最強の星の真下

2002年02月27日(水) 英語難民の試練。多分「その1」。

今日の残業はキツかった。画面を見ていて、ふっと気が遠くなる瞬間が何度か。一昨日殆ど寝てないし。昨日終電だし忙しくて結局一日食事抜きだったし。
・・・駄目だ、仕事にならないから今日は帰ろう。決意してさっさと撤収。
ふっ、やった。午後様だ。ちょっと幸せ〜。


さて。英語難民に、新たな試練が降りかかってきた。私はこれをミッションTと名付けよう。

いつだったか忘れたけれど、以前の日記に書いたとおり、私は仕事の必要から英文メールのやり取りをしている。
そして私は英語難民で、英会話スクール(思いっきり初級)に仕事の合間に通っている。

こんな私に一通のメールが届いた。

「確認のために、担当者4人でテレカンしましょう」

・・・無理。っていうか担当者4人に私も入っている訳?あ、このメール4人にしか送られていない・・・。しかもtoは私だ。勝手に私を勘定に入れないで下さい。いや確かに私は担当者だけど。でもね。
ちなみにテレカンとは、テレフォンカンファレンス、電話ミーティングである。
対面でも話せないものが、電話で話せるか!!ここはひとつ知らん顔をしておこう!無視無視!

だが、死んだフリを続ける私を尻目に残り3人は着々と日時を打ち合わせるメールのやり取りをしている。・・・4通・・・5通・・・6通。
駄目か・・・。全員の日時が折り合わない儚い可能性に期待していたのだが、残念ながらテレカンは流れてくれないようだ。いつまでもスケジュールを送らないでいるのは拙くなってきた。仕方がない、レスを入れるか・・・。

「夜は大抵いる。日時は皆に任せる」

聞いて理解することは出来るけれど話せないとは今更言えず、ただただ息を潜めて成り行きを見守るばかりなのだった。。。
電話なのに、話せなかったら意味がないだろう!と思うのは私だけではないはずだ。
ああ、もっと早い段階で、3人がスケジュールの調整を始める前に「英語話せないし〜」というメールを送っておけば良かった!物臭している場合じゃなかった!!後悔先に立たず。

彼ら、英語を話せない人間が世の中に存在するなんて思ってない。絶対思ってない!そんな可能性を考えたことすら、きっと無いに違いない。日頃のメールで気付いてくれたりも、してない・・・。
いっそ、「テレカンは日本語でよろしくね♪」メールでも送ってみるか?!キミタチだって日本語は話せないだろう?!同じ条件じゃないか!

さてどうなる、ミッションT。私はこれを無事クリアできるのか??


でもこれが無事クリアできるくらいなら、英会話は初級を卒業しているはずなんだよ・・・。



2002年02月25日(月) 現代における春の季語。

この週末はネットに繋がなかった。
・・・というか、繋ぐ余力が無かった・・・ふう。
熱発1週間続きで、毎日だらだら暑苦しく汗をかいたり鳥肌立ったりしながら過ごした。
汗かいて団扇バタバタなんていう暑苦しいのは大嫌いなのに〜。(いや別に団扇を本当に使った訳ではないけれど)
お風呂とスポーツ以外では、汗なんてかくものじゃない!全く。
それなのに、この状態がまだ続いているっていうのが、最も信じたくない事実だったりする・・・。

さて。
今日の関東地方は暖かく穏やかな良い陽気でした。幸せな陽気でした。ホームレスさんの中にも、夜ダンボールの我が家を作らない毛布のみの方が散見されるようになってきました。ああ、春だなあ。
・・・全ての花粉症の皆様に心よりの哀悼を示し、合掌。

職場にも沢山の花粉症難民が蔓延していて、見ているだけで辛そうである。
我が家では一年中、麦茶の代わりに甜茶を冷蔵庫に常備している。もう3年ばかりも続けているだろうか。その成果か、母の花粉症の発現がかなりマイルドになった。
お茶は煎茶でなければ嫌な父は、娘の勧めになんて耳も貸さず頑固に甜茶を飲まないからでしょう、相変わらず花粉症が酷い。
甜茶のティーバッグが切れかけるとすかさずこまめに購入してくる娘のアタタカイ心遣りを無下にするのが悪いのだ。はっはっ。バチですな。
お茶カテキンじゃ、花粉症対策にはならんのですよ、お父様。それは殺菌効果。
父に対して内心勝ち誇る親不孝な娘はと言えば、過去一度だけ花粉症が発現したものの、その後全く花粉症の気配なし。家族で唯一無事なのだった。

