Opportunity knocks
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仕事場の同僚(後輩)4人が家にゴハンをたべにきた。 暇さえあるとウチに夕ゴハンをたべにくる別名、隣の晩ご飯突撃隊。 仕方ないのできりたんぽ鍋とビールの肴にブタキムチを作ってもてなす。 若い女の子に囲まれてうれしそうだったのは我が家の男ふたり。 まあでも大勢でゴハンをたべるのは結構楽しいものではある。 賑やかな夜だった。
(スキー合宿の)代休で朝から暇な連れ合いと久しぶりに映画を観にいく。 10minutes older-人生のメビウス 時間というものを大きなテーマにして、人生におけるできごと(結婚、誕生、進化、孤独、死、運、郷愁)を10分という限られた時間の中で表現した映画。 10分という時間の中で、アキ・カウリスマキ、ヴィム・ヴェンダース、ビクトル・エリセ、スパイク・リーなどの監督が独特の手法で映画を撮っていて、なんというかすごく味のある映画だった(表現が陳腐でスミマセン…)
時間というものは正確なもの、把握できるもの、確かなもの、という認識を普通は持っているのだけど、この映画をみていると何だか時間というものは不確かで実体のないもののように思えて来る。一瞬は永遠であり、永遠は一瞬であるというか… と書いてしまうとなんのことだかさっぱりわからないのだけど、とにかくそんな感想を持った。 それにしても創作意欲の掻きたてられる映画。10分という制限の中でここまで創造できるものなのかとためいきがでた。わたしならどんなものを撮るだろうかとだいそれたことを考えてみたり。
個人的にはビクトル・エリセのものとチェン・カイコーのものが強く心に残った。
今日から連れ合いは学校の行事であるスキー合宿に出かけた。3泊4日。 帰って来るのは水曜日の夜。 いなくなってみると静かなような少し寂しいような。
そういえば一昨年、スキー合宿の間になんとインフルエンザに罹りふらふらになって帰ってきたんだっけ。でそのインフルエンザが次々と子供やわたしに移ってたいへんなことになったんだそうだおもいだした。今度は何事もなく帰ってきてほしいなあ・・・。
財布、今だ戻らず・・。 どうしてるんだろうなあ、わたしの財布・・なんて思ってみる。 たぶんお金だけ抜かれて捨てられたんだろうなあ。 どこに捨てられたんだろう。 草むらの中?川?焼却炉?
喪失感というのだろうか、そういうものを少し感じている。 亡くなった父がはじめて買ってくれた財布だった。 大事にしていたつもりだったのに。 でもなくしたということはそういう気持が希薄になっていたっていうことなんだろうな。
つい最近までいつも身近にあったものなのに、ちょっとした気の緩みで失ってしまった。一度失ってしまったものは二度と戻らない。自分の大事なもの、手放したくないものはほんとうに大切にしないといけないんだ、手から放してはいけないんだ、そう痛感する今日この頃。
お財布を落としてしまいました。 たぶん落としたのは公衆電話の中。 友達と携帯電話で通話中電池切れになってしまい、 公衆電話でかけ直そうとしたとき置き忘れた、とおもう。 財布が無いと気付いて公衆電話に戻ったのが2時間後。 当然財布はなかった。 すごいショック。 まず自分のあほさかげんに。 携帯電話の充電をちゃんとしなかったこと、 公衆電話に財布を置き忘れたこと、 なくしてすぐに気がつかなかったこと、 あー考えれば考えるほど自分に嫌気が・・・。
さらに、キャッシュカード、運転免許証、学生証などなど 現金以外にもいろいろ入っており、もし見つからなければ再発行など 大変であることは目にみえており・・・
警察にいって届をだし、足取りも重く帰宅。 ためいき。 見つかるだろうか。 良い人に拾われてますように。 せめて財布とカードと免許証が見つかりますように。 ためいきためいきためいき。。。。。。
コドモと連れ合いと3人で、シャガールの版画展を観に美術館へ。 休日なのになぜか美術館はがら空き。おかげでゆっくりみてまわることができた。
