おひさまの日記
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2003年11月26日(水) |
本当の気持ちから必死で逃げた結末 |
ここ2、3日、ある人がとっても憎かった。
私はその人にとてもひどいことをされていると感じた。
怒ったし、恨んだ。
今日も、その人のことを思い出すと怒りが爆発して、ものすごく憎くなった。
縁を切ってやる、今度こそ!と思ったりもした。
私も、その人にとても辛辣な態度を取った。
そう思っている間ずっと、私の胸は鉛を飲み込んだみたいに重く苦しかった。
それが、だんだんなんだか泣きたい気持ちになった。
そして、気が付いた。
そうか、私は悲しかったんだ、と。
私はただ悲しかっただけなのだ。
でも、それは辛い感情なので、無意識のうちに怒りや憎しみに変換したのだ。
私はその人のことがただ大好きだったのだ。
私がその人にひどいことをされていると感じたのは、
その人が私の望むような反応をしてくれなかったからだ。
私は自分の描いたものと違う反応を相手から受け取り、
勝手に失望した。
勝手に悲しくなった。
その人は私に対して何の悪意もなかっただろう。
お互いにコミュニケーションも足りなかったと思う。
でも、私は怒ったし憎んだ。
ひどいことをされたんだと信じていた。
相手が世界で一番悪い人だと思おうとした。
そうでもしないと、自分の反応で生じた、
悲しいという感情に直面しなければならないから。
怒りと憎しみを持つことで、私はその人から離れることができる。
心を閉じて離れれば、悲しみを感じなくて済むから。
私は痛い場所から必死で逃げていたのだ。
人と人との関係の中で、誰しも傷付くことがある。
心をオープンにしていればいるほど、ダメージは大きい。
だから、わざと距離を作ってしまうことを、人は無意識にしている。
私もそうだった。
ここ2、3日、その人に向けていたのは怒りと憎しみだった。
私にとってその人は完全な悪者だった。
でも、それは、真実とは逆で、
その人は私にとって大切な人で、本当は大好きなのだ。
ちょっとしたコミュニケーションの行き違いで生じる何かを引き金に、
それぞれがそれぞれの反応をし、人間関係がしっくりいかなくなることがある。
そういう時、誰もが無意識に自分が傷付かないようにする。
私はアルマジロみたいに固い殻をびっしりとつけて丸まっていた。
それが怒りと憎しみだった。
本当の気持ちから必死で逃げた結末だった。
本当の気持ちを見失っている時ほど、辛いものはない。
だから、私はここ2、3日、とっても苦しかった。
だって、好きなのに、憎いと思おうとしていたから。
今日、その人が大好きなのだという本当の気持ちを取り戻した時、
私の心の中は、雨上がりの空のようにスッキリとして晴れやかだった。
お互いがぎくしゃくしているのはとても辛いけど、
でも、自分に正直になったから、とてもスッキリしていた。
辛いけどスッキリ、なんか変だけど、まさにそんな感じ。
ああ、戻ってきたな、って思った。
本当の気持ちから逃げるのよそう、って思った。
その人とはいっぱいコミュニケーションして、
自分がひどい態度を取ったことは謝って、
また仲良しになりたいと思った。
そして、怒ったり恨んだりした分、
今夜は心を込めて、愛と感謝の気持ちを、時空を越えて贈った。
まだ、ごめんね、は直接伝えてはいないけれど、
届きますように、この「ありがとう」が。
あなたの今の気持ちの奥に何か別の気持ちが隠れていませんか?
本当の気持ちをカモフラージュするためのニセモノの気持ちに揺れてませんか?
「本当の気持ち」に出会った時、パーン!とスッキリするからすぐにわかるよ。
たとえそれが辛い気持ちでも、自分に正直でいることがどれだけ楽なことか。
2003年11月18日(火) |
基本に立ち返り、潜在意識の中のもうひとりの自分について |
あまりにも基本的なことで、語ることさえ忘れがちだけど、
今日、あらためて言葉にしたいと感じることがあって、
書いてみようと思った。
もう多くの人が知っているように、
私達人間の意識には、
顕在意識(普段自分で認知できる表面の意識)と、
潜在意識(普段自分では認知できない深い部分の意識)がある。
顕在意識は、
自分が普段考えたり思ったりすることそのものだから、
ここであらためて説明はいらないと思う。
潜在意識は、
普段の自分がまったく知ることのないものまで抱えている、
ある意味、化け物だ。
私達が「自分の本当の気持ちを知らない」というのは、
この潜在意識の中の自分の気持ちを知らない、ということだ。
顕在意識では「右に行きたい」と思っているのに、
潜在意識では「左に行きたい」と思っていることも、
私達の人生においては、往々にしてある。
そして、潜在意識の力は絶大であるがゆえに、
どんなに頭で「右、右」と思っていても、
人は必ず潜在意識が望む左に行ってしまうのだ。
だから、こんな羽目になる。
「ああしたい、こうしたい、
こんなに望んでるのに、努力してるのに、頑張ってるのに、
なぜ私はうまくいかないんだろう?
