月の輪通信 日々の想い
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2008年01月30日(水) こんなことしたかて

ひいばあちゃんの病状、相変わらずよくない。
ほとんど召し上がらない。
お茶も一口二口しか召し上がらない。
数日前から、訪問看護の看護士さんが毎日来てくださることになって、血圧や脈拍を診て、着替えをさせ、点滴をして行ってくれる。
何も召し上がっておられないのにひいばあちゃんは、着替えを嫌がって手を払ったり、点滴の腕をもどかしそうに振り上げたりするだけの力が残っているらしい。
「いややぁ」とか、「しんどい」とか、子どものように訴えたりなさることもある。

今日、看護士さんと義母がお下の着替えをさせていたら、ひいばあちゃんが突然大きな声ではっきりとおっしゃった。
「こんなこと、したかて、もう、なんもならへん!痛いだけや。」
そのはっきりした言葉の意味に、看護士さんと義母の手が一瞬はたと止まった。
胸を衝かれる言葉だった。

「そうかなぁ、なんもならへんのかなぁ。」
看護士さんは、ひいばあちゃんの言葉を優しく受け流して手早く着替えを終えられた。
100歳を超えたひいばあちゃんに、もうそれほど命のエネルギーが残っていないことは、家族にも看護士さんにもよく判っている。
それだけに、「一日でも長く」とひいばあちゃんの細い腕に毎朝点滴の針を刺す心境は複雑だ。
このまま何もせず、静かに命の火を消していかれるのを見守って差し上げるべきなのではないかという疑問が付きまとう。
でも、家族は皆、一日でも、一時間でも、一分でも、お別れの刻は先送りにしたいのだ。
そう思う気持ちは、遺されるもののエゴなんだろうか。
「こんなことしたかて、なんもならへん」ことなのだろうか。

辛い看取りの時間が今日もゆっくりと過ぎた。


2008年01月26日(土) 老衰

ひいばあちゃんの具合が悪い。
寝間から起きてこられなくなり、食事も取られない。
吸い口で少しづつお茶を飲ませる。
プリンを一口二口召し上がる。
あとは、「しんどい」といって、うつらうつらしておられる。

老衰なのだ。

点滴や注射も、年寄りには負担になるのだそうだ。
主治医の先生も、「このままゆっくりさせてあげなさい。」といわれる。

義父はそれでも、一日でも命を永らえて欲しいと、無理をしてでも何か食べさせたいと、躍起になっている。
イライラして、自分をおさえられなくなっている。

たまたま義兄が東京へ出張。
いつもひいばあちゃんの介護や通院の決断を下している義兄が居ないので、その役割が個展前の父さんに負いかぶさる。
出来るだけ仕事に専念させてあげたいのだけれど。

人が枯れ落ちていく瞬間に立ち会っているのだろうと思う。
辛い。


2008年01月19日(土) 老いの終幕

寒い朝。
デイサービスに出かけるひいばあちゃんの身支度を手伝うために出動。
食事を終えたひいばあちゃんのお下の着替えを済ませ、髪を結う。

昨年末、100歳の誕生日を迎えたひいばあちゃん。
お正月のお膳もご機嫌よく召し上がって、新しい年を迎えたのだけれど、ここ数日何となく調子が落ちた。
最初は、「寒い寒い」といってお着替えを嫌がることからはじまり、だんだんにちょっとした移動も大儀そうになさるようになった。
寝床まで行き着く前に床にごろんと転がって眠ってしまわれることもある。大きな声で呼びかけても、かろうじて首を振って返事をなさるばかりで、お声を聞く事が少なくなった。
テレビの前に座っていてもうつらうつらと居眠りしていることが多くなり、食事もほんの一口二口しか召し上がらないことも増えた。
心配した義父が、口当たりのよいプリンやお茶を勧めて、かろうじて食事を終える。
今日、かかりつけのお医者様の口から、「老衰」という言葉がはじめて漏れたという。