家族が花粉症なので効くというものを色々試したけれど、甜茶が一番効いているようだ。母の体質に合っていただけかもしれないし、日々の積み重ねが良かったのかもしれないし、まあそこら辺は何とも言えないけれどね。

でもこれってまるで薬の治験のようだ。プラセボ(父)と治験薬(母)。
効果判定はばっちりですな。
という訳で、最近はまるで甜茶メーカーの回し者のように、周囲に甜茶を勧めて回っているのであった(笑)。

・・・でも転職して排気ガスが多い場所に会社があるから、花粉症、私もそろそろ危ないかな・・・。怖ろしい。実にスリリングだ。

出来ることなら春は毎年きちんと幸せに迎えたいなあ。



2002年02月21日(木) 人間の尊厳の有無について線引き。ホームレス考三度。

会社の近所のホームレスさんの中に、とてもこまめに洗濯をする方がいる。
私が会社から英会話スクールに行く時に通る道。彼はビルの入り口のチェーンにいつも洗った下着などを干している。
いつも、この寒いのに夜干して乾くのかなあ、凍るんじゃないかなあ、などと余計な心配をしながら通り過ぎる。
洗濯好きなホームレスさん。
これが人間の尊厳というものなのかもしれない。


渋谷のホームでたまに見かける(多分)年寄りのホームレスさん。
駅のホームで、小用をたしている。この駅構内にはちゃんとトイレが存在する。なのにホーム。しかも隅ではない。朝、人が多いのに、邪魔なのに、少し広い喫煙場所の真ん中で用をたす。彼は小用時ズボンを全部下ろす。
これが尊厳を捨てた人間というものなのかもしれない。

少し露出趣味があるのだろうか。誰も彼の貧相なものを見たって表情一つ変えないのに。朝だから。
君は守るものがないからたかがそんな事で注目されると単純に考えているのだろうが、守るもの、すべきことを持っている人間は君が自己満足に浸っている間にも必死で働いている。だから辛い朝にそんなデモンストレーションをしても、君に注目して驚くなんて事、期待できないのだよ。
朝、渋谷駅で足元に目をやった時、もしも黄色い液体が流れていたら、それはきっと彼の尿である。皆様お気を付け下さいませね。
いえ、それを踏むのは個人の自由です。でもそれを踏んだ足で、ラッシュに紛れて私の足を蹴飛ばしたりしないで下さいね。普通の靴だったなら我慢しますけど尿付きの靴は絶対お断り。


夜、ホームレスさんたちは彼らのインスタントハウスで寛ぐ。同じビルの入り口に2、3人がそれぞれ近い場所にダンボールで寝床を設営して、知り合い同士談笑しながら眠る前の平和な時を過ごしている群型。
一人しか寝床をつくれないビルをわざわざ選択して、本や漫画本を読みながら過ごす孤立型。
人間の性質は、やっぱりどこでもどの集合でも大して変わらないものらしい。
個人的な見解では、群型の方がポイント高い。人間の近くにいる方が、寒さが緩和されると思うから。
多分私、夏になったら逆の事を言いますな・・・。



2002年02月20日(水) 草臥れ日記。ええ草臥れ日記ですとも。

とある検索エンジンから、キーワード「草臥れる」でこの日記に跳んできた方がいたらしい。検索エンジンのキーワードも分かるのか〜。解析ってすごいものなのね〜。ふ〜ん。

・・・でも。キーワード「草臥れる」・・・。
なんか・・・なんか、もうちょっとマシなキーワードで来て戴きたかったというか・・・。ううむ・・・。微妙にがっかり。何となく肌寒い微風がそうっと吹き寄せた時のような感じである。
・・・検索エンジンなんて、キライだ。

私、この日記でそんなに草臥れるって連発してたかなあ。
良くない傾向だ。草臥れることばっかり反芻していたら、脳が草臥れるになってしまうではないか。
こんな事では私の強運が逃げてしまう!少し心を入れ替えるべし。500mLくらい。

強運を反芻して、減った分を取り戻さなくては。そのうち強運話も書こう。うむ。

今日は読書に加えて、英会話の宿題まであったからそろそろお休みタイム。っていうか、最近宿題の方が「付加物」になってしまっているあたり、学ぶ姿勢としてはあまり宜しくない気がする。読書がおまけでないといかんのではなかろうか?!
そんなに余裕カマしていられる語学力なのか?英語難民なのにこんなことでどうする!
・・・以上、私の中の建前の叫び。

