もはや賽はとっくの昔に投げられていたのだろう。日本プロ野球選手会が史上初のストライキに踏み切ったという第一報を聞いたときの気持ちは、自分の中では意外なまでにあっさりしたものだった。 論点は粗方メディアによって出尽くされているので、ここでは改めて振り返らない。私が重要視したいのは、今回のストライキがごく自然発生的であっさりしたものに感じると同時に、ファンの側に少なくない歓迎ムードで迎えられたという“異常”極まりない光景そのものだ。 多くのファンが、経営者側のあまりに誠意と節度を欠いた姿勢と、それをいけしゃあしゃあと「最大限の誠意を持って対応したが……」などと文書で発表する、その厚顔無恥ぶりに呆れ返ったことだろう。その態度は、図らずもこの国におけるプロスポーツの重要性や意味、本質といったものを浮き立たせるきっかけにはなった。 新規参入をあれだけ拒む以上、プロ野球は、少なくともオーナーサイドにしてみれば、渡邊恒雄・前巨人オーナーを頂点とするロータリークラブのようなものに過ぎなかった。運営する側がプロ野球をプロスポーツだと認識していないこと、これこそが日本プロ野球における最大の不幸であることを、多くの人が気付いてしまった。 渡邊氏の「たかが選手が」発言の向こう側に、その選手を応援しているファンに向けられた「たかがファンが」という言葉がある。その事実に、多くのファンがあの時点で気付いた。これまでどれだけ経営者側に失望しても絶望はしてこなかった私だが、あの発言ではっきりと私は絶望感に苛まれた。 その後の経緯は、泥沼と言ってもいいようなものである。私としては選手会の主張、すなわち「もっと門戸を開きましょう。時間をかけて開かれた議論をしましょう」という主張は至極真っ当なものであると思う。それが一蹴されたということは、恐らく選手会がストライキを行っても、これから先何一つ変わることはないんじゃないか、とすら思う。スポーツビジネスにおける明確なビジョンすら持てない連中が、ストライキによってもたらされる中長期的な痛みというものを認識できる道理がある訳ないからである。 2001年9月11日、アメリカを襲ったあの同時多発テロで、MLB等のアメリカスポーツは、一時的に興行の中断に追い詰められた。日本においても、何らかの社会的事件でプロスポーツが中断されたことは数回ある。ただ、あの時のアメリカスポーツが日本と決定的に違ったのは、中断を決めたのが他ならぬそれぞれのスポーツに直接携わっていた人たちであった、ということだ。 今回のストライキは、日本では恐らく初めてであろう、そのスポーツに直接携わっている人間が直接決断して行った中止である。中止と言っても、これまでのように、あらゆる判断を“お上”に任せ、“お上”から自粛要請を促されることでしか決断を下せないこれまでの経営者とは全く違うことを、当事者たる選手たちが下したという事実。それはしっかりと注視しておく必要があるように思う。 ストライキ決定後の会見で、プロ野球選手会長の古田敦也は、口には出せないことを山ほど抱えて、それでもファンに向けて責任ある態度と言葉を選ばなければ、というような苦渋にまみれた表情をしていた。対して経営者サイドは、まるでそれが他人事であるかのような表情で、時に薄ら笑いのような顔を覗かせつつ、会議前から予め用意されていたであろう文書を発表した。 「選手会がストライキを計画しています」――まるで選手会がテロを計画しているとでも言いたいかのようなあからさまな敵意と悪意は、滑稽さすら通り越して何も思えなくなるような脱力感を私にもたらした。 MLBでは、テロによるリーグ中断後、全てのチームがユニフォームの背中に星条旗のワッペンを貼り付けた。あからさまなナショナリズムには是非があるだろうが、少なくともこの行動は、MLBに携わる人間が、アメリカ社会におけるMLB、そしてプロスポーツのポジションと重要性を十二分に把握していない限りできないことだったと言える。 日本では、日本社会におけるプロ野球のポジションと重要性を把握している経営者がいない。そのことは今回の騒動で誰の目にも明らかになった訳だが、テロ後のMLBと同じことをしたプロ野球チームが日本にもあったことを、果たしてどれだけの人が認識しているか。 最後まで選手会の要望に合意することを拒んだと伝えられているオーナーが持つ球団、オリックスである。 1995年の阪神淡路大震災は、天災かテロかの違いはあったが、多くの人が一瞬にして亡くなったという事象は9・11と同じだった。