あちらの扉、こちらの小窓と一つ一つを閉じていくように、静かに生の営みを閉じていかれるように見えるひいばあちゃん。
それでも目覚めれば、部屋から食事の席までは自分の足で歩いておいでになるし、介助もなしに自分でお箸を持ってご飯を召し上がることもできる。
「もう、ごはん、おわり?」と書いた筆談の文字を目で追って、黙ってうんと頷いたりなさる。
食べて眠って排泄をするという最低限の機能を最後まで残しながら、このまま少しずつ家族や外界と繋がる間口を狭めて、老いの終幕へと進んでいかれるのだろう。
「待って、もう少し」と引き止めておきたい気持ちと、
穏やかに歩んでいかれる道の先をじっと見守っていて差し上げたい気持ちと。
複雑な思いで日々を送っている。

ひいばあちゃんの手先、足先は冷たい。
100年生きたひいばあちゃんの心臓は、もう体の隅々まで温かい血液を配るだけの力を持っていないのだろう。
それでも、今取り替えたばかりのパンツ型紙おむつはぼってりと重く暖かい。
それはひいばあちゃんが、100年と三十何日めかの今日という朝を、確かに生きて迎えられたということの確かな証。
奇蹟のような重みと暖かさを、いつまでもこの手に記憶させておきたいと思う。


2008年01月13日(日) 叶った夢

最近になって遅ればせながら、某動画配信サイトの使い方を覚えた。
嬉しくなって、名簿入力などのPC仕事の傍ら、昔好きだったロックバンドの古い映像などをあれこれ拾ってきては、BGM代わりに流し続けていた。
少女コミックのヒーローのような異形のステージ衣装。
脳天に突き抜けるような激しいシャウト。
何度も何度も繰り返す怒りのメッセージ。
もはや40過ぎのおばさんの私には、ボーカリストの煽りに応えてこぶしを振り上げるエネルギーはないが、若き日の胸の疼くような熱い憧れの思いのかけらを思い出し、懐かしい気持ちになる。

昔、このバンドのライブツアー前のメンバー達の日常を描いたドキュメンタリー番組を見たことがある。
ボーカリストが新しい曲作りに苦心し不眠不休で悶々とのたうつ姿や、演奏のスタイルをめぐってのメンバー同士の激しい言葉の応酬。衣装合わせやリハーサルの様子など、華やかなステージの裏側で見せるメンバー達の素顔が描かれていた。
音楽を楽しむというよりは、頑固な職人達のモノづくりの現場を思わせる地味で着実な作業の積み重ね。憧れのボーカリストの憔悴した素顔を見ながら、できることならお傍によって熱いコーヒーの一杯でも入れて差し上げたいと、夢見る少女は一人妄想を膨らませたものだった。

工房では今、父さんが今月末から始まる大きな展示会に向けて、不休の制作の日々を送っている。
制作のアイディアが浮かぶまでの鬱々としたジレンマの時期をようやく乗り越え、あとは時間と疲労との戦いあるのみ。
その鬼気迫る緊迫感に、工房へ足を踏み入れることすら怖くなるときもある。下手に声をかけると、集中力が途切れると噛み付かれそうな空気がピリピリと痛い。出来るだけ刺激しないように足音をしのばせ、使い終わった刷毛を洗い、新しい釉薬を溶き、土屑を片付ける。
制作意欲の波に乗りかかった父さんは、一人別世界に迷い込んでしまったかのように振り向きもしない。背中を丸め、一心に土を削り、繊細な釉薬掛けに瞳を凝らし、黙々と窯詰めを行う。

何も言わずに放っておけばこの人は、食べることも、眠ることも、しばし横になることすらも忘れてしまうのではないだろうか。
仕事の切れ目を見計らって、ストーブのお湯でコーヒーを入れる。
釉薬の容器や道具類で散らかったテーブルに父さんの大きなマグを置いて、「置いとくよ」とだけ声をかけて、静かに工房から退散する。
「少し、休んだほうがいいよ。」と言う言葉を、なるたけこぼさぬ様に唇を固くつぐんで。

もしかしたら今、私は少女の頃強く憧れた「誰かのためにコーヒーを入れる私」という淡く幼い夢を現実のものとして味わっているのかもしれない。
その「誰か」は、ステージの上で野獣の如くシャウトするボーカリストでもなければ、華やかなスポットライトを受ける美形のギタリストでもない。
けれど、その人の手は、なんでもない土塊の中から美しい形を生み出し、鮮やかな色彩を紡ぎだすことのできる魔法の手だ。
明るい展覧会場にずらりと並ぶ色鮮やかな作品の陰には、ただただ自分の身を削るように一心に土と向き合う作家の厳しい日常がある。
そのことを間近に見守り、おろおろと遠慮しいしい世話を焼き、作品の完成を一緒に喜ぶことの出来る今の私は幸せだ。
そんなことを思う。
















