おひさまの日記
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2004年05月24日(月) |
アジアンビューティー妬まれる |
あちこちで話題になってはいるので、
もう賞味期限切れのネタかもしれないけど、
シャンプー「アジエンス」のCMで、
客席から舞台に引き上げられるアジア美人を演じるチャン・ツィイーの背後で、
ふて腐れ、かったるそうに拍手する金髪モデル達が、個人的にツボ。
以前から、
性格キツいし、ネガティブなこと言う人がいて、
ずっと苦手意識を持ってた。
その人をAさんとしておく。
ある時、ある人が、
Aさんのことをとてもほめていた。
気がきいて、思いやりがあって、やさしくて、って。
私は「げ!」と思った。
「オイオイ、それは誤解だよ」って。
そして「全然あいつの本性知らないじゃん」って思った。
そんなある日、
Aさんが、他の人にとてもやさしくしているのを目撃した。
よく見ると、Aさんを親ってる人もいるみたい。
うーん…
それから、視点を変えてみた。
Aさんっていいトコあるかも、って。
そうしたら、あら、不思議。
Aさんの気がきくことろ、やさしいところが見えてきた。
本当にいい人だ。
そして気付いた。
私は、ある時彼女の一面を見て、
私個人の反応で判断し、キツい、ネガティブ、と受け止め、
それ以来、そういう人として接してきた。
そういう人と接するのだからと、
自分もキツくてネガティブな部分を前面に出し、
彼女のそういう部分をあおるように接してきたのだと思う。
そう来られれば、相手からもそう返されて当然だ。
そして、私は「Aさん=キツくてネガティブ」と、
完全に自分にインプットしたのだ。
だから、ほんのちょっと彼女のいい部分が見えても、
それがいいものだと思おうともしなかったのだと思う。
そして、なにより、
人のキツくてネガティブな部分にフォーカスする自分自身に
実は問題があったのだと感じだ。
自分のキツくてネガティブな部分が、
Aさんのそういうふうに見えるある部分と同調していただけ。
Aさんの本性を知らなかったのは私だった。
改めて、人は鏡。
人はそこにただいて、自分の中にあるものを映す。
それを自分だとは気付かずに、批判たり、嫌ったり。
実は、それは、すべて自分に対してしている行為なんだよね。
最近、Aさんが好きな自分が嬉しい。
人を好きになる、好きでいるってこんなに気持ちイイなんて。
そりゃそうだな。
人を嫌って責めるのは、鏡に映る自分を嫌って責めてるてことだもの、
あんなに胸の辺りがムカムカして、どんよりとした気持ちなのね。
人を好きでいるのは、鏡に映る自分を好きでいることだから、
こんなにあたたかく気持ちイイのね。
自分の姿を見るには鏡を見るけど、心を映す鏡はない。
だから、人を鏡にして、私達は自分の心を見るのね。
シーチキンの缶詰のふたの裏を舐めたら、
はしっこで舌切った。
痛い。
カップアイスのふたの裏にくっついたアイスを舐めるのとは、
全くワケが違うのだと、改めて思い知る。
こんな危険な目にあってまで、
シーチキンのふたの裏に付いたシーチキンを食べるメリットはない。
痛いです。
もうしません。
お行儀悪かったです。
そう言えば、昔、コンビーフの缶詰開けてたら、
手が滑って親指ざっくり切ったよな。
血しぶきピューだったよな。
缶詰をあなどっちゃいかん。
こんな実話がある。
団地に住むあるお母さんが、
団地の下で他のお母さん達と立ち話をしていたら、
自分の家のベランダの手すりを超え、自分の子供が落ちたのを見て、
ものすごいダッシュで走り、落ちてきた子供を受け止めたという話。
これは、人間が無意識のうちに、
できないと思っていた限界を超えるという話。
無理だと思っていたことをやってのけてしまう話。
潜在意識の力を使うという例だ。
これを分析した専門家がいる。
まず、母親がいた場所から子供が落下した地点までの距離を、
どのくらいのスピードで走れば間に合うかを計算したところ、
オリンピックの100メートル競技で金メダルを取った選手よりも、
速く走られければ間に合わなかったそうだ。
また、子供の体重と落下した距離とスピードを考えた時、
その子供の重さは、通常、普通の女性が受け止められるような
重さではないくらいのものすごい重量になるそうだ。
それが何キロくらいになるかは忘れてしまったけど。
普段ならできないことを、その母親はやってのけた。
なぜ、不可能が可能になったのか。
それは「非常事態」だからだ。
「非常事態」は人間の限界を壊す。
人間の限界とは、頭で考える限界。
これは無理、あり得ない、できない、そんな想いだとも言える。
そして、その想いは、私達人間が発揮できる力を決定する。
しかし、この場合、非常事態であり、
その場にいた母親に、落下してくる子供を見ながら、
「あら、間に合わないわ、無理ね」と考えているゆとりがあるだろうか?