読書欲は睡眠欲に勝ることを再確認して、さて幸せな夢の世界に旅立とうかな〜。

現在確認されている条件。
 読書欲>睡眠欲>食欲



2002年02月19日(火) 禁断症状と薄弱なる意思。これこそが酔生夢死の人の生き方。

昼休み、無事にシリーズの続きを全部購入。
よって1日しか禁断症状に苦しまずに済んだのだけれどもね。最近本当に文庫本が高価い。まあ京極の殺人本のように分厚いものだったら高価いのも仕方ないかもしれないけれど、普通の文庫本が、とても高価い。
文庫本って、平民が気軽に本を買えるようにするための大発明じゃ、なかったの?おかしいわねえ。文庫本の定義がいつの間にか変わっていたのね。
ううむ。文化は刻々と変化する。

それはともかく、買ってしまったが為に、またしても睡眠不足の日々が延長されるのか・・・。これはもう確定の未来ですな。
人間って、中毒の禁断症状には弱いものなのね〜。そして目先の快楽にも弱いものなのだわ。

田代ま○し、君も覚醒剤から足を洗うためには禁断症状を乗り越えないとね。
だがしかし。インタビュー読んだら、どうも彼は未だに心の底では「この程度のことなら芸能界に居残れるかもしれない」などと甘ったれた事を期待しているらしい。
でも思うに、彼の犯罪の中で一番重罪なのは、覚醒剤なんかじゃなくて痴漢行為だろう?!痴漢をはたらくような人間未満が、平然と公共の電波に乗るんじゃないっ!醜悪。

と、自分の意志薄弱さから話を逸らしたところで、今日はもう読書に戻るべし。
・・・今日も午前様だったのにまだ読むか。読むのだ。
(実は明日までの英語の宿題もまだ・・・。マズイ・・・)



2002年02月18日(月) 額に存在する感覚。

今日もしつこく「おかけになった日記番号は・・・」と言おうと思ったけれど。
今読んでいるシリーズ、購入していた分を読み終わってしまったので(というか、続きを買う暇がなくて未だ入手していないので)不本意ながら読書熱滞留中。

明日も買い損ねたら、多分禁断症状が出る。お昼休み、絶対購入しよう。

本を読むスピードは集中力に依存する。
久しぶりに、額がぼや〜っと痺れるくらい読書に集中した。
この集中力で仕事したら、きっともっと残業少なくてすむだろうなあ。

色々な、複数の宗教で「ひたい」は特別な意味を持っているけれど、昔の人の観察力って凄いものだなあ。
集中すると本当に額の感覚が変化することに気付いて、これに意味を持たせていたのだから。
しかもこの現象、ちゃんと現代になって科学的に立証されたし。

集中と宗教には密接な関わりがあるのだな。集中すると脳内物質分泌されるみたいだし。

もしかして読書で集中して脳内物質が出るから快く感じるのであって、インプットが快感、という訳ではないとか・・・?
う〜ん、そうかもしれないなあ。
私としてはインプットが心地よいんだと思いたいけどなあ。



2002年02月16日(土) おかけになった日記番号は。

現在読書中のため、運転を見合わせております。




いや、久々に「読書」を思い出して熱中しているところなので。
阿呆な思索(笑)は後回し。
読書・・・究極の入力方法。インプットって心地良い。
私はアウトプットに慣れてないので、今ひとつインプットの価値が薄いのが難点。



2002年02月14日(木) とある夜の渋谷の話。

今日は、しばらく前に体験した笑い話を一つ。

渋谷で知らない人に声をかけられた。ナンパ・・・ではないなあ。ああいうのはなんと言うのだろう??平たく言うと買う人ですね。
「あの〜(←湿っぽい小声)」
「?」見るととっても汚い格好をした40年配のオジサン。
「こ、これでどう?これで」指三本立てている。
・・・・・・・・・・・・。三億かね?でもジュラルミンケースを持ってる気配はないわねえ。

そんな端金で私を買おうなんて、というか、私を買おうなんて三千年早いわっ(怒)!!
当然無視。
が、小汚い男は食い下がる。
「じゃ、じゃ、これ、これでどう?」指四本。
出直せ。
無視する私に次なる食い下がり。
「や、いや、あなた、理想、もう、理想」
間に合ってます。更に無視。
「あの、奴隷、女王様に、いやホント、理想で、奴隷にして、女王様に、なって下さい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?
誰が女王様ですって?誰が奴隷?まさか私?私に言ってる訳?!
どこかでブチッと音がしましたね。
怒りに手が震えるくらいでした、私。
誰が女王様?誰が理想?!

