おひさまの日記
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アンナは眠くなると親指をしゃぶる。
親子の言葉で、指しゃぶりを「ちゃっぷ」と呼んでいる。
4歳になって指をしゃぶるのはおかしいと、近所のママに言われたことがある。
指にカラシを塗ってやめさせなさい、って。
保育園でも、他の園児に「アンナちゃん、指しゃぶっちゃいけないんだよー」と言われるらしい。
でも、私は別にいいかなぁ、って思う。
大人になっても指しゃぶりしてる人はいないし、そのうち自然にしなくなるだろうと思って。
「ちゃっぷ」してウトウトしているアンナを見て、可愛いなぁ、って思う。
この子もいつか私を離れていくんだなぁ、って考えると、
こうして指がふやけるまでしゃぶっているような小さな頃の時間を、
すごく大切にしたいなぁ、って感じた。
ま、今日も怒っちゃったんだけどね、はははー。
母もまだまだ未熟だすー。
今日、保育園のお迎えに行ったら、アンナがこう言った。
「ママー、お友達が、ママの頭がボサボサだって言ってるよー」
あああああ、これはね、ボサボサなんぢゃなくて、ボンバヘーなんだよー、
そんなこと言ってもわかんねだろなぁ、そう思い、
「ウン、ウン、ボサボサでもいいよ」と、意味不明の回答をしておいた。
やっぱり明日からまた帽子かぶってこー、こっそり心の中でそう思ったのであった。
今日は保育園の奉仕活動の日で、園庭の草刈りをした。
役員の私は有無を言わさず強制出席。
シミができる、とか、あー忙しいのに、などと、ブーブー文句言いながら、軍手とカマで武装して臨んだ。
が、やり始めると止まらない。
お、お、おもしろい。
そのうちトランスに入り、無心になって草苅りをしていた。
気持ちイイ・・・
「はい、ご苦労さまですー、もうそろそろ終わりましょう」
と、声が聞こえるのに、いつまでもしつこくカマを動かした。
「もっと刈りたいよぅ!もっとやらせてよぅ!」
私は心の中で切なく叫んでいた。
ああいう時間って、イヤなことも忘れちゃうし、なんかイイ。
昨日からくさくさしてたんだけど、一気に脱出よ!
トランスに入る、無心になって何かをする、ああいう時間を経て、人って余分なものを脱ぎ捨てるのかな。
ありがとー、保育園!
今日、あるクライアントさんにお会いして、私はライトボディの覚醒を目の当たりにした。
実際に自分の身にもそれらしきことが起こり、そういったものが存在することは認識していたけれど、
今日、改めて、人はこの時代に目覚めつつあるのだと、かなーり感動した。
誰もが自分の日常の中にいて、そこで起こる様々なことに翻弄されたりする。
自分の日常をひとつの点として眺める時、なんだか意味もわからず、ただ辛いだけだったりすることもある。
けれど、大いなる流れの一部としてそれを眺める時、
私達人間はなんと宇宙から愛されているのだろうかと感じる。
すべてが意識の拡大や魂の成長のためのプロセスだとしたら、
宇宙の愛は厳しささえも愛として与える無上のものだということになる。
彼女のセッションを終えて、そんなことを感じ、なんだか嬉しくなった。
人は目の前の出来事を点でとらえがちな生き物。
けれど、それが大いなる流れの一部だと、どこかで知っているだけで、自分の中心に戻れる。
戻るべきだと確信に満ちた場所ができるのだ。
昔は、覚醒すると仙人のように暮らせると思っていた。
でも、きっと違うんだよね。
ま、サイババや名のある方々のように相当覚醒すれば別なんだろうけど、
覚醒しようがなんだろうが、きっと誰もがずっと現実との取っ組み合いじゃないかな。
覚醒とは、特別なものじゃなく、いわば、ウォーミングアップみたいなものなのかもしれない。
ぢゃー、新しい世界を生きるためにあなたもそろそろスタンバイしてねいん、みたいな。
ほら、新しいマニュアルはコレですよん、なんて感じで。
だから、覚醒すると「見える」ようになるのだと思う、宇宙の仕組みみたいなものが。
あとは、その仕組みに乗っ取って生きて行く練習みたいなもんかな、なんて思った。
