おひさまの日記
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2005年02月28日(月) 私の好きなふたつのことわざ

風邪で鼻がずるずるの、声もわもわ。
この仕事では一番それが辛い。
でも、そういう時、なぜかセッションがないラッキーな私。
うまくできている。
そんなちっぽけなことだけど、今日も幸せを感じるわぁ。

と、まあ、それは本題には関係なくて。

「吉凶禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがある。
吉と凶、悪いことといいことは、編まれた縄のように交互に訪れる、
そういう意味。

そして、以前も日記に書いたけれど、
「人間万事塞翁が馬」ということわざもある。
私達に起こる出来事は何がいいのか悪いのか後になってみなければわからない、
そういう意味。

私はこのふたつのことわざが好きだ。
そして、このふたつのことわざが意味するところが真実だと感じている。

セッションを受けると、
まるで人生がパラダイスになると思っている人もいる。
でも、ならないと、私は思う。
何度かのセッションで人生がバラ色に変わるなら、
この世界に苦しみもがく人はいなくなるだろう。

が、楽になることならできる。
けれど、イヤなことや辛いことはなくなりはしない。
ある意味、イヤなことや辛いことは自分の反応でもあるからだ。
すべてがそうでないとしても、ほとんどがそうだ。
だから、自分が何かに反応し続ける限り、そこに痛みはあるし、
反応がないような人間になるとしたら、
もはや肉体を持って生まれて来る必要はないだろう。
神の域だ。

その「反応がない」というのは、
痛みを感じないようにするために感覚を麻痺させてことによって
陥る無反応とは根本的に違うと付け加えておこう。

死ぬまで悲しいことや辛いことは続くはずだ。
じゃあ、幸せとは何かと言えば、
そういうことに振り回されず、
そういうことと上手に付き合えることだと思う。

ばあさまになった時、そういう人であれたらと思う。

人生の喜怒哀楽をまっすぐに受け止めて、感じて、時に翻弄されつつ、
でも、それにとらわれることなく、
さらさらと流れる川のように、流れていく、そんな人。
すべてがそこにあって、そして、すべてがそこにない、そんな人。

セッションを受けたのに辛いことがありました、と、失望する人もいる。
でも、私は言いたい。
あなたはとても順調なのですよ、と。

私達の人生はすべてがコントラストになっていて、
対比するものがあるからこそ、その反対のものがよく見える。

神様はうまくお作りになられたものだ。
辛いことから学び、喜びを感じ、それを繰り返すようにできている。
その中で成長するようにできている。

魂が成長を望んでいる限り、
私達はあざなえる縄のごとく繰り返される、
アップダウンが続く人生から離れることはないのかもしれない。
それこそが私達の魂が望む現実なのだから。
そして、人間万事塞翁が馬、
後になってあらゆることが自分にとっての幸いであることに気付くのだ。
気の遠くなるような時間がかかったとしても。


2005年02月27日(日)

昨日、叔母が亡くなった。
まだ暗いうちに危篤の知らせを受けて病院に駆けつけ、
親族が見守る中、朝9時ちょうどに叔母は息を引き取った。

私は人が息を引き取る瞬間に初めて立ち会った。
叔母は静かに静かに呼吸を止めた。
私はずっとそれを見ていた。

初めてそれを体験し、
死そのものを軽視ししようとする自分がいた。
実は受け入れ難いゆえにそうしようとする自分。
今までも愛する人との別れという意味で確実に怯えていた死を、
目の前ではっきりと見ることで改めて現実として捉えざるを得なくなり、
未来に訪れるであろう数々の死を恐れて心を閉ざし始める自分がいた。
叔母の死に対しても無感覚になろうとしている自分を感じている。

