月の輪通信 日々の想い
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あちらで、「空梅雨で水不足」「ついに取水制限」と報じられているかと思えば、北のほうでは大雨、洪水のニュース。 いったいどうなっているんだろう。 当地はといえば、好天気続きの暑い日々。 「庭の水遣りが欠かせない季節になったなぁ」と言う程度だけれど、近隣の田畑ではそろそろ水不足の影響が出始めたか。
中学生組、期末試験初日。 夜更かしの睡眠不足で寝起きが悪く、むすっと脹れたまま登校していったアユコが、お昼前一番に帰ってきた。今度は「暑い暑い」とにぎやかなことだ。 「でも、なんだか、雲行きが怪しいよ。お布団干したけど、あんまり乾かなさそうだから取り込んじゃった。お洗濯物はどうしようかな。」 と話していて、 「でも、そうたくさんは降らないんじゃない?」とアユコが言ったとたん、ポツリポツリと大粒の雨粒が落ちてきて、あっという間にバケツをひっくり返したような豪雨になった。 「な、な、なに・・・・?」 まるでTVのバラエティ番組のコントのような突然の豪雨。 干し物を二人で大慌てで取り込んで、顔を見合わせて笑う。 乾ききった道路はあっという間に川になり、暑さでぐったりしていた植物が強い雨にたたきつけられて、ペションとうつむいてしまった。
「オニイ大丈夫かな。」 一息ついて、二人が同時に思いついたのはオニイのこと。アユコより1コマ分遅れて学校を出たはずのオニイ。ちょうど家への道のりの途中ではないだろうか。通学路にはほとんど雨宿りのできそうな場所もない。自転車だから仮にかさを持っていてもこの強い雨ではびしょぬれになってしまうだろう。 「玄関に雑巾とタオル用意しといたほうがいいかもね。」 用意周到なアユコは、甲斐甲斐しい若妻のように上がり口に雑巾タオルを敷き、バスタオルを用意する。母よりよほど、段取りがいい。 数十分後、案の定、オニイは「水も滴るいい男」となって帰ってきた。
「おかあさん、僕、今日はちょっと機嫌がいいねん。」 濡れた服を着替え、濡れた頭をゴシゴシ拭きながらオニイが言った。 「へへぇ、さては、テストが凄くうまくいったとか・・・?」 「ううん、違う違う。」 とへらへら笑って理由をなかなか教えてくれない。そのくせ、しつこく聞いて欲しそうな気配満々なので、重ねて聞くと、「しょうもないことやねんけどな」とこっそり教えてくれた。 自転車で学校を出た途端、ばあっとバケツをひっくり返したような雨になったので、鉄道の高架の下の歩道で雨宿りをしていたのだそうだ。 他にも中学生が何人かと、近所のおばちゃんらしい人が一人、一緒に雨が小降りになるのを待っていた。 他の子たちが一人二人と先に雨の中へ飛び出していった後、オニイとそのおばちゃんだけが高架下に残り、なんだか少しだけお喋りをしたのだと言う。 「べつにな、ただの世間話やねんけどな。最後に別れ際にな『気ィつけて帰りや』と声をかけてもろてん。」 「それで、きげんが良いの?」 「うん、それだけ。」 照れくさそうにオニイはその話題を打ち切ってしまった。
無愛想な男子中学生と雨宿りのおばさん。 どんな世間話の話題があった事やら・・。 若者が店員と一言も交わさずに買い物が出来るコンビニを好んだり、顔見知りの近所の人と挨拶を交わすことすら嫌ったりする事の多い昨今、雨宿りの短い時間のご縁のおばさんとのちょっとしたなんでもない会話で何となく楽しい気持ちになって帰ってきてしまうオニイ。 近頃いつも不機嫌そうな顔をしている屁理屈屋のオニイにも、ちゃんとそういう人懐っこいほのぼのした気持ちが根付いているのだなという事がわかって嬉しくなった。
そういえば、先日スーパーの駐車場を出るときのこと。 「暑いね」「参っちゃうよ」と顔見知りの警備員のおばさんと一言二言私が言葉を交わしているのを見て、後部座席のゲンが「なんかああいうのっていいよね。」といった。 知らない人と知らない人が行きかう一瞬に一言二言交わす会話。 それを「いいよね」といえる我が家の子どもたちの視線が嬉しい。 それは多分「人間が好き」という事。 そして多分、「生きてる事」が好きということ。
父さんの個展、5日目。 土、日の山場を越え、さすがに毎日の百貨店出勤のお疲れが出てきた様子。あと数日。 ガンバレ、ガンバレ。
先週の金曜日、いつものように「遊びに行ってくるよ!」と自転車で飛び出していったゲンが、夕方帰宅したときにはなんだかプリプリ怒っていて、顔を見ると一触即発で泣き出してしまいそうな情けない顔をしている。 オニイと違って単純明快なゲンは、ご機嫌が悪いとき、とっても凹んだとき、凄く悲しい思いをしたとき、すぐに目の縁がウルウルと赤くなって唇がへの字に曲がる。 「どしたの?なんだか機嫌悪いね。なんかあったの?」と何度も訊ねたら、その日遊びに行った友だちとのケンカの顛末をポツリポツリと話してくれた。
「むっちゃ、腹たつネン!もう絶対あいつンちへは遊びに行かない。顔も見たくないわ!」 話していくうちに悔しさがますます増してきたようで、だんだんに声が大きくなってくる。 大人から見れば「なんだ、そんなこと・・・」と思うような些細な言葉。 「何もそこまで怒らなくても・・・と思うようなゲンの激昂。 それをストレートに吐き出す事で、悔しい気持ちのバランスを取り戻そうとしているんだな。 「言い返してやろうと思ったんだけど、悔しくなるといえなくなってしまうんや。それでますます悔しくなる。ぼくって滑舌が悪いからさ。」 ゲンは5年生になるが、どうも言葉の発音の不明瞭なところがある。ザ行ダ行がうまく言い分けられなかったり、気持ちが高ぶると言葉がつっかえたり・・・。普段は気にせずどんどんお喋りしているが、口げんかのときなどは人よりちょっと悔しい思いをする事も多いのだろう。 これまでゲンは、自分の発音のことを自分から話題にした事がなかったので、彼なりにコンプレックスを持っているのだということがわかって胸を衝かれる。 「いいたいことをポンポンと言い返せたらいいんやけど。むっちゃ腹立つわ!」と苛立つゲンに、「じゃぁ、ここで言いたかったこと全部言ってみ。まず『アホ!バカ!マヌケ!』からはじめよか。」 と、けしかける。 よっしゃーとニカッと笑ってゲンが悪口合戦を始める。 「サル!ゴリラ!チンパンジー!」 ・・・なんかサル系ばっかりやな。O君は猿顔か? 「ダンゴ虫!毛虫!便所虫・・・」 ・・・今度は虫シリーズか! 「わけのわからんこと言いやがって!あほー!糞ガキ!ぼけー!」 ・・・もう終わりか?もっと強烈なのはないのンか? 「お前なんかなぁドブに落ちろ。一生あがって来ンな!ボウフラ!イトミミズ!屁こき虫!」 ・・・・お、虫に戻ったか。 ゲンの悪口連呼は夕食後、剣道の稽古に向かう車中まで延々と続いた。
なぁ、ゲン、ここでいっぱいいっぱい悪口を言って気が晴れたらそれでいいよ。 でも、なんで○くんは今日、そんなにアンタを怒らせるようなことをしたんだろう。 「一緒に遊ぼう。」と君の事呼んだんでしょ?君だって「一緒に遊びたい!」って思って自転車で駆けつけて行ったじゃない。 何でいきなりそんなケンカになっちゃったのかなぁ。○くんにも、なにかイライラする事とか、腹が立つこととかあったのかなぁ。お母さんにはその事がちょっと腑に落ちないよ。 あとで気持ちが落ち着いたら、ちょっとだけかんがえてみ。明日もあさってもお休みだからさ。 そういって、道場に向かうゲンの背中を見送った。