シャガールは正直言って(わたし的には)可も無く不可も無くという感じの存在だったのだけど、今日観た版画展で少し見方が変ったような気がする。 版画はほとんどが銅版と石版で、規模としてはそんなに大きい展示ではなかったけれど、思わず見入ってしまったものがいくつかあった。 シャガールの作品は油彩の方がよく知られているけど、実は版画の数の方が遥かに多いそうで、生涯に約2000点ほどの作品を描いたとのこと。「死せる魂」「寓話」「聖書」という初期の版画集がおもに展示されていて、聖書や寓話から引用した文章と、それをもとに描かれた版画が一緒に並べられていた。 鋭角的な線の流れと微妙な影の明暗など、ひとつひとつ丁寧にみていくととても興味深かった。強く深く濃い線、浅くほのかな線、短い線、長い線、真直ぐな線、よじれた線、などなどそれぞれの線に描き手の思いがこめられているような気がした。たぶん、シャガールは版画というものに対して特別な思いがあったんじゃないかと思う。油彩にはない側面がそこにはあったし(といっても根底にあるものは同じだと思うのだけど)版画という技法の中でどこまでも掘り下げていきたいという気概みたいなものが絵の中に感じられたような気がする。 とにかく、とても興味深い展覧会だった。
絵をみたあとは久しぶりにフレンチたべに覚王山というところへいく。 いちおうちゃんとしたフルコース。冷製の前菜にたことサーモンと野菜のマリネ、温製の前菜にしめじとエスカルゴのキッシュ、スープ、魚料理とメインの肉料理。 メインの肉料理は牛タンとフォアグラのパイ包み。コドモが、牛タンはわかるけどもう一つの肉はなんの肉かときくのでガチョウの肉だと答えておいた。コドモはレバーが大の苦手で、本当のことをいわない方が良いと思ったから。結局こどもはおいしいおいしいといって食べていた(あとでほんとうはレバーだったんだよと教えたら、えーあれがレバー?とおどろいていた…)デザートはチョコレートのムースとレモンのソルべ、苺とキーウイの盛り合わせ。小確幸のひととき。
天気もよくていろんな意味で満たされた休日の午後だった。
連休中日の午後。 コドモはお昼ご飯をたべ、部活だといってあわだたしく出かけてしまった。 あとにはわたしと連れ合いのふたり。
わたしは蜜柑をたべながらこたつで本読み。 連れ合いはというと同じこたつで新学期早々実施されたテストの採点を黙々とやっている。 それはいいのだけど、連れ合いの使っているペンの音がどうにも耳障りで本読みに集中できない。エンピツの音、ボールペンの音、万年筆の音は気にならないのだけど、サインペンの音はどうにも気になる。しゃりしゃりという擦れたような音がどうにも気に障って仕方がない。例えていうと発泡スチロールを爪でひっかいたときにでる音のような不快さがある。 「ねえ。サインペンの音が気になって読書に集中できない。」そういってみた。 「サインペンの音ー?そうかなおれは全然気にならないけど」テスト用紙から目を離さずに連れ合いがいう。だからあなたがそうでもわたしはそうじゃないんだって。さらに連れ合いが言う「そんなに気になるんなら本読むのやめたら」 「ねえ。こたつって寛いだりのんびり本を読んだりぼんやり蜜柑をたべるために存在するものだとわたしは思うんだけど」憮然としてそういってやった。 「仕事する人のためにも存在するものだとおもうけどねおれは」と連れ合いも負けずに言い返す。「それにサインペンの音くらいで集中力なくしてしまうようなら本読みの意味なんかないと思うけど」 「・・・・・」悔しいけど負けた。
確かに最近ちょっとしたことで集中力が途切れることが多い。すぐ気が散ってしまったり、落ちつかなかったりする。確かにそうだ。そうだけど・・・。
サインペンの音がしないところで(自分にとって100%都合のよいところで)思う存分本読みしたいと思う。ほんとうに。こころから。
想像力の欠如。
想像力の無い人の言葉は、 何よりも人を傷つける。
想像しよう。 想像できるように いろんなものを見よう いろんなことに耳を傾けよう。
半纏を買った。 綿がいっぱい入っていて手触りのいいもの。 家に帰ってさっそくはおってみる。
帰ってきた連れ合いがその半纏姿をみていわく、
おー似合ってる似合ってる!
