Opportunity knocks
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コドモの13回目の誕生日。 ケーキを準備し、リクエストだった机(自分の部屋に置くための折りたたみができる小さな机)をプレゼントした。 中学生になっていちだんと変わってきたコドモ。背ももうわたしより少し低いくらいになってきた。誕生日のプレゼントも昔は100%おもちゃだったのに今は机がほしいなんて言ってるし。 あー、どんどん成長していくんだな。
コドモとくらべてあまり成長しないわたしだけど、それでもコドモがいることで、いろんなことを学んでこれた気がする。 これからもそばにいて見守りながら、一緒に少しずつ成長していけたら、とそんなことを思った。
追記 コドモが生まれたときの話をコドモにして以来、コドモに誕生日がくるたび、母さんが夜中にかき氷をたべたせいでこの日がぼくの誕生日になったんだよなあ、といわれる。 これから子供を産もうとしている方へ。 出産を控えているときは夜中にかきごおりは食べないほうがいいです。経験的に。
昨日。12時間も眠ってしまった。 連れ合いの証言によると、8時頃からすでに寝ていたらしい。 夕食の後片付けが終わって、本を読んでいたところまでは覚えているのだけど、それからあとは何も覚えていない。 まさか・・・。 連れ合いに、もしかして布団まで運んでくれたの?ときくと、 「まさか。そんなにでかくて重たい体、持っていけるわけないじゃん。自分で歩いて布団にはいってったよ。覚えてないの?」 とのこと。 でかくて重い体はよけいだろ・・・とぶつぶつ思いながらも、少々びっくりした。 よっぽど眠たかったんだろうなぁ、わたし。夢も見ずにぐっすり眠ったのはほんとうに久しぶりだった。おかげで今日は(最初はぼんやりしていたものの)すごくすっきりしていろんなことが捗った気がする。
ビデオで「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」を観る。 ジーン・ハックマン扮するテネンバウムズ氏には三人の子供がいるがどの子も非凡な才能を持つ天才児。しかし子供が育っていくにつれ家族は次第にばらばらになり、テネンバウムズ氏は家族を捨て放浪の日々を過ごすようになる。そして月日は流れ、あることがきっかけでテネンバウムズ氏はまた家族を一つにするべくある決心をする。
だいたいこんなようなあらすじ。 コメディっぽい感じなのだけど、結構細部に凝った映画。テネンバウムズ氏の、家族をもう一度取り戻そうとなりふり構わず奮闘するところが何とも言えず微笑ましく、かなしく、可笑しい。三人の子供もそれなりのトラウマを持っているのだけど、父親の働きかけをきっかけにしながら、自分なりにそれを乗り越えようと努力するようになる。 はじめは何だか見かけだおしの映画なのかなと思ったけど、みていくうちに少しずつ良い映画だな、と思い、観終わるころには何だかこころがじわーんとした。そんな映画。 テネンバウムズ氏の人生ははたからみれば破天荒なものだけど、それはそれで結構しあわせなのかもしれないな。とふと思った。といってもわたしには到底無理な人生なのだけど。それでも。 なかなか良い映画だった。
「めぐりあう時間たち」を観る。 良質な大人の映画という感じでとっても良かった。 抑制された上品な演出というのが映画の雰囲気を落ち着かせ、また本当に表現したい部分を際立たせていたと思う。何度でも観たくなる、そんな映画。ほんとうに良かった。 ニコール・キッドマンは今まで可もなく不可もなくという感じだったけど、 こんな演技もできるんだってことで今回は結構見直した。 (つけばなに関してはちょっと不満が残るが)でも良かったのはやっぱりメリル・ストリープかな。ほとんど個人的趣味だけど。
今度は「ダロウェイ夫人」を熟読した後、じっくり観てみたいと思う。 また違う見方、解釈ができるかもしれない。
2003年06月19日(木) |
雨降り、買い物、きょうの料理 |
今日も相変わらず雨降りの一日。 あまりにも気合が入らないので服なんか買ってみた。 黒と白と緑のストライプのシャツ(襟は微妙にグレー)、 白のキャミソール(首周りが浅くV字になっててレースがついている) プリーツの水玉(黒字に白玉)スカート。 Tシャツ(ラルフローレン)