絶対にないはずだ。
母親は「私が受け止める!」という一念のもと、
落下してくる子供を見た瞬間にダッシュしたはずだ。
それが、人間の限界の枠が壊れた瞬間だ。
母親には「子供を受け止める」という想い以外なにもなかった。
それがすべてだった。
葛藤がなかった。
それが、潜在意識の力をフルに引き出す起爆剤になったのだ。
普段は「どうせ無理」とか「ああしたらこうなる」という不安やあきらめ、
顕在意識が邪魔している。
一瞬それがなくなったのだ。
潜在意識は人間の意識の90%以上を占める。
普段、私達が、ああでもない、こうでもない、
できる、できない、辛い、辛くない、と、ごにょごにょ考えているのは、
残りほんのわずかな数%の顕在意識(表面の意識)でやっていること。
顕在意識は既成事実や既成概念の集大成であり、
いわば、世の常識や、自分の体験に基づいた判断による思考が詰まっている。
それが私達の日常をコントロールしている。
けれど、潜在意識は「潜在」と言われるだけあり、
私達は普段認識することがない意識だけど、
そこには人間が想像もつかない無限の可能性と力がある。
私達人間の本能や本質、そして私達という「個」を超えた力を備えている。
そんなものすごい力を持った潜在意識だけど、
普段は表で仕切っている顕在意識に制御され、表には出てこない。
では、どんな時、潜在意識は表に出てくるのか。
それは、顕在意識に邪魔されなくなった時だ。
そんな時、頭であれこれと考えたりしなくなる。
潜在意識そのものとなり、自分の本質に正直に忠実になる。
上の例もそのひとつで、
非常事態に置かれ、既成概念による判断がなくなるので、
潜在意識は押さえられていたフタがなくなり、
勢いよく飛び出すことができる。
母親は「子供を助ける」というただひとつの目的に葛藤なく忠実になる。
その時、私達は、普段自分にあてがっていた限界や制限、枠を超える。
超えて、信じられないような力を発揮することがある。
そして、信じられない奇跡を起こし、子供を受け止めたのだ。
ポイントは、潜在意識とつながる、ということ。
そこまで劇的なことはそう多くないにしても、
私達だって、潜在意識に出会って自分の真実を知ったり、
その秘めたる力を使うことはできる。
前置きが長くなったけれど、私のことをちょっと書こうと思う。
昔、私が八方ふさがりになり、
もうダメだ、何もできない、どうにもならない、
そうやって暗い場所にハマって限界まで来ていた時、
私の中にこんな考えが浮かんできた。
「明日死んでしまうとしても何もできないの?
できるできないじゃなく、やるんじゃないの?
食べないと死んでしまうとしたら、物乞いだってできるんじゃないの?
できない、ダメだって言ってるのは、まだゆとりがあるからじゃないの?
死ぬつもりになれば、後先考えず何だってやれるんじゃないの?