無感覚なんだけど、ふたをして無感覚になっているような、そんな感覚。

また、崩れ落ちるように号泣する親族の中で疎外感を感じたり…

私だけが血がつながっていないのだから、
毅然としていなくてはいけないと思ったり…

泣いている妹を抱きしめるダンナを見て、
私のことはこれっぽっちも触りも抱きしめもしないのに、と、
叔母の死とは全く関係のない苛立と悲しみの感情を感じ始めたり…

色々な感情や感覚が私の中に湧いてきた。

人の死とは本当に多くのものを贈り物として置いてゆく。

今週、通夜と葬儀が執り行なわれる。
慌ただしさが過ぎた後にやってくる感情をしっかりと受け止めようと思う。

生前、金銭問題でもめて色々あった人だったのに、
逝ってしまったらこんなにも悲しいものなのか。
叔母のやさしかったことだけが浮かんでくる。


2005年02月24日(木) 素敵なページを発見

私の好きなサイトに「ジョナサン・ケイナーの星占い」がある。
もうすでにご存知の方も多いのでは?
SunGoddessのサイトからリンクもしていて、
ふとした時にいつもアクセスしている。

その「ジョナサン・ケイナーの星占い」で、素敵なページを発見。
こちらです。

スゴイ。
その通り。
私の中で何かがぐらぐらした。
これだよ、おいらが言いたいのはっ!
必要なメッセージはいつも届いているのだなぁ。
そして、自分の中にありながら漠然としていたものが、
ひとつひとつが言葉になり、輪郭を持ち、
しっかりと自分のものになる。

仕上げにOsho禅タロットでカードをひいて、
深〜いメッセージを受け取り、心でかみしめ、
今日はおやすみなさいなのだ。


2005年02月21日(月) ひとりじゃできないもんね

今日はアンナと片付けのことでケンカ(←まだやってる)した。
昔作ったお片付けの歌の美談はもうどっかに消えている(爆)

あの、本人曰く生まれ変わりの一件から、
アンナはいいたいことを泣きながらでもバシバシ言ってくる。
ふたりで言いたいことぎゃーぎゃー叫び合うような感じになった。

そこにいるのは完全にふたりのガキだった。
私の方がかなりガキだったと思う。

私は沸騰した頭を冷やしたくて、コンビニにタバコを買いに行った。
少し冷静になって帰ってきて、ちょこり〜んと座っているアンナに、
「もう言いたいこと言ったからスッキリしたからさ、悪かったね」
と言うと、
「アンナも言いたいこと言ってスッキリしたよ。
 さ、お片付け、お片付け。
 なんか楽しくなってきたぞ」
と返ってきた。

ぬぅ、うぬもなかなかの者だ…(ラオウの口調で)

そして、換気扇の下でタバコを吸いながら思った。
こういうケンカできる相手がいるっていいなぁ、と。

ひとりだとケンカもできないもんなぁ。
建設的なケンカなら大好きだ。
何かが生まれるもの。

ケンカは、認めてー!わかってー!と叫び合ってるようなもの。
ひとりだとダダもこねられない。
本当にひとりきりでいたい時って、どん底な時だし。

ふと、そんなことを考えたのだった。


2005年02月18日(金) 猫の気持ち

犬や猫には色々な習性がある。
排泄した後に足で土などをその上にかぶせるのもそのひとつ。

ウチの猫ちゃん達で驚いたのは、
窓際にトイレが置いてあるからだろう、
トイレの上にカーテンの裾をひっぱってきてかぶせるのだ。
それで自分が排泄したものにフタして隠したつもりなんだろうな。

ウチの猫トイレはオマルみたいになっていて、
ちょうど小さい楕円の穴に猫達が「する」ようになってるんだけど、
そこにフタをするようにうまーくかぶせるんだ、これが。

カーテン臭くなるからや〜め〜て〜!と思ったけれど、
いつしか諦めてファブリーズのお世話になったり。
最近じゃ、窓からかなり遠くにトイレを置くようになって、
猫も諦めることが増えてきた。

