おひさまの日記
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2003年06月30日(月) 武装解除

私達は生きるための武器を持っている。

ポケットにバタフライナイフを隠し持ってるとか、
押し入れにバズーカやロケットランチャーがあるとか、
そーゆー物騒なモノではない。

私達の武器、それは目に見えない武器。
時には、武器に見えない武器。
昨日の日記に書いたミュンヒハウゼン症候群もそのひとつだろう。

太宰治の「人間失格」を読んだことはあるだろうか?
その主人公の武器は「道化」だった。
人々の前でおどけて笑いを取り、時には嘲笑の対象にさえなることで、
自分のダークな本質を隠し、人々とのつながりを保った。

虚勢、名声、立場、高いブライド、才能、金、
セックス、暴力、病気、嘘、従順さ、笑顔、弱さ、冷静さ、
傷、涙、無知、無関心、無感動、被害者意識、

あなたの武器は、何?
それでつなぎ止めているものは、何?
それで維持しているものは、何?
それで守ってるものは、何?
そして、それは、あなたの本当の幸せ?

私達は、たくさんの守りたいものを持っている。
安全、安心、立場、評価、人間関係、愛情…
もっともっと無限にあるはずだ。



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どういう形であれ自分を受け入れてもらわないと、
私達は自分の居場所を失い、自分の価値を失う。
だから、武器を持つのだ。

武器の使い方は二通り。
ひとつは、人を脅かし支配する方法、
もうひとつは、人の意識をこちらに向ける方法(往々にして自己犠牲が伴う)、
後者は武器をエサに例えることもできる。
「ほらほら、これをあげるから、これをしてあげるから、こっちへおいでよ。
 私の側にいればこんないいことあるんだから」
「私はこんななんだから、あなたは言うことを聞かなくちゃダメなのよ」
「ねえ、私を仲間に入れてよ。
 あんなこともするし、こんなこともする、なんでもいう通りにするからさ」
ってな感じで。
どちらにも共通するのは、そこにコントロールが存在するということだ。

コントロール、それは、
なんらかの形で相手の意思を操作すること。
時には、相手の意志を無視して何かを強制すること。
そこまでして守ったものは、本当に自分にとって素晴らしいものなのだろうか?

何より、武器を使って人をコントロールしても、
その人の本当の心をつかんだことにはならないんだよなぁ…
それって、本当はすっごくみじめなんじゃないだろうか。

今日、そんなことを考えていた。

私も武器を持っている。
恐れと不安から握りしめた見えない武器を持っている。
それらにより、それとは気付かれないコントロールの数々をしてきた。
そして、守り抜いたものもあった。
上手く切り抜けた修羅場もあった。
けれど、私は本当の意味で幸せではなかった。
なぜなら、コントロールにより奪い取ったものが自分に残ったから。
それは、相手が本当の意味で私に与えてくれたものではなかったから。
満たされないのだ。
そして、それは自分の価値の放棄でもあったんだ。

とても怖いけれど、武器を手放し、少しずつでも武装解除したいと思った。
それは、自分が恐れと不安に基づき、武装し、
それによって人をコントロールしているということに気付くことから始めるのだ。



なんか、抽象的な話になっちっただすな…




ふうん、そうなんだ、でも、私は、俺は、そんなことないな、
そう思った人が、実はいちばん武装してるのかもしれないよ。
ふふふふふふふ…


2003年06月29日(日) ミュンヒハウゼン症候群

今日、特命リサーチ200Xー2で、あるイギリスの女性の
「代理によるミュンヒハウゼン症候群」による幼児連続殺人、殺人未遂を取り上げていた。

「ミュンヒハウゼン症候群」とは、簡単に言うと、
自分自身にケガや病気を意図的に起こし、もしくは、そうであると偽り、
周囲の関心を得る行為を行うこと。
それによっての人間関係をコントロールするのが目的なのだ。
ケガや病気を負うことにより人間関係をコントロールする、
つまり、彼等の意識を自分に引き付ける。
そして、自分の存在意義を感じてゆく。
病気や使用薬物の吹聴、アピールなどもそれに当てはまるだろう。

