おひさまの日記
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人にはそれぞれキーワードがあるようだ。
それは、急に入ってくる言葉。
普通に話していたはずなのに、その言葉が突然自分の奥深くまで入ってきて、
どわーっ!と感情が動くような。
それは、普段感じないようにしているけれど、
でも、やはりいつもどこかで感じていて、
自分を突き動かす衝動にもなっている感情だったりする。
自分の言動の根源になるようなもの。
セッションをしていても、
クライアントさんがそのキーワードに出会う瞬間というのがよくある。
そして、みんな自分の奥深く息を潜めている想いや感情を知る。
今日、みこちゃんとお茶していて、私もそのキーワードを見つけた。
私が人と話したり、この仕事をしていて、相手から、
「ありがとう、話せてよかった、おかげで気付いたことがあった、
そんな言葉をもらえたり、
私と出会ったことで、何かを得たりしたのを見ていると、
自分がここに存在していていいんだ、って思えるんだよ、
自分の存在理由がみつかるんだよ」
って言うと、彼女は「そうか、そうだったんだ…」とおもむろに言った。
みこちゃんは、なかなかサイキックで、
ヴィジョンを見たり、色々なものを感じたりする人。
私がそう言った瞬間、とても小さな私が、
『私は生きていてもいいの?ここにいてもいいの?』
そう言って泣いているヴィジョンを見たというのだ。
それを聞いた瞬間、私の中で何かが突然動き、しゃくり上げると涙が溢れてきた。
え?え?え?なんで?そう思う自分と、
流れてくる涙が止められない自分が同時に存在した。
キーワードはまっすぐに届く。
痛いとろこにまっすぐに届く。
普段は気付いてもいない秘密の場所に入っていく。
無条件に反応してしまうのだ。
私は、小さい頃、そうやって考えていたのだなぁ、と、改めて知った。
自分の機嫌で暴れる父、
やさしいけれどその父に怯えて虐げられ育児にまで心を配れなかった母、
毎日、剣の雨が降るかのように感じられた痛い痛いあの家。
お父さん、お母さん、どうしてそういうことするの?
どうしてやさしくしてくれないの?
私がいい子にしていれば怒らないの?
いい子にしていもて怒るのはなぜ?
私のこといらないの?
少し前までの私のキーワードは「怒らないで」「怖い」だった。
それを聞くと、自分で口にすると、とても悲しくなった。
涙が出ることもあった。
そして、その先にあったのが
「生きていてもいい?ここにいてもいい?」
というキーワードだった。
キーワードを発見したからと言って、劇的な変化が起こるわけではない。
けれど、自分でも気付いていない自分との出会いの一歩なのだ。
私達は頭にある記憶では色々なことを覚えているし、思い出せることもある。
ひどい目に遭ったよな、辛かったよな、とかね。
けれど、「心で思い出す」ということはなかなかしない、できない。
キーワードは、「心で思い出す」ワークを助けてくれる。
「心で思い出す」とは、昔自分が味わった感情を、今また再体験すること。
小さい頃感じ切れなかった感情を、再び味わうこと。
それは、昨日の「トラウマとの共存」にも書いたように、自分を知る大切な作業になる。
私達はその辛い感情を感じないようにして生きている。
まともに感じると、辛くていられないからだ。
感じないようにしながらも、潜在的にその辛さをなんとかしようとしてあれこれする。
それが、私達の無意識の言動パターンでもある。
腐った生ゴミがあるといつまでも臭いみたいに、
傷ついた時の感情があるといつまでも痛いのだ。
それを感じないようにはしていても、やはり、すべての言動の根源となる。
だから、「心で思い出す」ことは、とても大切なプロセス。
感じないようにして片付けてしまっていたものに出会う作業。
それが、いつまでも端の方でくすぶっていた感情を解放していくことにもつながる。
その感情は感じてもらえなかったから、
受け入れて(共感、共鳴して)もらえなかったから、
いつまでも辛い形で残っているのだから。
不思議なものです。
私達は、人生の色々な出来事を通して、
そんな気付いていない自分の声を受け取り続けている。
受け取るために生きているのかもしれない。
そう考えると、生きるということは、自分を救う道のりなのだと思えるよ。
あなたのキーワードはなんですか?
それがあなたの根源にある気持ちだよ。
以前、私は、
人はトラウマがあって辛くなるんだから、
いっぱい癒しを体験し、トラウマを手放すことが大切だと思っていた。
でも、最近、トラウマは別にあってもいいんじゃないかと思うようになった。
簡単に言ってしまうと、トラウマと共存すればいいのだと感じている。
けれど、その共存ができるようになるためには、やはりプロセスが必要だ。
そして、そのプロセスこそ、私達に最も必要なことであり、
それは、自分自身への深い理解なのではないかと思う。
人間に与えられた見えない精神の法則への深い理解ではないかと思う。
人生の辛い体験の多くがトラウマを原因としていることは否めない。
否めないと言うか、まんまそれだろうな。
小さい頃の辛い体験から、自分の中に形成された歪んだ観念、
その観念が成人した私達をいつまでもコントロールする。
時として、自分でもそれに気付いていない。
トラウマは心の傷。
傷は痛い。
痛いから触りたくない。
触って、過去の痛みを再びじくじくさせるのが怖いのだ。
見なくて済むなら見ない方がいいと感じるのだ。
見ないでなんとかやっていけるなら、その方がいいと。
だって、小さい頃、心に傷を受けて、心を閉ざして、
身を守る振舞いを覚えて、それでなんとか安全な場所を確保してきたのだから。
安全とまではいかないにしても、それ以上傷つかないようにして生き延びてきたのだから。
このままだっていいじゃない、意識の深い深い部分でそう思うのだ。
けれど、見ないでいても、それは見ないだけでそこにはあるから、やはり、痛む。
見ないからこそ、なんで痛むのかもわからない。
そして私達は思うのだ。
「どうしてこうなってしまうのだろう?」
私達は自分の「どうして?」の答えを知らない。
知らないのでどうすることもできない。
逆に、「どうして?」の答え、つまりその理由や原因を知れば、
私達は自分のルーツに出会えるのだ。
それが、トラウマとの共存への第一歩だ。
例えば、
いつも通る道に、すぐ吠えて噛み付く犬がいるとする。
だから通れない。
ガブッとくるからね。
以前に噛み付かれて痛かった。
肉は削げて、血がダラダラ、何針も縫った記憶がある。
でも、通らないと先へは行けない。
犬がいなくなるのが一番いい。
でも、その犬は凶暴で誰も手が出せない。
さあ、困った。
どうすればいいか?
