月の輪通信 日々の想い
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2008年06月22日(日) 引退試合

雨の朝。
寝坊助のオニイを起こす。
階段の下から何度も何度もオニイの名を呼ぶけれど、ああとかううんとか、歯切れの悪い声が戻ってくるばかり。
挙句の果てには、「わ、参った!」と慌しく駆け下りてきて、用意した朝食に見向きもせずに、靴を履く。

「携帯持った?財布は?昼ごはん代持ってる?」
母のお決まりの世話焼きをうるさそうに振り払って、
それでも朝ごはん代わりに手渡す板チョコだけはしっかりズボンの後ろポケットに突っ込んで、自転車を駆って出かけていく。
こりゃきっと、遅刻だな。
今日はオニイの引退試合。

小学校1年生から始めて11年と少しのオニイの剣道歴。
運動が得意なわけでもない。
体格的にも体力的にも、決して恵まれたものを持ち合わせたわけでもない。
格別大きな勝ち星をあげるでもなく、ただこつこつと地味な稽古に励んできた11年。
「男の子にはぜひとも剣道をやらせたい」
そんな勝手な母の願望から始まったオニイの剣道修行。
よくぞここまで続いたなぁ、よく頑張ってくれたよなぁと思う。

高3になって、オニイは剣道部のほかに新たに美術部に入部した。
剣道部の練習を減らして、その分美術部で油絵を描いてきているらしい。
来たるべき進路対策にそろそろ美術の勉強が必要になったのに加え、剣道部の部長の役責や、監督や後輩たちとのしがらみに散々悩んだ結果の路線変更なのだろう。
帰宅したオニイの制服のシャツは、男臭い稽古の汗ではなく、油絵具のカラフルな染みをたくさんつけて帰ってくるようになった。
さらさらの若い汗の汚れとは違って、こちらはもうしっかり生地に染み付いてしまって、洗っても洗っても薄まる気配すらない。

先日、懇談で訪れた学校でオニイが油絵を描いている姿をたまたま見かけた。たたみ半畳もある大きなキャンパスの前に立ち、首を斜めにかしげて絵筆を握るオニイの姿は、はじめて見る新鮮なものだった。秋の発表会に向けての制作だと言う。
とりどりの絵具をちりばめたオニイの作品が、技術的にどうなのか評するだけの眼は私にはない。けれども「ま、たのしくやってる」と語る控えめなオニイの言葉からは、絵を描くことを十分に楽しんでいる空気が感じられる。
本当ならオニイには、汗にまみれて竹刀を構えるよりも、絵具の匂いやカラフルな色彩の中にいるほうが彼本来の居心地のいい場所だったのかもしれないなぁとふっと思ったりする。
そこには、幼いオニイに初めて麻の葉模様の剣道着を着せた母として、ピリッと刺さる痛みが残る。

「遅くなって御免」
夜、試合から帰ったオニイはさばさばとした様子だった。
後輩たちが唯一の3年生であるオニイの引退をねぎらって会食の場を設けてくれたのだという。
「で、試合のほうは?」と訊くと、
「二回戦で負けた。」
1勝1敗。
まぁ、オニイらしい結果なんだろう。
最後の試合でとりあえず一つ勝ち星を上げることができてよかった。
よく頑張ってくれた。
母は嬉しい。











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