・・・渋谷ですよ、渋谷。ハイヒール履いた派手な格好をした、女王様が似合いそうな女性がいくらでもいる渋谷で。
なんでロングの地味なワンピースを着て会社鞄を抱えた私が理想で女王様なのよ!!
(しかもあの時のワンピースはAラインのフレアスカートだった・・・)
別にその男がマゾヒストだろうが奴隷だろうが構わないけど!そんなの個人の自由だから勝手にするがいいわっ!でも!!私を勝手にサディストに当て嵌めないで頂戴っ!!失礼な!!


・・・後日このエピソードを話した友人全員に、大爆笑されました。だからきっとこれは笑い話なのでしょう・・・。くっ。

結論:世の中って、おかしなヒトが多い。皆様気を付けましょう。


私をサディストに見立てる存在すらも種の多様性に含まれるの?・・・それってかなり厭。



2002年02月13日(水) 脳味噌様脱走。

今日は脳味噌が遠い世界へ脱走しているようだ。
私(本体)を置いて勝手に脱走するなんてズルイ。私も遠い世界に脱走したい!

逃避について少しだけ考えた。

何かから逃避する、というのは、程度は色々だが誰にでもある事だろう。
例えば重要な試験の最中に解らない問題ばかりが出たとき、「ああ頼むから誰か、これは夢だと言って下さい」などと考えるのも一種の逃避だと思うし、深刻な精神的外傷を受けた時にその事を無意識に思考からシャットダウンするのも勿論一種の逃避だろう。

ヒトの場合、これらはみんな脳の働きで制御されている。
ストレスを感じた時、脳と身体は「ストレスが存在するバージョン」にホルモンバランスを調整する。まあ高校の生物用語で言うと「交感神経作用の亢進」「アドレナリン分泌量の増加」。
でもその緊張が過負荷であると判断されるレベルに達したとき、何故かいきなりフィードバック作用が起こって「ストレス緩和バージョン」にバランスが再調整される。といってもストレス源である現実は変わらないから、仮想現実を脳内に構築する。「こうだったらいいのに」とか「こっこんなはずでは・・・」とかね。
このような仮想現実を作り出し意識内に投影する事によって、神経の緊張が緩和される。高校の生物用語で言うと「副交感神経作用の亢進」「アセチルコリン分泌量の増加」。(・・・あれ?今はノルアドレナリンって教えられるんだっけ??)
これが逃避作用ですな。

人間って不思議なもので、何故フィードバックで仮想現実を作ろう、と脳が判断するのかとか、仮想現実が現実ではない、と判っているのに何故神経の緊張が緩和されるんだ、とか、ホントいくら追及してもどんどん謎が出てきて面白い。
いやまあそれはいいんだけど。

つまり脳味噌だけはすぐに遠い世界へ脱出できるけど、そのとき本体様は置いてきぼりだってこと。脳の防衛本能は、本体すらも蔑ろにするほどに強烈だ、ってことね。
・・・ちょっとそれって本末転倒って言わない?身体と脳は別物な訳?本体様は脳の従属物?

じゃあ美味しいものなんて食べなくても、仮想現実で食べればいいじゃない。何処かに旅行なんてしなくても、仮想現実で行けばいいでしょう?(いまどこかに行っちゃってるみたいにね。ふーんだ)

現実の美味しいものを食べる時や何処か旅行に行く時はこんな薄情な脳味噌、絶対置いていってやる(決意)。



2002年02月12日(火) バレンタインデー。怒りの思い出。

余所さまの日記を読みに行って気付いた。バレンタインデーって明後日か。
・・・というか、数日前からバレンタインディスプレイやコンビニにずらっと並んだチョコを目にしていたはずなのに、どうも意識に入っていなかったらしい。
人は、自分にとってどうでもいい事は眼中に入れないものなのだなあ。
私がコンビニに行く理由は一つ。お昼ご飯を買うついでに残業のお供のおやつを物色するためだ。どうやらバレンタインチョコは、量の割に値段が高い(しかもあまり美味しそうなものが無い!)のでおやつ候補にすらなれないでいたらしい・・・。

んがしかし!気付いたとなったら話は別なんである!デパートに行けば、普段食べられないような色々な(しかも美味しい)チョコレートが山積みのはず♪
ふふふ。明日はデパートまで遠征しよう♪終わる前に気付いて良かった〜。