簡単だよ。
他の道を通ればいいの。
ちょっと遠回りでもね。
その犬の例は、トラウマとの共存と同じだ。
まず、犬に噛まれて痛かったし怖かったから、
もう二度とあんな目に遭いたくないという自分を知る。
そして、これこれこうでこういう目に遭った、
それなら今度から絶対に先には行かない、そう決めた自分を知る。
けれど、その対策だと、二度と噛まれないんだけど、前にも進めない。
そこで、それよりももっといい新しい対応策があることにも気付いていく。
人生も同じ。
そう言うと簡単なんだけど、
ここには「恐れ」が存在し、新しい対応策に反発する。
またまた犬の例で言うと、
他の道に行けば?とアドバイスされた時に、
「ダメ!他に道にだってあんな犬がいるに決まってる!
無理!あり得ない!」
そう反応するのだ。
本当は他に道にはそんな猛犬なんかいない。
でも、その人には、どこに行っても猛犬がいるという恐れが染み付いている。
誰がどんなに「いないよ!」と言っても、信じられない。
どこの道にも猛犬がいるという、そんな幻想が真実に思えてしまうほど、
昔、犬にガブッとされたことが強烈に心に残って、そのあまりの恐怖から、
「もう二度とあんな目に遭うもんか!」
という強烈な自己防衛反応が働いているからだ。
あまりに強い自己防衛反応が、恐れを生み出している。
恐れることにより、事前に、昔味わったイヤな体験を繰り返さないようにしているのだ。
それが、私達全員が持っている「恐れ」の正体だ。
私達にはこの恐れがあるから、
「こうするといいよ」という的確なアドバイスや、
「本当はこうなんだよ」という事実を知らされても、
「それは違う!そんなことしても、どうせまた痛い目に遭うんだから!」
としか思えない。
そして、人はいつしかあきらめていく。
痛い場所を避けようとするがために、実は、痛い場所にい続けることになる。
この恐れの作業は、私達の意識の深い部分で無意識のうちに自動的に行われている。
誰も二度とイヤな思いしたくないもん。
こうして考えると、見えない精神の世界にも、ちゃんとした仕組みがあるのだ。
トラウマとの共存に話を戻そうね。
知らないものは怖いんです。
トラウマの実体も知らないと怖いんです。
でも、よくよく手に取ってじーっと見てみると、
本当は、怖いものじゃなくて、
昔、とても辛い目に遭って心に負ってしまった傷であり、
だからこそ、二度とそんな思いしたくないという
自分の必死の自己防衛が恐れとなっているわけです。
大人になった自分を救おうとする、小さな頃のけなげな自分のメッセージ。
トラウマをなくしてしまおうとすることは、
ある意味、そんな必死でメッセージを送っている小さな頃の自分の否定にもなる。
トラウマはなくすものではなく、理解するものなのだと、私は感じる。
しっかり理解すれば、なくさなくても共存できて、
そのうちに、自然と癒えることだって往々にしてある。
その作業は、怯える小さな子供をだっこして、
ほらね、よく見てみようね、よく見ると怖くないでしょう?
おばけに見えたけど、これは自分の影だったね、と、
やさしく真実を伝える行為にも似ている。
トラウマを知り、認め、共存することで、
私達は、自分の中の小さな子供に、
「あなたが怯えていたものは、もうここにないよ。
とっても怖かったね、辛かったね。
でも、もう大丈夫なんだよ」
と、愛を与えることができるのだと、私は思う。
トラウマを「抑圧した感情の固まり」だと表現する人もいる。
私もそうだと思う。
甘えたり、泣いたりしたら、親に怒られる子供がいて、
甘えること、泣くこと、つまり自己表現を自分に罰し続けてきた場合、
そこには、感情の抑圧が発生する。
本来あるものを抑圧するのだから、それはとても苦しい作業だ。
傷には、外から受けた言動によって傷つくことと、
そうやって自分の内側の作業できずつくこと、その両方がある。
そんなトラウマとの共存にはプロセスが必要だ。
それは、今の自分の人生で、
問題がある領域、うまくいかない領域、心が痛む領域、
そこに、どんな恐れが存在するのか、それを知ること。
その恐れは今のあなたのものではなく、小さい頃のあなたのものであると知ること。
恐れがあることがいけないことではないと知ること。
そして、自分はどんな感情を封印してきたのか知ること。
いずれも急ぐ必要のない作業ではあるけれどね。
トラウマとの共存は、それに始まり、それに終わると言っても過言ではない。
私達はつくづく自分のことを知らないのだから。
恐れとは、あなたの中の小さい子供が、
あなたを守るために届けてくれた精一杯の贈り物。
恐れる気持ち、寂しい気持ち、悲しい気持ち、腹立たしい気持ち、
すべて、すべて、そこにあっていいもの。
トラウマが生み出すものすべてと真正面から向き合う時、
私達は、けなげに、必死に、生きていた小さい自分に出会う。
それに出会った時、私達の人生で何かが動き始める。
私の仕事って「自分を深く理解する」ためのものではないかと強く思う。
自己理解のプロセスとしてあるのがセラピーやカウンセリングだなぁ、って。
だから、私に出会った人で、全然変化がなくても、
たったひとつ、何かを知ってもらえただけでいいのかもしれないって思う。
何年後かに、その人が、ふと私とのセッションを思い出し、
「あ!あの時エイミーが言っていたのはこれか!」
と、思ってもらえたら、これほど嬉しいことはない。
2003年07月27日(日) |
ありふれた日常の中に無造作に転がる笑いのツボ |
アンナが言った。
「今日、サザエやってないの?」
日曜の夜の国民的テレビ番組「サザエさん」。
それを呼び捨てにすると、こうもおかしいとは。
***
幼児はうんちをしてもうまくおしりが拭けない。
よって、パンツにうんちが付いていることもよくある。
ウチではそのうんちのことを「おみそ」と言う。
今日もパンツにそれを発見した私が、
「アンナ〜、今日もおみそ付いちゃったね〜」と言うと、
彼女はテレビを見ながら冷静に「おみそじゃないよ、うんこだよ」と言った。
***
このふたつの出来事、人が読んでもおかしくないかもしれない。
でも、私にとってはツボ。
このツボが一緒の人、果たしているだろうか!?