苦しかろうがなんだろうがやるんじゃないの?
結果はどうでもよくて、動けるんじゃないの?」
暗いアパートの真ん中でひとり考えた。
不安や恐れが作り出していた私の限界が壊れた瞬間だった。
死という緊迫した状況を仮定することにより思考の転換をし、
私は今まで表面で頭の中を支配していた呪縛のような考えを打破した。
そして、理屈抜きに深い場所にある自分の本当の気持ちと衝動に出会った。
落ちてきた子供をキャッチするほどドラマチックなものではなかったが、
永久不変にも思えた悲劇の場所から離れた瞬間だった。
私にとって、それは奇跡だった。
そして、私は迷わず行動し、人生の流れを大きく変えた。
今思えば、ものすごい勇気だったと思う。
決断し行動した時のことを、あまりよく覚えていない。
気がついたら、それが終わって、呆然と新しい環境の中にいた。
ものすごいしんどかったはずだ。
でも、無我夢中でしんどいことさえどうでもよくなっていた。
とにかく突破しよう、ただそれだけの想いで動いていた。
それから私は、
何かあった時「明日死ぬとしたら」と考えるようになった。
そうすると、自分が本当に大切にしたいこと、貫きたいことがわかる。
ぐるぐると同じ場所を回り、ごにょごにょといつまでも言い訳をし、
ひたすらひたすらくすぶっている顕在意識を超えて、
自分の奥の方で自分の真の衝動が生まれようとする力に身を任せることができる。
自分の中で葛藤がなくなる瞬間が生まれる。
常に葛藤がない状態なんて神様じゃないしあり得ないけど、
切り取った瞬間瞬間になら、それを体験することはできるのだ。
そして、わずかな瞬間だけでも、それは十分なのだ。
この私の体験は、それが決していい方法という意味ではない。
単に、私の印象深い出来事だということ。
それは付け加えておきたい。
それに、明日死ぬとしたら、
フラストレーションのはけ口に、
人に迷惑かけることしていいんだ、人を傷付けていいんだ、
なんてふうな解釈はいただけないし、それは違う。
それに、潜在意識はすべての不可能を可能にするわけではない。
厳密に言うと、潜在意識は、その力を発揮し得る器がある時に活用できる。
例えば、普通の人が、潜在意識とつながったからと言って、
いきなり100キロのバーベルを上げることはできない。
単純に筋力がないからだ。
限界を超えるには、限界を超えるための力を発揮する下地が必要になる。
と、いうことで、ちょっと話はそれたけど、
考えるのはタダ。
明日死ぬとしたら。
試してみると何かが見えるかもしれないよ。
2004年05月13日(木) |
ピンクハウスおばさんに自己表現を学ぶ |
今日、近所で買い物をしていた時のこと。
50代くらいに見える3人の女性が同じく買い物をしていた。
その中の一人がとにかく目立つ。
なんてったってピンクハウス。
上から下までピンクハウス。
靴もバッグもピンクハウス。
ショーウィンドウのディスプレイがそのまま飛び出したみたいなのだ。
それなのになんでだろう?