今日、月曜日。 下校してきたゲンは、さっさと別の友だちの家に遊びに行った。 「それで、○君とはどうなったの?仲直りした?それとも、絶交のまま?」 夕食前、ゲンに再び聞いてみる。 「ぼくな、一応○君に謝ってみたんや。ボクは自分が悪かったとは思ってないけど、仲直りしたほうがいいかなと思って・・・。そしたら○くん、『もうええよ』と答えたんや。あいつの方が絶対悪かったのに、なんか立場が逆転したみたいでよけい腹が立った。」
自分が悪かったとは思っていないのに、「一応謝ってみる」というゲンの行動は意外だった。 ゲンの話を聞く限り、ケンカの発端は○くんの気まぐれか、何かほかの事の鬱憤晴らしだ。少なくともゲンの言った言葉や行動だけが原因ではないようだ。それなのに、「一応謝ってみる」というゲンの選択。 頑固で融通が利かないと思っていたゲンの思いがけない懐柔策にちょっとおどろいた。いつの間にかゲンも、ストレートに恨みをぶつけるのではない、ワンクッションおいた怒りの収め方を見つけることが出来るようになってきたのかもしれない。「余計腹が立った」といいながら、ゲンはそれを再び○くんに問い詰めるつもりもなさそうだ。 賢い人付き合いの要領をすこしづつ学んでいるのだなぁ。 5年生になってクラスの友達や先生にも恵まれ、大好きな虫取りや川遊びなど家で過ごす時間も充実している今のゲンだからこそ、「一応、謝ってみてやるか」と関係修復を図る余裕も生まれるのかもしれない。
「それよりさ、それよりさ・・・」 「余計、腹が立った」といいながら、ゲンはあっさりと○君の話題を切り上げて、今日の昆虫採集の段取りを始める。 夏の短い驟雨のように、あっさりと激しい怒りをやり過ごして次の楽しみに飛びついていく。 さっぱりしてなんだかいいなぁ。 ゲンってほんとにいい奴だ。
父さんの個展、3日目。 午後から子どもらと共に電車で会場へ向かう。 4人全員を連れて電車に乗るのは久しぶり。皆が幼いときには車内でお行儀よくさせるために、しり取りをしたり小さいお菓子を用意したりと何かと気を使ったが、その種の心配をする事もなく、長い座席に「うちの子」たちがずらりと座っているのはなんだか楽しい。 前の座席に、小学生くらいの二人の子ども連れの親子が座っていて、 「前の家族、面白いくらいそっくりやな。血はつながってないはずのお父さんとお母さんまで似てるね」 とオニイに耳打ちしたら、 「母さん、向こうもきっと、うちのことそう思って見てるよ。」 といわれてしまった。 はい、その通りです。 失礼しました。
個展会場では子ども達がぱっと散って父さんの新作をあれこれ見て回る。 徹夜仕事でくたびれてヘロヘロの父の姿は毎日のように見てきた子ども達だが、「父さんの邪魔はしないように」と仕事場へ出入りするのを控えていたので、新しくできた作品を見るのは今日がはじめて。 一人前の評論家の顔をして一つ一つの作品を眺めている。毎回個展の折には一番お気に入りの作品を一点ずつ父さんにそっと耳打ちしてくることになっているのだが、それぞれの子どもが選ぶ作品の傾向と言うのが何となく決まっていて、その好みや美意識がちゃんと育っているのだなぁということに気がつく。 茶陶のクラシックな作品を選ぶオニイ、絵画的な美しさを好むゲン。 決まった色彩の美しさにこだわるアユコ、形の面白さやかわいらしさに惹かれるアプコ。 それぞれに何となく一貫したものがあって、なるほどなぁと思う。 「こんなにいっぱい、一人でつくったんやなぁ。」とオニイがそっと感嘆のため息を洩らす。15歳のオニイにとって父の背中はまだまだ大きい。父の日々の営みの成果である作品の力が、将来の進路を決める岐路に立つオニイの胸に迫る。
帰りの電車の車中、電動車椅子のおばさんと乗り合わせた。 駅員さんに手伝ってもらって、介助の人もなく一人で乗り込んでこられて、ドアの近くで窓の外を見ておられる。 降りるときにも、くるりと自分で車椅子の方向を変えて、「ちょっと後ろから引っ張ってくださいな。」と駅員さんの手を少しだけ借りてさっさと降りていかれる。とても馴れた様子でもたつく事もなく、颯爽とした様子だった。 「母さん。 人間ってさ、体に不自由がある人でも幸せそうな顔をしている人もいれば、五体満足でもつまらなそうな顔をしている人もいるんだなぁ。」 オニイがアプコの頭越しに母に呟く。 「そだね、今の人を見て思ったの?」 「うん。たまに電車に乗るだけでも、学ぶ事はいっぱいあるよなぁ。」 どこかの誰かさんがいいそうな台詞。 近頃、期末試験のプレッシャーやら友だちとの些細なトラブルやら、何かと不機嫌な顔をしている事の多かったオニイ。 彼なりにいろいろ思うことはあるのだなぁ。 少年特有の無愛想も不機嫌も、オニイ本来の前向きの誠実さを失わせていない。くさることなく、前向きの発見を母に伝える事の出来るオニイの成長を嬉しく思う。
父さん、個展二日目。 近頃は百貨店も閉店時間が遅くなって、朝、開店と同時に会場に入った父さんは7時過ぎまで会場で過ごす。見に来てくださるお客様の流れによっては昼食をとる事もままならず、一日立ち詰めのこともあって、連日の夜なべ仕事の後のこの一週間は体力的にもきついものだろうと思う。 それでも、「思いがけない人が来てくださった。」「通りすがりのお客さんとこんな出会いがあった。」と嬉しそうに語ってくれる口調は明るい。 多分、一日中いろんな人とお会いして、たくさんお話をして、少々ハイになった気分をそのまま持ち帰ってくるのだろう。 からだの疲れも睡眠不足も、そうした高揚した気分が紛らせてくれているのかもしれない。
「おかあさん、ほんとにおとうさんってデパートで売ってたの?」 とアプコが訊く。 私と父さんはお見合い結婚。 はじめて二人が対面したのは、5月に閉店した大阪三越の美術画廊。ちょうど義父の茶陶展の会場で、父さんはそこでお客様の応対をしていたのだった。 だから子ども達が「お父さんとお母さんはどこで知り合ったの?」と訊くたび、「お父さんは、三越の美術画廊に並んでたのをお母さんが買ってきたのよ。」と何度か冗談で言った事がある。 連日百貨店へ出かけていく父さんを見ていて、アプコはその事を思い出したのだろう。 「ねぇねぇ、他の人も売ってた?なんでお父さんに決めたの?」 母のほら話とは知りつつ、父さんが売りに出されているという情景が面白くてたまらないアプコは何度も何度も同じ質問をする。 「どこで売ってたの?」「三越の美術画廊。」 「値段の紙、付いてた?」「うん、背中ンとこに値札が付いてた。」 「おとうさん、高かった?」「うん、めちゃくちゃ高かったよ。」 「なんでお父さんに決めたの?」「いちばんかっこよかったから。」 時々「そうだったよねぇ?お父さん。」と、父さんまで巻き込んでするほら話がアプコには楽しくてたまらない。 山から下りてくる大男や若宮のプールに出るという人食いワニの話と同様、父母が語るたのしいほら話の一つなのだろう。 アプコはそういう我が家限定のファンタジーをいつまでも暖めてくれる最後の子。その幼さがいとおしい。