だが、しかし。

今日、ふと猫トイレを見ると、
なんと、私の帽子が乗っているではないかーーーっ。
そう、猫が用を済ませた後、
近くにカーテンがないから私の帽子を持ってきて乗せたのだ。
きちんと私の帽子でフタしてあるんだ、これが。

帽子でフタするなよ。
しかも、帽子、わざわざ遠くから持ってくるなよ。
しかも、しかも、私のお気に入りの帽子じゃないかよ。

猫の気持ちはわかる。
わかるさ。

でも帽子がぁあうあうあうあう。

それなのに、ああ、それなのに、とっても可愛い可愛い猫ちゃん達。


2005年02月17日(木) でっかいトラウマちゃんに気付いてしまった後に

ここ最近、私を含め、私の周りでは、
変化の時期を迎えている人が多い。
この時期そういうエネルギーなのかもしれない。

そういう時はえてしてしんどい。

私もゆらゆらな日々だ。
反応するわー、泣くわー、怒るわー、落ちるわー、
立ち直るわー、また次の波が来て落ちるわー、
心もくるくると忙しい。

どうすればいい!?そう思ったけれど、
あることに気付いた。

「今までこんな気持ちがあったのに無視してたな、
 感じないようにごまかしてきたんだな」 

「今まで自分の現実がああだったのは、
 この気持ちに気付かないようにしていたからだったのか」

そんなことに気付くだけで、現実はぐんぐん変わり始める。
私もそうだった。
しんどいはずなのに、何か動き始め、流れができる。
つまり、顕著に現象が現れる、現実の出来事として現れる。
こんなにもしんどいのに、現実では摩訶不思議なことばかり起こる。
その中には喜ばしいこともある。
そしてその流れがだんだん太く大きくなり、
私をどこかへ押し流そうとする。

つまり、だ。

どうやって変化していくかということよりも、
自分が気付いていなかった感情に気付くことが何より大切なんだなぁ。

そして、それがきっと一番難しいのだと思う。
だって、見たくないから見ないできたものなんだから。
けれど、ふんばって、覚悟決めて、
それさえ気付いて受け入れてしまうと、
あとは自然に流れがやってくる。

勢いのある水の流れが自然に川となって流れていくように、
私達の心の痛みも解放されると必然的にしかるべき場所へと流れていくようだ。

そう思ったら、安心して落ちてしまおうと思った。
落ちてどうにもならないともがいているうちにも、
どこかに向かって流れているのだし。

幸い私には落ちた時に安心して心を寄せられる場所がある。
信頼できる先生がいる。
いざとなれば、たちゅけて〜!と駆け込めると思うと、
とことんまでもがけるというもの。

辛い感情は感じてほしくて襲って来るんだから、
感じてあげると案外素直に去って行く。
人だって用が済めばそこを去るでしょう?
それと同じなんだろうな。

ただ流れに身を任せていようと思う。
必ずいい場所にしか辿り着かないことは、
自分の体験からもうわかっているから。

すべてはうまくいっている。


2005年02月16日(水) 加速するハスキー

私の声はどちらかと言うとハスキーな部類に入ると思う。
最近、そのハスキーが加速している。

なぜかと言うと、ドラえもんの真似をするからだ。
喉に負担がかかる声の出し方してるんだろうな、多分。

自分で言うのもなんだけど、
私のドラえもんの真似は結構似ている。
ダンナやアンナ、実家の母ちゃんまで喜ぶので、
ついついやってしまう。

はぁ…。

でも楽しいんだよな。

クラスにひとりはいたと思う。
ローカルなものまねが上手い奴。
友達のまねとかで盛り上がる奴。
それ、私。

しかし、あまりにハスキーが加速すると、
今までカラオケで歌えていた歌が歌えなくなったりする。
それって単純に喉を潰してるだけじゃないか。
ドラえもんで…








昨日の日記に書いたこと、
今日、相手に伝えようと思ったけど、
朝起きたらどうでもいいことだと思った。
自分が陥りやすいパターンに改めて気付けただけで、
私の中では昨日の出来事はもう終わってしまったのだった。