ものすごく、いいなぁ、って思って見ていた。
その人は、ピンクハウスが大好きで、
ピンクハウスの服に身を包むことが楽しくて仕方ないように見える。
そう私に感じさせるような雰囲気を醸し出していた。
ある見方をすれば、
あんなフリフリな服をその年齢で…となるかもしれない。
でも、その人は似合っていた。
ものすごく似合っていたのだ。
マッチしてる。
服に負けてない。
だから、そういうカッコしていても違和感がないのだ。
違和感がないどころか、ものすごーく素敵だった。
素敵な自己表現だった。
やったモン勝ちだね。
私もああいうふうに年を重ねたいと思った。
いや、ピンクハウスは着ないけどね。
いつまでもTシャツとジーンズオッケーな人でいたいよ。
自分を取り巻く状況や環境に不満がある時、
そして、それが変わってゆくことを望む時、
私達がまずすべきことは「自分を知る」ことだと、
改めて強く感じている。
なぜなら、私達に訪れるすべての出来事は、
私達が望んで引き寄せているからだ。
そう、潜在意識の中の気付いていない自分が。
そして、往々にして、
普段の自分と、潜在意識の中の認識できない自分とでは、
それぞれが違うことを望んでいたりする。
信じられないけれど、本当の話だ。
私達は自分のことをいちばんよくわかっているようで、わかっていない。
自分の知らない自分というものが、
私達の中には間違いなく存在している。
自分の知らない自分、
それは、自分が気付いていない気持ち、感情、欲求とも言える。
現実を変えたいなら、
そんな自分を知ることが、その重要な鍵になる。
想像もつかない自分ってのが、自分の中には存在するもんだ。
まず、それを認める作業が、とても、とても大切。
そこからすべてが始まる。
頭で考えるあれこれを取っ払って、
「今の現実を私が望んでいるとしたら、
それはどういうことなんだろう?
そこにはどんなメッリトがあるのだろう?」
そう考えてみてください。
どんな過酷な状況にも、実はメリットが存在し、
そのメリットのために、私達はそれを引き寄せているのです。
この場合のメリットとは「いいこと、素敵なこと」という意味合いではなく、
どちらかと言うと「そんな思いするならこんな思いした方がマシ」
というような消極的メリットであることが多い。
また、屈折した伝達手段を持つというメリットでもある。
にわかに信じ難いことだけど、これが本当なんだな〜。
アンナがとことこやってきて、
私に名刺大のカードを渡し、去っていった。
そこには「げきやす」とひとこと書いてあった。
な、なんだ、なんだ!?と思って部屋を覗きにいくと、
そこには、eMacの入っていたデカい段ボール箱にすっぽり入り、
ふたを閉めて作った隙間から首だけ出したアンナがいて、
こう言った。
「安いよ〜、安いよ〜、大安売りだよ〜」
ひぃ〜、腹いてぇ〜、かんにんしてぇ〜。
すべての要素がいい具合に融合し、おかしすぎ!
この笑いのツボ、きっと誰もが?だろな〜。
もし、同じツボの人がいたら嬉しいです。
自分は無力だ、そう思い知った時、
人は始めて何かをなし得ることができるような気がする。
それは、怠惰ゆえの無力ではなく、もがき切った後の無力感。
私達はいつも閉ざしている。
閉ざしているゆえに受け取れない。
受け取るためには、それを妨げる壁を砕くしかない。
計算し尽くされたエゴ。
真の無力になった者にそんなエゴはない。
ただ大きな流れに身を任せることしかできなくなる。
大いなるでくのぼうだ。
閉ざしていた私達は、その時初めて開くのだ。
そして、初めて、自分を超えた大きな力を受け取る。
自分に必要なものすべてを受け取る。
赤ちゃんはそういう存在ではないだろうか。
無力にして絶大な力を持つ存在なのだ。
最近、知恵を持ったバカ、無力な者でありたいと、心から願うのだった。
私達のおおもととつながるために。
もっと知りたい。
もっともっと知りたい。
自分が欲するもの。
