日々雑感
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午後、近所の喫茶店へ。隣りのテーブルに関西弁で話すグループが座る。
関西弁の響きはむしろ大好きであるのに、それが集団になったとたんに違和感をおぼえるのはなぜか。たぶん問題は「関西弁」ではなくて、違う言葉を話す「集団」がそこにいるという点なのだ。「違うもの」がこちら側に背を向けていることに反射的に身構えてしまうところ、また、「背を向けている」と感じてしまうところ、思いがけず排他的な自分に気づいて怖くなる。
ある社会の中でマジョリティであること、マイノリティであること、どちらかの立場からもう一方の立場を眺めること、いろいろ考えてしまう。単にその人たちの声が大きかったので気になった、ということかもしれないが、それでもやはり。例えば、それが実際に大阪や京都だったら全然違ったふうに感じたはずである。
夜、銭湯。脱衣所にて「私、仕事が趣味だから」と携帯電話で話す人あり。それっていいなと今日は思う。
用あって渋谷へ。しかし、見事に晴れた祝日の渋谷に出た時点で失敗だったと、駅前の人込みを見て気づく。坂がちの渋谷のありとあらゆる道を、人の波がうねりながら流れてゆく。クラクションに拡声器。皆が着る白い服が太陽の光に反射して眩しい。くらくらする。
人込みに中てられてぐったりしながら、本屋に避難。どんなに混んでいても、知らない街であっても、本屋に入るとほっとする。ついでに『フットボールの新世紀』今福龍太(廣済堂ライブラリー)を購入。
夜、風が強くなる。玄関脇にあったタンポポの綿毛は、どこかへ飛んでいったらしい。タンポポといえば、5月の札幌ではタンポポの綿毛がそこら中を舞って、怖くなるくらいだという。春の北上はゆっくり。
友人の運転する車に乗せてもらう。車で走ると、東京という街の小ささがわかる。
いつも地下鉄や電車の路線図のイメージで「東京」を区切ってしまっているけれども、実際には縦断にも横断にも、そんなに時間はかからないのだ。助手席の窓を通して見慣れない眺めがつづき、さながら初めて日本にやって来た外国人の気分。「こどもの日」を前にあちこちに鯉のぼりが上がっているが、不思議な光景だと思う。ビルの谷間に、はためく魚。
用事を済ませたあと、もうひとりの友人とも落ち合い、横浜でカレー。そのあと「デニーズ」でパフェ。夜道を走るのもまた楽し。
職が決まった友人のお祝いがてら、夜、新宿にて飲み会。大学時代のサークル仲間、総勢10名。皆もう10年を越えるつきあいになるが、相変わらずのやりとりに「人って変わらないもんだねえ」という話になる。顔つきなどは確かに少しずつ年をとっていて、数年前の写真を見るとそれはよくわかるのだけれども、ひとりひとりの佇まいというのはそんなに変わらない。
10年前と同じように飲んだくれて、変わったことと言えば、今度はいつ会えるかわからないということだ。就職が決まった友人は、今週中には勤務地である外国へ発つ。明日も、あさっても、学校に行けば必ず会えた頃とは違って、今ではそれぞれの生活に戻って行くのだ。
帰りは山手線。自分が戻るところはどこか。一晩眠って、朝目が覚めて、日々はまたつづく。
暑くなる。通りを行く人も半袖率高し。
だんだん夕方の時間帯が長くなってくる。空はまだかすかに明るく、街に灯りがともり始める頃に歩くのは楽しい。通り沿いの店も戸を全部開け放している。どこからか流れてくるいろんな音楽が混じり合う。
踏み切り沿いにある赤提灯の飲み屋、いつもはお客もまばらなのだが、カウンターまでぎっしり。たしかに今日はビール日和だ。店の奥にあるテレビではナイターの巨人戦。中の灯りとざわざわした空気が外まで漏れてくる。