何より私が怯えていたのは、私がダメな奴だと思われることだった。
ミスしたからダメな奴だと。
誤解されることよりもそれが怖かったのだ。
でも、その人はそういうジャッジをしない人。

だから、自分のミスじゃないことを声高に訴えるよりも、
流れの中で自分を見ていようと思ったのだった。


2005年02月15日(火) 些細なことではあるけれど

ある人から頼まれたある仕事を終えた。

その後その人に
「あれをなさったのですか?
 これから私に関する何かをする前には私を通してください」
と言われた。

えっ…!?
た、頼まれたからやったんだけどぉぅ…!?

その人は、私にそれを依頼したことを忘れているらしい。
私が自分の判断でやったことになっている様子だった。

でも、私は言えなかった。
「○○さんが私に依頼なさったのでやらせていただいたのです」
って。

そして私は言った。
「申し訳ありませんでした。
 これから気を付けます」

心の中では
「違う、違ーうっ!
 私のミスじゃないってば」
と叫ぶ。
「でも言えないよ、言ったら嫌われちゃう。
 言い訳するダメな奴って思われちゃう。
 仕方ない、このまま罪をかぶっておこう」
と諦める。

そしてハッとした。
ああ、私ってずっとこうだったなぁ、って。
今までもこういうこと何度もあったなぁ、って。

プッと吹き出したいような気持ちになった。
アホだなー。
もういいじゃない、やめても。
そういうのは、もう。

明日は勇気を出してその人に本当のことを伝えようと思う。

些細なことではあるけれど、
私にとっては大切な出来事だった。

小さい頃から私、いつもこうだったのよね。
ふふふ…小心者さん。
怖かったんだよね。


2005年02月14日(月) 昔受け取った贈り物を思い起こして

昔、ヒプノセラピーのスクールに通っている頃に聞いた、
ある先輩の言葉が私の中に残っている。

それは、私が、なんだかぐずぐずと、
いつまでも辛い場所にいる時のことだった。

「自分がなかなか前に進めないというのは、
 とても素晴らしい体験だよ。
 自分がセラピストになった時、
 そういう体験をしているからこそ、
 クライアントさんが前に進めない時に、
 それを理解して待ってあげることができる。
 進めない人を責めたりしなくなる」

その言葉を聞いて、
なんだか心の中にぽっと明かりが灯ったような気持ちになったのを、
今でもはっきり覚えている。

そして、それはその通りだった。
私は出会う人をある程度は待てるようになった。
気付きや癒しに対して意識のブロックがあっても裁かなくなった。

私は今でもまだぐずぐずとしている部分だってある。
無意識の中にはまだまだ封印している痛みだってあるだろう。
人の色々な言動に反応もする。
それでもこうして生きている。
少しずつでも前に進みながら。
ちょびっとずつでも癒しを受け取って人生が滑らかになってきている。

あの先輩の言葉は、私の宝物だ。
本当に素晴らしい贈り物だった。
優秀じゃなかった私だからこそ、それを手に入れられたに違いない。

でこぼこしながら、またこれからも、やっていこうと思うのだった。


2005年02月13日(日) 人間だもの

昔、人は癒しを続けていくと辛いことがなくなるのだと思っていた。
でも、最近、それは違うと感じている。
どんなに癒しを続けていっても、辛いことはきっとずっとなくならない。

ではどうなるのか?

