3月になり、卒業式も間近、最近の小学校はめんどくさいことを考えては親に宿題を出しやがります。
「卒業を迎えるあなたへのメッセージ」
んなものは公の場に出すもんでもないだろうて。
何を書かせようと言うのだ。
あたしはこう言うところでは好き放題書いてますが、そう言った類のものって言うのがどこまで書けばいいのか、加減がわかりません。
子どもへのメッセージ、とは言え、先生などの第3者の目にも触れるメッセージ、ともなれば、それなりのことを書かないといけないのか、はたまた、純粋に子供向けのメッセージで良いのか、悩みに悩んだあげく、実に無難なものを書き上げました。
「どうよ?」
鼻の穴膨らませ、手渡すと、娘の呆れた顔が。
「何さ?何か不満でも?」
「別に〜」
翌日、授業での発表があり、授業に参加した何人かの親御さん達が直接そのメッセージを読んだと言うじゃありませんか。
参加した人以外のものは読まなかった、と言うことで、一安心したものの、娘がひとこと。
「もっとさあ、なんていうの、感動するようなものかけなかったわけ?」
ハァ?
「○○のお母さんの書いたのなんて、超感動的だったんだから」
・・・(-_-メ)うるせえ。
で、お返しに、って子ども達が書いた手紙をもらってきたわけですが。
それだけ言うんなら、てめえの書いたもんはどれほどのもんか、母親に涙のひとつもこぼさせてみろ、と勢い込んで開いてみたら。
さすが親子、無難なことしか書いてねえじゃん。(苦笑
学校生活も残すところあと1週間をきりました。
月日の経つのはほんと早い。昨日入学式だったような気がするのに。
そして、毎朝起きて顔を合わせるたびに、自分が縮んだのかと見まごうほどに伸びていく娘の背が、いつか自身を追い越す日もそう遠くないのが、ちょっとした脅威でもあり、淋しくもある今日この頃です。
あたしのマイは非通知です。
部屋の中は寒いから。
出かけよう。春の日差しの中へ。
しっかりと前を向いて。
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2006年03月03日(金) |
差し出された手を払いのけるのは傲慢ですか? |
ひとつひとつはきっと、ほんの些細な、悪意すらないそんな出来事ばかりで、それを受け取る側が過剰に反応しているだけなのかもしれない。
目をそむけていた現実に胸を痛め、頭を抱え、救いを求めようとまさに手を伸ばそうとした瞬間に、手にしたものは救いではなく、与えられたのはさらに現実的な問題で、ひいてはそれに対する認識の違いを思い知らされ。
立場も環境も考え方も違うことで生じるズレを、どうしたらすり合わせることができるのか、皆目見当もつかず、同じ環境に身を置く人に助けを求め、それでもなお、根本的な解決なんて得られる訳もなく、どうしようもない不安やどうしようもない孤独に、ひざを抱えて奥歯をかみしめるしかない自分の弱さを持て余してしまう。
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2006年03月01日(水) |
過去を知るのは何のためですか? |
細胞は日々生まれ変わっているらしい。
昨日のあたしと今日のあたしは違うものらしい。
日々雑多な情報を処理するべく、キャパが少ないあたしの脳ミソは常に記憶というデータを消去しているらしい。
時折、過去の日記を読んでみると困惑する。
これを書いたのは誰なのだ?と。
何の主観も持たずに、目にしたその文章に、混濁する記憶に、単純に感情を動かされたりするのは、どうしてなんだろう。
1年前のあたし、2年前のあたし、今のあたし、変わっていないようで、微妙に変わっている、変わっているようで、まったく変わっていない、その過程を垣間見ることで、あたしはなにを確認しているのだろう。
今ならうまく伝えられる。
あのころの方がうまく伝えられる。
それは技術でも語彙でもなく。
過去も未来も本当は存在しないと言うのは、本当のことなのかもしれない。
いつからあなたはそこにいるのでしょう。
いつまであなたはそこにいるのでしょう。
捕まえることなど、決してできない幻のようなそれをどうやって手に入れようと言うのでしょう。
手にした瞬間に砕け散るようなそんな脆いものを。
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