個展を見に来てくれた実家の父母から電話があった。 「なかなか落ち着いたいい作品を作るようなってきたなぁ。あの年齢で自分のやりたい事にあれだけ打ち込んでやれるという事は本当に幸せなことだなぁ。」とお褒めの言葉を頂いた。 好きなことを一生の仕事として打ち込んでいける父さんの幸せ。 そして好きな人がよい仕事を残していくのを後ろで見守っている幸せというのも確かにあるのだ。 お父さん、お母さん。 あなたの娘はあの日、本当にいい買い物をしましたよ。 一生賭けた大きな大きな買い物でしたが・・・。
父さんの個展初日。 個展会場に向かう父さんを駅まで送る。 制作の睡眠不足で既にグロッキー気味の体に久々のネクタイで気合を入れて、これから一週間、父さんは個展会場である百貨店のアートサロンにカンヅメの日々だ。
駅への途中、ウォーキング中のSさん、Yさんとすれ違う。 父さんを駅におろしてとんぼ返りしてきたら、再び折り返してきた二人に会った。 「だんなさんの個展、今日からだねぇ。」 と、以前に案内状を渡していたSさんが声をかけてくれた。 「そうなのよ、ようやくね。」 と話していると一緒にいたYさんが、父さんの作品を見に行きたいという。SさんYさんは同じ水彩画教室に通っており、以前から陶芸にも興味があったらしい。急いでYさんにも何枚か案内状の葉書を渡す。 「わ、嬉しい。絶対いく!」 「いつ、行く?」 「う〜ん・・・、今日!」 「これから、うちに帰って、着替えて・・・。」 「行こ!」 Yさん、Sさんの速攻の決断が嬉しい。 それにしてもフットワーク軽いなぁ。 おうち大好き、出不精の私にはまぶしいような決断力。 ありがたいと思う。
先日、父さんに届いた2通の葉書。 一通はペン書きの、もう一通は筆文字のものだが、その筆跡は同じ。 アラビア文字を縦に並べたような、達筆を通り越して呪文のような乱れた続け文字で、判読しがたい。 表を返すと、どちらも父さんの水墨画の師匠のJ先生からの葉書だった。 南画の大家であるJ先生は御年100歳。ついこの間までお元気に外出もなさり、精力的に制作もなさっていらしたが、さすがに最近では少しからだを悪くなさったりしているという。 葉書の文字も、行が斜めに倒れ、震えも見て取れて、一瞬誰かのいたずら書きかと見紛うばかり。 それでも父さんが出した個展の案内状に、丁寧なお祝いの言葉を下さり、体調不良のため外出も適わぬ旨を詫びていらっしゃる。一日遅れで2通も同じ文面の葉書が届いたのは、多分前の日に自分が出した葉書の事をすっかり忘れて、再び出しなおされたものだろう。 あれだけの素晴らしい書画をたくさん生み出してこられたJ先生が、老いで震える自分の手をもどかしく思われながら、それでもいち早く返事をしたためてくださったそのお心遣いが痛く胸を打つ。 老いて乱れた文字しか書けなくなっても、溢れる想いはすぐに形にして相手に届ける。 これもまた、ある意味ではJ先生が若い頃から身につけていらっしゃったフットワークの軽さのなせる技だなぁと思う。 ありがたい2通の葉書は、父さんにとってはそれこそ永久保存版となるだろう。文面の全てを判読する事はいまだに適わないのだけれど・・・。
言葉どおり、さっそく個展会場にいらしてくださったSさんからのメールが届いた。 二人の速攻の決断力とフットワークの軽さに感服する私に 「昨日はたまたまYさんと私のタイミングが合ったことで、決してあのような展開になるとは思わず、この偶然も何だか私にとっては必然的要素があったと感じています。 それこそ、あの作品達に込められた作者の魂が誘って下さったのではないでしょうか。」 といってくださった。 偶然の機会を、逃さず受け止める準備姿勢をとっている事。それがいわゆるフットワークの軽さにつながる人生の知恵なのだなぁと改めて教えられた。
2005年06月22日(水) |
Book Baton |
父さんの個展、搬入完了。 今日は朝から出品作品の梱包作業に追われた。 リストアップされた作品を採寸し、薄様やエアマットで包み、段ボール箱に詰めて紐をかける。そんな作業の合間にも、父さんはまだ最後の最後の窯出しの作業。 梱包作業は、何かと気を使うしんどい作業だが、美しい新作の数々を誰よりも先に目にして触れて大切に梱包することのできる、心弾む仕事でもある。 明日から一週間、父さんはデパートのアートサロンにカンヅメ。 連日の鬼気迫る徹夜仕事の成果を披露する。
巷では、なんとかバトンがいきかっているそうな。 あちこちのサイトでいろんな方がお気に入りの音楽について語っておられるのを横目に、まさかうちには回ってこないだろうとタカをくくっていたら、アヒルさんから、「Book Baton」というのを頂いてしまいました。 本のことをお喋りするのは楽しいのですけれど、とっても趣味が偏っているものですから、恥ずかしいです。
●持っている本の冊数 結婚前には部屋の壁一面分の書棚が、文庫本でギュウギュウ詰めでした。そのまま実家に置きっぱなしです。今は少ないですよ。図書館常連ですから・・・。
●今読みかけの本 or 読もうと思っている本 五味太郎著「大人問題」 つい2,3日前に読了 辰巳芳子著「味覚旬月」 文庫版の表紙の美しさに惹かれて購入。「メッケもん」の予感。 青木玉著「底のない袋」 特定の作家、似たようなジャンルの作品を続けて読み進めていくのが最近の読書傾向。
●最後に買った本(既読、未読問わず) 幸田文著「季節のかたみ」「台所のおと」 ブックオフで買いました。 辰巳芳子著「味覚日乗」
●特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで) 辻邦生著「背教者ユリアヌス」 中三の頃、国語の先生に勧められて読み、辻邦生作品に傾倒。 セルジュ&アン=ゴロン著「アンジェリク」 高校生の頃、はまりました。いまだに26巻、全巻持ってます。 灰谷健次郎著「天の瞳」 大学生の頃、「こういう子どもを育てたい」と思いました。 現実は違うけどね。 安野光雅著「旅の絵本」 字のない絵本ですけど。 ガース・ウイリアム「しろいうさぎとくろいうさぎ」 これも絵本。 父さんが出会って最初にプレゼントしてくれました。 ●次にまわす人5人まで すみません、どなたにお願いしたらいいものか・・・。 お友だち少ないもんで、止めさせてください。
父さんの個展の作品が次々に仕上がってくる。 なだらかな古都のシルエットの浮かぶ夕景のお茶碗。 涼やかな風の音が聞こえそうな竹林の水指。 一冊の絵本を見るような陶額の小品。 私の目から見るとどれも夢のように美しくて、「きっとこれもすぐに買い手がついて、手元から離れていってしまうのだな。」と胸がきゅっと痛くなる。それでも、父さん自身にとっては、どれほどよい作品が出ても、まだまだ充分満足とはいえないらしくて、締め切りが迫るに連れて凹んだりイライラしたり、ついつい感情の起伏が激しくなる。 「まだまだやりたい事があるのに時間が足りない。」 「思っている表現がうまく出せない。」 「締め切り間際になって、新しいアイディアが浮かんでくる」 毎回毎回、個展のたびに繰り返す作家の苦悩。 父さん、もう、充分いい作品ができているじゃないの。 やり残した事は次の個展で再度挑戦すればいい。 「あと少し」「今度こそ」をいっぱいやり残していくからこそ、父さんの仕事は次に続いていくものなのだから。
