業を行うことができる。
私はつらい気持ちになると寝ることが多い。
ほんの小1時間でも空き時間があると、目覚ましをセットしてさっさと寝る。
今朝も、ある人とのやり取りでつらい気持ちになることがあった。
誰かとのコミュニケーションにおいてダメージを受けると、
いつも訪れるざわざわして苦しい気持ち。
それを持て余して、
でも、それをなんとかしようとして、
これまでのように性急に相手に電話をしたりメールをしたりすることもなく、
時の流れに少し任せることを選択して、
だから、寝ることにした。
そして、私は夢を見た。
夢の中では、
朝やりとりをしてつらい気持ちになった相手がいた。
その人がただ立っていた。
私の中で、ある想いと言うか、感覚と言うか、
とてもはっきりとしたものがふぅっ…と浮かんだ。
「それ(その人、そしてその人の想い)はただ向こう側にあるだけ。
ただそれとしてあるだけ。
それだけ。
そして、それは私にとって「ない」のだ」
それを感じた時、夢の中でとても気持ちが軽く穏やかになった。
そう、そうだ。
それはただ向こう側にあるだけ。
ただそれとしてあるだけ。
それだけ。
そして、それは私にとって「ない」のだ。
うまく説明できないけれど、とても深い感覚。
私の大好きな般若心経を思い出した。
中学生の頃からなんだか惹かれて、自然に覚えた。
意味もわからず好きだった。
今でも理解したかと言えば疑問だ。
それは理解するものではなく体得するものなのだろう。
私はその夢の中で、なんとなく、
その感覚をほんの少し感じたような気がした。
経文そのものはただ読んだだけでは難解なので、
ひろさちや氏による般若心経の現代訳を。
**********
観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、
肉体も精神もすべてが空であることを照見され、
あらゆる苦悩を克服されました。
舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。
感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。
舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、
生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。
そして、小乗仏教においては、
現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界
といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、
すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。
また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、
すべては空ですから、そんなものはありません。
そしてまた、分別もなければ悟りもありません。
大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。
大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、
その心にはこだわりがなく、
こだわりがないので恐怖におびえることなく、
事物をさかさに捉えることなく、
妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。
また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、
この上ない正しい完全な悟りを開かれました。
それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、
すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。
そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。
すなわち、これが真言です。
「わかった、わかった、ほとけのこころ。
すっかりわかった、ほとけのこころ。
ほとけさま、ありがとう」
*****
それから私はとても穏やか。
眠ることで無意識や大きな存在と近くなれるような気がする。
それ以前に、寝ちまえばとりあえず苦しくないなって感じで寝るんだけどね。
素敵な夢だったな。
夢、と言うか、なんだろう、不思議な体験だった。
導いてくれている存在がくれたメッセージだったのかもしれない。
2005年09月21日(水) |
ただここにこうして生きているということ |
小学校からお知らせが来た。
そこには、最近、この近隣で、
不審者による子供へのつきまといや、
腕つかみ、つまり連れ去りの未遂が続いているというのだ。
子供をひとりで歩かせないことや、
ひとりの留守番の時は必ず内側から施錠することや、
どこかに出かける時は必ず行き先と戻る時間を言うことや、
万一なにかあった時は防犯ブザーを鳴らしたり、
大声を出して助けを求めたり、近所の民家に逃げ込むこと、
そのような注意事項が書かれていた。
読んでゾッとした。
ニュースで見てきた数々の悲惨な事件が甦る。
子を持つ親なら誰でも不安になるだろう。
そして、思った。
私はよく今日まで何もなく事件にも巻き込まれず無事に生きてきたな、と。
それだけでも本当にありがたいと思った。
こうして普通の毎日を送れることが奇跡のようにさえ思えた。
ただここにこうして生きていること、
それはあたりまえで特別な何かがない限り無意味なのではないのだ。
ただここにこうして生きていること、
それはそれだけで本当に素晴らしいことなのだ。
私はトラウマをいっぱい抱えていた。
つらくてつらくて死にたいと思ったこともあった。
けれど、今こうして生きている自分を思う時、
それだけでなんとありがたいことかと思った。
私も昔は子供だった。
そんな私が成長し無事大人になったこと自体が幸せだと思った。
そして親孝行だとも思った。
自分が親になって思う。
子供はただ元気に生きてさえいてくれればいいと。
それ以外何もいらない。
生きている、それだけでも人は貴い。
生きることを放棄したい時もあったし、
苦しいことばかりの人生に価値も光も見出せないこともあったけれど、
紆余曲折の人生を経て今の自分になって思う。
ただここにこうして生きている、なんと素晴らしいことだろう。
私はなんと恵まれているのだろう。
そして、今日まで無事に生きてきてくれた我が子に、
よく生きてきてくれたねって伝えたい気持ちでいっぱいになる。
ありがとうって。
当たり前のことほど、実は計り知れない恩恵なのだ。
私は少し前にセッションを受けた。
最近無感覚な感じをどこかで覚えていた私の無意識から出てきた言葉は、
「思い出さないで」
だった。
私なんか消えればいい、意味がない、そう嗚咽して出てきた言葉だった。
セッションやワークショップを長いこと体験してきたけれど、
はじめてイメージや感情が出てこないセッションだった。
感情が出てこないのに、涙だけがぽろぽろこぼれた。
「思い出さないで、思い出さないで、こわいから」
先生は言った。
「思い出さなくていいよ。
無意識の中ではこんなに感じているのだから」
思い出さないでと繰り返す私はうなずいた。
フラッシュバックするかのように浮かぶ断片的で不鮮明なイメージ、
理解することも腑に落ちることもなく、私はセッションを終えた。
終わった後、ただ呆然としていた。
なんなんだ、これは、私の中にこんな部分があるのか、と。
表面の意識ではなにがなんだかチンプンカンプンだったけれど、
そう、無意識の中ではあまりにも多くのことを感じていたのだろう。
どこかで安堵を感じてもいた。
そして、理解を超えた部分で、なにかが納得していた。
私だけではない。
きっと、誰の中にもある部分なのかもしれない。
記憶として甦ることをかたくなに拒むもうひとりの傷ついた自分。