そして、そのプロセスは、色々なことを自分で気付くように仕向けられるなかなか厳しい教育方針ではある。
そんなんイヤ!って言う人には「覚醒しなくていいですよ」とも言いながら。
地球や人類の次元上昇、覚醒、などと、うおーっ!ってな語感の出来事に関わることを目の当たりにしつつ、
晩メシはカキフライにしようとか考えてる自分、こんなんがいいかもー、って、私的には思うこの頃。
当たり前でないものが当たり前になるとき、きっと、本当にいい時代は来る。
2002年09月23日(月) |
「どっちでもいいよ」 |
今日、私は「どっちでもいいよ」にひどく傷ついた。
事の発端は、午後から時間が空いた私がふと思い立ち「ららぽーと」に行きたい、と言ったことだった。
(千葉の人は知ってるでっかいショッピングセンターね)
ダンナはひとこと「どっちでもいいよ」と、かなりダルそうに答えた。
「パパがおっくうだったらまたにしよう」と言うと、
「だから、俺はどっちでもいいんだよ」と再び答える。
「どうせ行くならみんなでノリノリで行きたいんだ」
「そんなみんなが同じノリでなんてことはないんだよ」
「・・・」
「どーすんの?行くの?行くなら行ってもいいけど。俺はどっちでもいーんだよ、別に。どーすんの?」
「・・・」
「俺、イヤな時はイヤって言うんだから、別に行ったっていいんだよ。どーすんの?」
私は心の中で、そうじゃなくて、そうじゃなくて、と繰り返した。
すげー、悲しかった。
演劇のセリフには「ポドテキスト」ってのがある。
セリフの言葉の意味でなく、その裏の意味のことだ。
私は彼の言葉のポドテキストが
「だからさー、行きたいんだったら行ってやるよ、どっちなんだよー、たりーなぁ、ちっ」
に思えたのだった。
彼にそんな気持ちはひょっとしたらないのかもしれない。
けれど、前後の会話ややりとりで、私はそう察知せざるを得なかった。
車の後部座席で、アンナを膝に乗せながら、バレないように泣いた。
世界中で自分がひとりぼっちになったような気分だった。
今日、私はそういう反応をしてしまうモードだったのかもしれないけれど、
それを考慮に入れたとしても、やはり、日頃からの積み重ねで傷つく。
夜中まであれやこれやとたまった家事をこなし、
寝かし付けようとしたけれど眠れないとだだをこねて戻るアンナを連れ戻し、
明日のゴミをまとめ、アイロンをかけ、洗濯物をたたむ私の後ろで、
テレビを見ながらゴロゴロし、手伝う気持ちが1ミクロンもないダンナを見て、
私の中で何かがパリンと壊れた。
手伝って、とひとこと言えればいいんだろうけど、
昔、家事を手伝ってほしいと伝えた時、ダンナにものすごくイヤな反応をされ、
立ち上がれないくらい悲しい思いをしてからは言えなくなってしまった。
きっと彼はそれさえも覚えていないんだろうけど。
ダンナは私がもし「別居しよう」とか「離婚しよう」と言ったら、
また「どっちでもいいよ」と言うのだろうか。
「どっちでもいいよ」って言葉が悪いわけじゃない。
その言葉がどう響くかは、その使い手の心ひとつなのだ。
夫婦って難しい。
アンナさえいなければ別居希望。
悲しいかな、プライベートではセラピストのパーソナリティなんてクソくらえなのである。
2002年09月16日(月) |
「親子丼→胡椒→くしゃみ」という思考の連鎖 |
親子丼を作った。
ダンナは胡椒をかけて食べていた。
ピリリとおいしくなるのだそうだ。
試しに、マネして親子丼に胡椒をかけて食べてみた。
うまい。
これは発見だ。
ところで、昔、よくマンガで、胡椒をパッパッとふって、
人にくしゃみをさせるなんてシーンをよく見かけた。
それを見て、本当かな!?と、私はずっと疑問に思っていた。
そこで、小学生の頃、実際に自分でそれを体験すべく、上を向いて鼻の上で胡椒のビンをパッパッとふった。
あの独特の香りが鼻の中いっぱいに広がり、ピリピリしてくる。
そして、ふぇーっくしゅん、ふぇーっくしゅん、と、くしゃみは立て続けに出た。
あれは本当だった。
しかし、鼻の中がムズいこと、ムズいこと!