夕方、父さんは仕事を中断して、額縁屋さんへ出かける。 焼きあがった小さい陶額の額装を頼みに行く。 いきつけの額屋のOさんは父さんの大学の後輩で、ご自身も版画家として活躍しながら、額縁屋さんのお仕事もなさっている。サイズもイレギュラーで絵画よりもずっと厚みと重さのある父さんの陶額を、あれこれ工夫して額装してくださる。その作業は、とても緻密で几帳面。小さな妥協も許さず、何度も採寸し、微妙な違いを何度も修正しなおして丁寧にしあげてくださる。締め切りぎりぎりに捻じ込むように無理な注文をつけても、いやな顔をせず、何とか間に合うように苦心してくださる。これもまた見事な職人技だなぁとつくづく思う。 近頃父さんが力を入れている葉書サイズの風景の陶額は、Oさんの確かな額装の技術と出会ってこその新機軸だ。
父さんがOさんと打ち合わせをする間に買い物をと思い、父さんの車に便乗、額縁屋さんの近くのスーパーでおろしてもらった。 いつもと違うスーパーで、夕飯の一品や閉店前の見切り品をあれこれ買って時間をつぶし、駐車場の入り口で父さんを待つ。 「30分ほどかかるかな。」 といっていた待ち合わせ時間、予想通り大幅延長。 職人気質のOさんと強いこだわりを持つ父さんの打ち合わせが、予定より早く終わるわけがない。 ビュンビュンと通り過ぎていくよその車を何台も何台も目で追って、父さんの車を探す。
久しぶりだなぁ、待ち合わせ。 結婚前のデートの時には、よくこんな風に父さんの車が迎えに来てくれるのを待ったものだ。父さんは昔っから遅刻の常習犯。仕事の性格上、出掛けに不測の仕事が振って沸いたり、前の用事がずれ込んだり・・・。あの頃はまだ、携帯電話も今ほどは普及していなかったから、ひと気もまばらになった駅前とか、埃っぽい国道のバス停だとかいろんな所で父さんの迎えを待った。デートはいつも「待つ」ことからが始まりだった。 出会いの時から既に、私たち夫婦には「待つ人」「待たせる人」の役割分担が出来上がっていたのだなぁと可笑しくなる。 待ち合わせ時間に遅れた父さんが、きょろきょろとあたりを見回して私の姿を探しながら近づいてくる、その瞬間が私はいまだに好き。 結婚して15年。 私の「待つ人」生活もすっかり板についた。
山の緑が日ごとに勢いを増して、ワイワイと押し迫ってくる感じ。 この季節の植物の揚々とした成長振りは、みしみしと音を立てて進むようで、気持ちがよい。 わずか数ヶ月でワンサイズ、靴の寸法が変わる我が家の子ども達もちょうど山の緑と同じ季節を過ごしているのだろうか。 白いTシャツからニュウと突き出たアユコの腕。 妙な圧迫感で頭上から降って来るようになったオニイの野太い声。 グリグリと目を光らせて始終面白い事を探しているゲンの好奇心。 そして、小首をかしげ余白に小さな丸をいくつも書いて10までの足し算引き算と格闘しているアプコの宿題。 今月はやけに米櫃の米の消費のスピードが早い。 そして、毎日沸かす冷茶用のプーアル茶の消費量も・・・。
ゲンが最近しょっちゅう行方をくらます。 子ども達の帰宅が全員そろって「アイス食べるよ〜!」と呼んでも、夕飯前の慌しい時間「そろそろご飯だよ〜。手伝って〜!」と召集をかけても、ゲンだけが何故か声の届く範囲内にはいない。 時には、朝の支度で皆が右往左往する時間にさえ、とうに早起きしたはずのゲンの姿が見えない。 「また、”下”へ行ってるな。」 まったくねぇと外に向かってゲンを呼ぶ。 「はぁ〜い」と一階のベランダの床の下から、とぼけたゲンの返事が返ってくる。
我が家の庭は川沿いの斜面にあるので、ちょうど一階のベランダ下が半地下のようなスペースになっている。普段は私のガーデニング用品だとか古い自転車とかの物置小屋として使っているのだけれど、最近はその半分のスペースがいつの間にやらゲンに占領されはじめた。 今年の誕生日のお祝いにと買ってもらった「ダイオウクワガタ」のペア。 去年から持ち越しの正体不明の幼虫。 おじいちゃんちの茶室の縁の下から連れてきたアリジゴク。 お向かいのMさんが捕まえてくれた今年第一号のノコギリクワガタ。 ゲンの大事なペット達の飼育ケースがずらりと並ぶ。
クワガタに直射日光がいけないといえば、どこからか古いベニヤ板を探してきて日よけを作る。 アリジゴクの巣に水遣りの水滴がおちるといえば、壊れた水槽でドームを作る。 自分の部屋は足の踏み場もないほど散らかっているというのに、ベランダ下の秘密基地の床はきれいに掃き清められ、資材や買い置きの餌はふたつきのケースに丁寧に収めてある。 ここ数日は、クワガタムシの餌の昆虫ゼリーにアリがたかるといって大騒ぎをしていた。 飼育ケースの周りにサラサラの砂の土手をつくる人工アリジゴク作戦。 台所のアリ退治に使った駆除剤をせしめての「アリの巣コロリ」作戦。 そして、飼育ケースの周りに水を張ってのお堀水攻め作戦。 次から次へとアリ対策の妙案を考えては、そそくさと一人で作業にいそしむ。ほっぺたまで蚊に喰われ(飼育ケースのそばでは蚊取り線香も焚けないので)、手も足も泥だらけにして、愛しいクワちゃんたちをかいがいしくお世話する。 まだまだこれがゲンにとっての「夏」なんだなぁ。
ところで、ベランダ下の物置は本来、私にとっても唯一子ども達の喧騒を避けて一人になり、ガーデニングにいそしむ逃避ための場所だった。 いつの間にか、ゲンとそのペット達がやってきて、最近ではその利用時間は圧倒的にゲンの方が長くなっている。 たまに私がベランダ下へ降りていくと、「何しに来たの?」というようないぶかしげな顔で見上げるゲンとバッチリ目が合う。 ゲンにとっては、母の方がノックもなしに自分の秘密基地に下りてくる、うるさい闖入者に映るのだろう。 「庇を貸して母屋を取られる」というのは、こういう事を言う。
洗濯物の中に、見慣れぬハンカチが混じっていた。 薄いピンクにバラの小花の散った美しいハンカチ。 アユコのではない。もちろんアプコのでもない。そして残念ながら私のでもない。 ハンドタオルばやりの昨今、こんな薄霞のような華奢なハンカチを持つ人はどんな人なのだろう。 そして、その几帳面に畳まれたハンカチを「はい、これ・・・」とさりげなく差し出すことの出来る人は一体誰なんだろう。
ハンカチを集めるのが、好きだった。 特に小花模様の大判の木綿のハンカチ。 一度使えばすぐに水気を含んでしなしなっとなってしまう薄様のようなハンカチに隅々までピシッとアイロンをかけて、その日の服装に合わせた数枚をバッグの中に忍ばせる。 時にはデパートの用品売り場で、まるでよそ行きのブラウスでも選ぶように何十分もかけて一枚のハンカチを選ぶ事もあった。 結婚して、お飾りような薄様ハンカチは赤ん坊の乳で汚れた口元をぬぐうガーゼのハンカチになり、お食事エプロンの代用にもなる大判のハンドタオルになり、急に巷にあふれ出したミニサイズのハンドタオルに落ち着いた。 今、私の買い物袋の中にはいつも、アイロンの手間の要らない実用的なミニハンドタオルが数枚。お子様向きのキャラクター柄のが少し駆逐されはじめ、少しづつ落ち着いた色合いのタオルの割合が増えた。 青春の日々を共に過ごした美しい絵柄の華奢な木綿のハンカチたちは、久しくたんすの引き出しに眠ったままだ。 まさに女の一生だなぁと思う。
さてさて、謎の花柄ハンカチ。 このところ工房に缶ヅメ状態の父さんには近づく妙齢のご婦人の影はない。 汚し屋のゲンには、まだまだ洗いさらしたゴツいタオルハンカチの方が必要だ。 それではもしかして、オニイに遅まきの春の予感?