こんな私は自他共に認める甘い物好きなのだった。
でも一応モットーのようなものはある。「どうせ買うなら美味しいものを」「同じ太るなら美味しいもので」「量より質」。
・・・これだから体重は普通なのに体脂肪率だけが異様に高いんだ・・・。

昔はよく手作りチョコレートとか貰ったなあ。女性からも男性からも。
あの頃私は、バレンタインチョコはあげるものじゃなくて貰うものだと思ってた。
流石に社会人になってからは貰えなくなってしまったから、今は自分で買うしかないけど。(←ちょっと嘘。昔から自分が食べる用のチョコだけはちゃんと買っていた 笑)

社会人になって最初に入った会社には「男性社員たちに義理チョコを渡さなきゃいけない」という掟があった。生まれて初めて義理チョコなるものを購入しなくてはならなかった。

あげてもお礼を言わないヒト(の形をした動物)も結構いた(怒)。しかも彼らはホワイトデーのお返しなんて考えもしなかった(怒怒)!
男性諸君よ、飴玉一つ配らないっていうのは如何なものか?義理チョコを止めると上層部が文句をつけるから止めるに止められない女性社員の弱みにつけ込み自分もおこぼれで貰っておいて、それで知らん顔というのは厚顔無恥にも程がないかい?!それってどうよ?!
それ以前に、そんな掟が何故会社組織に存在する?!


・・・思い出すと怒りが湧き起こるので、安眠のために今日はこれでやめておこう。
折角午後様だったんだし。というか風邪っ引きでさっさと撤収したんだし。



2002年02月11日(月) まるでガリバー旅行記。

今日はちょっと良い事があった。
ある人からある人への、誹謗に対する怒りとエールがちゃんと届いていた。良かった。ネット世界も捨てたものじゃない♪


顔が見えない安心感、自分が特定されない安心感から、やりたい放題いいたい放題ができる人種が世の中にはいるらしい。これらの人のメンタリティについて、考えた。
もちろん、顔が見えていても自分が特定されても、平気でやりたい放題言いたい放題が出来る人もいるのだが、今日のところは除外。

バレなければ何をやってもいい。そう考える人の底辺には、浅薄な損得勘定が存在するように思う。
バレなければ、自分が被害を蒙らずに済む。そして自分は「目障りなモノ」に対して「天誅」(別名「鬱憤晴らし」更に別名「八つ当たり」若しくは「ヒステリー発作」)を下すことで気分的に得をする。
・・・本当は、そういう行動をとることで自分の中のモラルが低下するし磨り減るから、バレようがバレまいが本人にとってマイナスなのに。

人間には、それぞれ「自分なりの行動規範」というものが存在する。
それらは、(個人差はあるが)ある一定の年齢までに、それぞれの人間の中で、自分の規範と自分以外の世界の規範とが擂り合わされて形成されるのだと思う。
そして自分以外の世界の規範を読み取る能力が低い場合、この擂り合わせがきちんと為されず不完全でいびつな形として残るのではないだろうか。これは既に「規範」ではありえない。
或いは周囲の行動が既にいびつな場合、これらの歪んだ行動理論も拡大再生産されて広がるのではないだろうか。
曰く、自分さえ良ければいい。曰く、バレなければいい。
どうやら乳幼児の世界が、アンダーグラウンドに存在するらしい。

・・・だが、これらさえも、種の多様性として包括されるべきなのか?

嫌だなあ。



2002年02月10日(日) 眠りと目覚めの境界。

昔、まだ学生だった頃。
試験勉強でとても寝不足になって、試験が終わり家に帰り着いた途端に30時間以上眠りの世界に居坐るということがたまにあった。

目覚めと眠りの分岐点って何処にあるのだろう?眠っていると必ず、「もうこれ以上眠れませ〜ん」という不幸な時が訪れる。それを無理矢理誤魔化して何とかもう一度ヒュプノスにしがみついてみても、もう最初の幸せな睡眠サイクルには戻れない。失楽園である。

勿論、睡眠を司っているのは睡眠中枢なのだけど、それがもう寝るな!と言ったら眠れなくなるんだけど。
でもその合図がちょっと狂ったら?合図が遅れたら、目覚めも遅くなるに違いない。
あ、しまった合図し損ねた、なんて事が起こったら、目覚めなくなるかもしれない。

そう考えると、人間って、毎日物の弾みで上手く起きられてるだけなんだろうなあ。絶妙のバランスで起きて動いてるんだよね。これって結構すごい。


・・・つまり今日夜まで眠ってしまった言い訳なんだけどね。



2002年02月09日(土) 感情の運動は大事だと思う。

DVDを借りてきた。久々に映画を観るのもいいものである。うんうん。
・・・丸一日ご飯も食べず、トイレにも行かず眠っていた。食欲も排泄欲も、睡眠欲には勝てないのだ。ふはは。

って、借りてきた意味なーーしっ!!