そして、「代理によるミュンヒハウゼン症候群」とは、
自分自身に行っていたケガや病気の捏造を、他人に行うことを言う。
その多くは、母親による子供への虐待という形が多い。
子供にケガをさせ、もしくは薬物等で病気をさせ、
病院に運び込んだり、看病したり、その姿を人に見せ、
同情や賞賛等の感情をあおり、周囲の意識をコントロールする。
彼等の意識を自分自身に引き付け、自分の存在価値を感じてゆく。

そのミュンヒハウゼン症候群の人の多くは、
幼児期に十分に親の愛情を受け取れていない、
または、現在の人間関係の中で自分の存在価値を認めてもらえていると感じられない、
そんな、自分が大切にされていないという痛みからの衝動で、
そういう行為に走るケースが多いそうだ。

特命リサーチ200Xー2で放送していたそのケースは、
看護婦である女性が、小児病棟に入院している子供達に薬物を意図的に投与し、
彼等が死に瀕する状況を目の当たりにして活躍する自分、それを嘆き悲しむ自分を、
周囲にアピールすることにより、自分の存在価値を高め、確立していたケースなのだろう。
それにより、多くの子供達が命を落とし、多くの子供達が重度の後遺症を患った。
彼女は自分の親友の子供の命まで奪った。

彼女の行為は異常で過剰だと思った。
けれど、よくよく考えると、
私達の誰もがそうなりうる可能性を秘めているのではないかと思った。
もちろん、彼女の行為は犯罪であり、許されるものではなく、
絶対にあってはならないことなのだが。

私は、子供の頃、暴力を振るう父の元に育ち、
思春期の頃には、彼が暴れ出すと、
わざと体の一部にケガを負って大騒ぎするようになった。
カミソリで腕や手の甲を切るようにもなった。
時々、精神病のフリをし、わざと異常な行動を取ったりもした。
病院に担ぎ込まれると、医師の前でもキチガイのフリをしたこともあった。
精神安定剤を打たれると、おさまったフリまでした。
すべて計算づくだった。

そんな体験を経てここにいる今、
その、ミュンヒハウゼン症候群は、実はヒトゴトではないのだ。
テレビのそのケースを見て、異常だと思う反面、
そこまで精神が歪んでしまう苦痛があったのだと容易に思える自分がいる。


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ごくごく軽度のミュンヒハウゼン症候群は、誰の中にも存在するのではないだろうか?

私だってそうだ。
ダンナは、共働きでありながら、家事の「か」の字も手伝わずにゴロゴロ、
日頃、何か話しかけても、あーだの、うーだの言って、
私の話よりもテレビの方が大切だというような態度でいることも多い。
そんな時、我慢の限界が来ると、私は必ず病気になる。
仮病だ。
「頭が痛いの」
「吐き気がするの」
「熱があるの」
そうすることによって、彼の意識をコントロールする。
それもこれも、
「私が病気になると、彼は私にやさしくなる、言うことを聞いてくれる」
という体験に基づくものだ。
彼は、私の計画通り、急にやさしくなり、家事を手伝い、かいがいしくなる。
私はしてやったりとベッドにもぐり込む。

私はちょっとしたおしおきのつもりでやっているが、
実は、その根底では、正面からコミュニケーションを取る恐れを持ち、
別の手段でのコントロールの心地よさを知っている私が存在する。

その番組の中で、アメリカのえらーい先生が、
私達の全員がミュンヒハウゼン症候群になる可能性があると言っていた。
その通りだと思った。

今日、ダンナがいきなり怒り出して、私を責め始めた。
私の天然な言動にキレたようだった。
その時、急にすごく胸が痛み、息が、ハッ、ハッ、と短く苦しくなった。
心臓がものすごい動悸だった。
吐き気までしてきた。
そして、その時の感覚は、昔、父が暴れだして私をことごとく打ちのめした、
あの時の感覚と同じだった。
私は、大きなショッピングセンターのまん中で、人目もはばからず涙をポロぽろこぼした。
「こわいよー、こわいよー、やめてよー、許してよー」
私は心の中でただただ繰り返していた。