それは、きっと、
辛さとの付き合い方が上手くなるのではないかと思っている。
そして、そこから何かを得るのが上手くなるのではないかと思っている。

辛いこと、ありますよ、
そうさらっと言う素晴らしい人に出会って、
私はますますその人が好きになった。
そして、ますます尊敬した。
普通の人だ。
普通の人だけど、素晴らしい人だ。

その人みたいでありたいと、心から思うのだった。

人間だものね、いつまでも。


2005年02月12日(土) 一緒に感じてるからね

アンナと遊ぶ近所のある女の子が、よくこういう感じのことを言う。

「アンナちゃんは○○が下手だよね。
 私は上手だもん」

アンナは黙る。

「………」

「アンナちゃんはまだ○○もできないの?
 私はできるもん」

アンナの目がうるうるする。

「………」

そばでそんな子供達のやりとりを目にする度に、私の胸が痛む。
私もそうだったけなぁ、
私はどんくさい子供で、友達によくそうやって言われてたっけなぁ、
そんなことを思い出す。
とっても悲しかった。
よく泣いてた。

なによーっ!とケンカのひとつもするか、
もしくは気にもせず、あっけらかんとすればいいのに、
そうじゃなく凹む。
アンナは小さい頃の私とそっくりだ。
こんなとこまで似てしまうのか、と、思わず苦笑する。

他の親子にしたら、こんなこと問題の「も」の字でもないだろう。
きっと、すんごぉくくだらないことかもしれない。
そんなこといちいち気にする方がおかしいよ、って。

でも、きっとDNAの仕業なのねぇ。

アンナ、あなたもそんな言葉に、
幼い頃の私と同じように傷ついているのだろうか。
夜、お風呂の中で、
「今日悲しかったんだ」とつぶやく我が子を見る度、
私のインナーチャイルドの傷がズキズキと痛む。

親が立ち入れないエリアでも、
子供同士のそんな会話が飛び交っているのだろう。

だから私はアンナに教える。

「どんな人にも得意なことと、苦手なことがあるんだよ。
 得意なことは上手で、苦手なことは下手なんだ。
 そして、それでいいんだ。
 だから、アンナのお友達のこともそう思ってみていてあげてね。
 アンナもそうなんだよ。
 だから、アンナは今のままでいいんだよ。
 できないことは悪いことじゃない。
 得意なことはうんと上手になって、
 苦手なことは少しずつ挑戦すればいいんだから。
 ママはそんなアンナが大好きだよ」

子供から苦しみを取り去るよりも、
それを体験して強くなるのを見守るのが「親」である、
そんな言葉を聞いたことがある。

子供の痛みを感じる時、親としてこれほど辛いものはない。
けれど、それでも、ただ見守ることしかできない。
大丈夫、この子はこれを越えて強くなれる、そう信頼して。

痛みを感じて、その痛みで成長して、人の痛みも感じられるように、
そして、そのやさしさがいつか強さになるように、
すこやかに育て、アンナ。

辛い時はママのおっぱいで泣いていいから。
あなたが苦しい時、一緒に苦しむから。
一緒にそれを感じてるからね。
ママはいつでもあなたの味方。


2005年02月09日(水) 新しい出会い

今日、トレカフェでアンナと色々な話をする中で、
私の想いを伝えた。

彼女をキツく叱ってきたことについて。

私はそれによってアンナがとても傷ついていることを知っている。
また、私が彼女を叱る時、そこにあるのは、
彼女のためなどという想いではなく、私の傷がうずいた反応なのだ。
だから、私の怒りは理不尽なもの。
けれど、彼女は、私が怒るという行為がいやなものだと思いながらも、
それは自分がいけないからだと思っている。
本当は全然いけなくないのだ。
私が彼女にさせようとしていたことは、
保育園児に因数分解をさせようとしているような、
そんな難しいことだったかもしれない。

最近それを痛感した。
できない、わからない、それが「当たり前」だと。
頭ではわかっていたけれど、
稲妻に打たれるみたいに腑に落ちた瞬間があったのだ。
だから、今日、アンナに自分の気持ちを伝えることにしたのだ。