無意識の中の知らない自分。
嬉しかった。
一切の記憶を私に見せることなく、
思い出さないでほしいと乞い願う私に出会えて。
彼女はようやく私の前に現れたのだ。
私の意識に甦ることを拒否こそしていても、その存在自体を私に知らせてくれた。
思い出さないでほしいと心の扉を閉ざすその存在を。
彼女が愛おしかった。
私は彼女の何をも知ることなく、また上手に感じることもなく、
けれど、その願いを受け止めることができた。
私の中に、まったくわからない心の傷、そんなものがあるのだろう。
それが癒されても、癒されなくてもいい。
私は、思い出さないでと乞い願った私をそのまま遠くから感じていたい。
なぜか彼女が切ないほど愛おしい。
彼女の気の済むように、ただ一緒にいようと思う。
なんと素晴らしく大いなるプロセスだったのだろう。
私の中に静かな感動があった。
あなたがどんな体験をして、どんなダメージ受けたか、
私には想像もつかないけれど、
思い出すのがどうしてもイヤで恐ろしいほどのことがあったのだね。
私はあなたをどうこうしようと思わない。
ただあなたを知ったことが嬉しい。
そのままのあなたを受け入れよう。
そして伝えよう。
おかえりなさい。
つらかったね、なんて、そんな言葉が陳腐に感じられるんだよ、今は。
ただ、言葉なく、あなたを知って、そして感じているよ。
**********
明日あさっては大井町で中島先生のワークショップHEART。
今日の夜から家を出て2日間また中島温泉に浸かってきま〜す。
いつも大体実家に前泊してアンナ預けてくから、
2泊になって荷物が多くてひーひーしてます。
ワークショップのおやつとかもね、前もって買うと結構かさばるのよ。
で、先月ついにカートがついたバッグを買ったよ。
ガラガラ引っ張って歩けるから楽チン。
今月はどんな体験が待ってるだろう。
いってきます^^
「体験の記憶」は持っているけれど、
「感情・感覚の記憶」は持っていない、
私達はそういう生き物かもしれない。
たとえば、初めてキスした時のことを思い出してみて。
その時のことを、ああだったこうだったと頭では覚えているけれど、
その時の感触や感覚そのものは覚えていない、そんな感じじゃないかな。
ドキドキしたとか、胸がきゅんとしたとか、状況を言語化して覚えていても、
そのドキドキや胸きゅんは今ここで再体験して思い出せない。
もちろん、潜在意識の中では、
そういう感覚や感触、感情はしっかりと記憶として残っているわけだけど、
普段認識できる形として、私達はその記憶を持っていない。
だから、私は今この瞬間がとても愛おしい。
二度と味わうことのない今ここでだけの体験。
子供のやわらかなほっぺにちゅーした時、
元気に遊んだ汗の匂いを吸い込んだ時、
ぎゅうっと抱きしめた時、
小さな手を握った時、
くすぐりっこをした時、
眠る小さな背中に寄り添った時、
すべてすべてに、今この瞬間だけの感触と感覚と感情がある。
誰かに触れた時、触れられた時、
誰かと通じ合って自然に笑みがこぼれる時、
誰かと痛みを分かち合った時、
誰かと言葉なく固く握手をした時、
誰かと同じ空気の中で何かを共有した時、
誰かとのすべてすべてに、今この瞬間だけの感触と感覚と感情がある。
何かを見て聴いて感動した時、
何かを感じて心震える時、
何かを与えて、何かを受け取って、満たされていく時、
何かが起こって何かを感じる時、
そこにあるすべてすべてに、今この瞬間だけの感触と感覚と感情がある。
今この瞬間が二度と来ない、
そして二度と取り戻せない刹那の輝きだと思うと、
私は切なくて泣きそうになる。
でも悲しい気持ちじゃなく、愛おしい気持ち。
なんて美しくて輝いてるんだろうって思う。
人はそれを求め続けて生きていくのかもしれないなんて思う。
時にはそれを再び味わうことができない痛みまでも人生の味わいとしながら。
そんな訪れた沢山の輝きの名残りが、私達を成熟させるのかもしれない。
今この瞬間を忘れていくのに忘れないと誓うのは、
その時その瞬間があまりにも美しいからだ。
私はそばが好きでよく食べる。