明日には返さなくてはいけないので、意地になって夜中に観た。(実は今はもう明け方なんである)
寝不足で頭痛い・・・。

一日寝溜めした意味なーーしっ!・・・うう。馬鹿め。

なんか最近こういう阿呆なことをしてる事が多いような気がする。
・・・疲れてるんだな、きっと。(←自分が阿呆だからだとは思わない)

映画は良かった。久々にきちんと感情が筋肉痛になりそうなくらい運動した。
私は結構涙脆いので、映画や本を読むと泣く方だ。きっとここでは泣きを要求してないだろう!という場面で泣く。ここは泣くところだろう!という場面では、物にもよるがあまり泣かない。そういう場面では、何かしら心の中で突っ込みを入れていることが多い。
それから、理不尽な場面ではどうもいつも怒っているような気がする。それは違うだろう!などと、架空の人物に心の中で説教をかましていたりする。

今日はしっかり泣いて怒って突っ込みを入れた。健全かつ有意義な映画鑑賞時間であった。・・・と思う。多分。

さて寝不足を解消しておかないと来週からがまたキツいので、そろそろ愉しい眠りの世界に旅立とう。



2002年02月08日(金) 人格性格の創られ方と創り方。

記憶は反復により強化される。
ならば、このエンピツ日記にある沢山の日記の記憶も、いろいろな人に何度も読まれる事でどんどん強化されていくのだろうか?


神経は、情報が同じ回路を何度も通過することによって特定の方向に発達する。脳細胞の同じ部位を情報が通過する。何度も何度も通過する。そのうちに細胞たちはより速くその経路を通過させたくなって、擬足(神経莢)を伸ばす。シナプス一丁あがり。この繰り返しで神経束が二丁あがり。

この反応が続いて、特定の思考回路を持つ、特定の人格および性格がどんどん出来上がる。イライラする体験が多ければイライラの回路が強化されて、通りやすい舗装道路になる。だから色々な種類の刺激を受けても、通り易い道に情報がどんどん流れ込んでいって、よりイライラしやすくなる。楽しい経験が多ければ以下同文。


昔、脳の刺激伝達と伝達領域に関する学術講演を聴いた。ナントカα領域どうなってどうとかこうとか。小難しい説明をしていたけれど、思いっきり噛み砕けばこんな事。噛み砕いた内容だけを記憶して、それ以来この話は私のお気に入り。

これはスバラシイ話なんである。

もしも!まだ発見されていないけれど、体力を司る細胞群があったとしよう。色々な体験を「やっぱり私は体力があるから大丈夫よね」と心から思い続ければ、体力の細胞が活性化されて回路が強化されるかもしれない。そうなればきっと本当に体力がつく。

もしも!まだ発見されていないけれど、ヒトの脳細胞の中に運勢を司る細胞があったとしよう!色んな体験を「何てラッキーなんだ!」と心から思い続ければ、運勢の細胞の回路が強化されるかもしれない。そうなればきっとどんどん運が良くなる!!

何て素晴らしい人体の不思議と神秘!ファンタスティック!グレイト!!

以上、この日記の題名解説でした。
いや、冗談ではなく実際に、私の運は幼いころよりも良くなっている。運が良いなあ!と思うことが多かったのできっと回路が強化されたに違いない。と私は確信している。(←強引に「運勢細胞がある」ということにしている)

インターネットの世界も、人間の脳と似た仕組みに見える。ということは、こんな神秘な反応が、この世界にもきっとあるんじゃないだろうか。あるんだったらぜひともそれを知りたい。きっと面白いだろうなあ。。。

・・・だから何だと言われると、ただそれだけ、の話なのだけどね。



本日は今週初の午後様だった。10分間の自宅午後を満喫した。
少し疲労回復したかも。



2002年02月07日(木) 真綿で全身をくるまれているのは結構辛いかもしれない。

昨日今日は感情の起伏が乏しかった。
神経は、ささくれている訳ではないが、季節外れの手荒れのように少しだけザラザラと荒れていた。
思考が何となく粗雑な挙動を示した。
ここ数日続く頭痛も、相変わらず微妙な痛さレベルを保っていた。
蕁麻疹も微妙に痒いだけで小康状態だった。
脳は真綿を詰められたような感触だが、働きは、良くはないが悪くもなかった。