夜、ファミレスに集まって6月予定のイベントの話し合い。あることの願掛けとして甘いもの断ちをしていたのだが、無意識のうちにケーキを注文してしまう。一口食べ、「そういえばケーキなんて久しぶりだ」とぼんやり思ったところではっとするが、時既に遅し。自分自身にショック。けれども、はちみつレモンケーキは美味かった。
給料日の金曜日のせいか、帰りの地下鉄はいつもより2割増の混み方。夜更けから雨と風が強くなる。
夕方、開けた窓から緑の匂いがする。
こんな匂いのしていた、いろんな日のことを思い出す。学校からの帰り道。旅先の街路樹。あとからあとから流れ出してきて止まらない。しばし呆然としてしまう。
近所の金魚屋に新しく出目金の水槽が増える。黒い小さな出目金。そういえば小さい頃、縁日の金魚すくいでは、赤い金魚に混じってまばらに泳ぐ出目金ばかり狙っていた。あれもたしか、こんな匂いのする夕方のことだった。
雨の匂いのする日。風も強い。本格的に降り出す前の、ざわざわとした感じが好きだ。ときおり激しく木が揺れる。鳥が鳴く。雲がものすごい速さで流れてゆく。
『ロルカ・ダリ』A.ロドリーゴ(六興出版)読む。画家ダリと、グラナダに生まれた詩人ロルカの物語。才気あふれ、伊達男としてならしたダリは、ほとんど身体を動かせなくなった晩年、かつて共に過ごした友の名を呼ぶときだけ一瞬目を輝かせたという。「ミ・アミーゴ・ロルカ(私の友、ロルカ)」。そのとき、どんな日々が彼の胸に浮かんでいただろう。若かった自分たち。過ぎていったもの。胸がつまる。
大学にてゼミ。夕方に始まって夜遅くまで続くため、途中で一回休憩が入る。
いつものようにコーヒーを飲むべく立ち上がると、「今日はいいものを持ってきた」と言って担当の先生が紙袋を取り出した。中身は、アルミホイルで丁寧に包まれたツナのパイとミートパイである。「奥様が作ったんですか」と皆して尋ねても、いやまあ、と言うばかりではっきりとは答えず。けれども、目と口元が笑っている。
数年前、20も年下の当時学生だった女性と結婚して研究室中を動転させた先生だが、私生活のことを決して話さないので、まるで都市伝説のようにいろんな噂が生まれ、ついには「あれは本当のことだったのだろうか」という空気まで流れてきていたところだ。参加者のひとりが「はじめて奥様の姿が見えて、何だか安心した」と、しみじみ言う。パイはものすごく美味。空きっ腹にしみる。
大学構内に人の気配も少なくなった頃にゼミ終わる。帰りがけ「ごちそうさまでした」と皆に言われて、先生、再び照れながら笑顔。パイを入れてきた紙袋を大事そうにたたんで、鞄に入れていた。
母親から電話。梅が盛りだとか、庭のケヤキとニセアカシアを一本ずつ切るつもりだとか、ケーキ屋のアップルパイがものすごく小さいのに高かったとか、一気に話したと思ったら「それじゃ」といきなり切れる。時計を見ると21時15分きっかり。NHKの「ちゅらさん」が観たかったらしい。
「ちゅらさん」の「ゆんたく」の場面が好きだ。沖縄の言葉で「おしゃべり」を意味する「ゆんたく」。人と人とが集まって、ひととき時間を共有するということ。今回は6回シリーズだったけれども、来週にはもう終わってしまう。早い。そして寂しい。いつまでもずっと見ていたいと思う。
道端にスミレの花咲く。駅前の通り沿いにはハナミズキ。
鞄を抱えて、図書館や喫茶店などハシゴする。図書館は満員。けれども静かだ。本を選ぶ人あり、机でノートを広げる人あり。窓の外には桜の木の上の部分だけ見える。雨の中、遠くのほうを赤い傘と黄色い傘が並んで動いてゆく。
夜、蕎麦をゆでる。願掛け中につき缶ビールは我慢する。