なぜ私はこんな目に遭うんだろう?」
私の師、中島勇一氏もこう言っていた。
「私達が体験していることは、
潜在意識が強く強く望んだことなのですよ」
そんな話をすると、
「ええっ!?私はこんな辛い目に遭うことを望んでるの?」
そう感じる方もいらっしゃるかもしれない。
それを簡単にひことことでは説明できないけど、
あえて、簡単に言うなら、自分が表面的には望まない辛い状況の中にも、
潜在意識の中の自分にはメリットがあるのだ。
メリットがあるから、それを望むのだ。
辛い体験をしながらも、
そこで自分が何かを固守したり、
過去に体験したような同じ痛みで傷付くことを避けたり、
冒険をせずに済んだり、
被害者になって相手に責任を転嫁することで、
自分の責任から逃れることができたり、
人をコントロールできたり、
とにかく、なにかしらのメリットが存在する。
また、もっと掘り下げて語れば、
魂自身が、自分の成長を望むために、
あえて自ら試練を背負うこともある。
こんなこと、頭では考えられない。
願わくば辛いことなどない方がいいからだ。
それでも、そうして辛い体験を繰り返すうちに、人は学習する。
ああ、苦しい、イヤだ、こんなの本当にイヤだ!
魂の底からそう思えた時、
初めて顕在意識は強く潜在意識に働きかけ、
顕在意識と潜在意識の矛盾に、私達は対峙していく。
魂が成長のために選んだ試練なら、そこで得たものを人生の糧にしていく。
そして、知る。
潜在意識で望んで引き寄せていた辛い現実は、
不安や恐れに基づいた自分のSOSであるということを。
自分の学びのために選んでいた体験だったといことを。
そこで今まで知らなかった本当の自分に出会うのだ。
すると、人は本質の部分から幸せを望むようになり、
やがて、顕在意識と潜在意識が統合される(両者で同じことを望むようになる)と、
真実の幸せを手に入れるようになる。
人のいかなるコントロールも介入しない、
自分の意志と力に基づいた幸せを、だ。
私達は一生という膨大な時間をかけて、この作業をしていく。
気が遠くなりそうだけど、
少しずつでも本当の自分に出会って抱きしめていくという、
とても心踊る作業でもある。
私達は己を知ってこの世を去っていくのかもしれない。
自分の今の状況が自分の望むものでない時、
どうかこのことを思い出してください。
今体験している状況には、必ず自分でも気付いていない、
潜在意識の奥にいる自分からのメッセージが込められているということを。
私達はその矛盾に出会い、そして、受け止め、
そこから真実を見い出すために生きているのです。
トイレの便座にはウォーマーが付いてるのがあるよね。
最近寒くなって、便座に座る度、
おしりちゃんがヒヤッとしてすんごく悲しかったんだけど、
そう、ウォーマーのスイッチ入れればよかったんだよね。
ってことで、昨日からあったか便座にしてみた。
幸せ…
ちなみに、私の温度の好みは、
熱いんじゃなく、人肌よりほのかにあったかい程度のもの。
時々、人の家のトイレを借りると、
座った途端「あぢーっ!!!」って思う便座があるけど、
あれはいただけないわ。
ユニクロのフリースのあたたかさにも幸せを感じるこの頃。
これは絶対にあったかくて冬にはオススメ!ってもんがあったら、
寒がりの私にぜひ教えてほしいです。
時には意図的に感覚のブレーカーを落とす。
エゴの嵐の中で傷つけ合う言葉と言葉。
それぞれが正論を盾にしてもくろむ静かな攻撃。
互いが知り得ないそこに潜むそれぞれが真実だと思っているもの。
それに疲れて。
2003年11月11日(火) |
「シャドー(投影)」について思うこと |
心について勉強していくと、必ず「シャドー」という言葉に出会う。
「シャドー」とは、影、投影を指す。
シャドーを見る、シャドーを感じる、それは、
相手に自分の影〜そこにありながら(気付いていない)自分のある部分〜を、
他人に投影して見ることなのだ。
シャドーを感じる時は、必ずなんらかの感情的反応を伴う。
一番わかりやすいのは怒りや反感、矛盾、不愉快さだ。
これを聞いて、
「えっ!?じゃあ、私の大嫌いな人と私は同じってこと!?」
と、返してくる人もいる。
それは、違う。
相手のイヤだと感じる部分を自分も持っていて、
そうであることを自分に罰しているということだ。
潜在意識の中では、
「私は自分がこういうことしちゃいけないって決めてんの!