老舗で食べるざるそば、
コンビニで買ったざるそば、
その差は歴然、まさに月とスッポンだ。
そして、一度老舗の味を知ってしまったら、
もうコンビニのざるそばを好んで食べようとは思わなくなった。
クオリティの高いものに触れると、
その素晴らしさを理屈抜きで感じ、心と体で覚えてしまうので、
それよりも質の低いものでは満足できなくなる。
これは何事においても言える。
人間関係にも。
質の高い人間関係の中に身を置くと、
かつてない他者や自己への理解を体験したり、
かつてない学びや成長を体験したり、
魂が震えるような歓びを知る。
精神的オルガズムを得るそういう深い人間関係は、
ある種のものすごい快楽だと、私は思う。
言ってみれば、老舗のそば。
絶妙な味を惜しみなく与えられる。
もう他のは食べたくない!おいしいのがいい!そんな気持ち。
食べ物で言うと「舌が肥える」であるなら、
人間関係で言うと「成熟」なのかもしれない。
そう、成熟していておいしいのだ。
そんな熟して深い味わいのトリコになるのだ。
私はそんな関係がいい。
時に慟哭にさえ光を感じ、
時に深い安堵を覚え、
時にその人を想うと泣けてきてしまうほど心震え、
出会えたことに心から感謝できる、そんなつながり。
生まれてきてくれてありがとうと伝えたい人がいる人生は豊かだ。
私は万華鏡が大好き。
小さい頃は、どこぞのおみやげでもらった万華鏡をいつまでもいつまでも覗いている子だった。
大人になってもそれは変わらなくて。
だからと言ってたくさん持っているわけではなくて、
たったひとつの万華鏡を堪能している。
私のたったひとつの大切な万華鏡は、5年くらい前に買ったもの。
オイルの中に石やビーズや貝、きれいなものがいっぱい入ってる。
高かったんだけどふんぱつしちゃった。
オイルの中に入っているので、中身がすごくゆっくりと動く。
よくある万華鏡みたいにカチャカチャ音もしない。
ゆるゆると動くキレイなものたちが、
鏡の世界で二度とない色々な模様を見せてくれる。
じーっと見てるとトランスに入りそうよ。
無思考になってすごく気持ちが落ち着いて。
万華鏡の中に入りたい!と、
その万華鏡をのぞきながらいつも思う。
「高くても買う!」という気持ちにさせてくれる万華鏡に出会えたら、
ぜひ欲しいなぁ。
私は小さい頃、尼さんになりたかった。
大人になったら出家してお寺に行くと決めていた。
山奥の人里離れた誰とも会わなくてすむお寺に行きたかった。
お坊さんになれば、俗世から離れて暮らして、
ひたすら仏の世界と向かい合っていけると思っていた。
そして、とても幸せになれると思っていた。
今思えばとてもつらかったからだろう。
親をはじめ、人と人とのつながりに疲れて、傷ついて、
そんなものじゃなくもっと崇高なもの、神仏のそばで生きていきたかったのだろう。
さくっと過去の自分に突っ込むと現実逃避(笑)
いやいや、あの頃の私よ、すまん、すまん、君は本当に苦しかった。
子供なりの頭で一生懸命に考えてたよね。
実際大人になったら、私は俗世にまみれて生きている。
私が疲れ果てて切り捨てたかった人と人との関係の中で生きている。
人は、人との関係の中で傷つくけれど、人との関係の中で癒されていく。
人との関係の中でこそ癒されていく。
最近思うのよ。
誰かとの関係の中で、
悲しくなる度、
怖くなる度、
傷つく度、
ムカつく度、
落ち込む度、
つらい感情が動いて心が揺れる度、
それは、失った私自身を取り戻すための大いなるプロセスを通過しているのだと。
子供の頃そんなこと誰も教えてくれなかった。
大人になったって誰も教えてくれなかった。
だから、つらい時はただつらくて、それはひたすら不運なことで、
人生にそんなものがない方がいいし、あるべきじゃないと思ってた。
そりゃもちろんない方がいい。
けれど、それらは必要なものだということが今はよくわかる。
なぜなら、そのつらい感情こそが、
私達が失った大切なものへにつながる道であり、
つらい場所から抜け出すためのナビゲーターだからだ。
それをしっかりと感じていくこと、感じ抜いていくこと、それが大切。