『ユーラシア大陸思索考』色川大吉(中公文庫)読む。「どさ号」と名づけた一台の車に乗り、ポルトガルはリスボンからインドまでを走破した「ユーラシア大陸どさ廻り隊」の記録。
隊員の中に本橋成一という名前があり、どこかで見たことがあると思っていたら、カメラマンにして映画「アレクセイの泉」の監督でもある本橋氏だった。「屈強かつ獰猛な面構え」をした青年が、ユーラシア大陸を歩いたこの旅を経て、やがてベラルーシの地で映画を撮ることになるのだ。その間約30年。どこかで自分の中に蒔かれた種子が、気づかぬうちに芽吹いて伸びて行ったりする。それがどんな木になるかは、たぶん「そのとき」まで分からないにせよ。
風の強い日。夏の夕立前のようなぬるい風吹く。
昨日発売の「ワールドサッカーマガジン」にてラウールのインタビュー読む。
レアル・マドリードのエースにしてスペイン代表のキャプテン。いわく「スペインの至宝」、そして「ピッチの上の詩人」。「レアルは嫌いだけれどラウールは好き」という人をよく見かける。宿敵バルセロナとのアウェー戦でも、彼の活躍にだけは「ラウールならば仕方ない」と相手サポーターから拍手が送られるという(「巨人は嫌いだが長嶋さんは好き」というのと似た感じかもしれない)。
献身的な姿勢のせいか、認めざるを得ない上手さのせいか、あるいはタレ目気味の、ときにあどけない表情のせいか。どんな言葉を用いても説明しきれない「何か」がラウールにはある。それがカリスマ性であり、スターとしての証なのだろう。事実、我が最愛のミランがレアル・マドリードに3対1で敗れたときでさえ、ラウールのゴール(それも2点も!)は勝敗を忘れて嬉しかったのだ。スペインの至宝パワー、おそるべし。
インタビューの中でラウールは言う。「僕はいつも、『この生活は永遠に続くものではないから無駄にしないように』、と自分に言い聞かせているんだ」。読みながら少し泣けてくる。思うように走り回り、選手として輝いていられる時間はほんとうに短いのだ。願わくば、やがてピッチの上から去ったとき、振り返って「幸せだった」と思える選手人生を彼が歩んで行きますように。そして、少しでも長くそのプレーを見ていられますように。
夜、西麻布にてトルコ音楽ライブ。弦楽器と笛、あるいは太鼓、それに歌、ひとたび「音」が生み出されると、たちまちそこに呑み込まれて、あっという間の3ステージ。
このふたりのライブを見ると、音楽とは空気を変え「場」を作り出すものなのだということをいつも思う。同時にその「場」は、例えば「東京・西麻布」や「トルコ」といった固有名詞を越えて、はるか遠くまでつながってゆくものでもある。
お店のインドカレーがまた美味しく、ビールも飲んで、地上5cmくらいに浮いてるような気分の一夜。外は満月。
友人から、桜味のメレンゲをお土産にもらう。淡いピンク色の小さなお菓子。ほんとうの桜の花びらがどんなふうかは知らないけれども、「桜味」のほろ苦さは好きだ。
夜、サッカー日韓戦。缶ビールとおつまみも用意し、準備万端でテレビの前に座る。夜にサッカー中継がある幸せ。毎日でもいいくらい(ただし、他に何もできなくなるだろう)。
左のこめかみのところに白髪を一本見つける。つい数日前には、右のこめかみに生えていたのを慌てて抜いたばかり。ショックであるような、寂しいような、妙な気持ちになる。
桜が終わって新緑の季節。葉っぱがどんどん繁って、緑になって、見ているとどこまでもぐんぐんと伸びていきそうな気がするけれども、やがて葉の色が変わり、音もなくはらはらと落ちてゆく時が必ずやって来るのだ。人の身体も同じだろう。あるときを境に、ゆっくりと役目を終えてゆく。
肌寒い一日。コタツを片付けるふんぎりが、なかなかつかず。
