シネマ*マシンガン
映画鑑賞言いたい放題覚え書き
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2006年07月23日(日) 【地獄の黙示録】戦争商売。

※ネタバレ注意

「M★A★S★H」が1970年、「フルメタル・ジャケット」が1987年。初公開が1979年のこの作品はちょうど「あいだ」に入ってたのかー、とひとり納得をしていたのですが。
見たのは特別完全版なので、劇場公開版にはないフランス人入植者の農園シーンだとか、細かなエピソードがあったおかげで(長かったけど)わりとすんなり見れてしまいました。公開版は未見ですがあとで探して見ようと思ってます。そりゃ、半分ぐらいのものだったら、わけわかんないかもしれないわ。

一人殺せば犯罪で、一万人殺せば英雄、とかいいますが。映画はカーツ大佐を仮想敵にせざるを得ない戦争商売サイドの世界から、より純粋な「戦い」のみの世界へと遡行していく構成になっているように感じました、それがどのぐらい意図的なものだったかはともかくとして。ワーグナーをならして空爆、ナパームで林がバーン、と派手な戦闘、わかりやすい戦場のシーンは前半にかたまっていて、後半になるにつれて指揮官のいない戦場、背景的に映り込む、いつからあるのかわからない屍体、「敵の見えない」戦場の実態が画面全体を覆うようになっていって、正直前半よりずっと恐い。

違和感をおぼえたのは「王国」という呼び名で、カーツ大佐はたしかに人々の上に君臨してるのかもしれないけれど、王ってのは国民のためにいるものなのではないかと思いました。逆もまた然りとはいえ、カーツは別に誰かのために戦闘を行っているわけでもなく、そこにいる人達のために王をやってるわけでもないと感じました。
劇場公開版から逆にカットされた「王国滅亡」シーンがあるそうですが、完全版としてそこを削ったのは、なんとなく理解できたような気がします。爆撃を受けて夢のように崩れさる王国…っていうのはやっぱりあくまでもアメリカ的な幻想のような気がしますから。

蛇足ですが、「殺すとはどういうことか」という考えを摩滅させるのが軍事訓練とか軍事教育ってものなのかなと思った。これもまた戦争商売ですな。


2006年07月10日(月) 【バッド・エデュケーション】欲望という名の機関車

※ネタバレ注意

ペドロ・アルモバドル監督の半自伝的作品とうことで、いったいどこまでが自伝なのか。
まあそれはいいとして、作品が途中からえらくトーンを変化させていくところは、特徴的というより今回のは「話が走った」結果なんじゃないかなーと思いました。

伏線があるとはいえ、アンヘルの話が本格化するあたりから先は、最初は全然予想もつかないし、話の作りとしては反則?と思わなくもない部分もあります。展開が変化するんじゃなくて、まったく別な話になっちゃってるといってもいいと思う。この挿話を遂げるためには、そりゃ劇中劇も必要さね、とつい冷静に思ってしまう。

その劇中劇が救いでもあるわけなんですが…複雑な構成のおかげで、どこまでが真実でどこからが劇中劇のストーリーなのか、判然としない部分も残るのです。私はそれでいいと思った。見る人にとってはそれが不満になるだろうと思いましたが。

登場人物はそれぞれ愛なり欲望なりを遂げようと機関車なみの暴走を続けるわけですが、その能動的というにはあまりに走り過ぎな態度に見ている側はびびるといえばビビる。監督は暴走する人が好きなのか?あと「わかりあえない」シチュエーションが好きなのか?
というか、本来人と人はわかりあえないものだと思っているのかなあ。とか思った。ディスコミュニケーションがテーマの作品を作り続けている監督と言うイメージがあります。


2006年07月01日(土) 【マッチスティック・メン】

これは、どういう態度で見るのが正しいんでしょうか?
いやいや正しいも正しくないもないのかもしれませんが、ヒューマンドラマなのかエンターテイメントなのか、コンゲームなのか親子愛なのか何なのか。

んな急に、人をいとおしく思っちゃったり、許しちゃったりするもんなのか?という、仕掛けに凝り過ぎて心理描写がついていってない印象を受けました。ニコラス・ケイジの設定や演技は楽しめるし、映像はR・スコットらしく綺麗だし、手がこんでるし、いいんですけれど。

落としどころがわからないんだよなあ…。もっと心を広く、いいかげんになれ、っていう人格矯正映画だったのか?すっきり感動できない私は単にひねくれ者なのか?


佐藤りえ |MAILHomePage

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