ダンナがキレて、私がここまで病的にひどくなったのは初めてだった。
今なら新しい癒しの段階に入ったのかもしれないとも思えるけれど、
その時は、そんなことよりも恐怖の感情が強くて、何も考えられなかった。

まだこんな感情が残ってたんだ…
私はそんな自分を思い出して思う。

そんな矢先に見た「ミュンヒハウゼン症候群」の番組、
それは、私に多くの示唆を与えてくれた。

カラーブリージングを始めて、
レイプし殺された尼僧の前世のフラッシュバックが始まって以来、
恐らく、私に新しい癒しの段階が訪れているのではないかと思う。
それから、あらゆる出来事を通して、
今まで目をそむけていたであろう、感じてもうやむやにしていたであろう、
そんな感情や感覚が一気に吹き出している。
それをあおるような出来事が起こっている。
だから、とても苦しい。

私は自分でもずっとヒプノセラピーを受け、
まるで、体験談の見本のような退行をしていた。
それが、ある時から、過去の記憶へ誘導されると眠ってしまって退行できなくなった。
そこには大きなブロックがあるのだろうと、漠然とは考えていた。
今、私のその部分にメスが入ろうとしているのかもしれない。

とても怖い。
けれど、受け入れようと思う。
きっと時が来ているのだ。

セラピストであろうと、癒しは一生の作業だ。
私にも手放せていないものはまだある。
ゆえに、苦しみもまだある。
だからこそ、私はこの仕事を続けていきたい。
私の体験を、そのまま出会う人に伝えたい。
私の癒された体験が、出会う人の癒される体験になる。
私は自分が体験した分しかセッションを提供できないのだ。
だから、挑む。
自分のためにも。

私は、いつかこの目で真実を見たい。
果ての果てにある真実を見たい。
人が生きるということの意味を。
人が生きるということの喜びを。

私は負けないんだ。


2003年06月21日(土) 幻想を打ち破る

私は、誰かの言葉や態度を通して、
見下されたように感じる時、バカにされたように感じる時、
大切にされていないように感じる時、ものの見事に打ち砕かれたと感じる時、
自分がチンケでみっともなくて、恥さらしで価値のない奴だと思ってしまう。
「あなたってダメな人」「あなたはたいした人間じゃない」
と言われているように感じてしまう自分がいるのだ。
で、どどど〜んと落ち込む。

昔はそんな自分を癒すんだとか、変えるんだ、とか思ってたけど、
今では、そんな自分のままで生きてってもいいかなぁ、って思う。

なぜなら、厳密に言うと、私がそう感じてしまっているだけで、
実は相手はそこまで私を見下したりしていることはないからだ。
時には、これっぽっちもそんなこと考えていなかったりする。
ただ、単に、相手の何かを見て聞いて読んで、激しくそう反応する私がいるだけなのだ。
それを自分の中で明確にしたワケ。
もっと簡単に言うと「ああ、私って激しく反応してる」と知ったからだ。

激しく反応している自分がいると知るということは、
自分の「私はダメな人間」という思考が真実なのではなく、
そんなただの反応の産物なのだと気付くこと。

勝手に湧いて来る悲しい気持ち、不愉快な気持ちや、自己卑下の気持ちは、
もう、とりあえず、感じ切るしかないの。
感じて落ち込むしかないの。
だって、勝手に出てきちゃうのだから、どうしようもないのだ。
感じることを恐れずに感じ切ると、その先には案外なにもない。

感情を感じながら、それが自分の怖れと不安の産物であり、
実はまったくの幻想だと知っていればいい。
「反応」はすべて幻想なのだ。
自分がその幻想に翻弄されていることだけ知っていればいい。
翻弄されることは悪いことではない。

暗闇の中のお化けが、取り込み忘れた洗濯物だと知れば、恐怖はなくなる。
ヘンな例えだけど、それと同じことが言える。

私達が「自分はダメ、価値がない」と信じるのは、
その怖れと不安の産物、反応から生まれた幻想を信じるからだ。
それは、自分の意志と力の放棄でもある。

真実を知ること、それは幻想を打ち破ることだ。
私には価値がある。
あなたには価値がある。
自分はどうしようもない、自分にはどうにもならない、
そう信じた時から、私達は意志と力を失うのだ。