・・・・と、ニタニタ笑っていたら、謎が判明。 どうやら麗しい花柄ハンカチの持ち主は中学の担任のM先生らしい。 給食のときトレー代わりに敷く給食ナプキンを忘れたオニイに、先生が貸してくださったのだという。 なぁんだ、つまらない。 M先生は何かと面倒見もよく、ガハハと陽気に笑う家庭科の先生。典型的な大阪のおばちゃんだ。(ごめんなさい!) よく見ると、ピンクの花柄ハンカチの隅には「Takarazuka Revue」の飾り文字。 ああ、そうか、宝塚ね・・・。
子どもの頃、クラスには必ずとびきり絵の上手な子がいた。 美しい流線型のスーパーカーの絵を細かな部品に至るまで正確に美しく描く事ができた男の子。 お目目きらきらの少女漫画の美形のヒロインをさらさらとオリジナルで描いてくれた女友達。 美術の課題の風景画で、夕焼け空を描くのに大胆な紫と黄色を迷わず選んで微妙な色彩を生み出した美術部の先輩。 彼らの手から生まれる美しい色と形。 その過程はまるで夢か魔法のようで、いつまでも飽きることなくその手元の作業を見守る。それは描く事は好きだけれど画才には恵まれなかった私にとって、至福の時間だった。
幼いとき、「大きくなったら、絵を描く人と結婚したい。」と本気で考えていた時期があった。 おとぎ話や空想小説を書くことが好きだった私は、自分の考えたストーリーや主人公に色鮮やかな美しい絵を描いてくれる心優しい貧乏絵描きとの恋を夢見た。 今、考えると赤面してしまいそうな少女趣味。「幼い」ってことは怖れを知らんってことだなぁと、苦笑するばかり。
夫の個展の日が近い。 最後の追い込みの制作の日々が続く。 着想が決まるまでの悶々とした日々、作っては投げ出す試作の戦い、怒涛のごとく土に向かう連日の徹夜、窯のあがり具合に一喜一憂する朝。 土と釉薬にまみれて、どんどんくたびれて煤けていく夫の仕事着を洗う。 「愛情一本!」のドリンク剤を買う。 すぐに食べられてボリュームがあって、徹夜の仕事にも腹にもたれない、夕食メニューを考える。 飛び散った釉薬の残る夫の髪を梳く。 そして、「15分だけ・・・」とタイマーをかけて仮眠する夫の横に、するすると寄り添って横になってみる。 年に数回、「作家の妻なんだなぁ」と実感する数週間。
「いいのが、焼きあがったよ。」 窯出しのたび、夫は私を仕事場に呼ぶ。 凜凜と風の渡る竹林を描いた花入。 穏やかに静まった海原を模った水指。 はるか遠くに心を飛ばす青い山並み。 夫が見たもの、美しいと感じた風景、強く惹きつけられた空の色が、そのまま切り取られたかのように陶の素材に載せられている。 泥まみれの過酷な夜なべ仕事の成果が、こうして美しい色彩と心安らぐ形となって誕生してくる事の不思議。 そうして、こんな魔法の使い手が、ほかならぬ私の夫であるという事の幸福。
この人は自分の心の内にある美しいものに、美しい色と形を与える事の出来る人だ。 「美しいものを作り出す手」が私の夫のものであり、その手に守られて今日の日の私の生活があるのだということがしみじみと嬉しくなることがある。 もしかしたら私はまだ、貧乏絵描きと恋をする」という幼い日の憧れの世界を生きているのかもしれない。
吉向孝造作陶展
京阪百貨店守口店6階アートサロン
2005年6月23日(木)〜29日(水)
土曜参観の代休でぶらぶらしているオニイとアユコを習字に送っていく。 先生のTさんとマンツーマンに近い贅沢な稽古の時間。 アユコは4月から習い始めた仮名の稽古。 オニイも初めて6文字の漢字の臨書に時間をたっぷりとる。 基本からこつこつ学んで少しずつ生真面目に上達していったアユコと、中学に入ってから急に習字を習いたいと言い出して、気まぐれに時々出かけて行っては好きな文字を自己流に書きなぐってくるオニイ。書道に対するアプローチの仕方がずいぶん違う。 先生から貰った手本を眺め、最初の印象で大まかな形を捉えて作品に仕上るオニイの書道は、どちらかというと絵画的だなぁと思う。基本の学習も押さえずに感覚だけで入っていった型破りのオニイだが、いつの間にか書道らしい趣も見えるようになってきた。これはこれでいいのだろう。
早くに今日の分を書き終えたオニイにTさんが高校受験や進路の事について話をする。 ○○をちゃんと勉強しておかなアカンよ。○○しておかないと××が困るよ。 受験のノウハウやら試験勉強のやり方など事細かに教えて、挙句にはYちゃんの数学の教科書を持ち出して、数学の乗法公式を教え始めた。オニイ、突然のスパルタ教師出現に面食らっている。Tさんにも中三生の娘があるので同じ感じでお説教してくれるのだ。 「ウチのYちゃんは、試験が近いというのに、○○の公式もあまり理解していなかった。昨夜遅くまで私が教えたんだけど、なかなか××が出来るようにならないのよ。オニイ君はこれちゃんとわかってるよね。」Tさんは元高校教師なので、中学生の数学くらいなら家庭教師代わりが務まるのらしい。 元来ウチでは、母親の私が子どもの教科書をいちいちチェックしたり、試験勉強の内容をにあれこれ口を出したりという事はあまり無い。 ふ〜ん、よその親はこんなに子ども達の学習内容を把握して、試験勉強を手伝ったりしているのかと私も感心してしまう。 Tさんちは、一人っ子。過保護にならないように気をつけているといいながら、子どもの学習内容から体調、友だち関係まで、いろんなことを母親が把握して口出ししているのに驚く。受験生とはいえ、親は15歳にもなる子どもの生活のこんなに細かなことまで把握して、いろいろ助言しておかなければならないのか・・・。 あたしには無理だ。
今朝、奇しくもアプコが私に訊いた。 「ウチのお母さんは悪い点数をとっても叱らないの?なんで?」 アプコにとっては母親は、ドラえもんに出てくるのびた君のママのように子どもが悪い点を取ってくるとガミガミとお説教をする物だというイメージがあるらしい。 「そういえばそうだねぇ、100点取ってもあんまり『凄いっ!』て褒めてくれる事も無いけど・・・。」とオニイも言う。 「別に・・・。悪かったものは悪かったで仕方がないでしょ。お母さん、ん、テストの点数の良し悪しにはあんまり興味が無いのよ。子どもに関しては学校の成績以外のことで気に掛かる事がいっぱいあるからね。」とはぐらかしておく。
この間から、オニイの進路の事について、父さんとも話をする事が増えた。 オニイの希望通り近隣の普通高校へ行くのがよいのか、父さんの母校でもある陶芸科のある学校を受験したほうがいいのか・・・。 オニイの気持ちや適性、経済的条件や家族の将来の生活設計まで、あれこれ考えていくとドンドン泥沼にはまっていくばかりで、何が最善の選択なのか誰にもわからなくなってくる。 長男であるオニイに家業の窯元の継承の可能性を探る我が家では、オニイの進路計画は家業の将来にもリンクする。 子ども達の未来だけでなく、窯元の存続を同時に考えている父さんにとっては、先の見えぬ息子の将来の進路決定は普通の父親以上に気に掛かるものなのだろう。
個展前の制作のイライラや工房の仕事の多忙によれよれに煮詰まっている父さんは、息子の進路の悩みもまた我が事のように抱え込む。 それはそれで、親として立派な事だけれど、なんだか息が詰まりそうな気がしてくる。 「ま、ね。いろいろ考えたって、結局の所、それはオニイの人生の問題よ。選択するのはオニイだし、その事で後悔するのも喜ぶのもそれはオニイの人生よ。」 私は投げるように言って、父さんの重い荷物を一つ下ろしてもらう。。 親が子のために良かれと思って勧めてやる進路決定、最善と思われる準備、自分の経験に基づく助言やお小言も、結果としてその子のためになるかどうかは誰にもわからない。 ならば子ども自身が自分の出来る範囲の中で充分に悩んで、自分で選んだ人生を生きてもらうより仕方がない。 私はそう思う。