だから、あんたがそういうのするの見ると納得できないんだよね!
あんた間違ってるよ、おかしいよ!」
と、叫んでいることになる。
わがままな人を見て反応し、怒りや反感を覚える人は、
わがままに振る舞うことを自分に許していないということになる。
女性らしい細やかで気の回る人を見て反応し、反感や不愉快さを覚える人は、
女性らしく愛らしく振る舞うことを自分に許していないということになる。
のんびりしている人を見て反応し、イライラする人は、
のんびりリラックスするのを自分に許していないということになる。
いわゆる、嫉妬もシャドーであることがある。
自分の才能を卑下している時、相手を妬む形で感じるだ。
誰かをものすごく素敵だと思うのもシャドーだ。
それが自分の中にあるから「素敵」という感情的反応が起こる。
自分の中でのモラルもシャドーで知ることができる。
例えば「人付き合いや社会のマナーを守る」ということを大切にするなら、
マナーが悪い人、礼儀がなってない人を見れば、反感や不愉快さを感じる。
シャドーと言うと、自分の欠点を見るようなイメージがあるらしいが、
鏡なのだから、自分の美点も見るわけだ。
そして、それを理解すると、
自分がどんな人間であるのかを理解することができる。
投影、投げて写すという言葉そのまま、私達は鏡を見るように、
自分で気付いていない、もしくは自分でも認めようとしない、
自分自身の真の姿を、相手を通して知っていくのだ。
シャドーというものを知ることは、
自分を知るひとつの方法として、とても大切なことだ。
でも、シャドー自体はさして大切なものではない。
ただの鏡だから。
乱れた髪を直す時、鏡を見る。
メイクを確認する時、鏡を見る。
そんなもんなのだ。
鏡がないと自分が見えないけれど、
じゃあ、髪型がおかしいのは鏡のせいかと言うとそうではなく、
そこに映っている本人の髪型がぐしゃぐしゃなだけなのは明白だ。
鏡はただの道具でしょ?
だから、シャドーもそれだけなのだ。
なのに、シャドーがちょっとわかってくると、
「私、どうしてもあの人にシャドーを見てしまうんです」
そんなことを言う人がいる。
それはこう翻訳できる。
「私、どうしてもこの鏡に自分の姿を見てしまうんです」
鏡に自分の姿が映るのは当然だ。
いけないのだろうか?
いや、いけなくない。
鏡の中にマスカラがにじんでパンダになった自分がいたら、
メイクを直せばいいように、
シャドーを見たら、それを自分だと知り、受け入れるだけでいい。
それ以上でも、それ以下でもない。
こんな時、シャドーとかそういう言葉は、使えば使うほど事実を歪めていく。
心理学、精神世界の用語に現実を当てはめて、現実から逃避してしまうのだ。
相手に腹が立つ、ムカつく、不愉快さを感じる、
そんな時はこう言ってもいいんじゃないかな、
「あの人イヤだな」って、シンプルに。
シャドーという言葉を使うことで、
自分の感情という現実から逃げてはいけないのだ。
また、人との関係がうまくいかなくなって、こう言う人もいた。
「あの人は私にシャドーを見てるだけで、本当のことわかってないんです」
これは、自分が避けられていることから逃げようとしてるだけ。
そして、こう翻訳できる。
「あの人は私と離れたいと言うけれど、それは何かの間違いなんです」
この場合は、シャドーという言葉を使うことで、
相手の感情と向き合うことから逃避してるケース。
鏡はただの鏡なのだ。
自分を知るための道具に過ぎない。
いつも鏡を見ている人はいない。
必要な時にだけ見ればいい。
シャドーもしかり。
いい道具を持って、必要な時に使う。
それが素敵だ。
今、私は、周りの人に、
『「シャドー」という言葉の乱用をやめようキャンペーン(たった今命名)』
をやっている。
好き、嫌い、嬉しい、悲しい、ムカつく、不愉快、それでいいじゃない?って。
人間の持つ宝物、感情。
それを眺めないで、一体どうするの?って。
そこにこそ私達の真実があるんだよ、って。
シャドーなんて用語使って、何を何にスリ変えてるの?って。
そして、鏡を見る必要がある人にだけ、言う。
「じゃあ、そこに見るあなたのシャドーを考えてみましょう」と。