2008年01月04日(金) 仕事の成果

お正月の里帰りから戻って、数日振りに我が家での台所仕事。
ピリピリと刺す様に冷たい水を洗い桶に張り、野菜を洗う。

濃い緑の葉っぱつきの大根は、実家の家庭菜園での収穫物。
都会育ちの幼い孫娘たちに収穫の楽しさを味わわせてやろうと父が丹精した大根だ。小学校の学級園で農作業はたっぷり経験済のアプコも、お姉さんぶってお相伴でぬかせてもらった。
土のついたままの立派な大根を新聞紙でくるみ、紐で縛って持ち帰ってきた。

たわしで泥を落とし、葉っぱを切り落として、まな板に載せる。
包丁を入れるとピリピリと亀裂の走りそうな張り詰めた大根を、薄く刻んで千六本にする。柔らかそうな大根葉も細かく刻んで、一緒に塩もみにする。
軽い重石を載せてしばらく置けば、簡単お漬物の出来上がり。
冬の大根が美味しい時期になると、実家のおばあちゃんがよく作ってくれた懐かしい味。確かおばあちゃんはこのお漬物を「もみぬき」と呼んでいた。
生の大根の適度なからみとシャリシャリと心地よい歯ごたえが大好きだった。気がつけば、「新鮮で立派な大根に行き当たったら、まずは刻んでもみぬきに。」というのが我が家の冬の台所の定番となっている気がする。

とうに会社を定年退職した父。
自作の立派な大根を前に
「もう、お前たちのために稼いでくる物と言ったら、こんなものくらいやな」
と笑う。
そうか。
「サラリーマンの定年退職後の生活」というのはそういうものなのかと改めて思う。
定年のない自営業の我が家では、高齢の義父母やひいばあちゃんも「ここから先は無職」というポイントがない。だから、何歳になっても窯元の仕事の一端を担っているような感覚が自他共に抜けない。
実際、年齢相応の衰えにしたがって仕事の量や質は落ちてはくるものの、健康の続く限りこまごまとした雑用や簡単な軽作業の「手」として何らかの役割が用意される。
それは、有難い事なんだろうか、それとも苦しいことなんだろうか。
くだらないことを考えてみたりする。

新年の挨拶にと、今年も父さんが干支の置物やお茶碗、香合などを実家に贈ってくれた。
毎年、あちこちにお配りしたり販売したりするために、年末ギリギリまで窯も乾燥機もフル回転で何十個も焼き上げる干支作品。家族従業員が総動員でようやく年内にすべてが納まった。
実家へ持ち込んだのは昨年最後の窯から出た、最終の作品。やっとのことで年が明けてから包装したものだ。

「一年の仕事の成果を、こんな風に作品という形にして持ってこられるというのはええ仕事やなぁ。」
と父が言う。
同じく帰省してきている弟達も働き盛り。それぞれの職場で責任ある仕事を任されて、精力的に働いている。
でも、その仕事の成果を直接的な物という形で故郷の父母の手の上に広げて見せることは出来ない。
「ものつくり」の仕事は、そういう意味でも幸せな仕事なのかもしれないなぁと思う。
父母は毎年、新年に私達が持ってくる干支作品をその場で開け、玄関の一番良く見える下駄箱の上や、和室の棚に飾ってくれる。
父さんや私の1年間の仕事の成果をこうしてみてもらえることを嬉しく思う。

怒涛のような年末仕事を終え、ゆるゆると穏やかなお正月をすごして、さぁ、今年も一年が始まる。
短い里帰りから戻った父さんは、さっそく工房で遣り残した仕事を始めた。工房の初出は来週からだけれど、父さんの仕事はもう元旦の翌日から始まっている。今月末の個展に向けて、新作の制作にも火がついてきたようだ。
また忙しくなる。
暖かい汁物の鍋をストーブにかけ、煮物や青菜を鉢に盛る。
夕食前の茶の間から子どもらの賑やかな声。
これも私達の仕事の成果。




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