「試験勉強を頑張るのも、勉強そっちのけで本を読むのも、結局それは君の選択だしね。だけど、その結果はよくても悪くても自分で引き受けな。」 と投げ出す母は、試験前に子どもに乗法公式を教えノートの取り方までチェックするTさんより、0点のテストにガミガミお小言を言うのびた君の母よりある意味たちが悪い。 「どっちがやりにくいかは微妙な所・・・」とオニイは思っているに違いない。 それで結構。 現実の世の中には、『どこでもドア』や『タケコプター』をいつでもポケットから出して与えてくれる気のいいドラえもんはいないんだから。
「おかあさん、これ、どのくらい切ればいいの?」 付け合せのキャベツを刻んでいるアユコが私に訊く。 自分で見当をつけて剥がしたキャベツが、もうちゃんと洗って籠にあげてあるというのに、その分量にいまいち自信がなくて、必ず母に念を押す。 「このブラウス、ちょっとだけしか着てないから、明日もう一回着ていいかな。」 お気に入りのブラウスをもう一日続けて着たくて、アユコが私に訊く。洗濯籠にいれずに丸めて自分の部屋へ持って上がればいいだけのことなのに、やっぱり母に一言たずねる。 自分で「これでいい」とか「こうしよう」とかだいたいの見当はついているくせに、いちいち母に確認を取るのはアユコの癖。 そこそこ器用で、なんだってやればできてしまう筈なのに、なんだかちょっと念押ししてみたくなる。そういう優柔不断は、アユコには内緒だけれど実は母譲り。
「さあね、知らないよ。自分で決断してね。」と答える母は意地が悪い。 「それでいいよ。」とか「こうしたほうがいいよ」とか、あと押しする言葉を言わない事にしようと決めた。 母が何にも言わなければ、アユコはしばらく逡巡して、そして自分で決断する。ちゃんと自分で決める力は持っているのだ。自分で決めたことをちゃんと最後までやる力も・・・。
今日、アユコは初めて一人で美容院へ行った。 プールの授業が始まる前の年中行事。冬の間、長く伸ばして束ねていた髪をばっさり惜しげなくカットして、ショートヘアに変身する。いつもなら母の美容院行きに便乗して、隣のいすに座って一緒にカットしてもらっていたのだけれど、もうそろそろ一人美容院デビューをしてもいい頃だろう。 「美容師さんにどんな風に髪型を説明していいんだか、わかんないよ。」 「前髪を短くして、変になったらどうしよう」 例によって、アユコは出かける前に散々悩む。 「ねえねえ、お母さん。なんていったらいいと思う? 肩より短くしたほうがいい? それとも髪ゴムで結えるくらい長めにしておいたほうがいい?」 いい加減母も面倒くさくなって、「何でもいいけど、早く行かないと雨降ってくるよ。自転車で行くんでしょ?」と思わずさっさと切り上げてしまう。 あ、しまった。 背中、おしちゃった。
思い切ったショートヘアをさらっと揺らして、アユコの自転車が軽快に帰ってきた。重たい束ね髪がなくなって、頭が小さくなったとアユ子が笑う。 白いTシャツには、さっぱりショートヘアがよく似合う。
「おかあさん、あたし、生徒会、立候補する事になったよ」 それはアユコが自分で決めたんだね。
久しぶりに用事で小学校の職員室に行ったら、W先生が大ぶりの花器に奔放にのびた紫のセージをたっぷり活けておられるのに居合わせた。一年生の教室の前の花壇にたくさん咲いているのだという。 近頃あちこちの花壇で見かけるセージの類は、適地を見つけるとドンドン株を太らせ、種子を撒き散らし、勢力範囲をぐいぐい広げていく。 「この紫のセージはラベンダーセージ。」 もてあまさんばかりの豊かな葉っぱと惜しげもなく散り急ぐ紫の花弁をなんとか花瓶に収めて、W先生が笑う。W先生は、以前にストレプトカーパスの鉢植えを下さった園芸のお好きな先生だ。 「アプコちゃんに、今日、花の名前を教えといたんだけどなあ、きっと忘れちゃってるね。」 一年生の教室の近くには、赤い花の咲くパイナップルセージの株もあって、その葉っぱからはパイナップルに似た甘いにおいがする。その葉っぱをアプコに見せて「パイナップルセージ」という名前を教えてくださったのだという。みずみずしい緑の葉っぱを手渡されて、小首をかしげながらくんくんとその匂いを嗅ぐアプコの姿が思い浮かんで、何とも微笑ましくなった。
帰宅するとアプコがさっそく頂いてきたセージの一枝を見せてくれた。 途中お友だちのKちゃんの家に寄り道したアプコは、Kちゃんのお母さんにも見せ、しなびてしまわないようにコップの水に浸してもらっていたのだという。 「ねぇねぇ、いい匂いがするよ」アプコは家族全員の所を回って、みんなにくんくんさせてくれた。 まだ花もつぼみもない一枝を、大事に大事に持ち帰ってくる一年生の愛らしさ。 「なんていう名前だったっけ?」と聞いてみると 「パイナップル・・・なんだっけ」と自分の好きな果物の名前だけを記憶しているのがご愛嬌。
「アプコ、お花を花瓶に挿すときには、下のほうの葉っぱはとってね、水に葉っぱが浸からないようにしないといけないよ。葉っぱが腐って水が汚くなるからね。」 この春から学校のクラブで生け花を習い始めたばかりのアユコが教える。 ガラスのコップに挿したアプコのセージの下葉をきれいに取り除いて、活けなおす。 「ほぉ、いいこと知ってるんやねぇ。」 母が教えようとも気づかなかった事を、学校で習ってきたばかりのアユコが幼い妹にさりげなく教える。 これもまた、なんだかちょっといいなぁと思う。
「ところでアユコ、この間あなたがいけてくれたお花、そろそろ片付けておいてね。なでしこのつぼみももう咲かないみたいだし。」 週に一度、クラブの稽古で頂いてくるお花はアユコが工房の玄関や自宅におさらいを兼ねていけなおしてくれる。日が経ってしおれたり、散ったりしたお花を始末するのもアユコの役目だ。 気温が高くなり、いけた花の持ちもだんだん悪くなり、油断をすると花弁を落として軸だけになった百合や開花を見ずに固く萎んだカーネーションがいつまでも醜態を曝すことになってしまう。
「一番きれいなときを過ぎてしまった切花は早く片付けてやらないと可哀想。しおれた花なら飾らないほうがまし。」 実家の母は昔、そういって盛りを過ぎた花瓶の花を長く放置しておくのを嫌った。 なるほどなぁと思いつつ、でもまだもしかしたら咲くかもしれない小さなつぼみや散りゆく間際の美醜の狭間すれすれの彩りを残した花弁を捨て去るには忍びなくて、花首を折る手元が逡巡したのを思い出す。 「花は盛りの一番美しいときを愛でる。老いさらばえた姿を人目に曝さない。」という心使い。 儚げな草花ばかりを好む母の美意識。 最後の一輪が息絶えるまで、見守ってやりたいという私の躊躇。 年齢を重ね、女としての一番美しい季節を既に見送った母は、そして私は、いつから迷うことなく盛りを過ぎた切花を手折ることが出来るようになったのだろうか。
そんな思いを打ち消すように、アユコに枯れたお花の処分を促す。 若く、美しく、これから花開かんとする青いつぼみの年齢を生きるアユコには、花弁を落とし終焉を待つばかりの百合の心情は理解できない。 ましてや、赤い花とも白い花とも見当のつかない幼いアプコには、美味しいフルーツの香りのセージの小枝が似つかわしい。 ガラスコップに近づくとほのかに甘い果実の香り。 食いしん坊の鼻がぴくぴく動く。
冷蔵庫の野菜室が空っぽになったので、買出しに出かける。 いつも大盛り格安の八百屋さんでキャベツや玉ねぎなど重くてカサのはる野菜をドンドンレジ籠に入れて、グルッと一回りしてから目に付いたのが籠いっぱいのキュウリ。 ざっと見ただけでも20本以上。それがたったの190円。 「なんだか笑っちゃいますね。」と傍らで品定めをしているご夫人と笑う。 「キュウリばっかりこんなにあっても困るけど・・・」といいながらもう彼女は買う気満々。ご主人に目配せしてもう一つレジ籠を調達している。 なんだか変なところで負けん気出しちゃって、私も一盛お買い上げ。 まだ、買い物を始めたばかりだというのに、両手にいっぱい野菜の入ったレジ袋を抱え込む羽目になって、うんこら言いながらいったん駐車場まで荷物を置きに戻った。