あんましうれしくない。 けど、あたたかいのはうれしい。
そんな感じであたらしくまたワードローブが増えました(笑
でもほんと半纏ってあたたかいんだから。
人生最初の記憶。 わたしは誰かに連れられてどこかの道を歩いている。 誰と歩いていたかは憶えていない。母親だったかもしれない、父親だったかもしれない、またはまったく知らない誰かだったかもしれない。とにかく一緒に歩いているひとが大人で、わたしの手を軽く握っていたということだけは不思議に憶えている。わたしはその誰かと一緒に線路伝いの道を歩いている。そしてそのうち広い野原のような場所にでる。せいたかあわだちそうの黄色い花が頭上に見え、その遥か上には真青な空が見える。わたしは頭をあげてせいたかあわだちそうと青い空をみる。世界はなんて大きいんだろう、と思う。 わたしも隣を歩いている大人も口を開こうとしない。ただ歩く。手をひかれながらわたしは歩く。
どうしてそんなことをずっと憶えているのだろうと思う。じゃりじゃりした地面の感触、歩く速度にそって流れる景色、黄色い花、青い空、草の匂い、などなど、今でもはっきり憶えている。それらの記憶はたぶん何かにつながっているのだと思うのだけど、肝心な事はなにも憶えていない。断片的な記憶だけが残っている。そんな形にならない記憶が頭のどこかにたくさん仕舞われていて、これからもどんどん埃のように積もっていくのかもしれない、と思うとかなり不思議。人の体ってほんと途方もない、そんなことを何となく考えた1日だった。
津波のように押し寄せてきた患者さんの応対&先月分のレセプトでもうくったり。 時間が加速する感じ。昨日までの時間の流れはどこへやら。 ばったり、お布団に倒れます。おやすみなさい・・・。
暴飲暴食が祟ったのかおなかの調子がすこぶるよくない。 ここらでほんとやめときなさい、という何かの啓示なのだろうたぶん。 さて明日はシゴト始め。それなりにがんばろう。
本読み→ごろごろ→何かたべる→ごろごろ→本読み→何かたべる→ごろごろの繰り返しでお正月は過ぎて、お休みもあと1日残すのみ。 過ぎ去った時間わたしはいったい何を?と思わなくもないが、とにかくゆっくり休むことはできたと思う。 さて、明日は来るべき休み明けのために頭と体を動かしていろいろ準備しなきゃ。 ということで早めに就寝。 おやすみなさい。
テレビでやっていた「向田邦子の恋文」という番組を見る。 山口智子さんがわたしのイメージ通りの向田さんを演じていてうれしかった。
やっぱり好きだなあと思った。文章も性格も行いも。 今彼女が生きていたらどんなものを書いていたんだろうなあ、としばし想像する。 どんなものでもきっとわたしは変らず惹かれていただろうな。
彼女はもう何も書くことはできないけれど、彼女の残したものはいつまでも色あせずに残りつづけて、わたしはそんな彼女の文章をいつまでも読むだろうと思う。 これからもずっと。
いつものように夜中、コドモとふたりで神社に初詣。 行く途中それぞれ友人と行き会い、すれ違いざま新年の挨拶をする。 おめでとう。 今年もよろしく。
町内には大小合わせて4つの神社があって、それぞれ振るまいがある。 厄年の男たちが厄落としのため奉仕作業でいろんなものを作って振舞ってくれるのだ。焼き鳥、お汁粉、みそおでん、甘酒、から揚げ、串かつなどなど。 連れ合いもその奉仕作業で年末は忙殺。大晦日も新年にかけて秋葉神社という神社で一生懸命みそおでんを参拝客に振舞っていた。お疲れ様。
初詣を終えて家に帰る。 コドモはそうとう眠かったらしく、帰るなりベットへ直行。すぐに眠ってしまった。わたしはというと遅くまで読書。4時近くになってやっと眠りについた。
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いつもきてくださっている皆様へ
新年明けましておめでとうございます。 去年は後半からあまり更新できなくて、ただでさえしょうもないHPをますます味気ないものにしてしまいました。申し訳ないです。今年は・・・もっと気合入れてがんばるつもりです。どうか今年も宜しくお願いいたします。 2004年が皆様にとって実り多きものとなりますように。
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