私が怒るという行為、それは私のエゴだったこと、
本当はアンナが悪いのではなく、
子供は大人と違って、
大人ができることもできないという単純なことを理解せずに、
私がしてきた理不尽なこと、
だからママがいけなかったのだということ、
あなたがいけない子だからじゃない、
そんなことを、子供にもわかるような言葉でじっくり伝えていった。
怒らなくても、別の形のコミュニケーションをすることによって、
十分に伝えたいことを伝えられたはずだった、と。
そして、心から謝った。
今までママが悪かったよ、ごめんね、って。
怖かったでしょう、って。

アンナは黙って、うん、うん、って聞いていた。

アンナはとても傷ついていただろう。
アンナはママが大好きなのに、ママがとっても怖かっただろう。
言いたいことが言えなかっただろう。
私に叱られる度に、自分を責めたのだろう。
小さな心を痛めていたのだろう。

少しして彼女は、
「ママ、ケガをしたアンナがいるの。
 ケガを直してあげたい」
と言った。
自分よりちょっと小さくて、髪の毛がぐちゃぐちゃで、
洋服を着ていない裸ん坊で、
あちこちケガをしている自分が見えると言う。

私はアンナを横抱きにすると、
その小さな自分にしてあげたいようにさせた。
アンナはぼさぼさな髪をとかしてキレイにしてあげて、
ピンクの可愛い洋服を着せ、
ケガの傷口には絆創膏を貼ってあげたと言う。

その小さなアンナは寒くて怖くて悲しかったのだそうだ。
キレイにあたたかくしてあげると、
「もう大丈夫、アンナちゃん、ありがとう」と、
その小さなアンナが言ったそうだ。

私がアンナに、
「その子はひとりぼっちなのかな?
 連れて行ってあげようよ」
と言うと、
「お友達と遊ぶからもう行くって言ってる。
 ひとりじゃないよ。
 もうこの子は大丈夫なの。
 さっきは泣いてたけど、今はニコニコしてるよ」
とアンナが答えた。
その目から涙が流れていた。

私はアンナに頼んだ。
「その子に伝えて。
 ママは間違ったことを言っていた、
 だから、アンナは悪くなかった、
 アンナはよくやった、って」
アンナは「もう伝えたよ」と静かに答えた。

そんな突然の出来事が、トレカフェで起こった。
トレカフェという空間は、何とも不思議な空間で、
アンナは過去にもトレカフェで感情の大解放をしたことがある。
今日もまたこんな出来事が。
それは、トレカフェのナオミちゃんと、
ナオミちゃんが作り出すあの空間の
エネルギーの成せる技でもあるのだと思う。

最後の客だった私達はナオミちゃんにお礼を言って店を出た。

帰りの車の中で眠ってしまったアンナをおぶって家に上がり、
ベッドに寝かせようとしたら、
アンナが目をぱちっと開けて言った。

「はじめまして」

私はその言葉ですべてを察した。
だから答えた。

「はじめまして」

「私はアンナです。
 よろしくお願いします。
 あなたは私のお母さん?」

「そうです。
 私があなたのお母さんです」

「お名前は?」

「恵美です」

「恵美ちゃん、お母さん、ママだね」

「そう、私があなたのママです。
 よろしくね」

アンナは私にぎゅうっと抱きついてきた。
ひとしきりそうして、またベッドに降りて言った。

「あのね、ママ、
 アンナ本当はママがママだってわかってたんだよ。
 でもね、アンナの心が『はじめまして』って
 ママに言いなさいって言ったの。
 だって、アンナの心が新しくなったから」

