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'ゃッぱ・頭、変っすか。 'ゃッぱ・頭、変っすか。


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2005年07月27日(水) 朝鮮王朝の最後の嫡統が歴史の中に消えた。

朝鮮王朝最後の直系の子孫で、16日に73歳で亡くなった李玖(イ・グ)さんの葬儀が 24日、ソウルの昌徳宮(チャンドククン)熙政堂(ヒジョンダン)前で営まれ,王朝古式の伝統にのっとった儀式の後、国葬並みの華麗なひつぎと民族衣装の長い行列がソウル市中心を練り歩き、沿道で数万人の市民が別れを告げた。
多くの閣僚や政治家が列席し、日本からT野(Afぉ)前駐韓大使や皇族関係者も参列した。

李玖さんは、日本の韓国併合とともに消滅した大韓帝国皇帝の子孫(東京で生まれ、学習院で育った)高宗(コ・ジョン)の孫であり、英親王(ヨンチンワン、李垠)と李方子(日本の植民地統治の朝鮮半島融和策で政略的な結婚を強いられた梨本宮守正王の長女・李方子(まさこ))女史の次男

折しも、「朝鮮半島の非核化」などを焦点に 北京で米・朝・中・韓・日・ロシアの6者協議が執り行われ、米・朝など 個別の協議も数度回行いつつ合意まで難行しているようだ。
曲折を経て、協議はすすめられるものの、すれ違いというか葛藤している様なのである、
朝鮮半島の民族においては、日本帝国主義による植民地支配の被害者であるという歴史観を持ち、極めてナーバスな感情を残し、現在の日本政府が経済も含め米との友好和親の路線を強調すればするほど、日本が完全に右傾化の道を歩きはじめ、日本国民全体が軍国化を志向していると、いうような日本についての様々な誤解がアジア社会全般に広がっている,
日本人として、そういう感情問題の介入や心情は理解するものの、思想・イデオロギ〜や人間性の部分は(相違)愛反するということは言える。



2005年07月07日(木) 七夕(たなばた)とてるてる坊主。

今日のソウルは、夕方から激しく雨の降る 梅雨の夜となってしまいました。
昼どきには日照もあり、日本での今晩はたぶん七夕の両星は観賞できないところで、こちら韓国わぁっと期待もしたものでした。
残念ながらの結果と逢いなりますたね。

まあ、韓国ではこの七夕を伝説的にとらえたり、儒教的思想をからめて星座にまつわる行事は、言い伝えにはありません(きっと・無いと思う?)
中国史・創生のころの言い伝えが、日本の奈良時代に導入され、宮廷のまつり(祭り)の行事として行われたらしい、
そして 農耕民族の勤労意欲、向上のため こと座のベガが・織物(はた織り)じょうずの織姫、そしてわし座のアルタイルが牽牛(牛飼い・カウボーイ?)のひこ星 働き者(だった!)どうしのふたりが出会い、それから男女の必然で結ばれて、暮らすのであったそうだ。
しかし、性格の一致でいっしょになったふたりは、やがて それぞれのはた織と牧畜の業務を怠慢し生産しなくなってしまい(人間的です)、彼らの管理監督官の天帝が、「働かざるもの食うべからず・二人はくっついていてはならず と 年に一度(7月7日)しか逢瀬(まぐわい)は許さじ」 と 裁ばかれたのだそうだ。

それで、この日を七夕のまつり事とし、また 星座になぞらえて、天の川をへだてて行き来することや短冊に願をかけけることによって 大衆のロマンチック感を扇動させんものとしたのだろう。(現代にも通じる政策です)

でぇ、やはり 韓国でも梅雨だったりするので、この言い伝えはナイらしい、だけでなく、晴れることを祈ったり  
明日の天候の快復を願って行う慣わしの、「てるてる坊主」も 無いそうなぁのだ。
因みに、てるてる坊主も 中国初期の儒教の教えから、「掃晴娘(サオチンニャン)」っという女の子の人形で、白い紙で顔を作り、赤や緑の紙の着物を着せ、稲の穂で作ったホウキを持たせ、軒下に吊るして晴天になるように祈った、
のが、起源らしい。
因みに、日本に伝わったその後の童謡唱歌の第3番の歌詞は、
 てるてる坊主 てる坊主
 あした天気に しておくれ
 それでも曇(くも)って 泣いたなら
 そなたの首を チョンと切るぞ
っと ある。


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