「見てみて、笑っちゃうでしょ。このキュウリ。」 レジ袋にずっしり重い大盛りキュウリは数えてみれば25本。 一本、十円しないのね。 一本のキュウリの株から、一日に一体何本のキュウリが収穫出来るのだろう。つやつや輝くまっすぐな上物のキュウリを10円足らずで買われたんでは、農家の人たちは「笑っちゃうね」では済まないだろう。 得した気持ちと、なんだか誰かに悪いなぁと言う気持ちで買ってきたキュウリを机の上に並べてみる。
とりあえず、だし醤油で我が家定番の簡単浅漬けをと、父さんの好きなミョウガを一パック。 こちらはまだまだ出始めの少々お高い値札がついていた。 キュウリを買い叩いたお詫びにと、高値を承知で買って来た。 トントンと荒く切ったキュウリにミョウガの細切りを添えてジャブジャブとだし醤油をかけて冷蔵庫で一晩。 我が家の夏の味が食卓に戻ってきた。 おばあちゃんちへのおすそ分けのあとに残ったきゅうりは15本。 セロリと一緒に甘酢でつけたり、酢の物にしたり、毎食毎食、食卓に上ることになりそうだ。。
高校生の頃、家庭科の授業でキュウリの輪切りのテストがあったなぁなんて昔のことを思い出した。 いかにも「家庭科の教師!」っていうタイプの老先生がストップウォッチを持って女生徒たちの輪切りの実技を厳しく採点する。お手手つないだ連結キュウリや半円型の欠陥キュウリは減点対象。一枚1ミリ以下と基準が決まっていて、結構大変なテストだった。 テスト前に何度か自宅の台所で輪切りキュウリの特訓をしたのも懐かしい。 あれはちょうど高校一年の今頃の季節だったか。 あのときに今のような大盛り格安キュウリがあったら、きっと私の包丁さばきもぐんと上達したに違いない。 ちょうどいい、キュウリがたっぷりある間に、アユコに「キュウリ輪切り」の自主練習でもさせてやろう。几帳面なアユコはきっと完璧な満月キュウリを刻む事が出来るようになるだろう。
・・・・と、相変わらず自分は「お手ェ手ェ〜、つ〜ないで〜♪」と鼻歌を歌いながら、減点キュウリを刻む。 きっとあのオールドミスの先生がごらんになったら「ンまあ!」と呆れて目を丸くなさるだろう。そうそう、尖った眼鏡の奥の小さな目をまん丸にして、唇をとんがらせて連発なさる「ンまぁ!」というあの口癖。影でみんなでモノマネしたっけ。 懐かしい。 なんだか笑っちゃう。
「おはよう、お母さん。今日僕はついに天才を超えたで!」 とにぎやかにゲンが起きてきた。普段からすっきりと寝起きのいいゲンが今日はことさら上機嫌で降りてくる。 6月6日、今日はゲンの11歳の誕生日。 「天才=10才」のダジャレらしい。
今年も何日も前から自分の誕生日を楽しみにしていたゲン。 誕生プレゼントは、前々から一度飼ってみたかった「ダイオウクワガタ」のペアと飼育用品。 誕生日の夕食は、母手製のクリームコロッケ。 ケーキは、一緒に下見に行ってひと目で惚れこんだメロンムースのホールケーキ。「メロン好きにはたまらない!」というキャッチコピーにコロリと魅せられてしまった 学校では、クラスの友だちから書いてもらったたくさんのメッセージカード。 「年に一度の誕生日なんだからさ。」と、自分であれこれ考えてリクエストした誕生日メニューに、ゲンの顔がほころぶ。 「嬉しくてたまらない」という気持ちが、隠しても隠してもニヤーッと頬の緩みで露呈してしまう。 そういうゲンの単純さというか素直さというか、なんとも愛すべきキャラクターがゲンの最大の才能だと母は思う。
「もう、そろそろ『ろうそくフゥッ』は卒業かなぁ」 と問う私に照れくさそうに「いやぁ、やっぱり誕生日にはアレがなくちゃ・・・」と答えるゲン。 いいんだよいいんだよ。 いくつになってもデパートの風船を欲しがってもいいように、 まだまだ「ろうそくフゥッ」が嬉しいという気持ちを隠さなくていいんだ。 中学生になっても高校生になっても、もっとおじさんになっても、嬉しいときには「嬉しい!」と、欲しくてたまらない時には「欲しい!」と言ってみていい。 嬉しい気持ちをストレートに人に伝えられる素直さは、きっとゲンの人生の大きな戦力になるに違いない。 君は喜ぶことの天才だ。
去年の誕生日には「今年の抱負は?」と聞かれて、「メロン丸ごと一個喰い!」と即答したゲン。あちこちで公言していたら、今年の正月、ゲンはメロン王になった。 今年の抱負はと訊ねたら、 「クワガタムシをドンドン繁殖させる事!」 だそうで・・・。 どうも、少々欲深いのが気にはなるけれど、公言してしまえば夢はかなうかも。 こういう欲張り加減もゲンにはちょうどいい。
昨日の事。 夕方ゲンが一泊二日の宿泊学習から帰ってくる。 うちへ遊びに来ていたKちゃんを迎えにきたKちゃん母が、 「いま、小学校のほうで大型バスの音がしていたよ」 と教えてくれたので、 「わ、予定よりずいぶん早く着いたんだなぁ」と慌ててトッポで迎えに出た。 通学路の一本道では小学生の姿をみる事も無くて、あらら?と思っていたら、小学校には既に人っ子一人子どもが居ない。知り合いのお母さんが、 「もう、とっくに帰ったんだってさ。」と聞いてきてくれた。 一本道で、入れ違いになる事はないはずなのになぁと家へ急ぐと、途中の畑のところで近所のI さんのおじさんが飛び出してきて、大きく手を振っている。 「いやぁ、すんません。お兄ちゃんここに、いたはります。私が呼び止めてちょっと寄り道させてしまいました。」と言われる。 見ると、首からタオルを掛け、リュックを背負ったままのゲンが、ニコニコ笑って手を振っている。 「さっきお母さんの車が前を走っていかれるのが判ったんやけど、呼び止めるのが間に合わなくて・・・。実はね、ゆすら梅がたくさん実ってね、息子さんにちょっと食べてみんかと思って・・・」 畑の奥にある2本の木に真っ赤な小粒の実がたくさんなっている。実った枝を重そうにしなって、なんだかとっても美味しそうだ。 「うちのモンじゃ、とてもたべきれないんでね、よかったら摘みにきてくださいよ。さくらんぼほど甘くはないけど・・・」 既にゲンはナイロン袋を貰って、たくさん摘ませてもらっていたらしい。 「おかあさん、いいお土産ができたよ」 とへらへら得意そうに笑っている。 「あらら、それはそれはすみません。」 I さんにお礼を言って、ゲンを車に乗せる。 ゲンから貰ったゆすら梅は、本当によく熟したさくらんぼのような赤色で、食べると酸味の利いたさわやかな甘さが美味しかった。
で、今日の事。 父さんの車で I さんの畑の前を通りかかったら、今度は I さん、小さいお孫さんたちと一緒に畑仕事をしておられた。 「昨日はどうも。ゲンが珍しいもの頂きまして・・・」とお礼を言ったら、「やぁ、ちょっと車を停めて、皆で摘んでおいきなさいよ。」といってくださる。同乗していたアプコは大喜び。たまたま自転車で通りかかったアユコも便乗して摘ませていただく事にした。
I さんの話によると、その昔、戦争前には私市の駅の近くには大きなゆすら梅農園があったのだという。 季節になると、お客にカゴを持たせて自由に摘ませる観光農園のようなことをしていたのだそうだ。 戦争になって、食糧事情が悪くなったときに、いっぱいあったゆすら梅の樹は除けられて、畑にされてしまったけれど、その時抜いたゆすら梅のうちの2本が今もこの畑でたくさんの実を実らせているのだという。 「あの時は、村の旧家の何軒かが同じようにゆすら梅の木を貰って引き取ったんですよ。だから、きっと私市のあちこちにこれと同じ木がまだ残っている筈なんです。」 と I さんが教えてくれた。 今はぎっしりと住宅が立ち並ぶ駅前辺りの一体どこにゆすら梅農園があったのだろう。 由緒正しいゆすら梅の老木には、枝いっぱいに赤いルビーの粒がひしめくように実って、子ども達はナイロン袋に集めるのももどかしく、木から口に直接運んでは嬉しそうに笑う。 まだ2歳くらいの小さいほうのお孫さんが、種を取ってもらった果実を何度も何度もせがんで、口を尖らせる。 「この子、何ぼでも食べよるわ。」 と根気よく種を取っては孫の口元に運ぶ I さんもまた、なんだかとても嬉しそうだ。