二度とやらないと心に誓った。
思考の連鎖で人は色々なことを考える。
そのおかげで、私は小さな頃のことを思い出し、こっそりひとり楽しい気分になった。
最近仲良くなったコがいる。
ネットをやらないどころか、ケータイも持っていない自称アナログ派の彼女は「手紙魔」だ。
彼女と友達になって、私はここしばらくなかなか受け取ることのなかった、
手書きの手紙ってモンを頻繁に受け取るようになった。
この手紙ってのが、また嬉しい、あったかい。
彼女の手紙を受け取る度に、すごーくほわぁんとした気持ちになる。
いつも便箋3枚は書いてくれるけど、それを手書きするのは相当な時間がかかるはずだ。
そして、手紙を書いている間、彼女は私のことを考えながら書いてくれているのだ。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。
今ではメールがコミュニケーションの手段として手紙に取って変わり、
手書きの手紙は恐らく減る一方だろう。
メールはポストまで行く手間だってないし、好きな時に打って好きなときに送信できる。
世界中に、だ。
私がNYに住む親友たおと色々話せるのもメールのおかげだ。
書くより簡単に打てるし、間違えれば簡単にデリート、デリート。
切手代もかからないし、かなり手軽で便利。
けれど、こうして郵便屋さんが配達する手紙を受け取ってみると、なかなかいいもんだ。
手間も時間もかかるけれど、その分、心がいっぱいこもってるように感じる。
きっと、昔は今よりも郵便屋さんがヒーローだったんだろうな。
ポストにコトンと落ちる手紙の音を聞いて、走って取りに行った子供の頃を思い出す。
いつも自分宛ての手紙を待ってた。
手紙って宝物で、ワクワクしながら封を開けた。
そして、返事を書き、赤くて丸いポストに出しに行った。
文通なんて言葉もあったな。
彼女のおかげで、なんだかすっごくあったかいものを思い出した。
とても大切なことを心込めて伝えたい時、私は大切な誰かに、手書きの手紙を書こう、って思った。
彼女、すっごく近所に住んでるんだよねー。
歩いてすぐの家。
会って話した方がよっぽど近い距離。
でも、あえて手紙を書き、そして、切手を貼り、ポストに投函してくれる。
新しい友達が運んできた、新鮮な喜び。
それは私をとてもあたたかい気持ちに、そして、元気にしてくれる。
ありがとうね、花代ちゃん。
それなのに、返事書かない私ー。
2002年09月08日(日) |
ヴォイス・ヒーリング |
今日は、ねねの主宰する音工房 宙〜そら〜のスチューデント・ライブ&ヴォイス・ヒーリング・ライブ。
ずっとステージのソデで、生徒さん達やねねの歌声を聴いていた。
なんでだろ。
泣けてくる。
すぐ出番だってのに、私はステージのソデでぐしゅぐしゅと泣いてしまう。
悲しいんじゃないの。
でも、何かが溢れてくる。
彼女達の、ねねの歌を聴いて、何かが溢れてくる。
胸がつまる、キュンとなる、胸のそこに何かがあるのがわかる。
その涙を拭きたくないんだ、流れるままにしていたい。
理屈じゃあないんだなぁ・・・
ステージに立つ側として参加させてもらえたけれど、
彼女達やねねの歌声を聴いて心を揺らすのは客席のすべての人と同じ。
素敵な時間だったなぁ。
ねねをはじめ、音工房 宙〜そら〜のみなさま、今日は本当にありがとうございました。
ねね、あらためて、あなたは本当にスゴイ人だと心から思ったよ。
今日は特に「やさしうた」をありがとう。
そして、この歌をねねと一緒に生み出したゆみこちゃん、ありがとう。
異空間を旅するような時間を味わったけれど、
明日からまた現実がデーンとそこに待ってる。
寝て体力温存だ。
セッションの中でよくやることがある。
それは、単純なイメージの遊びみたいなもの。
ゆっくり椅子にかけて、頭のてっぺんをフタを取るみたいにパカッと開ける。
そこに、遠い空の上、宇宙から、滝のように金色のエネルギーが流れ込んでくるのをイメージする。
頭のてっぺんから足の先まで勢いよく心地よく流れていき、地中に抜けていく。
それはどんどん流れ込んできて、手のひらからも溢れてくる。
全身の毛穴からも流れ出していくかもしれない。
少しの間、そのイメージの中で遊ぶ。
感じていくと、人によっては、体の中に何かがスーッと通るように感じる人もいるし、
手のひらに、もわ〜っとしたものを感じる人もいる。
ちなみに私は何にも感じない派だけど。
そして、少ししたら手のひらや指を見てみる。
大体の人が、自分の手に光る金粉を見つけることができる。
これに関しては裏づけを取りたくて、やるまえに石鹸まで使ってゴシゴシ手を洗って試したりした。