2003年07月24日(木) |
アンナにっぽん昔ばなし |
今日、風呂上がりに、
アンナが突然、市原悦子ばりの語り口で、
物語をすらすらと語り出した。
その、あまりのおかしさに、
泣きながらパソコンのキーボードを連打した。
以下は、一切訂正のない、
彼女の口から語られたまんまの物語だ。
これで笑えるのは現場にいた私だけかもしれないけどね…
***
昔々、お坊さんという人が住んでおった。
その家は壊れやすかった。
みんなでどんどん騒ぐと家が壊れる。
花が咲いても壊れる。
で、家は花みたいに広がった。
それで、猫が騒ぐと、熊が死ぬ。
その熊というのはハゲ坊。
そのテーブルも壊れやすかった。
みんな木でできていたからのぅ。
紫色の花が咲くと、家も紫色になりたくなり、
色を紫色にぬりぬり塗っちゃった。
ピストルでバーンと撃った時、家は壊れなかった。
人間も死ななかった。
靴下をはこうとした時、三尺がいっぱい落ちて来た。
ぼとん、ぼとん、ぼとん。
なんだろう、こんな家はなんだろう。
不思議だのぅ、不思議だのぅ。
で、おうちから出た途端、家はニセモノだった。
でも、家の中はあたたかった。
注1:「ハゲ坊」とは彼女の言うところの「ハゲ」のこと
注2:「三尺」とはゆかたに巻くあの「さんじゃく」のこと
***
わかんねー。
わかんねー。
子供ってこのワケわかんなさがたまんねー。
メチャクチャ笑った。
本当は、別のネタを日記に用意していたのに、
個人的にあまりにウケたので、
急きょコレにしたナリよ。
最近、改めて感じたことがある。
それは、恐れに従って行動すると、
つまり、自分が恐れている状況を避けるために行動すると、
逆に、避けようとしている恐れが大きくなって追いかけてくる、ということだ。
なくそうとすると、それは余計になくならない。
それは、恐れを回避しようとした時点で、
恐れの存在を認めたことになるからだ。
つまり、恐れを避けようとするということは、
恐れがあるということが前提なワケで、
避けるということ自体、怖いよ、こんなふうになっちゃうよ、と、
もう、確約を取り付けたようなモンなのだ。
だから、恐れをなくそうとする行動が、次の恐れを呼び起こす。
思い当たらないだろうか?
恐れや不安をかき消そうとしていると、
どんどん怖くなったり不安になってくることはないだろうか?
そんな時私は、ひとまず、
自分が恐れに基づいて取っていた行動をやめてみる。
私達は、自分の頭の中に去来する考え(恐れ)が正しく絶対だと信じているが、
実は、自分の反応が生み出した想像の産物、ただの幻想に過ぎない。
現実世界で、自分の、相手の、出来事の、状況の、事実を知ろう。
事実を察してみよう。
そうすれば、おのずと真実が見えてくる。
その上で、改めて、自分の取るべき行動を考え直してみよう。
その作業は3秒で終わることもあるし、
3年かかることもある。
けれど、とにかくやってみる価値があるのだ。
それは自分を救う作業だ。
事実を知るには、答えを得るには、
これは何なのか?どうすればいいのか?