どれか一つだけでも飛び抜けて酷い状態だったら潔くノー残業で早く帰るのに、どれもこれも中途半端だから、やっぱり何となく仕事をやらずに帰る気になれなくてしっかり午前様になっている。

今朝は電車で座れた。座った次の瞬間英会話の宿題を開いていた。宿題が終わった途端に意識を失うように眠ったらしかった。気付いたら降車駅だった。

明日は金曜日。



2002年02月06日(水) 湯煎の必要性あり。

書きたい事が沢山あるのに、言葉にならない。いや、私が書きたい事は、本当は一つだけなのかもしれない。書く事で何とか整理をつけていきたいと思うのに、どうも私の蓋は固いらしい。

・・・やっぱり今日も駄目のようだ。書こうと思うと手が止まって言葉が出てこなくなる。
この日記を書き始めてからずっと。

大したことじゃない。大した事じゃない筈なのに。

余力と時間のあるときに、他の方々の日記を読みに行く。
私の枷は外れない。



2002年02月05日(火) 海の向こうにこっそりお願い。

今日は0時台に帰宅した。
おおっ午後様だっ!!やった! ←心からの快哉。

・・・0時台は午後じゃないっつの。
自分の頭に自信が持てなくなった一瞬。

さて。(・・・と、強引に、大いなる勘違いを水に流そう。)
英語難民のワタシは、ニッポンの英語難民らしく、ごくフツーのフレーズというものが苦手だ。
というか、口語でメールを書かれるともうお手上げなんである。
んがしかし!相手の方々は親しみを表すために口語でばしばしメールを打って下さる。何百本もメールをやりとりしていれば、ちょっとはフレンドリーに書いてもオッケーだろうと、私だって思う。
ネイティブスピーカーにとっては、簡単なフレーズなんだろう。
きっと、「彼女英語勉強中だっていうから、簡単な言葉の方が(つまり改まってない言葉の方が)解りやすいよね、きっと」という彼らなりの思いやりなのかもしれない。

・・・お願いです。やめて下さい・・・。

せめて文法に則った口語を書いて下さい。って、多分そんな口語はないだろうと思うけど。でもそう言いたくなるのです。
毎回毎回、「こっこれはもしかしてちょっと怒ってたりする言葉なんだろうか?!」とか「はっ!前のメールの私の言い回しは悪かったのか?!」とか勘繰って、書き留めておいては英会話スクールの先生に聞くのは大変なんです。

ここに書いても(しかも日本語で)多分彼らは読まないだろうけれど。
というか、まず絶対に読めないだろうけど。もしかして万が一彼らがニホンゴを習って、字まで読めるようになっちゃったりして、これを読むかもしれないし!
○ンジー、シoーン、○ラ、キャ○ディ、ジョー○、○ニー、ティ○、トoド、○ャーン、あなた達のことです。
読んだら、お願い。やめてねプリーズ。

心の中の密かな野望。いつか彼らに、口語の日本語でメールを書いて仕事をさせたい!そしたらきっと彼らも今の私の苦境が解るに違いない!

あ、いや、彼らの親切にはいつもほんとに感謝しているのだけれど。
・・・本当よ・・・?



2002年02月04日(月) ホームレスさん考察再び。

今日の目撃談。

夜中。ホームレスのお爺さんが大きな透明ビニール袋を担いで歩いてきた。
眺めていると、広場でいきなり袋の中身をぶちまけた。
・・・ゴミだった。目一杯ゴミだった。

さては鬱憤晴らしか?!社会に対する不満がホームレスさんをしてこのような反社会的な行動に駆り立てたのか?!
しかしいくら鬱憤晴らしでもこれはいかんだろう!いい年をして分別というものはないのか!片付ける人の身になって考えてみたまえ!
勝手に憤慨している私の前で、彼はおもむろにそのゴミを漁り始めた。

・・・・・・?一体何を・・・?