その口調はとても毅然としていた。
私は答えた。

「ママの心も新しくなったんだよ。
 だから、ママもはじめましてなの。
 新しい心で、またやり直すの。
 一緒に新しい心でやり直していこうね」

そして、ふたり同時に言った。

「会いたかったよ」

私達は長いこと抱き合っていた。

アンナと私は新しい出会いをした。

私達は、言葉にはならないけれど、
それぞれの奥深くで何かがシフトしたことを、
お互いに確実に感じた。

「会いたかったよ」

そう、私達はお互いに本当に出会いたい相手にようやく出会ったのだ。
そして約束した。
一緒に成長していこうね、って。


2005年02月08日(火) 新月に願いを

明日9日は新月。
新月にかけた願いは叶いやすいのだそうだ。

特に、紙等に書くといいという。

新月の日を願いをかける日にしてはどうだろう?
毎月1回。
願いを重ねる日。
ノートを作ってもいいね。
そこに思いつく限り書いていく。
そして閉じて忘れてしまう。
お遊びのようにやればいい。

しばらくしてページをめくっているうちに、
いくつも願いが叶っていることに気付くかもしれない。

私もね、今まで曖昧にやってきたので、
明日からノートを作ることにしたの。
願いを連ねるノート。


2005年02月07日(月) 祈る

最近、私は、
どうしようもないことや辛いことがあると、
ただひたすら祈る。

たまたま手に入れたロザリオがそのきっかけだった。
私はクリスチャンでもないし、
どこぞの宗教をやっているわけでもない。
けれど、ロザリオを見た時、とても祈りたくなったのだ。

それから、事ある度に祈っている。

誰に、と、いうわけではない。
どこかに向かって。

やってみて、祈りというのはとても不思議な行為だと思った。
完全に他力本願でありながら、力を得る。
大きなサポートを手に入れたような、そんな心強い感覚を得る。
自分の中がクリアになってゆく。

言葉に出して祈ると、自分の願いが自分の耳に届く。
そして、改めて自分の想いを知る。

そうしていると、
日常の中で気付かないようにしていた自分の気持ちや感情に出会う。
押さえ込んでいるつもりなどないのに押さえ込んでいたものにも出会う。
だから、私は祈る時によく泣く。
悲しみの涙だったり、喜びの涙だったり。

祈っている間にトランスに入るようだ。
だから、普段の自分以外の自分に気付いたりするのだろう。

祈りは私のセルフセラピーのようなものでもある。

私は信じている。
祈りは届くと。
そして、それに応えてプロセスが与えられると。

神が存在するなら、
祈った私達に「結果」を与えることはないのでは?と、最近思う。

私達がよりよい状態に変化するために、
望む結果に辿り着くために、
「プロセス」を与えられるのだと思う。
そのプロセスの中で、
必要なことを体験し、必要な気付きや学びを得て、
自力で望む場所に辿り着けるように。

だから、私は祈る。


2005年02月03日(木) アンバランスなバランス

昔、作家、故森瑶子さんの短編小説にこんな話があった。

*****

ある男性がお見合いをする。
会ってみると、相手の女性は女優のような美しさ。
明るく楽しく、でも謙虚で慎み深く、マナーもよく、
こちらへの心配りも素晴らしい。
仕事でもかなりの腕利きの様子。
独立した大人の女性。
非の打ち所がなかった。

彼は一目で彼女を気に入った。
話していくうちに、さらに気に入った。
相手の女性もまんざらではない。
でも、彼はお見合いを断ることにしようと思った。

なぜなら、彼女にはスキがないからだ。
一分のスキもないのだ。
完璧だ。
自分が一緒にいられるような女性ではない。
所詮高嶺の花、そう思ったのだ。

お見合いの席を立とうとした時、
男性は、女性のストッキングが伝線していることに気が付いた。
そして、即座に決めた。
彼女にプロポーズしようと。

*****

私はこの話が大好きだ

男性は、なにもかもが完璧な女性のストッキングの伝線を見た時、
彼女の中にある種のやすらぎや安心を見たのだと思う。
ああ、この女神のような女性だって人間なんだ、って。