同じ日本で起きたことで、多数の日本人が亡くなり、テロとは違い広い地域が焼け野原と化した。その衝撃は、当時神戸にいなかった私がとやかく言っていいことではないと思う。ただ一つだけ言えることは、9・11ではアメリカ中の多くのスポーツがあの事件に対する何らかのアクションを起こしたにも関わらず、日本で阪神淡路大震災の被災者の為に直接的なアクションを起こしたプロスポーツは、知る限りでは袖に「がんばろうKOBE」というワッペンを貼ったオリックスだけだったということである。 その年、オリックスは快進撃を重ね、リーグ優勝を達成した。震災の影響でスタンドが損壊したというグリーンスタジアム神戸には、オリックスの快進撃に自らを奮い立たせるように、多くのファンが連日詰め掛けた。「がんばろうKOBE」という言葉に、多くの人が何らかのパワーをもらったことは想像に難くない。 「がんばろうKOBE」という言葉に確かな力を宿した球団が、しかし、今回の騒動では先陣を切る役割を果たし、球界を縮小均衡に導くリードオフマンの役割を果たしている。ダブルフランチャイズという訳のわからない言葉と共に、神戸という土地を捨てようとしている。 あの時、神戸に根付いたものは、一体何なんだったのか。確かにここ数年、あの90年代後半に比べて観客動員数は明らかに冷え込んでいる。だが、ファンが離れたのは、あの時に観客を呼んだ求心力を、その後の下地に生かす努力をしてこなかったからである。イチローがチームを去ったことは、必ずしも関連がない訳ではないが、それを全てのエクスキューズにして安易に神戸を捨てようとしているオリックスを見ていると、あの「がんばろうKOBE」は何だったのかと言いたくなるのだ。 残念ながら、日本では依然として、「たかがスポーツ」という認識が根強くある。「たかが選手」発言は、その象徴に過ぎない。表面上はスポーツに携わっている人間が、スポーツと直接接点がない人たち以上にスポーツを踏みにじる。今回の反発は、一言で言えばそういった大元に辿り着く、と私は思う。 「プロ野球は文化だから」という文句が、今回の騒動では至るところで出てきている。その一言で今回の騒動を批判している人たちにも、少し思うところがある。 確かにスポーツは文化であるが、何をもって文化と言えるかということだけははっきりしておくべきだと思う。色々なスポーツに色々な問題があり、その環境を改善する為の方策というものは千差万別であるが、多くの場合でそうしたことの重要性を説明するキーワードとして「スポーツは私たちにかけがえのない文化だから」というものが使われる。 文化であるならば、スポーツはスポーツとして単体で存在する訳ではなく、その他のあらゆる文化と複雑に絡み合いながら存在しなければならない。少し違和感を覚えるのは、「スポーツは文化だから」という言い回しを目にする多くのケースで、そのスポーツだけが栄える為に「スポーツは文化でなければならない」という文言が見え隠れすることだ。 プロ野球は、プロ野球だけで成り立っている訳ではない。経営者サイドが言いたいことは、つまるところそういうことだろう。そういう権勢欲とカネにまみれた歴史も、日本プロ野球70年の文化の一面と言ってしまえるのだ。文化としてのスポーツを訴えるならば、その時に欠けている価値観や必要な発想を、身内の論理(プロ野球の論理)だけでなく社会との関わり方の中で、突き詰めて考えていく必要がある。 いまこそ「がんばろうKOBE」の精神に立ち返る必要があるのではないか。95年、神戸はオリックスを必要とした。同時に、オリックスは神戸を必要とした。社会との関わりの中で確かに息づいた文化が、そこには幸せな図式で存在した。その事実を、極めて近い歴史を、忘れるべきではない。 文化とは何かと聞かれた時、私は「それを共有する者に絶対的な誇りをもたらせるものだ」と答えるようにしようと思う。共有すること、なのだ。 プロ野球に携わる人たち全てが幸せになる為には、文化になることが絶対条件である。そして文化とは、共有するものである。その生きた材料が、「がんばろうKOBE」という言葉とその歴史の中にある。 絶望的な状況だからこそ、敢えてこの言葉を持ち続けていきたい。「がんばろうプロ野球」。歴史の審判が下る日は、確実に近付いているのだから。
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