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■ ゲンマ
かさりと渇いた音がした。
其 れ は あ た し の 心 臓 。
call me
幼い頃から取捨選択が早かった。例えば文具、服、友人、そして思い出。 気がつけば、長年大切にしている物なんて、ひとつも持っていなかった。いつでも身軽で楽ではあった気がする。 「オマエなぁ、それは捨てんの早すぎだろうよ」 頭上から、今一番聞きたかった、聞きたくなかった声が降ってきた。神様なんてこれっぽっちも信じちゃいなかったけど、これは最期の贈り物なのかと思った。あたしの数少なすぎる友人の一人。 しかし現実と夢の区別がつかないくらい、あたしの脳には酸素が回っていなくて、体中のどこにそんなに蓄えていたのかってほど夥しい出血をして倒れていた。 「ゲン、マ」 玉砂利の地面に、弱弱しく発せられた言の葉が零れ落ちては割れる。先刻からあたしの瞳は目前の人物を一度たりとも捉えられていない。歪に尖った言葉の欠片は赤く染まった血に浸透していくのか、悪戯に体温を奪った。 「捨てることに躊躇いがなさ過ぎるのもどうかと思うぜ」 単語をひとつひとつ口に出すのが精一杯だ。口の中の血の味すら判別できず、ふわりと浮いた身体に驚く気力もなかった。人は死ぬ前に何グラムか軽くなると聞いたことがあるけれど、幾らなんでもこの浮遊感はないだろうと、薄れる意識の中で呟いた。 「…なにを」 「命。それと、俺」 取って付けたように足された俺、という言い方があまりに彼らしかったので、引き攣る頬を無理に上げて哂った。こんな感覚は酷く懐かしい。
「俺を呼べって言っただろ。何があっても駆けつけるって」 あの言葉は嘘じゃねえんだ、と言った彼の口調は責めているようには聞こえず、ささくれ立ってカサカサの心に容易く染み込んだ。 「あの程度の任務で、別に死ぬつもりはなかったんだけど」 「それでも、」 「生きるつもりつもりもなかったの」 牛乳を流し込んで塗り固めたような色の壁が四面を囲う。壁側に寄せられて置かれた簡素なベッドはギシリと音を立てて、自分とゲンマの体重を支えた。 夢から目覚めた時の虚無感は計り知れない。何とも言い様の無い虚脱と寂しさが不安を内包する。其の塊はけして激しくはなく、六月の雨の様に静かに、人恋しさを募らせた。わずかに開いた窓から、庭を走る子供の声が聞こえる。戦場との線引きが曖昧な病院は、いつでも様々な矛盾を抱えていて居心地が悪い。 「こんな思いすんのは一体何度目だと思ってんだ。阿呆」 ごめん、という言葉は喉元で飲み込んだ。謝ったとしても、それは本心ではない。 「早く上がって来い。ここまで」 強い事と、頑丈な事は違くて。弱い事と脆い事も同じでは無く。 立ち上がるのは自分の足である。大地を踏み締める、この足だ。わかっている。それを言ってくれることでまた、再認識するから彼の存在は有り難い。 「足を引っ張るのは厭よ。あたしに付き合ってゲンマの歩みを遅めるなんて、サイアク」 「待っちゃいねぇよ」 「知ってる」 この年の離れた友人はどこまで許してくれるのだろう。出会った時から感じた懐かしい感覚はあたしを饒舌にさせ、内側の醜い部分をも曝け出していた。話を聞いているときも嫌な顔すら見せず、只、延々と続いたそれが終われば彼のトレードマークの長楊枝を唇の動き一つで上げて、俺を呼べと言った。 警戒心なんてこれっぽっちも持たずに、それだけで救われた気がした。自分を知ってくれる人がいることで、生きている意味があると思った。 彼からあたしに似た哀愁を汲み取れることがある。自分のように身も世も無く暗鬱するものではなくいものだけれど、やはり負の部分は誰しも必ず持っていて、それの比率が大きいか小さいかの度合いなのだ。 ゲンマが、あたしの傍にいてくれる理由はわからないが、 「俺を呼べよ。生きたいって、思うほど綺麗なモンばっか見せてやるから。オマエに」 真摯な表情で告げる彼の後ろに沈む太陽は本当に美しかったので、思わず涙が零れてしまった。暖かい優しさのぬるま湯でふやかされてしまう。
立たなければいけない日が近づいているのだ。
刻々と色を変える空に、あたしは確信した。
2005年06月30日(木)
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