そう問いかけ続けることだ。
それが究極の問題解決法だ。
求めた者にはそれが必ずやってくる。
幻想に生きるより真実の導き手となる事実を知ることを欲しよう。
ウチのアンナには、小さいなりに悩みがある。
保育園で怖い子がいるのだそうだ。
キッツイことを言われたり、叩かれたりしてるらしい。
実際、私の目の前でも、その子がアンナを、
まぁ、いじめとまでは言わないにしても、
ひどい!って思う扱いをしてるのを目撃している。
アンナは、保育園に行くのが怖い時がある言う。
その子にそういう扱いを受けるからだそうだ。
ゆうべ、アンナは「怖いよぅ、辛いよぅ」と泣いていた。
そして、そんなアンナを見るのもすごく辛い。
もちろん、アンナの言うことがすべて正しいわけじゃないかもしれないし、
ひょっとしたら、話がデフォルメされてるかもしれない。
その子だけが悪いんじゃないかもしれない。
だから、一方的にその子を云々とまくしたてる気はない。
でも、目の前で苦しむ自分の子供の気持ちを十二分に汲み取りたいのだ。
話の内容云々より、心を優先させるべき時もある。
それができて、初めて、出来事の真相にも触れられるのだから。
今まで私は、アンナに、
「悲しい時はいっぱい泣いていいよ。
我慢しなくていいんだよ」
と教えてきた。
けれど、ゆうべ、それを撤回した。
「今までは、泣いていい、我慢しなくていいって言ったけど、
これからは、泣くな。
ぐっと我慢して強くなろう」
と、教えた。
そして、付け加えた。
「悲しい時は家で泣きなさい。
帰って来て泣きなさい。
ママが話を全部聞いてあげる。
だっこして泣かせてあげるから。
おうちで心を休ませてあげればいんだから、外では頑張れ!」
私が言うのもヘンだけど、アンナはやさしい子だ。
そのやさしさの裏返しで、弱く泣き虫でもある。
普段は明るくてぶっちゃけてるんだけど、逆境に弱い。
小さい時は私もいつも一緒だったから、そんなことがあったとしても、
「仲良くしようね〜」と、ヒクつく笑顔で止めに入ることもできた。
でも、保育園にいる時は盾になってやれないのだ。
アンナはひとりなのだ。
私は続けた。
「保育園にいる間は、ママはアンナのそばにいられないの。
だから、アンナは強くなって自分のことを自分で守りるんだよ。
離れていても、パパとママがいつも味方だから、
ママが一緒にいると思って、頑張って。
今度、○○ちゃんにそういうことされたら、
泣かないで、言い返してごらん。
叩かれたら、叩き返したっていいんだ。
先生に怒られたらママも謝ってやる。
○○ちゃんのママにも謝ってやる」
私は、アンナの中に、自分の弱さも見たんだよね…
アンナは、
「透明になったママが一緒にいると思って頑張る!」
と、泣きながら答えた。
ハートが白い光で包まれて、傷つけるものを跳ね返すイメージワークをしてやった。
すると、アンナは、なんだかとっても強くなったような気がすると言った。
でも、そうは言ったものの、私はとても心配だった。
あの弱々しくて泣き虫な子が、果たしてできるんだろうか?と。
今朝「今日からアンナ強くなるよ!」と言って教室に入っていった姿を、
不安な気持ちで見送った。
お迎えの時間、ドキドキしながら園の門をくぐり、教室の方を見た。
すると、アンナがこっちを見て「ゲッツ!」のポーズを繰り返している。
近付いていくと、アンナが私に言った。
「ママ、やったよ、アンナやったよ!強くなったよ!」
話を聞くと、今日、例の子に立ち向かったそうだ。
邪魔だからどいて!と言って突き飛ばしてきたので、
いつもなら泣くところを、突き飛ばし返したと言う。
すると、また突き飛ばされたので、さらに突き飛ばし返したらしい。
「で、どうだった!?」と私が聞くと、
「○○ちゃん、泣いた」と、アンナ。
ふたりで顔を見合わせて、ほくそえんだ。
アンナにどんな気分だったか聞いたら「心がスッキリした」と答えた。
「明日から頑張って保育園に来られるよ!」と。
そう言いつつ、
その子と仲よししてることだってあるのだから、
まあ、色々とドラマもあるのだろう。
私は、ひょっとしたらいけないことを教えているのかもしれない。
言い返してこい、やり返してこい、なんてさ。
でも、この際、善悪なんかいいんだ。
人生はサバイバルだとアンナに教えたかった。
やさしいことは大切なことだ。
でも、それだけでは生きていけない。
やさしさと強さを合わせ持つことはとても大切なのだ。
そして、今日の体験が、
アンナに、自分の力で自分の人生を変えられるということ、
そして、視点の切り替えをするということを教えたはずだ。
自分に自信も持てたに違いない。
今日、アンナは、弱虫泣き虫アンナを卒業したのだ。
自分の力で。
自分の意志に基づいた行動で。
まだまだこれからも色々あるだろう。
泣くことだっていっぱいあるだろう。
それでも、たくさんの体験を通して、大切なことをつかんでいってほしい。
子供は少しずつ親を離れていく。
それまでの間に、ひとりで歩いていくための力を持ってほしい。
そして、そのために、何かできるなら、精一杯してあげたい、そう思った。
私は初めてアンナを激しく突き放した。
でも、彼女はそれを受け止め、自分のすべき行動をやってのけた。
とても嬉しかった。
こうして子供は育っていくのだなぁ…って。
自分が手を出せない領域にいてトラブルに巻き込まれている子供を、
ただ見守っているのは拷問に等しい。
苦しむ子供をどうにもできない、手を出せない、そのもどかしさは形容し難い。
本当に辛いのだ。
親になってみて初めて知る痛み。
これは、もう、戦いだ。
自分との戦いだ。
子供は自分の世界で周囲と葛藤しながら自分と戦う。
親はそれを遠くで見守るという別の自分との戦いをする。
同じものに向かって、それぞれの形で、それぞれが戦う。
戦う親子なのだ。
いわば戦友だ。
私とアンナにも、そんな、親子の秘密の戦いがある。
私は、アンナの素晴らしい戦友でいたいと思った。
頑張れ、アンナ!
いつでもママがついてるから。
一緒に戦うぞ。
2003年07月21日(月) |
伝染(うつ)るんです |
友達から電話があった。
彼女は、離婚を決めたダンナへの怒りを烈火の如くぶちまけてきた。
愚痴る、呪う、罵倒する、もう、ファイヤー!ファイヤー!ファイヤー!
ひとまずは聞くシチュエーションだと思い、ひたすら聞いていた。
すると、なんだか私もイライラしてきた。
そして、ある人物への、もう手放したと思っていた怒りが、
ものすごい勢いで吹き出してきた。
オラオラァーッ、ぶっ殺すどーっ!ちゅーくらい、そいつが憎くなってきた。
あああ、ムカつく!
私をこんな目に遭わせて、復讐してやりたいわ!