少しの間落ち込んだら、それを思い出し、また立ち上がればいい。
それが生きる知恵だ。


2003年06月18日(水) 努力って言葉を尊く感じた日

ジム、初日。
美しくあるためにはものすごい努力が必要なんだと痛感した。

インストラクターの方にとても親切にしていただき、
初心者チックなりに色々教わってやってみた。

が、日頃運動なんてしないもんだから、もうキツイのなんのって!
終わった後死んだね…、もう吐きそうだったもん…
車運転して帰るのが困難に思えたほど。
しかも私のかぷちんはミッション、ギアチェンジする気力も体力もなく、
ローギアでひっぱって運転してたよ。

本当なら、あんなしんどいならやめてしまいたい。
でも、頑張る。
カラダ、変えたいんだ。

これに平行してダイエットも敢行中。
運動して腹が減り、たらふく食って、
意味のないダイエット初日だったけど。



もっと、もっと、いっぱい書きたい話題はあるのに、睡魔が…
ベッドでこれ打ってたら、途中寝てたよ。


2003年06月13日(金) 日常の中のひとつの決意

今自分にある中のひとつの人間関係を手放す決意をした。

その関係の中には、捨て難いメリットがある。
それを手放すのは、私にとって、苦渋の選択だ。

でも、そのメリットより、もっと大切にしたいものがある。
それは私の気持ちだ。
不愉快極まりない中、
自分を偽ってまでその関係をつなぐことに疑問を感じたのだ。

不快な相手は間違いなくシャドーだ。
でも、シャドーだからと言って、それを受け入れるために、
ずっと付き合わなくてはいけないのではないと思う。
不快なものは不快なのだ。
見終わった鏡を閉じるのだ。

その関係を手放せば、私はきっと、
その関係以上の新しい人間関係を手に入れられるはずだ。
それをまた体験したい。

私がよくクライアントさんに言う言葉のひとつに
「出枯らしのお茶っぱは捨てよう」というのがある。
お茶の美味しいところ(学び)をいただいたら、
もうそれは手放していいですよ、と。

決めたらとてもスッキリしたよ。

私は多くを失うかもしれない。
でも、それをよりよい形で取り戻せる。
それを信頼して、この決断をする。


2003年06月12日(木) 反面教師

今日は、
誰かが人のことを悪く言ってるのを聞いたり、
誰かが人のことを煙たく思っている態度をアカラサマに見たり、
そんなことが続く日だった。
行くとこ、行くとこ、やたらそんなんばっかりだったなぁ。
正直、気分悪かった。

ま、私も時々悪口とかさ、言っちゃうんだけどね(笑&汗)

自分が何かや誰かをイヤだと思うことは自由だ。
絶対アリだ。
そして、それを愚痴りたくもなるし、それが人ってもんだ。

でも、それを他の人にやたら吹聴し、
その「イヤ」を、あたかも正義のように語るのは、
聞いてて心地よくないな、私個人としては。
それは、もはや愚痴の範疇を越え、
「それは洗脳行為か!?(笑)」とまで思えてしまう。
今日もそうだったなぁ。
一体、何人にそれを、自分の「イヤ」を力説すれば気が済むんだろ(笑)
(この(笑)がポイントだ)
それ、チミの反応だってば!
そう思って眺めてた。
その人という分厚いフィルターを通した現実の力説。

自分の「イヤ」に人を巻き込むのやめようよ、
その「イヤ」で仲間増やして徒党を組むのやめようよ、
そんな気分でそんな様子を眺めてた。

そして、そんな様子を見て、
「あ、私も同じことしてるかも!」
と自分の言動を冷静に眺めて恐ろしくなった。
うお〜っ、ヤベ〜っ!
最近自分のした大小様々な同じような行為が一気にフラッシュバックし、
ねーさん真っ青。
そうだよねぇ、そうだよねぇ、無意識にやってるよねぇ、
人のこと言えないよねぇ(笑)