実のなる木がうちにあるっていいなぁと思う。 その木の下に集って来る人がいるから。 うちの「猫の額」にもまた何か植えようかしらん。 日当たりがわるいもんだから、以前に植えたブルーべリーのようにビックリするくらいすっぱい果実が出来ても困るんだけどね。
アプコのお友だちのKちゃんのお母さんから、大輪の透かし百合を貰った。 Kちゃん宅の庭で今朝最初のつぼみが開いたばかりだという。 がっしりと立派な花茎に10個近くのつぼみがついていて、切花にしても順々に開花していくそうだ。 「あらら、わるいわねぇ、ありがとう。でもせっかく咲いたばかりなのに、気前よく切ってくれちゃって、ホントにいいの?」 と聞くと、 「いいのいいの、庭に植えてても、家の者しか見ないし、花を切っても球根は残るからまた来年咲くしね。」という。
Kちゃん母の庭のポリシーはすっきりしている。 植えるのは四季咲きのバラと百合だけ。 たまにKちゃんむけにプランター植のいちご苗とか近所のおじさんが気まぐれにくれたかぼちゃ苗を居候させたりする事はあるが、そのほかの植物はほとんど植えない。地植のバラの肥料分を横取りするからといって、パンジーやペチュニアなどのポピュラーな草花も植えない。 バラが開花の時期を迎えると、余分のつぼみはどんどん摘心してしまい、残したつぼみが膨らみかけた所で、惜しげもなくパチンパチンと切ってしまって、近所の友だちや通りかかった知り合いに、「持って帰って」とあげてしまう。たくさんの種類をそろえた百合も、最初のつぼみがほころびかけると、パチンと切って「ほいよっ」と誰かに上げてしまう。 誠に気前がいい。 だから、Kちゃんちの庭自体にはいつもほとんど花の色が無い。 「ホントに貰っちゃっていいの?お庭が寂しくならない?」と何度も何度も聞くのだけれど、どうやら開花が始まったらパチンと惜しげなく切ってしまうのがKさんの庭作りの習性らしい。 長く開花させないほうが元の株や球根を疲弊させなくてよいのかもしれないけれど。
工房の茶道の稽古日になると、義母がパチンパチンと花バサミを鳴らしながら我が家の庭へ訪れる事がある。 「なんか、お茶花にいいお花、ないかしらん?」 茶室の掛け花入れに毎回飾っておく茶花は、ほんの数輪でよいのだけれど、洋花はダメだったり、茶室周りの目に付く所にある花はダメだったり、なかなか選択が難しい。特に庭に花が途切れる冬場などには結構茶花の調達には苦心をする。 たった一輪ようやく咲いたばかりの水仙とか、季節の終わりに咲き残った名残の小菊だとか、ちょっぴり愛しい思いでめでている花も義母の所望にあうと泣く泣く摘み取って献上しなくてはならないときがある。 実際、義母はあまり自分のうちの庭仕事には熱心ではない。季節の変わり目ごとに「なんか植える花を買いに行かなくっちゃねぇ。」と、玄関のからっぽのプランターを指して言われるけれど、差し迫って自分に買いに出かけようとはなさらない。他所から頂いた珍しい植物も、最初の花を見ると後は興味を失っているようだ。 宿根の植物も一年草も区別無く、花がなくなると雑草と一緒に抜いてしまったりするので、なかなか育たない。 どうやら義母の思う花壇とは、お茶花調達用の冷蔵庫のようなもので、花つきで買ってきた宿根草も、一回分のお茶花に花を切って使ったら、後の株には来年の花はあまり期待していないように思われる節がある。 それはそれ。 その人の庭作りの習性。
春の終わり頃から、パラパラといろいろな種類の花の苗を買った。 マリーゴールド6株、サルビア4株、トレニア5株、アメリカンブルー1株、フクシア1株、カンパニュラ2株、バーベナ4株、ブルーサルビア2株、ペチュニア3株、星咲きフロックス4株。 今年の春は種まきに失敗が多かったので、夏から秋に向かい、庭が寂しくなりそうな気配だったので、あちこちの園芸店で数株ずつ、自分の好きな定番の草花をいろいろ買い込んだ。 そのうちの半分以上は、園芸店の片隅で開花の盛りを過ぎたり、切り戻しをサボって徒長したりした「お買い得見切り品」だ。 私はこういう落ちこぼれ株を格安で買って帰って、挿し芽をして殖やしたり、結実を待って来年用の種子を取ったりするのが好きである。 新しい株を買うときにも、「こぼれ種でよく増える」とか、「挿し芽で殖やせる」とか「植えっぱなしでも毎年花をつける」とかそういうキャッチフレーズにめっぽう弱い。 庭の草引きに出ても、こぼれ種で発芽したビオラの幼株やランナーでやたらと増えるワイルドストロベリーの子株も、抜きかねて残してしまうので、なんともまとまりの無い雑然とした混植ガーデンが出来上がる。 誠に貧乏性のガーデニングである。
自分の好きな花、頂き物の株、どこからか紛れ込んできた名も知らぬ草花。 行き当たりばったりに植えた脈絡の無い花たちが奔放に生きている。 野放しの様相の我が家の花壇。 今年はどこぞやでみた花壇と雰囲気がにてきたぞ・・・とつらつら考えてみて思い出した。 私が小学生の頃、実家の母が社宅の庭で細々と楽しんでいた小さな花壇。 マリーゴールドもサルビアも、そして近頃ではあまり見かけなくなった星咲きフロックスも、あの頃どこの庭でもよく見かけたちょっと懐かしいにおいのする懐メロフラワーだ。 どうやら歳を食うと庭の好みも幼い頃を回帰しがちになるらしい。
ゲン、淡路島への宿泊学習に出かけた。 天候はあいにくの曇り空。これから雨が降るという。 地引網体験やキャンプファイヤー、ちゃんとできるといいのになぁ。 昼前からしっかり雨降り。 久しぶりにお洗濯物は部屋干しだ。うっとおしい。
午後、アプコの下校時間を見計らって、歩いて迎えに出る。 久しぶりに歩く雨の山道はしんと静かで、木々のこずえを打つ雨の音と傘に当たる水滴の音、そして砂利道を歩く自分の足音が耳に静かに染み込んで来る。 時折、ホトトギスの鳴く声がする。 雨もいいなぁと思ったりする。
坂をぐんぐん下っていったら、向こうのほうから小さい子どもの声が聞こえてくる。 妙な節がついてるなぁと思っていたら、やっぱりアプコの歌声だった。 赤い傘をくるくる回しながら、大きな声で鼻歌を歌いながら歩いてくる。 友だちとさよならして、ひと気のない坂道を歩きながら、一人で楽しげに歌っているのだ。普段は照れ屋で、「歌ってよ」と乞われると大概笑って隠れてしまうアプコなのに、一人ぼっちだとこんなに大きな声で歌っているんだな。 アプコはまだ、カーブのこちら側で立ち止まっている母の姿に気がつかなくて、上機嫌で調子っぱずれの裏声で楽しげに歌っている。 かわいいなぁ。 歌っている歌は小学校の校歌だった。
母の姿を遠くに視とめて、ぴゅーっと駆け出してくるアプコ。 ランドセルがカタカタ鳴って、横にぶら下げた給食袋が大きくゆれる。 「おかあさん、あのね、今日は音楽があったよ」という。 「あ、そう。じゃ、今日は小学校の校歌、習ったでしょ?」 「へ?何で知ってんの?」 アプコは自分がついさっきまで習ったばかりの校歌を大きな声で歌っていた事をすっかり忘れている。 「さぁねぇ、なんでかねぇ。」 と誤魔化すと 「皆が歌ってるの、お家まで聞こえた?ね、大きな声だったでしょ?上手やった?」 と繰り返し聞いてくる。 「うんうん、上手やった。」 と調子を合わす。
母の知らないところで、友だちと歌を歌い、大きな声で本読みをし、のぼり棒に挑戦するアプコ。 学校に居る子どもの行動の全てを家に居る母にはわかるわけがないのに、アプコはどこかで、自分の歌う歌や本読みの声や校庭での汗の全てを母が見聞きして知っているように思い込んでいる。 幼いアプコのささやかな思い込みが本当は私には嬉しかったりする。 まだまだ、私とこの子のへその緒のつながりが消滅していないような気がして・・・。
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