自分だけ幸せになりやがって!
人を利用するだけ、利用して!
お前の一族、末代まで呪ってやる!
そこまでくると、私ももう彼女と同じ鬼畜状態。
彼女がダンナへの怒りをぶちまけ、
私がそいつへの怒りをぶちまけ、
それはそれは、どろんどろんの会話だった。
電話を切った後も、私はどろどろ渦巻く怒りに飲み込まれそうだった。
でも、なんかヘン。
彼女からの電話を取るまでは、ほんわか穏やか幸せモードだったのに。
そっか、なぜだかわかった。
彼女の怒りが伝染(うつ)ったんだ。
これは今の私の感情じゃないよな、そうわかった。
私はカラーブリージングでブルーを吸い込み、
心の中の怒りを包むイメージを繰り返した。
だんだん気持ちが穏やかになり、しばらくして平常心に戻った。
そう、感情は伝染るんです。
自分のものでない感情が、人から流れ込んでくることがあるんだ。
そして、その感情を自分の状況の中にあてはめて感じていく。
人には波動がある。
周波数みたいなモン。
よく、気が合う人を「波長が合う」とか言うけど、あれもそう。
周波数が一緒だから、共鳴共振できる。
ラジオのチューニングを考えるとわかりやすい。
J-WAVEにチューニングすれば、J-WAVEが聞こえてくるように、
自分が発する周波数と同じものが自分のところに来る。
時に、あまりに強い周波数があると、自分の周波数もそれに合ってしまうことがある。
そんな時、相手と同調が起こったりする。
ほんわか穏やかだった私が、
電話してきた友達と同じように荒れ狂うような怒りを持ったのもソレだ。
いつの間にか、彼女の波動に同調していたのだった。
だから、彼女の感情を自分の状況に置き替えて共有し、怒り出したのだ。
それが「伝染るんです」なのだ。
伝染るからには、私の中にもその怒りがあるのだ。
ただ、その怒りは、私の波動の状態のあるエリアで具現化する。
波動は流動的だ。
なにかのきっかけで上がったり下がったりする。
そして、チューニングしたエリアに共鳴する感情や状況を引き付ける。
私は彼女に同調し、同じ波動にチューニングし、同じものを感じていたのだ。
だから、チューニングを変える前の電話の最初の頃は、
ひたすら淡々と聞けていたのだ。
私達は、時々自分の感情でないものを感じてしまう時がある。
無意識に相手に同調すると、
相手の感情が伝染したかのように、
自分の中にも同じような感情が湧いて来ることがある。
それを「伝染るんです」と表現したわけだ。
こんなことない?
人の悪口をただ感情に任せて言う仲間と、
人生のこと、大切なこと、真剣に語る仲間は別、なんてことが。
これも、それぞれに必要な周波数の場所を無意識に察知して行ってるんだよ。
私達は、自分のものでない感情を、他人からもらって感じることがあるよ。
恐れもそうだ。
他人が恐れていることを、自分まで恐れてしまうこともある。
だから、時々、振り返って感じてみよう。
「これは、今の私の本当の感情?」って。
そして、それと同じで、
素敵な人のそばにいれば、その素敵な人の波動と同調していく。
だから、付き合う人を選ぶってのも本当に大切なんだろうね。
なんでも伝染るんです。
いつも思うのだけど、
自分自身の意識や環境や状況に動きがあったり、変化があったりする時、
結構、周りの人も同じく動きがあったり、変化があったりする。
何らかの気付きを得ていたり、
いらないものを手放したり、
新しい環境に入ったり、
人それぞれの状況の中で、それぞれの動きと変化があって、
大なり小なりシンクロしてるんだよね。
これっておもしろい。
団体様御一行〜!って感じ。
私の仲よしの園ママは離婚を決意し、
昨日はその証人として離婚届にサインした。
動く、動く、みんな動く。
一緒に動く。
般若心経の最後にこのようにある。
「掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提娑婆訶」
これは、
『ぎゃあていぎゃあてい はらぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼうじそわか』
と読む。
『行こう、行こう、みんなでいいトコ行こうぜ!』
みたいな意味(かなり大ざっぱでふざけた訳だがよ(汗))。
いいトコとは、仏教でいう彼岸=向こう側、
つまり、人間本来があるべき姿である場所、ってことね。
それを、カタく、もしくは宗教ちっくに言うと悟りとかになるんだろうけど、
もっと、フツーに言えば、みんなが幸せになる場所ってことだね。
私が般若心経に出会ったのは中2、13歳なんだけど、
その意味がおぼろげながらわかってきたのはつい最近で、
世界一短い経文でありながら、ものすんごい内容だ!と思うよ。
(ちなみに、私はどこぞの宗教もやっておりませぬ、念のため)
そう、みんなでいいトコ行っちゃいましょう、ってのが思うところです。
団体様御一行って感じで。
人の意識はつながってるから、
まずは、本当の意味で自分だけいいトコに行こうとすれば、
他の人も芋づる式につながってくる。
人をどうこうする必要なく、自分の前進に力を注げばいい。
今、地球がまさにその時代。
ひとりひとりの変化が万人の変化への入り口。
意識するしないにかかわらず、
もう、みんな団体様御一行のひとりなんだろうなぁ、この時代。
今日は、ぐずぐずした天気の中、保育園の夏祭りでした。
役員だったために慌ただしく過ぎたけど、
お化け屋敷で本気で泣いたアンナが愛おしい母でございます。
2003年07月16日(水) |
自分の恐れに直面する時 |
アンナが眠る前に言った。
「ママ、明日はいいことあるかなぁ…」
私はちょっと不安な気持ちになって尋ねた。
「明日イヤなことがあったらどうしようって思うの?」
するとアンナは「うん」と答えた。
私はものすごく悲しくなって動揺した。
こんな小さいのに、明日に不安を感じている。
そして、彼女に言った。
「なんで、また来ていない明日のことが心配なのかな。
明日は明日、なるようになるのに。
明日のことは明日考えたら?