わー、結構買ってしまったね、わたし。 でも、(服買うのは)かなり久しぶりなのでいいことにする。 気合も入ったし。
帰りに本屋によって、「きょうの料理」のテキストを買った。 豚ひれ肉と黒豆のホイル焼きというのがおいしそう。 さっそく明日つくってみよっと。 おいしくできたら報告しまっす。
梅雨まっただなか。 今日もしとしと雨が降っている。 息苦しくなるほどの湿気と雨の音、そして暗い空。 そのせいかどうかわからないけど、なんだかずっと頭がぼんやりしている。 何もする気がおきなくて、ソファに寝転んだまま昔録画したビデオ(映画)なんかみていたりする。 そんな一日。
夜、BS11でやっていたマルタ島の猫を特集した番組を観た。 マルタというところは人口より猫の数の方がはるかに多いところらしい。 いたるところに猫がいて、いたるところにそれを世話する人間がいる。日本だと野良猫などにえさをやるだけで周囲に白い目で見られるのだけど、マルタの人々はそんなことはまったく気にしない。特別にマルタの人たちが温情にあふれているというわけではなくて、人々は猫たちが生きていくのも当然の権利じゃないかと考えている気がする。
マルタには「マルタ猫協会」というちゃんとした組織まである。捨て猫の保護、飼い主さがし、病気になった猫の治療、などなど、とにかく猫たちのためにあるような団体である。 そのマルタ猫協会で働いている人が言った言葉が面白かった。
「犬は餌をくれる人間のことを神様だと思う。それに比べて猫は、わたしが神様だから人間は餌をくれるんだって、そう思うんだよ。」
うーむ。たしかにそうかも。
途中、ねこごころを刺激されるような場面がいくつもでてきて身もだえしそうだったのだけど、それよりも、社会の中で生き物と共存していくことの難しさだとかそういうものの方が強く心に残った。
黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」を連れ合いと一緒に観る。 この映画は、ロシア人であるウラジミール・アルセーニコフという人が書いた手記をもとに作られた映画で、登場人物のほとんどがロシア人、日本人はひとりもいない、本編すべてロシア語、というかなりの異色映画。物語は20世紀の初頭が舞台。 原作者であるウラジミール・アルセーニコフは帝政ロシア時代の軍人で、軍の指令によってロシア全土を探検するのだが、その際偶然モンゴル人の男デルス・ウザーラと出会う。映画はそのデルスとウラジミール・アルセーニコフとの心の交流を主軸にしている。
あー、こういうのってほんと書くの苦手・・。 とにかくいろんな人に観て観てっ、とすすめたくなる映画であることは間違いないと思う。黒澤明はこの映画のまえにとった「どですかでん」という映画があまりにも不評だったためかなりナーバスになっていたらしい。自殺未遂までしたというのだから、かなりの精神状態だったのだろう。そういう時期にロシアからこの映画の企画が出されたというのは、黒澤にとって大きな転機だったんじゃないかと思う。日本から遠く離れたところで自分の表現したいものを思う存分映像にし、自分が撮りたいものは何かということをあらためて再認識できた、そんな雰囲気が映画からしみじみ感じられる。 ラストは、黒澤らしく、人間というものの業の深さがこのうえなく明確にえがかれていて、すごく考えさせられた。とにかくとにかく、素晴らしい映画。
良いものを観て、今日は一日すごく頭の中が活性化された気がした。小確幸。
夕方Kさんと電話で話す。 先日の日記で書いた河瀬さんのことをあれこれ話した。 Kさんも河瀬さんの初期の映画を前に見られたそうで、映画を観てこの人は自分の記憶を大切にしている人だなと思った、と言われていた。 同じような感想を持ったんだなと、うれしかったり。 そのあともいろんなことを話した。田舎のこと、日常のこと、勉強のこと、時間はどうやって使うのかということ、「キャッチャー〜」のこと、村上春樹さんのこと、などなど。