いや〜、でもしかし、気分悪かった。
そう、だから「人の振り見て我が振り直せ」なんだねぇ。
気付けてよかった(汗)

私だってなんらかの醜いことをして、
私が彼等を批判的に見るように、誰かも私を批判的に見ているかもしれない。

私が今日の出来事とそこから感じたことをダンナにひと通り話すと、
彼はぽつりと言った。
「人間は考えて行動できるから畜生じゃないんだよな」
うっ……!
いいこと言うぢゃん!
そか、考え、行動を変えることができるから人間なんだよな。
振り返り、反省し、行動修正し、そうしていこう、そう思った。
無意識にしていることを意識的に変える、これは人間にしかできないんだよな。

不愉快だったけど、一応礼を言うよ、反面教師殿。
得るものは確実にあったさ。




今日、移転し新装開店したファッションセンターし○むらのセールに、
朝から一緒に並んでくれたあやちゃん、ありがとぉ〜♪
今日も激安でいいものいっぱいゲット!
独身の頃は、し○むらのセールに並ぶなんて考えられなかったけど、
行ってみると、これまた安くていいモン手に入るんだなっ。
驚きだよ。
大手の百貨店と同じものが、何割も安く置いてることもあるんだよ。

主婦には主婦の道がある。
極めよう、主婦道!


2003年06月11日(水) 真っ白

今日は頭の中が真っ白。

流れる日常の生活に必要なことは、その時その時、考え、そして、する。
それだけ。

思考回路がおかしくなってしまったみたいに、頭の中が真っ白。
何も考えられない。
考えようとすると、突然、何もかもが頭の中からふっ飛ぶ。

こんな日もあるんだな。

昨日からサーバーにデータを転送できなくなったり、
何か言おうとすると忘れてしまったり、
なんだかこんな感じだ、う〜ん。
まるで、私が何かを発信することを止められているみたいだ。
今、この瞬間のその前、何を考えていたのかさえ忘れてしまう。

こういう時は、きっと、それがベストだからそうなってる。
今までもそうだった。
きっと、今もそういう時なんだなぁ。


2003年06月08日(日) 三位一体

最近、よく、クライアントさんにお話しするのが、
「第三の自分を持つ」ということだ。
それを持つかどうかで、人生は大いに変わってくると言っても過言ではない。

どういうことか、わかりやすく例を書いてみる。

悪態ばかりつくクソ憎らしいガキんちょがいるとする。
そのガキんちょを見て、
私の場合なら(よくよく感じていけばすべての人に)、
「このクソ生意気なガキ、ブッ殺すぞ、コラァ!」と思う自分と、
「家でママの愛を受け取れていなくて寂しいんだなぁ」と思う自分が同時に存在する。
その瞬間、瞬間で、どちらかにウエイトは置かれるけれど、
その両方の解釈がその子供に対してなされている。
「どっちが本当に私だろう?」ではなく「どっちも本当の私」なのだ。
そのどっちかに自分を当てはめようとすると、すんごく苦しくなる。
片方の自分を切り捨てることになるからだ。

私達は、自分の中に、常に相反するふたりのパーソナリティを持つ。
それは、多重人格等ではなく単にあたりまえのことだ。
夏は暑い、ということくらい、当然のこと。
そのどちかを切り捨てるということは、
完成された形をわざわざ切り崩すような行為なのである。

道教のタオのマークは、陰陽が対になり、陰の中に陽、陽の中に陰がある。
あの白と黒のまが玉みたいな模様のマークだ。
つまり、あれがすべてのバランスの取れた形なのだ。
どっちもあって、それが完璧なのだ。

私達で言えば、白か黒、どっちかになろうとするとバランスが崩れる。
つまり、上の例のパーソナリティで話をすると、
クソ生意気なガキ!と息巻く自分、寂しいのね、と理解を示す自分、
自分をそのどちらかにあてはめる必要がないのだ。
どちらかにあてはめようとすると、バランスを崩す