考えると悲しくなるの?
怖いの?」
すると彼女は答えた。
「ううん、悲しくはないけど、そう考えちゃうの」
私はもうその話を終わりにしたかった。
なんだかその会話が苦しかった。
「ヘンだね。
明日はまだ来ていないんだから、何もわからないじゃない」
アンナは黙って、やがて、そのまま眠りに落ちていった。
私の中にものすごい悲しみが押し寄せてくるのを感じた。
悲しい。
悲しい。
ものすごく悲しい。
眠ろうとしたけれど、眠れない。
その時、なぜか、ふと私の頭の中にある本が浮かび、
セッションルームからそれを持って来て開いた。
「親と子供をむすぶ奇跡の会話 ー信じる愛、受け止める心ー」
そこには、こんなひとことがあった。
『うれしかった気持ち、かなしかった気持ち、くやしかった気持ち、
まるごと受け止める気持ちが心をつなぐ橋になる』
そんな当たり前のひとこと。
そして、次に目に入ったのが、
『泣きたいことに気付くだけで安心して眠れる』
というひとこと。
ものすごいショックを受けた。
こんなわかり切ったことを、私はしていなかったんだ、と。
私はできなかったんだと。
そして、知った。
アンナが不安になったり、悲しくなったりするのを見るのが、私は怖いのだ。
なぜなら、そういう気持ちになることが本当に苦しいことを知っているから。
この子はこんなに苦しくちゃいけない、苦しいはずがない、そう思いたかった。
そして「あなたのそのイヤな気持ちは幻なのよ」と言い聞かせようとしていた。
アンナがそんな気持ちになったら、私はどうしていいかわからなくなるから。
それと同時に、自分自身のことも知った。
私は自分の不安や恐れを見つめるのが怖いのだ。
そんなものないんだ!と通り過ぎたいのだ。
アンナに「あなたの不安と恐れは幻想なのよ」と言って聞かせる時、
それは、私自身への言葉でもあるのだ。
「やめなさい、やめなさい、そんなこと考えるのは。
やめなさい、やめなさい、そんなこと感じるのは。
黙って通り過ぎれば、ほら、なんともないでしょう?
封印しなさい、あなたの感じる回路を」
そして、アンナが不安になったらどうしてやっていいかわからないように、
私自身も不安になったらどうしていいかわからないのだ。
私は、怖いのだ、感じるのが。
自分の感情を。
その本で、次に目に付いたのはこんなひとことだった。
『きっといいことあるよ!
お母さんにそう言われると信じられる!』
私は泣いた。
そして、眠るアンナの耳もとで繰り返した。
「大丈夫、明日はいい日だよ。
いいこといっぱいあるよ。
素敵な日になるんだよ」
それは私がずぅっと欲しい言葉だったのかもしれない。
「大丈夫だよ。
あなたなら大丈夫。
いいことあるよ」
私の中で何かがパーン!と弾けた。
たとえ、どんな苦境の中にいて、先が見えなくても、
私はそんな言葉が欲しかったのだ。
私達の体験は、私達をどこか高い所へいざなう。
それなら、その深遠な気付きの旅が安心できるものなのだと、
ほんのひとこと言ってほしかったのだ。
それだけでよかったのだ。
そうすれば、目の前の出来事がどうにもならなくても、
自分の心がその痛みある場所を離れることもできるのだ。
私はそれを理解した。
頭では知っていたけれど、ようやく腑に落ちたのだ。
私は自分の不安や恐れに直面するのが怖かった。
それを見てしまったら、どうにもならないと思っていたから。
私が自分の不安や恐れを見ないできたのは、
その不安や恐れが「永久不変の真実」だと信じてきたからだ。
絶対に消えないものであり、コントロールできないものであり、
自分を蝕むものだと、固く、固く、信じてきたからだ。
見ないでいたからこそ、
不安や恐れは永久不変の真実だったのだ。
でも、今日知った。
それは違っていたのだと。
不安や恐れは直面することで消えるのだ。
そして、それらは「真実」ではなく「幻想」なのだと、
直面して、真っ向から向き合って、初めて知ることができるのだと。
そして、その不安や恐れが消えていくのは、
「大丈夫、そこからまたいい場所に行くんだから」
そんなひとことを愛と一緒に受け取った時なのだと、私は知った。
時には、わはははは!と笑い飛ばすことだっていいのだと。
そして、通り過ぎた時、私達は初めて、
その不安と恐れの中で受け取っていた贈り物に気付けるのだと。
苦しい!苦しい!と、もがいていた中での贈り物を受け取るのだと。
生きることとは限りなくシンプルだ。
私も、もう、逃げるのはやめよう。
私の中にいてかき消されてきた数々の不安や恐れから。
それらをただ受け入れよう。
受け入れて、幻だったのだと気付いていこう。
怖い、怖い、不安だよぅ!そう心から感じよう。
自分の恐れに直面する時、
私達は初めてそれが幻だと知って手放すことができる。
怯えていたおばけは、ただの自分の影だったのだと知ることだろう。
では、どうすれば自分の恐れに直面できるのか?