感情に翻弄されるんじゃなく、それを感じ抜いていくんだ。
翻弄されるだけなら、ただやみくもに苦しむのと同じ。
「翻弄される」とは、その感情そのものになってしまうことと表現できるかもしれない。
「感じ抜く」とは、その感情を感じながらも、しっかりとした個をどこかに持って感情に責任を持つことかもしれない。
あくまで個人的見解と表現だけど。
つらいことが、つらくなくなるために必要だなんて、
なんだか逆説的だけど、でも、そうなんだよね。
失った大切なもの、それを取り戻すことによって、
私達は神を体現していくことになるのだと思うよ。
って表現すると堅苦しいけど、つまりは、満ち足りてゆくのだと思う。
じゃあ私達は何を失ったのか。
それは自分自身の一部だ。
私達は生まれた時完全な存在なんだけど(赤ちゃんだから生活能力はないけどね)、
育っていくうちに、ありのまま(=完全な自分)で生きていると不都合が起こってくる。
親に怒られたり、暴力を受けたり、否定されたり、無視されたり、抑圧されたりする。
親のエゴで理不尽な扱いを受けているのだけれど、幼い心はそんなことなど知りもせず、
自分がそうやって「ダメ」扱いされた部分を自分から「なし」にしてしまう。
それを持っていたらもっとつらい目に遭ってしまうから。
「こんなもの自分にはいらない」「こんなの自分じゃない」
悲壮な想いでそんな部分を自分から切り離し、無意識の奥の方へと押し込めていく。
そして、その「なし」にしてしまった、でも実はしっかり「あり」な部分が、
ズキズキと痛んで、私達の人生に大きな影響を与えている。
でも、その「なし」にしてしまった部分を、
私達は無意識に押し込めてしまっているので、
それが自分にあることに気づくことができないんだな。
だから想い通りにならない時、苦しい時、きっと人はこう思うだろう。
「どうしてこうなってしまうの?」と。
無意識の中に原因を隠してしまっているので、わからないのだ、
自分の人生がなぜつらいものになるのか。
そんな時にこそ、人と人との関係の中で、私達は解決の糸口を見ることができる。
それが、私がセッションでも日記でもよく使う言葉、
投影(自分の気づいていない自分のある部分を人に映し出してみること)、
特にネガティブな投影、シャドー。
それが解決の糸口。
人は鏡とは言い古された言葉だけど、真実。
私達は人という鏡を使って気づいていない自分の姿を知る。
人に自分の姿を見る時、私達は感情が動くことでそれがわかる。
特にシャドーはネガティブな感情が動く。
悲しみ、苦しみ、憎しみ、怒り、妬み、蔑み、
それらがわき起こる時、私達は失った自分と出会っている。
それはひとつの物の考え方だ。
そして、そういう視点で自分自身や自分に起こる出来事を捉えていく時、
私達は今まで見ることのなかった世界を見ることになる。
それが俗世に生きるということなのだと思う。
私は人と関わりを持たないように山奥にひっそりと生きる尼僧にはならなかった。
少なくとも私にとっては正解だったと思う。
俗世にまみれてシャドーに怒り苦しみ生きてきたから、今、ここにこうしている。
昔よりはうんと楽に生きられるようになった。
10年前より、5年前より、去年より、先月より、先週より、昨日より、
いつも今日が素晴らしいと感じてる。
俗世に生きて、自分のシャドーを眺めている。
人と人との関係の中で、
ぐちゃぐちゃな感情にまみれてながら、
なくしてきた自分を探している。
会いたい、会いたい、自分に。
ある友達がちょっとおちゃめに笑いながら言った。
人生というひとつの物語の中で、
自分は神様のスポットライトを浴びる主役だと。
周りはみんな脇役。
通りすがりの人はエキストラ。
そういう話はあちこちでよく聞くものだけど、
彼女が話したらなんだかとってもしみてきた。
それは、私が彼女の紆余曲折な人生を知っているからだろう。
苦しみのさなかにいて、彼女は、
そう考えることで自分を奮い立たせているようにも見えた。
彼女は、同じ言語で同じ感性で語れる数少ない友達のひとり。
頑張れよ!