それは、切り離した方のパーソナリティの否定であり、自己否定の始まりとなる。
もともとくっついてるものを「くっついてないの!」と頑に思っていると、
くっついてること自体に嫌悪を感じる。
そんな余計なものがくっついてる自分に罪悪感を持つ。
それは、とっても苦しいことだ。
自分を否定しなけらばならなくなるんだから。
自分がイヤ!自分が嫌い!こんな私はダメ!ってことにもなっちゃうんだから。

ダメぢゃないのよ〜。
だって、すべては常に相反するものがそこに存在してこそ完璧なのだから。

この相反するふたつの要素を持つ自分をしっかり認めた上で、
さらに、そのふたりを遠くから眺める「第三の自分」、これを持つ。
タオのマークはそこに存在するだけではタオのマークにならない。
それをタオのマークだと認識する者があってこそ、それそのものになる。
それと同じだ。

「こんなふうに思ってる自分と、その反対のこと思ってる自分、両方いるなぁ」
そんなふうに、ただ、客観的にふたりの自分を眺めている自分、
その「第三の自分」がいれば、完璧な自分が生まれるのだ。
この三位一体を体感できる時、私達は不動の自分を手に入れることができる。

出来事とそれに直面したことで湧いて来る感情の渦に巻かれないのだ。
巻かれてぐるぐる回ったりしないのだ。
どんなに辛い感情が自分に訪れても、それはそれで味わいながら、
常に客観的に状況を眺める力を手に入れることができる。
そうなった時、私達は多くのことに気付いていく。

私達が自分を嫌いだと思う部分、こんな私ではいけないと思う部分は、
実は、全然嫌うようなモンじゃないし、いけなくもない。
何かの出来事に直面して「こう感じる」という湧いて出る想いは、
自然に湧いて来るのであって、自分のせいじゃないのだ。
人間サマである以上、私達は108あると言われる煩悩を持ってて、
人間なんだもん、しゃーないよ!って部分なんだ。
それは、朝になると太陽が昇り明るくなるのと同じ位、永久不変の真理なのだ。

小さい頃、親に怒られたり、否定されたり、
また、社会での常識や通念により教育されることで、
私達は自分の中の「悪の要素」を認識していく。
そして、それらを、自分の中に存在してはいけないものだと受け止めていく。
私達は自分達の中にある観念を「真実」だと思ってしまいがちだけど、
その「存在してはいけないもの」という認識こそが幻想だ。
ただ単に、だれか、もしくは何から刷り込まれた幻想だ。
幻想が幻想だと気付くまでに、私達はどれだけの時間を割いていることだろう。

相反する要素の自分と、その両方を客観的に冷静に眺める自分、
その三位一体、
それが、私達を人間の幻想の渦から救い出し、
真実への第一歩へと導いてくれる。

そんなカタイことじゃなく、
もっと簡単に言うと、
そんな「第三の自分」を持つことで、
生きることがものすごく楽になるよ。


2003年06月04日(水) 人生は私達が思う以上にうまくデキてる

先日、当日キャンセルしたクライアントさんがいらした。
とても申し訳なさそうになさっていた。
でも、当の本人の私は全然気にしていなかったりする。
ドタキャンにかかわらず、あらゆるキャンセル、実は結構多い。
そうなってしまったみなさん、本当に気にしなくていいんですよ〜!

でも、申し訳なさのカケラもなく、
「キャンセルして当然」みたいな態度や、連絡なしの当日キャンセル、
ンなのは、こっちも『ブチッ』なんだよなぁ(ごくたまにいらっしゃるのよぅ(涙))。
あくまで礼節を持った上でのお話なのであります。

お子さんが突然熱を出す、
日にちを勘違いする、
寝坊する、
急な予定が入る、
こちらには言えないだろうけど、どうしても行きたくなくなる、
で、仕方なくキャンセル。