メイク用品でラメ入りのものがついてもいけないので、スッピン状態で。
そして、やっぱり、金色のキラキラは手のひらや指に現れる。
人によっては見つけにくいくらいひとつふたつのものが、
時には、驚くくらいキラキラが出てくることも。
肩や腕に出る人もいた。
みんなこのイメージ遊びの結果に驚く。
勿論、全然出ない時もあるけど。
これは、まさに、イメージしたものが実現したことに他ならない。
イメージってスゴイんだよ、だからこそイメージワークやヒプノセラピーも効果があるんだよ、と、
さりげなく自分のセッションをフォローしたりする。
かと言って、日々、自分が何気なくイメージしたものが、すべて実現するというわけではない。
そうしたら世界はハチャメチャだ。
私は藤木直人を彼氏にし、金城武に二股かけるだろう。
イメージを通して潜在意識にあるものが実現する、変化する、
それは、とても強い感情の動きや衝撃により、深い部分での何かが動いた時に起こるような気がする。
もしくは、無欲で、純粋に、自然にイメージできた時。
たーだ、欲望で、よこしまな気持ちでイメージしていては、何も起こらないのだ。
イメージしたことが実現するしないを書き始めると長くなるので、ここでやめとこ。
難しいんだ、線引きが。
その辺を語ってたら、立派に論議に発展してしまいそうだ。
セッションの中でね、金粉が出るのは、きっと、
その人に自分に変化していく力があるということを見せてくれるために、
神様とか天使とか、そういう上の方の人が、
もしかしたら、力を貸してくれるのかもしれない。
2002年09月03日(火) |
ス、スッピンかい!? |
8月の中頃から、顔にヘンなものがあることに気付いていた。
口の脇辺りに、まあるい湿疹みたいなもの。
まあすぐ治るだろうとタカをくくり、アンナの軟膏を拝借して塗っていた。
が!
昨日、お祭りで山車を引いて帰って来てみたら、なんと、それが顔半分と首にも・・・
ガァ〜〜ン!
なんぢゃこりゃ!血ぢゃ!(←それはジーパン、わかった人は私と同年代)
自分が、きっ、気持ち悪いっ。
今日は朝イチで皮膚科へ。
先生は私の顔を見るなり「化粧品ですね」あっさりと言った。
ここ2か月弱位使っていたものが原因である可能性が高いらしい。
あと思い当たるのは、日焼け止め。
昨日山車を引いていた時は炎天下の中だったし、そこで急に増えた。
今までなかった顔の別の部分や首にも出た。
祭りに繰り出す前に、顔と首にいつもの日焼け止めと同じシリーズでSPF値が高い強力なやつを塗った。
それかも・・・と思った。
化粧品かぶれなんて生まれて初めて。
抵抗力低下!?
先生から、治るまで、洗顔後、薬以外何もつけないように指示された。
ファンデは当然、基礎化粧品もだ。
紫外線もダメ。
そして、治ったら、化粧水なり最低1週間それだけ使うように言われた。
ひとつのものを反応が出ないとわかるまで使うのだ。
そしたら、以後、それを使える。
使いたいものをそうやってひとつづづ反応がないとわかるまで試さなければならない。
その期間、試しているもの以外を肌につけないようにするそうだ。
つまり、ずっとスッピンを余儀なくされるのだ。
オイ、オイ、待ってくれ〜!と思った。
セッション、スッピンかい!?
いっそのこと、怪し気な、いや神秘的な雰囲気をかもし出すために、中近東風に布巻こうかな。
と言うことで、今後セッションに来てくださる方々、エイミーはすっぴんです。
あ、眉毛は描きます、麻呂だからね。
こういう時、ふと、たおを思い出す。
そう言えば、たおの石けん、まだ残ってたかも。
肌のトラブルを抱え、手作り石けんの世界に入ったたお、今さらながら、敬意を覚える。
そんな彼女を理解したつもりになっていたけど、全然理解していなかったことにも気付いた。
やっと、今回の件で、今までよりもたおに近付けたように感じた。
私も、頑丈だと思っていた自分の肌がこういう反応をしたことによって、いつまでも若くないこと、
そして、自分にとってよりよく心地よいものを選ぶということについて考る機会を得た。
体は正直だ。
もっと自分を大切にしたいな、って、今回の件を通して思えた。
私のお肌、酷使してきたけど、しばしゆっくりと休まれよ。
さようなら、昨日。
こんにちわ、明日。
同じ悲しみを抱えたままでも、今日私はここにいる。
明日を見つめて。
新しい明日を見つめて。
後ろを向いて見つめてきたものを、もう明日に見い出そうとはしないよ。
したくないんだよ。
それはただ苦しいだけだとわかったから。
神様、どうか私をはばたかせてください。