ホームレスさんは生ゴミの汁がでろでろ流れる中から、いくつかのパンの袋を見つけ出した。どうやらこれはファストフードの店から出たゴミと推測される。
その袋「だけ」を掴み出しゴミの山をそのままにホームレスさんは立ち去った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

って、いかんだろう!!!!おいっっ!!戻らんかっ!!
ホームレスだって、やっていいことと悪いことっていうものがあるんだっ!おいこらっ!!
叫びたかったが、夜中のホームレスさんの群れは流石に怖いので諦めた。

しかし人間の尊厳って一体何なのだろう?生ゴミを食べる時点で、これは人間としてどうなのか?
ホームレスさんだからって乞食だとは限らない。きちんと古雑誌集め等をして日銭を稼ぐ、頑張るホームレスさんもいるのを日々目撃している。
勿論、飢えたら人間何でも食べるかもしれない。
だがしかし。今日の彼は確実に乞食である。しかも人に多大な迷惑をかけて平気な顔をしていられるあたり、最低の部類の乞食であろう。

ここまで尊厳を捨てて、それでも生きる意味とは一体何なのだろう。
生物学的本能のなせる業なのだろうか?生きられるだけ生きるのが、動物(或いは生物)の姿なのだろうか。
では人と動物の境界は?何を以って人は人たり得るのか?
ここまでしても、人は人なのか?

ホームレスさん考察は奥が深い・・・。


そして本日も午前様。



2002年02月03日(日) 節分における暗黙の了解。

我が家では節分の豆撒きは、夜やることに決まっている。
たとえ昼間家族が揃っていて、しかも暇だったとしても絶対に豆撒きは夜なのだ。
誰が決めた訳でもないのだが、誰の家にも一つや二つはあるであろう「暗黙の了解」というやつなんである。
よって我が家、本日の豆撒きも夜行われた。
後の片付けが大変だから、7、8粒ずつ「鬼は〜外」、1、2粒ずつ「福は〜内」と撒くのも毎年のことである。
外は翌日簡単に片付けられるけど、家の中は踏み潰したりしたらやっかいだからこんな姑息な事をするのだけれど。よく考えたら福を沢山呼び込もうと思ったら、もっと景気良く撒かなきゃいけないんじゃないだろうか・・・?
福を望む気持ちより後の片付けを優先してしまうあたりが小市民である。
そして豆撒きの後、歳の数だけ豆を食べる。これはきちんと律儀にやる。
数をきちんと数えて食べて、これでちゃんと福が来るさ!と納得するあたりも小市民的である。(歳の数だけ食べるのは片付けもいらないし楽なので毎年必ずやる 笑)

今年も無事に豆撒きが終わった。きっと沢山福が来るだろう。

明日からまた一週間が始まる。
1日くらいは午後様で帰れるといいなあ。



2002年02月01日(金) 結局本日も変わらないのだった。

試用期間でも正社員でも、何が変わるわけでもない事に思い至った一日であった。
仕事が減るわけでもないし(というか、増えるだろう普通!)。
・・・そうか・・・そうだよね・・・。

さて、増殖能を異様に発達させている仕事のことは脇に置いといて。
今疑問に思っている事がひとつある。

私にとって「やりたい事」というのはいつでも明確だ。やりたい仕事、読みたい本、観たい劇、行きたい美術展、身に付けたい技能。時間と財布に問題があれば、優先順位をつけておいて、無理なものは後に回す。
明確に自分のやりたい事が解っていて、それに向かって力を傾注すればいい、という状況に私はいる。
でも思う。「やりたい事」をやって、それで?と。
沢山いろいろな事があるなかで、これをやりたい!と思ったのは何故なのか。
たとえばこの本を読みたい!と思ったとして、そしてその本を読んだとして。もしそれを他人に話さなければそれでオシマイ、なんじゃないだろうか。読んだ私に影響を及ぼしたとしても、私が死んだ後にその本を読んだ事が何か残るだろうか。おそらく残らない。
やりたい仕事をしたとして。勿論それで成果をあげれば何かの役に立つだろう。でも、やりたい仕事に就けなかったとしても、その職により適した人が私の代わりに一人増えるわけだ。その方がより何かの役に立つんじゃないだろうか?

やりたい、って何だろう。
向いている事をやりたがるとは限らないのに、何でやりたいって思うんだろう。
それをやって、何になるんだろう。
自己満足したって、死んだら何も残らないのに。
やりたくない事をしても何かを残す事は多いのに、どうしてこんなにも人間って「やりたい事」に拘るんだろう。
・・・不思議だ。


今日も午前様。


 < 過去  INDEX  未来 >


桂蘭 [MAIL] [深い井戸の底]

↑エンピツ投票ボタン
My追加