近所の幼稚園の桜の木。一日ごとに緑が濃くなってゆく。その下には散った花びらがそのままに残る。建物の中では皆して声を合わせて歌っているらしい(あれは何という名前の歌だったか)。その横を通り過ぎて郵便局まで歩く。
春は気ばかり焦る。周りの人が皆、前途洋洋として見える。
注文した蕎麦がやってきて、よし、食べるかと箸を手にしたとたん、電話の音に起こされる。よく見る夢とはいえ、切ない。
暖かい一日。半袖の人も見かける。夜は横浜へ。行きの電車に乗る前に買った『新書百冊』坪内祐三(新潮新書)を、帰りの電車、終点の駅に着く直前に読み終える。外はいつの間にか小雨。
ブルガリア舞踏団の練習へ遊びに行く。メンバーのひとりがチェロを持ってきており、少しだけ触らせてもらう。チェロは触るのはもちろん、間近で見るのすら初めて。弓の持ち方も左手の運指法も何もわからないけれども、すっぽりと抱え込むように座り、手を添えてもらって音を出してみると、これがものすごく楽しい。ゾクゾクする。この楽器を使って、思うような音が好きなように出せたら、どんなによいだろう。
一日小雨。日本時間の今晩深夜はミラン対インテルのミラノ・ダービー。ミラン必勝を祈りつつ眠る。
2泊3日で佐賀。2日目に用事が済んだので、最終日は唐津まで行くことにする。
各駅停車はゆっくり進む。れんげが咲く。菜の花の黄色。山に囲まれているのだけれども、それらもどこかのんびりと構えているようで、地元の東北で時折山から受ける威圧感がない。九州の印象をひとことで言うとしたら「穏やかさ」だ。うすぐもりの春の一日だったせいもあるかもしれないが。
唐津は玄界灘に面したお城のある町。西の浜沿いの石垣の道を歩いて、唐津城の天守閣までのぼる。唐津の町並、湾へと注ぐ川に架かる何本もの橋、海岸線に沿って黒松の林が広がり、水平線の向こうには島影がかすむ。
それらを眺めながら、遠くへ来たなあという思いになる。それは何も自分の暮らすところから遠くまで来たといった相対的なものでなく、西端や北端など、海に面した「端っこの町」には、場所そのものにそういう思いを呼び起こす力があるような気がする。目には見えない「海の向こう」を感じるからか。
帰りは福岡空港から飛行機。ちょうど太陽が沈む頃の雲の上の景色はすばらしかった。空と雲だけの音のない世界。ひたすらに広がる雲は空の色を映して、白というより、むしろ青。北極、あるいは南極、快晴の大雪原を走るとしたらこんな感じか。ただし、ちょっと揺れた。手のひらに汗かく。
風が強い日。ビルの9階にある部屋の窓から、桜の花びらが雪のように舞っているのが見える。どこにある木から飛んできたのか。
銭湯の隣りにあるコインランドリーに若者の集団。顔つきや話し振りからして、どうやら大学に入ったばかりの、同じ寮に住む一団らしい。そんな面々が集まって、たぶん心細さをどこかに残しつつ、少し気張って冗談を言ったり、話したりしている。彼らはまだまだ始まったばかりなのだ。
青臭い匂いのする空気。桜のあとには、すぐに新緑の季節がやってくる。
新学期ガイダンス。その後、友人と散歩。もう葉桜となっている木も見える。
お茶を飲みながら今後の話などするが、どうにもぱっとせず。メニューに「フルーツバーガー」なるものを見つけて注文してみると、パイナップルやスライスりんご、キウイなどが載った大ぶりのハンバーガーで、こちらのほうはなかなかいける。
夜、三日月。春の星座。
昨日から一転、快晴となる。こんな日に限って家の中での作業が山積み。机の前で悶々としながら、いつの間にか寝入ってしまい、夕方目が覚めて少し落ち込む。何をやっているんだか。
気がつくと、選抜高校野球は終わり、プロ野球が始まっている。野球の試合結果を見ると、9点だの10点だのというスコアが多いことに驚く。最近になって大量得点が増えたのか、3点もとれば「今日はすごい」と感じるようなサッカーのスコアに慣れたせいか。