実は、これは必然的に起こっていることなのだ。
セッションを受ける時期、その詳細な日時までもが、
その方に必要な「その時」だからだ。

自分では「受けたい」と思って予約をしても、
『まだ受ける時期ではありませんよ』
『別の日の方がいいですよ』
という、上の方の(上ってどこさ!?)人達の(人なのか!?)はからいで、
キャンセルをしなければならないように状況が動いたりする。
次回の予約までの間に、ある出来事があり、
それを下地にとてもいいセッションができたりすることだってある。
それはキャンセルしたからこそ生まれる恩恵だったりする。

もしくは、もっと自分に合うセラピストが見つかったり。

また、自分では「受けたい」つもりでも、
深い意識の奥の方で『まだ受けたくないの、コワイの』と、
内面を覗き込むのに躊躇する自分の成せる技だったりもする。
「ああ、セッション受けたいのに、いつも都合が悪くなるわぁ!」
そんなふうに、現実的にセッションが受けられなくなってばかりいるのは、
こういう深い部分に存在する気付いていない自分がする「おいた」だったりもする。

それに、ドタキャンがあった日、
実は、私も体調を崩して死にそうだったり、
どうにこうにも避けられない予定が入ってしまっていたりすることがある。
あとは、ああ、今日はどうしても遊びに行きたいなぁ、と思ってたとか(爆)

キャンセルする側、キャンセルを受ける側、
双方がそれで万事オッケーってこと、すっごくあると思うんだよね。

だから、私はキャンセルが入ると「そういうこと」だと思って、
そそくさと、キャンセルのおかげで自分が得たもの、
それは、体を休める時間だったり、人と会う時間だったり、
何かをする時間だったり、ひたすらほげーっとする時間だったり、
それらを満喫する。

とにもかくにも、
人生は私達が思う以上にうまくデキてる。
そうなっちゃったことは、
そうなっちゃったことで生まれて来る「何か」があるから起こるのだ。
私達の意思を越えた大きな力が働いているのだ。
それはキャンセルのことだけでなく、すべてのことにおいて言える。

だから、何があってもデーンとしてましょ。
自分をかき乱す感情が湧いてきたら、ただとことん味わいながら。
その時自分に起こった出来事の意味や善し悪しなんて、後にならないとわからない。
なもんで、その時、その時、起こったことを、
眺めつつ、味わいつつ、時にそれに振り回されつつ、
ちょっと遠くで、そんな自分を冷静に見ているもうひとりの自分を持って、
展望を待ちましょ。
常に「どうしたらいいの?」という問いを投げかけなら。

人生にとっての素晴らしいものは、
いつも私達の理解や思考や想像を越えたところからやって来るんだから。


2003年06月01日(日) 骸骨のヴィジョン

ここ少しの間、骸骨のヴィジョンが浮かんで仕方なかった。
しかも、土の中に埋められてて、掘り起こしたゾ、泥で茶色だゾ、みたいな。
ううう、見たくねぇ、白骨死体気持ちわりぃ…そう思ってかき消すのだけど、
なんつーか、どうしても浮かんでくる。

後になって、すごく自分勝手な解釈でこの骸骨のヴィジョンは解決した。

去年の夏頃かなぁ、チャネラーのミカエルさんのセッションを受けた。
「男性が怖くありませんか?」
彼に聞かれた(全然怖くないんだけど(笑))。
私は前世で尼僧だった時、男性にレイプされ殺されたのだそうだ。
神に仕えてきたのに、なぜ私はこんな惨い目に遭うのだ!?
神は尽くしてきた私にこんな仕打ちをするのか!?
そうして神を憎んで死んだそうだ。
だから、私は魂の根本で神を信じていない、そう伝えていただいた。

ふぅん、そうなんだー、でも、だからと言ってどうすりゃいーんだ!?
そう思って1年近くが経つ。

そして、その骸骨が、レイプされ殺された私の成れの果ての姿だとピンときた。
なぜって、それはよーわかりません。
ただ、そうだな、って思っただけ。
そう思うと腑に落ちるので、そうだと思っただけ。
真偽はどうでもいい。