ある本の中にこんな言葉を見つけた。
「誰もあなたを傷付けなどしない。
あなたが傷付きたいだけだ。
誰もが自分の傷を守るのに必死で、人を傷付けるゆとりなどない。
あなたは傷を持ち歩きたいだけだ。
その傷で痛がりたいだけだ」
深いな〜。
深いよ〜。
「誰もが自分の傷を守るのに必死」…か。
本当にそうだ。
誰もが自分の傷を守るために反応しているだけで、
実は、そこには人を傷付けるゆとりさえないのだ。
もっと簡単に言うと、
人のことを傷付けるほど相手のことなど考えていない。
みんな自分のことで頭がいっぱいなのだ。
人は自分の傷を守るために、たとえば、傍若無人に振る舞うのだ。
そこに人を傷付けようとする意図があったとしたら、
それさえも、自分の傷を守ろうとする行為だ。
人には大きく分けると3つのタイプがあると思う。
人との接点においての反応の3つのタイプだ。
ひとつは「相手が悪い」と思うタイプ。
もうひとつは「私が悪い」と思うタイプ。
最後は「私には関係ない」と思うタイプ。
それぞれの根源にあるのは傷。
心の傷。
表れ方が違うだけだ。
私たちは「傷付いた」と感じた時、
相手のことも、自分のことも、責める必要はない。
無関心や無関係を装い、自分の内側を知ることから逃げる必要もない。
ただ「傷付く自分」の存在に気付くだけでいい。
原因は外にない。
すべては自分の内側にある。
被害者でいることは快楽だ。
ものすごく楽だし、努力しなくていいし、
まず被害者であるという言い分を武器に相手をコントロールできる。
また、自分がすべきことをしないですむ。
だから、私達は傷を持ち歩く。
持ち歩きたいのだ。
もしも、その傷がなくなったら、
今までのやり方で人を攻撃したり、コントロールしたり、
努力から逃げたり、できなくなってしまうからだ。
だからこそ、自分の傷がもはや癒しようのない、手に負えない、
どうにもならないものだと思い込みたいのだ。
そうしなくては自分が築き上げた世界が崩れていくから。
幸せになりたい、救われたい、変わりたい、
そう頭で思うかたわらで、
私達の深い意識にはそんな想いが存在している。
それを認めることからすべてが始まる。
もちろん、私も。
「お酒弱いんです」って言うと「嘘!?」と言われるのと同じくらい、
「小心者なんです」って言うと「嘘!?」と言われる。
とにかく私は小さい頃から小心者。
人前で何かすることは愚か、
人に自分の考えや気持ちを伝えるなんて、
絶対に、絶対に、あり得ない子供だった。
授業で先生にさされて心拍数がマックスに達して耳まで赤くなる。
小心者であり、あがり症であることを恥じ、
緊張や赤面、震え、不安やドキドキで。
ひどい時は小鼻が勝手にひくひくし、
ふがふが言って大笑いされたこともある。
一時軽いチックになったり。
今はどうかと言うと、基本は変わってないけど、
人との接し方が変わった。
って言うか、開き直った。
どんなふうに…、と言うなら、
太宰治の「人間失格」の主人公みたいな振る舞いを覚えた。
人間失格ではそれを「道化」と呼んでいる。
例えば、顔が真っ赤になったら、
昔は、うつむいて嘲笑が引くのをただ悲しく待っていたけれど、
開き直ってからは、自分からそれを笑いに変える。
「あはは〜、キンチョーしてタコみたいになっちゃった〜」などと言い、
みんなと一緒に笑ったりする。
これやると、メチャクチャ楽なんだよねぇ。
なぜか全然恥ずかしくないの。
これは、駅のホームで転んだ時、
「いてて、転んじゃった、へへ〜」と、そばにいる友達に言って、
一緒に笑ったりすると何でもないのに、
ひとりの時に転んで、無言でこっそり立ち上がり、
何事もなかったかのようにそそくさと立ち去ると、
異常に恥ずかしい心理に、すごぉくよく似てると思う。
なんでもそうやって自分から、
「私こんなんです」ってカミングアウト!?するようになってからは、
気持ちがメチャクチャ楽になって、