2005年09月01日(木) |
私のシャドーへの考察 2 |
8月29日に引き続き、
私自身のシャドーについて気づいたことを書き留めておきたいと思った。
前回のシャドーへの考察に書いた他に、もうひとつ、
自分のまた別のシャドーと、そのシャドーが見せていたものに気づいた。
自分のシャドーは感情がネガティブな方に動く人なので、すぐわかる。
私のもうひとつのシャドーは「無愛想な人」「マナーのない人」「思いやりのない人」。
ひとくくりにすると「人に対して気を配らない人(と私には見える人)」と表現できるかもしれない。
日常でそういう人を見ていると、私の中で色々な感情がぐわんぐわん動く。
どこぞの店の態度の悪い店員もそうだし、
運転マナーが悪く後ろからあおったり道をゆずらない人もそうだし、
道にツバや痰を吐いたり、ゴミや吸い殻を捨てる人もそうだし、
あいさつをしても無愛想に返事したり、無表情に感じ悪く無視する人もそうだし、
例えを出していくとキリがない。
私が特に激しく反応するのは、
人に対してやさしい態度を取れない人。
笑顔で人と接することができない人。
簡単に言うと「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」かもしれない。
見ていると、
「なんだあいつ、感じわるぅ!ダメじゃん!」
と怒りが湧いてくる。
私は彼等を裁き、罰している。
つまり、私はそういう自分を無意識のうちに裁き、罰している。
自分の中にはそんな部分は絶対にないと信じていても、
間違いなくそんな部分を持っていて、それを罰している。
そして、それ、つまり「自己の感情や気分が最優先でそれをそのまま表現する」部分、
それを持っていたことにより、
幼い頃、何かの出来事で大きなダメージを受け、傷つき、激しく痛み、苦しみ、
ゆえに、そんな部分は私自身が自分の中にあってはいけないと裁き、
切り離して時間の彼方に置いてきた部分だ。
機嫌が悪ければぶすっとしている、
嫌いなら無視する、口をきかない、攻撃する、仲間はずれにする、
人の悪口言いたい放題、噂話大好き…
私が自分にはないと信じ込もうとしているけれど、実際は持っている部分。
自分に「そんなんじゃいけないよ」と言い聞かせ自分から切り離した部分。
改めてこうして自分のシャドーについて考えると、
私の中に、ポン、ポン、ポン、と、色々なことが浮かび始めた。
私の父は言動共に暴力が激しかった。
私が幼い頃は、それらがすべて母に向いていた。
そして、大好きな母が怒鳴られ殴られるのを、私は黙って見ているしかなかった。
それは、セカンダリートラウマと言われるもとのなって私の中に残った。
セカンダリートラウマとは、自分が直接的に何かをされたわけではなく、
間接的に心が痛むような出来事を見聞きするなどして体験し、負う心の傷だ。
自分が直接何かをされていたわけではないので、
セカンダリートラウマはなかなかわかりづらく、またとても深い傷だとも言われている。
今思えばそれはまさに精神的虐待だった。
すべて父の機嫌次第なので、いつその被害を被るか予測できない。
私は小さいながら、常にピリピリして警戒態勢を取っていた。
大好きなおうちの中がこわくならないように祈りながら。
父は感情そのものの人だった。
とても怖かった。
父が怒り出すと胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
母の存在にツバを吐いて切り刻むような罵声を怒濤のように浴びせるその光景は、
幾千もの剣が我が身に刺さるような想いだった。
痛かった。
悲しかった。
母を助けたかった。
怖くて怖くて頭がおかしくなりそうだった。
私は自然に自分の感情を表現することをしなくなっていった。
どうすれば怒らないか、
どうすれば怒った父の機嫌がよくなるのか、
私はそんなことばかり、毎日、毎日、考えていた。
父の顔色をうかがうのが私の仕事だった。
私がいい子でいさえすれば、父の機嫌はなんとかよくなり、
少しでも母への暴力が減るのではないかと思っていた。
そして、私は父が好むように振る舞った。
父が喜ぶことを言い、父が喜ぶことをした。
いつしか私は父のマスコットになった。
思春期の頃、マスコットでいることに疲れ、
自分の本心を表現するようになってから、父は事ある度に必ず言った。