Kさんと話すのはとてもたのしい。 高校生にもどったかのように、どきどきしながらしゃべってたりする。 そんな風に話せる友達ができたことをこのうえなくうれしくおもう。 ほんとうにたのしい時間だった。
2003年06月10日(火) |
スーパーマーケットにいったら |
とうもろこしが山積になっていたので思わず買ってしまった。 家に帰って、塩を入れた大きな鍋でぐらぐら茹でる。 鮮やかな黄色にそまったところで茹で上がり。 とってもおいしいとうもろこしだった。小確幸。
以上、食いしん坊の日記でした・・。
「萌の朱雀」読了。 とっても良かった。物語としては地味で終始淡々と文章が綴られているのだけど、それが山の生活の雰囲気をストレートに伝えていて、ごく自然に本の中の世界をイメージできた。
読んでいるうちに、自分が育った田舎のことを思い出したので少し書いてみようと思う。
わたしがその田舎に引越したのは小学4年生の夏、ちょうど今ぐらいのときだった。 それまで都会のど真ん中に住んでいたので、田舎の生活の何もかもが珍しくて新鮮だったのを覚えている。 水道の水は流しっぱなし、(なぜかと言うと山の水をそのまま引いているから) 蛍はまばゆいくらい群れをなしてとび、蛙の鳴き声は想像を絶するくらい大きかった。 月のでない夜はほんとうに真っ暗で、空気は混じりけなく澄んでいた。 自分がそれまで育ってきた世界とはまったく違う世界がそこにあった。 小さな子供だったわたしは何を思って当時それを受け入れていたんだろう、とふと思う。でも、その頃の自分の気持ちを思い出そうとしてもあまりよく思い出せない。そのほかのこと、山の風景や様々な生き物、空気のことなどはよく覚えているのだけど。たぶん、受け入れることだけでせいいっぱいだったのだろうと思う。生きていくのだけでせいいっぱいだったんじゃないかと思う。
わたしが転校した学校は全校生徒が9人、という小さな小さな学校だった。しかも女子はわたしだけだった。普通の小学校とはまったく違っていた。どんなところが違うかというと、まず授業の半分は野外なんじゃないかと思うくらい、野外授業が多かった。野外授業といっても、銀杏ひろいにいったり、山菜を取りにいったり、たけのこを掘りにいったり、校庭の草むしりをしたり、水芭蕉を見に行ったり、そんなこと。夏休みなんかも宿題がないかわりに、蓬を摘んだり(摘んだ蓬は薬屋に売る)野菜を育てたりした。 先生は校長先生と教頭先生、普通の先生の3人。校長先生は音楽が専門だったので、ピアノを弾くことを教えてくれた。教頭先生は絵を描くことを教えてくれた。クラスは2クラス。違う学年の子と一緒に授業を受けた。わからないところを教えてあげたり、逆に教えてもらったりした。そんな小学校生活だった。
わたしが転校してきたその年、小学校にプールができた。学校からは少し離れていたけど、村の人たちが力をあわせて作ってくれたプールだった。プールといっても普通のプールではなく、水を川からひきいれ、まわりをコンクリートで囲ったプールだった。横幅が8m、縦が15メートルくらいあったと思う。水は当たり前だけどすごく冷たかった。そして魚なんかも泳いでいた。わたしはそのプールではじめて泳ぐことを覚えた。 今思うとすごく良いプールだったと思う。わたしたちはその夏、すごく幸せな気持ちでそのプールで遊んだ。そのことは今でもよく覚えている。
そのプールは結局ひと夏限りになってしまった。9月にきた台風が運んだ大量の土砂でプール全体が埋まってしまったのだ。川の流れも微妙に変わってしまったので、川の水を引き入れることもできなくなった。わたしたちはもちろんがっかりした。でもあきらめてもいた。こういうものには逆らえないんだなあ、と漠然と思った覚えがある。
山に囲まれた生活はいろんなことを教えてくれたと、今になっておもう。そしていろいろなものをわたしの中に残してくれたと思う。 「萌の朱雀」を読んで、河瀬さんの中にある記憶(あるいは世界)というものが文章を通して伝わってきた。大事に大事に仕舞われている記憶。それを大切にしていこうという気持ち。 わたしも自分の中にある記憶を大切に大切にしていこうとあらためて思っている。忘れないように。自分の糧としていけるように。