夜、銭湯へ。番台のおじさんは巨人戦のテレビ中継が気になって仕方ないらしい。お金を受け取って「ありがとうございます」と口にはしつつ、気もそぞろ。
朝から雨。しかも本格的な降り。仕方なく昼間の花見は見送り、夜、下北沢で飲み会となる。「花見」にかこつけてサークルOBで集まるのが目的のようなものなので、お酒が入ってしまうとあとは同じ。大いに、飲んで、笑って、話す。
春のせいか、ひとり東京に出てきたばかりの頃の心細い気持ちなど思い出す。安心していっしょにいられるような、そんな仲間がこんなにできるとは思わなかった。笑い話となる共通の思い出がたくさんある。
今日のことも、桜を忘れて飲んだくれた花見もあったと、いつか振り返って皆して笑うだろう。帰り道、雨に濡れた歩道に桜の花びらが散る。
録画してもらっていたユーロ2004予選のオランダ対チェコを観る。デンマークとかチェコとか、派手な大スターはいなくとも、皆がするべきプレーをしっかりとこなして突破していくようなチームが好きだ(チェコにはネドヴェドもロシツキーもコラーもいるけれど)。「一見地味だが、実はすごい」というところもいい。
夜から雨となる。明日は毎年恒例の花見の予定だったが、この調子では無理かもしれないと友人から電話。雨の音はだんだん強くなる。
靴屋の前、新しいゴムの上履きの匂いがする。新入生が、まっさらな上履きやら筆記用具やらを持って、少し緊張しながら学校へと向かう時期である。
川沿いの桜並木は満開。何人かで連れ立って歩く人あり、ベンチに座りながらひとり眺める人あり、携帯電話でいっしょに写真に収まろうとする高校生らしきカップルあり。花びらとなって散らずに、丸ごと落ちてきた桜の一枝を小さな男の子が拾って見つめていた。
古本屋で『石光真清の手記』石光真清(中公文庫)全四巻がそろっているのを発見。日清、日露さらには第一次世界大戦前夜、諜報員として満州、ロシアを舞台に歩き回った石光真清の手記。思い切って購入、読み始めたら止まらず。外がぼんやりと明るくなってきた頃に眠る。
用あってドイツ大使館へ。領事館など訪ねるのは初めてなので緊張していたのだが(何しろ役所関係にはよい印象がない)、入り口にいた守衛さんから中の職員さんまで、よい人ばかりで拍子抜けする。
特に中で働く職員さんたち。ドイツ人と日本人とが混じって働いているのだが、皆そろって非常に感じよく、上から見下ろすようなところもなく、ユーモアあり、こちらの不安を察して安心させてくれるような心配りあり。それでいて仕事っぷりは素晴らしく、持ち込まれる様々な要件をばっさばっさと片付けて、大勢が順番を待っているのにいらいらするような雰囲気も皆無。窓口では笑い声まで起こる。
そのためか、待合室の雰囲気も和やか。思わず隣に座っていた人と話がはずみ、住所交換までしてしまったくらいだ。用事を終えて帰る頃には、すっかり「ビバ!ドイツ」という気持ちになる。もちろんドイツ人がすべてそうだというわけではないだろうが、ある国への印象が、その国の窓口にあたる場所にいる人によって左右されるのは確かだ。
花冷え。雨に濡れる桜も風情あり。
墓場の夢を見る。
だだっ広い荒地に、大きな顔面像がふたつ並んでいる。南の島の土産物によくあるような、どこか間の抜けた表情をした像で、それは「墓」だとなぜだかはっきりわかっているのに、悲しい感じも厳かさもなく、むしろあっけらかんと明るい。空をすごい速さで雲が流れていった。風が吹いて土埃が舞った。あれは、誰の、あるいは何の墓だったか。
暖かい一日。夜道、桜が風に揺れる音がする。
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