すべてが完璧な絶世の美女と伝線したストッキング。
いかにもアンバランスだ。
でも、このアンバランスが、
彼女にとてもいいバランスを与えていると、私は思う。

私はそういうアンバランスによってバランスが取れている人がとても好き。

タカビーで気取ってそうに見えるのに実は面白い、とか、
つんけんしてて感じ悪そうなのに実は小心者、とか、
イケメンなのに字が汚い、とか、
ハイソな感じなのに話すとなまってるとか、
色々、色々。

そういう意味では、私は期待を裏切られるのが好きみたいだ。
ひとりの人の中に両極の要素を見るのが好きみたいだ。
あ、好きになってもいいんだな、そばにいてもいいんだな、
そんな気持ちになれて、そして、親近感を感じられる人が。
一種のシンパシーみたいなものかもしれない。

私が素敵だと思う人達は、
みな、このアンバランスなバランス感を私に与える人達。
まぁ、単に私の好みなのかもしれないけれど。

人は完璧じゃない方がいいんだと思う。
その方が面白い。

それに、もうひとつ、
人は完璧じゃないから人と出会い、惹かれ合えるのだと思う。
自分にないものに嫉妬したりもしながら、
それでも、その才能や情報や力を借りることを学んだりして、
自分や自分の携わるものを、
相手を通して、相手の美点を借りて、まあるくしていく作業ができるのだ。
それはそれは素晴らしいコラボレーション。
ひとりで完璧にやろうとしていた時よりも、
もっともっと素晴らしいものが生まれる。

そして、足りないものを補ってくれた相手が、
それをしたことによって自分の価値を感じる。
それはこちらが相手の要素を受け取ったからだ。
受け取ることで与えたからだ。
相手はこちらに心地よさを感じる。

とてもスムーズな関係が生まれる。

自分が完璧じゃない、できない、足りない、
そう感じるのはとても素晴らしいことだ。
人と愛し合えるから。
人と惹かれ合えるから。
人と協力し合えるから。
誰かと一緒にいる喜びを感じられるから。

自分が完璧じゃない、できない、足りない、
そう感じる時に虚勢を張ってしまうと、人はとても孤独になってゆく。
プライドを守るために、自分のできなさや足りなさ、弱さを隠していくと、
周りの人の付け入るスキがない。
自分がすごくなろう、すごいと思ってもらおう、見下されるもんか、
そう思ってしていることなのに、
逆の評価をされたり、人が離れていくこともある。

できないからできること、足りないから足りること、
そんなふうなのが私は好きだ。
誰かの素敵なところを素敵だと認めてしまって、
それさえも自分のワクワクな計画の要素にしてしまうのが、私は好きだ。

そういうふうにできるようになってから、
私はできない足りない自分が好きになった。

今だって、私なんて、どうせ、どうせ!と涙する夜もある。
でも、そんなぐらんぐらんな自分さえも好きなのだ。
こんなでこぼこちゃんの自分が。

ずっとアンバランスな人でいたいと思う。


2005年02月02日(水) 生まれてきてくれてありがとう

生まれてきてくれてありがとう、
そう伝えたい人が、人生の中で増えた。

その人が生きていることが嬉しくて仕方ない。
生きて同じ世界で呼吸していることが嬉しくて仕方ない。
そして、それが私の喜びや強さになる。

近くにいても、離れていても、
会っても、会わなくても、
そんな人達は、いつも心の中にいて、
私を支える存在となっている。

また、このお仕事をしていても思う。
痛みの後ろにある素顔に触れた時に思う。
生まれてきてくれてありがとう、って。
よく今日まで頑張って生きてきましたね、って。
よく私を訪れてくれましたね、って。

みんな生まれてきてよかったんだ。

今どうしようもないと思える人生を送っている人でさえ。
だって私達はそこからの出口を求めるために生まれてきたのだから。
そして、必ず出口に辿り着くのだから。

私は、誰かが生きてきた分のことを、ただ受け取ろう。
私は、私が生きてきた分のことを、ただ提供しよう。
水がさらさらと流れるように。

それが、生まれてきた意味であり、生まれてきた目的かもしれない。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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