教員には年二回、本をたくさん読んで知識を深めましょう、という名目で自己負担なしに希望の本を支給してもらえる制度がある。金額にしてだいたい1万円くらい。必ずしも授業に使うものでないといけないとかそういうことはなくて、あくまで知識を広げるための制度なのでどんなジャンルのものでもいいらしい。ちなみに連れ合いは去年か一昨年、「ダジャレ練習帳」なる本を希望した。いくらなんでも・・と思ったが、連れ合いのいうには、ダジャレは授業を円滑にやっていくためのスキルのひとつなんだそうだ。ほんとかいな、余計生徒の心が離れていくんじゃないの?と本をななめ読みしながら思ったが、それでもいろいろと活用しているらしい。
今年もまた希望の本を書類に書いて提出するのだけど、あまり読みたい本もないから半分くらいNが欲しい本書いてもいいよと、めずらしく連れ合いが言うので、読みたい本をいろいろリストアップしてみた。
いろいろ本屋関係のサイトをまわった結果、白水社から出ている「バーナム博物館」S・ミルハウザー、「生半可な孚者」柴田元幸、「ライ麦畑でつかまえて」S・D・サリンジャー(原書)を買ってもらうことにした。 結構良い気分。届くのは来月の半ば、らしい。楽しみして待つことにする。
最近よく物忘れといふものをしてしまう。 どうしてそのやうにすぐ忘れるのだとまわりに不思議がられてしまう始末。 ぼんやりしてゐる気は毛頭ないのだが、たぶんぼんやりしているのだらう。 先日ここで述べた夢疲れがいまだ続いてゐることが、その一因となっているのではないかと思ふ。 昨晩も夢をみた。 とりとめのない景色が次から次へとなんの脈絡もなくあらはれる。 覚えのある顔、みたことのある景色などが、いれかわりたちかわりわたしに向かつて語りかける。 まるで眠ったやうな気がしない。疲れてしまつた。 けふは夢をみることなく眠ることができるだらうか。 ほんとうにつかれてしまつた。
2003年06月02日(月) |
晴天、洗濯物の山、午後の本読み |
素晴らしく良いお天気。 仕事に行く前に大急ぎで布団を干し、洗濯機をまわす。 外はからりと晴れて気持ち良い風が吹いている。 仕事なんかいきたくないなあ、とぼんやり思う。 けど、そうもいかないので残りの家事を片付けて仕事に行く。
3時、仕事が終わってうちに帰る。 洗濯物が乾いているかみてみたら、見事にからっと乾いていたので全部とりこむ。洗濯物の山ができる。ひなたと繊維の匂いがたちこめる。とても良い気分。
洗濯物の山を片付けた後、お茶を飲みながら本を読む。 志賀直哉の「網走まで・灰色の月」読了まであと少し。 この本は、ほるぷ出版がだしている日本文学全集の中の一冊。安西水丸さんが挿画を描かれていて、とてもシンプルで奥深い装丁になっている。 今読んでいる本には12の短編が収められているのだけど、そのどれもが面白くて興味深いものばかりだった。 特に良いなあと思うのは、やっぱり「小僧の神様」。あとは「十一月三日午後の事」と「范の犯罪」かな。
志賀直哉の短編は無駄がない、と思う。無駄がないというより、不必要なものをぎりぎりまで削り取って、何かをはっきりと映し出そうとする感じといったほうがいいかもしれない。とにかくとても優れた小説家だと思う。しみじみとそう思った。
2003年06月01日(日) |
シュミットさん的人生について考える |
連れ合いは仕事、コドモは部活で、それぞれ忙しそうだったので、一人暇なわたしは映画を観にいくことにした。 「アバウト・シュミット」 ううむ。コミカルな映画かと思ったらやっぱり結構シリアスな映画だった。 笑えなかったもの。というか泣きそうになったし。
シュミットさんみたいな部分はきっと誰でも持っているんだろうと思う。 自己中心的で、箱庭みたいな自分の世界をかたくなに信じていて、でもほんとうはさみしがりやで一人では生きていけなくって。 ジャック・ニコルソンは誰もが隠したがるそんな人間の内面を、とても巧くしかもこの上なく自然に演じていたと思う。 とても良い映画だった。
余談だけど、キャシー・ベイツのバスシーンにはさすがに参ってしまった(笑 でもああいう演技をさらっとやっちゃうところはやっぱり好きだなあと思う。
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