そして、その人が鏡に映った自分を見て、自分の姿を知ったら、
私はその鏡をさっさとしまわせる。
また、私のとても大切な人を、あらゆる形で攻撃している人がいる。
その人は、会話の中で「シャドー」を連発するけれど、
自分が私の大切な人を攻撃していること自体が投影だと気付いていない。
自分に相手と同じ部分があると知らず、現実で相手を責めるなら、
「私は最低だ!私は最悪だ!私はダメな人間だ!私は自分が嫌いだ!」
と、自分を責めていることになる。
シャドーは、本当の意味で理解できた時、実はどうでもいいものになる。
どうか、信頼できるいい道具を持ってください。
そして、それは必要な時にだけ、必要な時にこそ、使ってください。
私はそれに何度も失敗して、寄り道もいっぱいしたから、
みなさんは近道を通ってください。
2003年11月08日(土) |
ふっと自分に立ち返る |
時々、自分のコンディションがよくないと感じる時がある。
私の場合、特に、メンタル面のコンディションがよくない時、
それが顕著に現実に反映する。
その現実を見て、自分が荒れていることに気付くのだ。
「あ、私、最近おかしいんだ」
何かのイヤな出来事がきっかけでドーンとその場所に落ちることが多い。
また、傲慢になっている時にもそうなりやすい。
そういう時は、人の悪い面ばかりが目に付く。
出来事をなんでも他人や物事のせいにして被害者に甘んじてしまったり。
自分の非を認めない。
やたら排他的で、他人を攻撃する。
愚痴も言う。
悪口も言う。
気分が悪くなる。
ゆえに気持ちが穏やかではない。
そんな自分が引き寄せるものは、そんな自分と似たようなもの。
悪循環だ。
まさに「最近ヤなことばっかり」になる。
そんな時、意識して声に出して言ってみる。
「私が体験している感情はすべて私の反応です。
私が体験している現実はすべて私が引き寄せています。
誰のせいでもなく、私自身の責任もと、すべてが起こっています。
これを通して私自身が成長できるように導いてください」
こんな感じの言葉を、何度も何度も繰り返して口に出してみる。
そうすると、
荒々しい感情に翻弄され外に向いていた意識が、
だんだん自分の内側に向いてくる。
自分の波動のチューニングとでも言うのだろうか、
今の自分の状態を認めることで、何かが動き出す。
自分の「傲慢チェック」や「犠牲者チェック」を意識してやってみると面白い。
その行為を行うということ自体に、「自分を冷静に見てみよう」、
つまりは「真実を見てみよう」という衝動が含まれるわけで、
もうそれを行った時点で、私達は自分の原点に戻れているのだ。
素直にそこで自分を見つめることで、私達は自然にたくさんのことに気付ける。
それは、人間が本来持っている能力だ。
判断しない、裁かない、
ただ、ただ、今自分はどんな状態なのか、
それを見極めていく。
すべての責任が自分にあるということは、
自分が悪いということは全く別のことだから。
己を知ること、常にこれが原点なのだと感じる。
日常の中での瞬間、瞬間、
ふっと自分に立ち返ることができたら、
答えは自然に後から必ずやってくる。
自分の美点を認めよう、うぬぼれるのでもなく。
自分の非を認めよう、卑下するのでもなく。
淡々と、淡々と。
2003年11月03日(月) |
ティッシュの大切さ@SunGoddess |
少し前、辛いことがあって、
セッションルームでぴーぴー泣いた。
ティッシュで涙と鼻水をふこうとして驚いた。
「なんぢゃ、こりゃ!」
ごわごわ〜。
がさがさ〜。
顔が痛いよ、このティッシュ。
そう、
ディスカウントショップの中でも一番安いティッシュを選んで買ったという
ケチの末路だ。
こういうところでケチっちゃいけないね。
やっぱり、ふんわり柔らかやさしいティッシュで涙と鼻水はふきたいもんだ。
クライアントのみなさま、
ここしばらく、こんなごわごわティッシュで顔をふかせていたのね。
ごめんなさ〜い!
これからは、涙をやさしく吸い取ってくれるティッシュにしますね。
心の痛みを涙にして出したら、
ふんわり柔らかやさしいティッシュでふきたいよね。
セッションルームのティッシュの質は大切だよなぁ。