そういうものが浮かんでくるということは、
今まで見なかったことを見るということは、
もう清算してもいい時が来たんだと感じた。

カラーブリージングを始めて、私は日々ピンクの色を自分の中に取り入れている。
ピンクは私がヘドが出るほどキライな色だった。
見るとムカつくのだ。
身に付けるなんてもっての他、気分が悪くなるのだ。
ピンクは愛の色。
私が憎んでいたピンクは愛の象徴だった。
それが、カラーブリージングによって、私の中に抵抗なく入ってきた。
数日カラーブリージングを続けることで、私はピンクへの嫌悪がなくなってきた。
素敵な色だなぁ、そう思えるようになった。

そして、今まで好んで身に付けていた黒を着たくなくなった。
ま、とりあえず、今は。
私の黒好きは徹底していて、いつもカッコは黒が多かった。
そう、黒は喪服の色。
私は常に真っ黒でいることで、自分を弔っていたのかしら?そう思った。

ピンクが好きだと思えた頃、骸骨のヴィジョンを見始めた。
そして、あるセッションで、
遊廓で身を売っていた女性が憎しみを激しく感じる前世にご一緒した時、
私はシンクロし「憎い!憎い!」という感情が爆発し、涙が止まらなくなった。
(誘導しながら一緒に泣いてる奴)
その時、私の中にあの骸骨のヴィジョンがはっきりとまた浮かんできた。
「なぜこんな目に遭うの?なぜ?」
クライアントさんのその叫びと私の心の叫びが重なっていた。
その骸骨は森の中に埋められ、黒のシスターの服を着ていた。
セッションをしている私の隣で、前世を体験している私がいた。
そこには確実にふたりの私が存在していた。
ひとりはセッションを冷静に行っているのに、
もうひとりは吹き出してくる感情に身を任せていた。
奇妙な、初めての体験だった。

なんか、私は、いや、その尼僧は、ようやく成仏?したのかも、そう思った。
愛なんてない、神なんていない、そう思い憎しみの中没したけれど、
なによりも欲しかったのは愛だった彼女。
ピンクとして私の中に入ってきた愛に救われたのではないだろうか、そう思った。

昔、ねねが私を透視した時「憎い、男が憎い」と言っているヴィジョンをとらえた。
それを聞いた時はハテナだった、男大好きだし。
でも、今になって思うと、その尼僧なのかもしれないと思った。
自分をレイプし殺した男、奉仕し信じてきたのに惨い人生を与えた神、
憎くんでたんだろうね。
ねねはやっぱりスゴイ!

ピンクは愛の色。
私が憎んでいた色。
私は深い深い意識の奥の奥で、神の愛を拒んでいたのだろうか。
それを、愛というものとしてではなく、シワなくしたい!という不純な動機で、
ピンクという単なる色を自分の中に取り入れた時、
私の中で何かが動きだしたのだと、勝手に思っている。
色にもそれぞれのエネルギーがある。
色は力を持っている。
それを強く感じずにはいられない体験だったし、それはまさに大きな収穫だ。
私の中で間違いなく何かが動き出しているのを感じる。

ここに書いたことが真実かどうかなんてことはどうでもいい。
私の中で腑に落ちた、それがイチバンなのだ。
スッキリしたかどうか、気持ちイイかどうか、
そして、何をつかんだか、それが、それだけが大切だ。
どの道を通っても目指すゴールにつけばいい、そんな感じで。

私のところにいらしくださるクライアントさんの体験が、
私のためのものでもあるということは、いつも感じている。
そして、この時、それを改めて強く認識した。

忘れそうな昔の体験や、昔人に言われたこと、そんなモンが、
ずっと後の何かと合致して、初めてひとつの何かになることがあるんだと、
それも改めて強く感じたね。
セッションなんて、実はそういうものなのかもしれないな。
まさに「プロセス」そのもので、
ひとつのセッションは、ひとつの「かけら」なんだ。
だから、セッションを重ねるのは「かけら集め」なんじゃないかと思った。
後になって何か大切なものを産み落とすための小さなかけら。

森の中の遠い昔の私の骸骨さま、どうか成仏してくだせー。
前世と来たら、さすがにもう土と化してるとは思うけど、その想念がね。
なんまいだー。
カムサハムニダー。


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