それは、人の恐れを受け入れるいこと。
怒りや、不快感、憎しみ、さげすみ、見下しや、嫌悪、
そんなももの陰にある相手の恐れ。
それを受け入れる時、
私達は自分が見ようとしないできた自分の恐れにおのずと直面する。
今、あなたが問題を抱えているなら、その相手の痛みを知ることだ。
そこにあなたの心の鍵がある。
最も「情状酌量の余地なし」と思える相手の痛みを、だ。
それを知ることとが、あなたの真実を見る唯一の方法だ。
人は自分自身のシャドーでしかないのだから。
「シャドーの原理」の理解なくして、
自己理解はあり得ないと言っても過言ではないかもしれない。
自分の世界にある鏡は、自分の姿をあまりよく映さない。
悲しんだり、苦しんだりすることは、不幸なことじゃない。
生きることなんだ。
呼吸と同じなんだ。
呼吸しなかったら私達は死んでしまう。
私達は、それらの感情から多くを学ぶのだ。
現に今日の私もそれらを感じたからこの気付きを得たのだ。
魂はそれを何よりも望んでいる。
換気扇の下でタバコを吸っていると、声が聞こえたような気がした。
ガイドなのか、自分自身なのか、わからない。
でも、流れ込んできた声。
「よく気付いたね、よくここまで来たね」
私は、ただ「はい」とうなずいた。
明日から、私は、
アンナと一緒に、目一杯、不安や恐れを一緒に感じて、
一緒に戸惑い、一緒に苦しみ、一緒に越えていこうと決意した。
いいママにはなれないかもしれない。
でも、アンナの世界でただひとりのママにはなれるよ。
あなたの言葉から私に訪れた大きな気付きをありがとう。
私の天使、ママの小さな宝物へ。
愛しています。
あなたは何が怖いですか?
きっと大丈夫だから向かい合ってみて。
ここ2、3日のアンナの愛唱歌は、
美川憲一の「蠍座の女」だ。
ビバ4歳児。
2003年07月10日(木) |
欲しかったものは、本当に欲しかったものじゃなかった |
欲しくて手にしてみたら、
それが本当に欲しいのではなくて、
それを手にすることによって、
別の何かを満たそうとしていることに気付いた。
手に入れるために、安っぽく提供するもの、
それは、私自身であり、
その代償として手に入れたのは、
偽りの、刹那の、ちっぽけな満足感だった。
そして、残ったのは、
なんとも言えない惨めさと、
なんとも言えない後味の悪さだった。
苦い。
なんて苦い味なんだろう、私の欲しかったものは。
私は、必要以上に自分を与えないと、
誰かを引き付けておけないと信じていて、
いつも自分を安易に放り出す。
放り出すものは、いかにも人が欲しそうなものであり、
目先、誰かを引き付けるに足りるものだ。
それは、私が見えない顔を歪めながら差し出すもの。
時には、自分が顔を歪めていることにさえ気付けないほどとても巧妙なもの。
確かに、一瞬恐れを払拭はしてくれるものの、
それは、恐れがなくなるのではなく、
恐れから目をそらしているに過ぎないことに気付く。
その恐れとは、誰かを失うということ
その恐れに基づいて、インスタントな行為や供物を人に差し出す。
「とにかく、まあ、ちょっと、ここにいてよ。
私のとこにいればこんなメリットもあるでしょう!?
美味しい思いができるでしょう!?」
でも、そんなことをして維持させている人間関係は、ただ苦しいだけだ。
私は満たされたいのだ。
本当の意味で満たされたいのだ。
安らかに満たされたいのだ。
それなのに、戦略を練り、武器を駆使し、戦い、
エサとでも言うのだろうか、それを撒いて、
手っ取り早いところでチープなもの、
つまり、かりそめでしなかい関係を手に入れ、
ひりひりした心をごまかしている。
それで、愛を、良好な人間関係を、手に入れたと信じたいのだ。
魂が成長するために、宇宙は巧妙なトリックを仕掛ける。
そのトリックは、愛を愛に見せない。
愛を手に入れるために、痛みを与える。
私達は、痛みのない場所へと逃げて行くが、
そこにあるものは、ただの簡易舞台で、
即興のドラマが演じられた後、それは跡形もなく消えてしまう。
だから、私達は次へ次へと逃げ続ける。
本当の愛の種はいつもそばにあるのに。
私が欲しかったもの、
それは、きっと幻想なんだと思う。
2003年07月04日(金) |
オーバーフローする感情 |
今日、いきなりスイッチが入り、また私の感情が吹き出し始めた。
そのスイッチとは、
私が苦しくなる「それ」を思い出させるものを見たことだったんだけど、
その出来事はあくまで引き金でしかない。
もちろん、今「それ」に想いを馳せて苦しんでいる。
けれど、私の感情の根本は「それ」が原因ではないのだ。
そのことを理解しながら「それ」にメチャクチャ苦しんでる。
プライベートなことだから詳しく書かないので、なんか曖昧な文章だね。
つまりは、目の前の現象で辛くなっているけれど、
意識のもっと奥にある、その現象に引き金を引かれるような、
私が元々持っている痛みがあるということだ。
私達は、自分が元々持っている感情だけを、
何らかの出来事を引き金として再体験しているに過ぎないんだ。
目の前の出来事が辛いのに、意識の中で、
過去がオーバーラップしてくることってないだろうか?
それを認識して感じてみると、
私達は、意外に、自分の中のそういった普段は感じることのない、
遠い昔に封印した「悲鳴」に出会うことがある。
なんて、
「こんな時、何クソ冷静なこと言ってんだよ!?