今度は、緊張したり、赤面したり、震えるのが怖くなくなって、
平気で緊張したり、赤面したり、震えたりするようになった。
小心者ゆえに感じる不安もドキドキも減ったんだと思う。
自分の恥ずかしかったことを無理矢理悲痛に笑ってるんじゃなく、
そうすることで、あ、たいしたことないんだ、って思えるようになった。
生きて来た中で身に付けた方法だけど、
これは単純に発想の転換なんだよね。
発想の転換によって、私の中にインプットされた情報、
○○は恥ずかしい、○○はいけない、という、
自分をいさめる観念が変化したんだと思う。
人との付き合いもそう。
誰かとの関係で、あれ?なんか気まずい?と感じたら、
先にコミュニケーションを取って、事実を把握するクセもついた。
自分から不安を取り去ってあげるためだ。
実際に問題があれば、それを解決するために動けるし。
そんなこんなで生きてきて、気付いたら、
マイク持って歌ったり、司会したりするようにまでなってた。
「いや〜、緊張して震えてますよ〜」とか言いつつ。
人が怖いのに、人が大好きになったし。
いまだに小心者なんだけど、
それがどうした!って感じで、日々やっとります。
2004年05月04日(火) |
井の中のカワズ、大海を知るべし |
人とコミュニケーションすると、
いつも、自分には当たり前で、よし!と思っていることが、
実は全然当たり前じゃなくて、
もっといいものがあると気付くことがある。
いつも、自分では真実だと思っていることが、
実は全然そうじゃなくて、
自分がそう思い込んでいたんだと気付くことがある。
まさに、井の中のカワズ、大海を知る、って感じ。
ここ少しの間、そうやって色々な人から贈り物をもらうことが多い。
あ、その考え方いいね!
あ、そのやり方いいね!
新鮮で、斬新で、もっといいものが、私の中にどんどん入ってくる。
私の狭い世界の境界線がパキパキと音を立てて割れて、
なんだか、まるで、狭い箱から広い場所に出て、
全身で伸びをしてるみたいだ。
苦手な人もいる。
なるべく避けたい人もいる。
無理してそういう人達とは一緒にいないけど、
接点を持ってもいいな、持ちたいな、そう思える人達とは、
折々、コミュニケーションしてみたいな、って思う。
基本的に、私は人付き合いが大好きってワケじゃない。
本当にそうしたいと思う時に、本当にそうしたいと思う人としか、
あまりプライベートな時間を共有しない。
って言っても誰もあまり信じてくれないんだよー。
対外的な顔の部分で、メチャクチャ社交的に見られてるから。
社交的なんだけど、そのかたわらで内向的なんだよー。
でも、こもってばっかりいると、
自分の世界が固まって、
そこにばっかりいるようになって、
何もかもが偏ってしまうから、
楽しそうな人をみつけたら、素敵な人をみつけたら、
すかさずその人のそばに行って、
やわらか頭になる試みをするのもいいな、って、
素敵な人たちとのやり取りを通して思ってた。
人は人で傷つくけど、人は人で救われる。
だから、恐くても、私はやっぱり人の元へと動いてゆく。
2004年05月03日(月) |
アンナの体験 〜語りかける声〜 |
先にお風呂に入ってアンナを待ったけど、一向に来る気配がない。
お風呂場からアンナを呼んでみた。
少しすると彼女はパタパタ走ってきた。
そして、こう言った。
「今ね、男の人の声がしたよ。
ソファーに座ってたら男の人の声が聞こえたんだ」
私はびっくりした。
で、その声が何て言ったのか聞いてみた。
「死ぬな、って言った」
げっ!
聞いてみると、死にたいわけでも、ブルーだったわけでもなく、
ただソファーでボケッとしていたら聞こえたのだそうだ。
命は大切だから頑張って生きようねって誰かが教えてくれたんだね、
って、私は言っておいた。
「赤ちゃんの頃は聞こえてたんだけど、
途中で聞こえなくなっちゃったんだ。
でも、今日からまた始まったんだよ」
え!?
そうなの!?