「お前は小さい頃はよく言うことをきく可愛いいい子だったのに、
今はなんなんだ」
私は、母と同じように暴力を受け始めた。
私のシャドー、「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」。
それは、私を苦しめた父そのもの。
そして、父が暴れ出さないように私が押し殺した私そのもの。
父のようになってはいけないと自分をいさめて、
父の機嫌を損ねないようにと自分をいさめて、
殺していった私の一部。
「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」
そう書くととてもイヤな部分のように思えるけれど、
実は、とても大切な部分だ。
人は誰でも自然に感情を感じる。
自然に生まれてくるものを押さえ込んでしまうことはとても不健康だ。
問題は、生まれてくるその感情にあるのではなく、
その感情をどう処理するかなのだ。
私はその処理の方法を教わることなく、
ましてやその感情自体を受け止めてるもらえることなどなく、
ただただ、それを「いけないもの」と認識せざるを得ない環境で育った。
だから、私はそれを封印した。
自分から切り離し、遠くに捨て去った。
「でも、本当は私だってそうしたい!」
私はいつだってそう思っていたはずだ。
私はそんな自分の一部を感じるシャドーとなる人を見ると怒りを感じる。
そして、その怒りの下には、恐怖や悲しみが渦巻く。
遠い昔の日恐ろしかった日がすぐにでも甦ってしまうような危機と不安を感じて。
私は愛想よくしなくちゃと思うタイプ。
愛想がいいまでいかない時も、感じが悪い方じゃないと思う。
例えば、そこが自分にとって居心地悪く、
苦手な人の集まりの中だとしても、
なるべくにこにこしていたり、時に無害な人でいようとする。
会話がつまらなかろうと、そこの人達が苦手だろうと、私は笑っている。
そうしているとどんどん苦痛になってくる。
それでもやめないのだ。
やめられないのだ。
怖いから。
でも、その笑顔がなんだかわざとらしくて、
貼り付けたみたいなんじゃないだろうか、そんなことをふと思った。
居心地の悪い場所で、それでも嫌われないように、波風立てないように、必死で笑いながら、
「顔が疲れる」と感じているのだ。
心の中では下を向いてもううんざりだと思っているのだ。
いい子になろうと必死に頑張った私のインナーチャイルドは、
今の私の中にいて、その任務を放棄してはない。
私は、よくわかったよ、もうやめてもいいよ、と、
インナーチャイルドに伝える。
だからと言って、私の生活は激変しない。
けれど、シャドーをシャドーと認識せず、
彼等を責めているだけでは私の傷は今までと同じく、痛み、疼くだけだ。
だから、私はこうしてシャドーを通して、
自分にはないものとしてしまった自分の一部を見つめる。
見つめて自分の心の傷を知る。
こうしていて今改めて思うのだ。
「自分は本当につらかったのだな」と。
そして、私は、まだその感情に出会っていない。
けれど、出会う日がきっとすぐそばまで来ているに違いない。
恐れおののき泣く日が来るかもしれない。
その時は受け止めよう。
小さな自分が感じることなく押し殺してきた痛みを。
私が守るのだ、小さな私を。
大人になってあの頃よりずっと成熟した私が、小さい私を。
この世界にはもっと素晴らしいものもあることを、教えるのだ。
そんな私もまた誰かのシャドーとなり、誰から怒りを受けているのかもしれない。
「へらへらしてて何考えてるかわかんないよね」
「八方美人だよね」
「調子よくてムカつく」
って。
そういう人は、人と迎合する自分、人の機嫌を取る自分、
そんな自分をダメな自分と罰し、自分から切り離し捨て去ったのだろう。
すべての人は必ず誰かのシャドー。
私達は常に誰かの鏡だ。
鏡の中に、自分が知らない自分を見る。
映るものが憎々しく、腹立たしいからと言って、鏡を割っても鏡に映るものは消えない。
その鏡が砕けるだけ。
鏡は無数にあるのだから、また違う鏡に同じものを見る。
私達が本当にすべきことは、鏡を割ることではなく、
その鏡を通して、映っている自分の真の姿を知ることではないだろうか。
人間だから、人間だもの、
右往左往しながら、葛藤しながら、時にしくじりながら、
それでも私はしていきたい。
自分の真の姿を求めていくことを。