辛いんだよ、ギャーッ!!」
ってシャウトしてる自分もいるんだ、今、私の中に。
自分でも、おかしなくらい、冷静に、冷静に、辛い感情を味わっている。
深い海の底に沈んでいってしまいそうなほど苦しいのに、
そんな自分と、それを見ている自分を、なんとかセパレーションできてる。
この痛みの根源に出会いたいよ。
出会って見つめたいよ。
ここ少しの間に、ヒントはたくさん訪れた。
父が暴れだして私は生まれた家に帰れなくなった。
夫婦間の不和で突出した感情と、そこから見つけたキーワードがあった。
大切な人が私と疎遠にならざるを得ない状況が訪れた。
何かが、確実に、確実に、私に訪れている。
でも、それがなんなのかわからない。
どうすればいいのかもわからない。
でも、確実に私はそれに向かい合っているのだと思う。
私は、自分の体験そのものを、自分のセラピーにしたい。
だから、私の体験は、クライアントさんの体験になる。
私がほんのちょっぴり、先に行くだけなんだ。
自分が感じてきた痛みが、
クライアントさんと共感、共鳴できるものになり、
自分が越えてきた痛みが、
「大丈夫、あなたは必ずここから抜け出せますよ」という、
クライアントさんへの絶大な信頼になる。
逆に言うと、私は自分の歩いてきた道にあったものしか提供できない。
そして、同じものを持った人が必ず訪れてくれる。
私の中の何が叫んでいるの?
私の中の何が痛んでいるの?
オーバーフローする感情は、私をどこへ運んでいこうとしているの?
私はどうしたらいいの?
この日記を書いたら、セッションルームに入って少し自分を感じてみようと思う。
あの部屋は異空間だ。
私にとっての特別な場所だ。
メッセージを受け取ろう。
感じ切ってこなかった感情を感じてあげよう、私のために。
まだ気付いていないあの日の私のために泣いてあげるのもいいかな、と。
タバコの値上げに伴い、そのテの話題は多い。
私も便乗してみたりする。
愛煙家の私、
正直、私はタバコの値上げを聞いても、大して何とも思わなかった。
少々不愉快さを感じたのは、
喫煙者が増税の対象なのに、その喫煙者に対する社会の対応がメッチャ冷たいことと、
それに便乗し、嫌煙家が愛煙家叩きを始めたことかな。
それも仕方ないんだけどねぇ。
ま、とにかく、値上げを機に禁煙する気は1ミクロンもなかった。
1本につき2円の課税、1箱で20円の値上げ。
例えば、1日1箱吸う人は、ま、大体、1か月30箱、
月に600円の出費が、今までより増えることになる。
1日2箱吸う人なら、月に1200円増えることになる。
これってビミョーだ。
1か月600円、1200円って大出費だろうか?
月のお小遣いをいくらと決められている人には辛い数字かもしれない。
でも、よーく考えると、1000円前後の金額って、
財布に入れて持ち歩いてれば、何に使ったかわからないうちに、
さっさと使ってしまう金額だと、私は思う。
あると使うし、ないと使わない、そんな金額だと思うのね。
たとえば、コンビニで飴やジュースを1つ余計に買ってしまう、
そういうタイプの私にとっては、
そんなことを何度かするだけで消えてく金額なんだよね。
それを、あえて節約し、
1日20円節約だから、1か月で600円、1年で7200円貯金できるわよ!
と、世の節約術の達人はなさるのだと思う。
でも、私はそこまでしたくない派だ。
今、この瞬間を満たすために、金は使う。
でも、しっかりやりくりもする、そういう感じ。
光熱費節約したり、リサイクルショップもよく利用するよ。
金は必要なものには可能な限り使う、不必要なものには絶対使わない、それ。
気持ちよく出したお金ちゃんは、気持ちよく戻って来てくれるのよ、ホントに!
愛煙家の多くは、
大変だ、買いだめだ、大出費だ、生活苦だ、と言ってるけど、
本当にそう?ものは考え方でない?と問いかける私もいたりする。
ダンナにもそう話したら、ミョーに納得して、報道に踊らされたと言ってたよ。
そういうアンタは私に踊らされてるんぢゃ?とも思ったけど(笑)
さすがに1箱400円とか500円とか言われたら、私も考えるけどさー。
いや、これは、あくまで私の考え方で、私がリッチだからなんじゃないっス。
アバウトなどんぶり勘定女なので、こういうふうに思えるんだろうと思うよ。
家計簿なんかもつけない人だから。
つけると、今月の残りはあといくら、だから今日使えるのはいくら、
なんて考えてしまい、気が狂いそうになるんだよね。
ある時使う、ない時使わない、なんとなくそんな家計のやりくりで生きてましゅ。
だから、ヒドイ時は納豆ご飯だけとかね〜。
それでも、そんな感じの生活が好きなワケで。
だから、タバコの買いだめをして、
「ああ、5カートン買ったから1000円得した!」
とか思わないんだよね。
1000円なんて、持ってるといつの間にか何に使ったかもわからんうちに消える金額。
(1000円に価値がないってんじゃないよ、大切だとは思ってんのよ)
月になにがしかの出費がかさもうと、
私は煙草を吸う快楽を捨てる気はさらさらない。
イライラする私を慰め、うまい酒の友となり、ひと息入れる時の区切りとなり、
心を落ち着かせ、安心させるために、タバコは私になくてはならないのだ。
私が小学生の頃だったかな、こんなタバコのキャッチフレーズがあったんだけど、
覚えてる人いるかな〜?
「タバコは心の日曜日」
今になって、ああ、そうだわよね〜、と、つくづく思うよ〜。
タバコで一息、自分を取り戻す、ってあるモン。
自分にとっての素晴らしいものには出費を惜しまない(払える範囲でね)、
そんなエイミーなのでした。
当然、吸わない方が体にいいコトはわかってマス…
周囲の嫌煙家の方に嫌われてるのもわかってマス…
念のため(笑)
しかし、嫌煙家が愛煙家を嫌うのもわかる気がするよ。
だって、私から見てもマナーの悪過ぎる愛煙家っているもんね。
吸い殻のポイ捨て、
人の顔に煙がかかっても知らん顔、
TPOをわきまえない喫煙、
多いよね〜、そんなの。
だからこそ、せめてマナーのある愛煙家でいたいというのが、今の私の気持ちかな。
…完全に自分を正当化している私の徒然でした。