私はびっくらこいた。
「男の人だけじゃないんだ。
女の人の声もするんだよ。
大人も子供もいるよ。
頑張ってね、とか、勇気出してね、って言うの。
赤ちゃんの頃はね、
可愛いね、とか、大きくなってね、って言われた」
声が聞こえると恐いか聞いてみると、
「ううん、嬉しい。
よぉし、頑張るぞ、頑張って生きるぞ、って、
そんな気持ちになるよ」
私は、アンナを守ってる天使さんか誰かかな、って言っておいた。
よかったね、守ってもらってるね、って。
そして、こう付け加えた。
「ママも聞こえるんだよ。
でも、いつもじゃない、本当に困った時だけ。
もし、いつも声が聞こえたら、
その声に頼っちゃって自分で頑張らなくなっちゃうでしょ。
だから、本当に声が必要な時だけ聞こえるんだよ。
そして、応援してもらってるからこそ、
毎日の普通の生活を自分で一生懸命に生きようね」
その後は、いつもの日常の会話に戻していった。
あまりに興味を持っているように振る舞ってしまったら、
私が喜ぶからと、そういうことばかり話したり、
そういうことばかり追いかけるようになってしまうからだ。
それは、いかん。
しかし、驚いた。
アンナの話が本当なのか、子供独特の作り話なのか、それは、わからない。
私も小さい頃、ありもしない不思議な話を作って親に聞かせたことがある。
親がどんな反応をするかが面白くて、わざとしたものだ。
ま、アンナの口から語られたことが、現実か創作か、どちらでもいい。
でも、そういうことを話したというアンナの事実を大切にしたい。
本音を言えば、アンナの話が、真実の体験であってほしいと願っている。
私自身、苦境に立たされ、どうにもならない時、何度かそんな声を聞き、
ヒントをもらったり、勇気をもらったり、
時に癒されたりした体験があるから、
アンナの話が、あながち嘘だとも思えない。
アンナが、自分を守る存在達のそんな声を、
本当に必要な時に聞けるような波動を持ち、
しっかりと地に足を付け、
現実世界と見えない世界の両方を、
ごく当たり前に大切に感じて育ってくれたら、
本当にいいなぁ、って思う。
本当はすべての子供がこんな体験してるんじゃないか!?
そんなことを、ふと思った。
実際、人間は全員サイキッカー。
これからの時代、以前よりそういうものが否定されなくなるだろう。
見えない世界と現実世界がよく深くつながり、
バランスよく私達の中で共存する時、
サイキックはごくごく当たり前のことなのだ。
太古の昔、宇宙と調和して生きていた人類がそうであったように。
驚きでありながら、
でも、とても自然なことだと思える、
そんな出来事だった。
先日、セッション用の新しい椅子が来た。
私的にはかなりイイと思う。
座り心地、たまんないよ〜。
座ってみたり、寝てみたり、椅子三昧。
クライアントさん、座って気持ちいいって思ってくれるかな。
だといいな。
私も昼寝で使えるしな。
ふふ、使えるしな〜。
そう思いながらふと目をやると、
右斜め前に、私が座る椅子がぽつねんとある。
ショ、ショボい…。
クライアントさん用の椅子に投資したため、
自分の椅子を出し惜しみして買ったその末路は、
見た目重視、背もたれが木で、
背中が当たって痛いという悲しいものだった。
ちなみに、私が欲しいと思ってた自分用の椅子は13万円で、
ドッグイヤーされたその椅子が載ったページがある通販の本は、
そのまま燃えるゴミの日に消えていった。
背もたれにあてるクッション買おう。
確かいいのがニッセンで売ってたよな。
ちなみに、以前の椅子達のその後。
好評だったセッション用の椅子(腰痛の人向けに医者が作ったのよ)は、
実家の母の元にもらわれていきました。
カッチョ悪いタオルとかをかぶせられてます。
カウンセリング用に使っていたふたつの椅子は、
ウチのリビングで猫のお気に入りになってます。
まったく関係ないけど、
アンナが歯磨きや手を洗う時に使っていた洗面所のプラスチックの椅子は、
ダンナが乗った瞬間、ピシッ!という音と共に割れました。
ダンナの体重が最近増加の一途を辿っているためだと思われます。